碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (70)  妹 テルについて ⑤

2017年08月26日 15時50分55秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

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 長谷川テル・長谷川暁子の道 (70)    妹 テルについて  ⑤
       

     (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  長谷川暁子の母長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子『二つの祖国の狭間に生きる』同時代社(2012)、長谷川テル編集委員会『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』せせらぎ出版(2007)、家永三郎編『日本平和論大系17』「長谷川テル作品集」(亜紀書房、1979)、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」などを中心として記す。

 ユダヤ系ポーランド人「ザメンホフ」は世界平和のために世界語の「エスペラント」を1887年に創始した。その生まれの成り立ちから言っても、エスペラントは本来民主主義的なものである。

 しかし、20世紀には1914年から18年にかけての第一次世界大戦、そして1939年から45年までの第二次世界大戦と大戦争が起こりました。犠牲者の数は第二次大戦は、ソ連が2,000万人、中国は1,300万人、ドイツ約700万人、日本はおよそ300万人と言ったところであった。

   お姉さんの「西村幸子(ゆきこ)」さんが、妹テルのことを記しておられる。

 それを次に紹介したい。

 尚、女優の吉永小百合さんは、長谷川テルの遠縁にあたるといわれる。

 

    (前回まで)

   テルは生まれたときから強情で反抗心の強い子だった。いったん泣き始めたら、のども裂けんばかりの大声で、どんなになだめても止まらなかった。しかし、泣くだけ泣いたらあとはからりと機嫌をなおし、台風のあとの天気のようだった。

 生まれたばかりの弟を憎らしがって、物さしでたたいたり、「溝にパイして」などといっていたそうだ。人形遊びなどは好まず、棒をふり回して暴れていた。やんちゃではあったが、やることがどこか滑稽で愛らしく、その上頓知があったので、なかなかの人気者だった。

 影絵などで即興の弁士の役を演じるのが上手で、「大きくなったら活動(映画)の弁士になるのだ」といっていた。頭の回転の早さは抜群で、ことの半分もいわぬうちに察してしまい、「男であったら」と何度両親を歎かせたかわからない。

 このため、遅知恵だった弟は低能、低能、といわれた。六中、浦高、東大とストレートに進学した弟だが、テルの前では影がうすかった。

 村山貯水池(現・狭山湖)の工事のため、父が現場勤務となり、私たちは埼玉県山口村(現・所沢市)で小学校時代を過ごした。

 そこは狭山茶の産地で、茶摘みの時期には小さな子どもまでが手伝いに狩り出された。「茶摘み休み」というのが学校にあって、私たち姉妹も手伝いに行った。

 融通のきかない私は、端からていねいに一葉も残さず摘んでいくのだが、妹はよくできている上等の葉ばかり選んでカゴを満たし、飽きるとさっさとやめて遊びまわり、大声で歌を歌ったり、踊ったりして、みなを笑わせていた。

 それでいて、悔しいことに、夕方になって摘んだ葉を計ってみてもらうと、私といくらもちがわなかった。小学校一年か二年のとき、学芸会で読み方の暗唱を、ひとりで少しも臆することなく堂々とやってのけ、出席の父兄や先生たちも舌をまいたという。

 そのころのテルの目は鋭くて、みながこわい、こわい、といっていた。母方の祖父の葬式のときにとった彼女の写真を見ると、それがよくわかる。

 小学校三年のころ、四キロほど離れた所沢に転居した。となりに天理教があって、そこの娘がなかなかの頓知のある子で、テルと仲良しになり、毎日のようにママゴトをしている。

 その会話のやりとりが実におもしろいので、私はじっと聞いてはつづり方に書いて出した。テルはそれを知って、「書かれるからいやだ」といって、私の前ではママゴトをするのを止めてしまった。

 とにかく、いいだしたら絶対きかない子で、小学校五年のときこんなことがあった。そのころは村山貯水池の工事もだいたい終わり、父はふたたび本庁勤務となって、東京にもどっていた。

 母方の祖母の実家が茨城県にあって、私たちは夏休みに遊びに行っていた。利根川の支流の小貝川に沿った田んぼにシジミがたくさんいるのだが、その年はたくさん穫れるというので、みんなで出かけた。

 雨が幾日も降りつづいたあとで、つるつるすべるアゼ道をはだしで渡ってドロ田におりると、顔までドロがはねる。妹はいや気がさして「帰る」といいだし、いくら説得してもきかない。

 そのうち、さっさとひとりで引き上げ、荷物をまとめて東京まで帰ってしまった。私たちはあとでそれを知って大騒ぎをしたのである。

 テルの文才は小学校のときから目立った。三、四年ごろから、購読している雑誌によく投稿していた。その中で、講談社かどこかの雑誌に『冠句』というのがあって、「けちん坊」という題で、「けちん坊 今日も消しゴム 借りている」というのが二等に入選した。

 高学年になってからのテルは性格がガラリと変わり、すっかり無口に陰気になり、ひねくれて、父母のいうことは少しもきかず、叱られてばかりいた。母よりは、いっそう父に反抗的であった。父というより男性一般への反抗のように見えた。

 私にはさほどでもなかったが、弟にはとくに強くあたり、けんかの絶えたことがなかった。テルが小学校六年のとき関東大震災があったが、あとからあとから襲ってくる余震にみんながブルブルふるえているのに、テルは平然としてせせら笑っていて、母に、ずぶとい、としかられていたのを記憶している。

 笹塚小学校を卒業したテルは、私の後を追って府立第三高女(現・都立駒場高校)に入学した。女学校時代のの彼女はいっそう内攻てきになり、月に一度くらいしか家族に顔を見せず、部屋にこもったまま、食事にも出てこないことがあった。

 病気と偽って学校を休むこともたびたびある有様なので、心配のあまり私が彼女の日記を盗み見してみると、そこには驚くべきことが書かれていた。

 世の中に対する懐疑と不信、男性や権威のあるものへの反感などた書きつづられ、学校に行くとみせて一日神宮外苑をぶらついたり、あるときは化学教室から劇薬を盗み出して自殺をはかったことさえ書かれていた。

 あまりのことに私は胸もつぶれんばかりであったが、だれに相談することもできずに、
ただじっと見守っているほかはなかった。

 テルはこれに気づいてか、毎日、日記の置き場所を変えたが、私はたちまち捜し出して読んでしまった。彼女の日記は簡潔ながら、なかなかよい文章で書かれており、現在一冊も残っていないのが残念である。

 中国へ渡るとき全部焼きはらっていったらしい。彼女の日記によって、私はテルの心を理解できたと信じている。高学年のころは勉強もろくろくせずに文芸書ばかり読みふけっていて、受け持ちの先生に母が呼ばれて注意をうけたことがあった。   

   進学についても彼女はだれにも相談せず、東京女子大と奈良女高師を受験して両方合格したが、奈良の方に決めた。すべてが事後承諾であった。父母ももうあきらめて、これに反対しなかった。

 入学式には母が付き添って行ったが、別れるときもさびしそうな様子は見せず、友人のすすめにもかかわらず、帰る母を駅まで見送ることもしなかったという。

(注:『私の胸には血潮のバラが咲いた』ー反戦エスペランティスト長谷川テルの「文学」(『昭和文学研究』第56集 特集追放/亡命/漂流より)

 (注:奈良女子高等師範では、テルは国漢コースを選択したが、そこには彼女の高い「学力」と「反抗心」を兼ね備え、周囲との認識や生活のギャップに内面の悩みを抱えていた彼女の、早い時期からの「文学」への志向があったことは見おとすことが出来ない。

(注:彼女は国漢コースということもあり、文学への傾斜は一層深まっていった。万葉集をはじめとする古典文学を学びながら、詩や小説を読み、さらには短歌、随筆、小説などの創作に手を染めていった)

(注:彼女のそのうちの短歌連作は、私のブログの中で取りあげている「晩春初夏誦」がある)

 女高師時代のテルは感傷的な女であったらしい。交友会誌に短歌や随筆、短文などを載せていたが、そこには懐かしい山口村時代の風景や思い出が数々織り込まれていた。

(注:長谷川テルがエスペラントを学習し始めたのは、奈良女高師の三年に進級した1931年夏のころといわれる。国際語としてのエスペラントは、日本では早くに二葉亭四迷、大杉栄らによって紹介されていた。

この頃には、世界プロレタリア解放と民族的抑圧打破を目ざす運動の一翼として、左翼の影響力が強いものとなっていた。1930年七月には「プロレタリア・エスペラント協会」が成立した。

 1931年には、「プロレタリア・エスペラント協会」は、「日本プロレタリア・エスペペランティスト同盟」に改組された)

(注:当初テルは、エスペラントのかかげる世界平和の理想への共感はあったものの、現実的にそれを主導する左翼運動に対しては反発が残っていたらしい。

 同じエスペラントを学び始めた姉の幸子に宛てた手紙の中に、「左翼運動ですって!感じの悪いことですこと。今の左翼運動運動の態度にだけ申し上げておきましょう。

 とはいえ、やっぱり私は今の社会には満足出来ない。女性として、改革者の一人として、運動をしたい。教育者としてやるべき方向を持つことだけは動かない信念です」と記している。)

 しかし、この手紙から一年後には、彼女の思想態度は大きく変わることになった。1932年5月18日付けの幸子の日記には、弟の弘から「妹の赤化」の話を聞いたことが書かれている。「かなり深く研究しているらしい」という妹テルの様子を心配している。

 7月1日付けの記事では、弘とテルの「共産党問題に就いて」の激論を聞きつつ、「弟の堅実な考えは心から頼もしい。しかし、議論だけ聞いていると、どうやら妹の方に軍配が上がりそうだった。それだけに不安である。

 ゆくゆくは照子(テル)はその方に進むんじゃないか知ら? 実際運動にはたずさわらないと言っているけれど・・・」と記されているが、この姉の懸念はほどなく現実のものとなった。 

 9月11日に警察に呼び出されたテルはそのまま拘禁され、一週間警察に留め置かれる。その結果、友人で同級の長戸恭(やす、仲の良い友だちである)とともに退学処分となった。(注:1932年6月頃に、同級の長戸恭と学内に新劇、文学、エスペラントの愛好者を集めた「文科サークル」をつくった。

 そしてこの頃、テルは長戸恭らと奈良エスペラント会宮武正道からエスペラントを学びはじめている。)                                                                    
 奈良女高師は、当時日本の女性の最高学府といってよいものであった。しかし、国立の奈良女高師は、それでけに国家からの強い統制のもとにあった。すなわち、教育機関の幹部候補生を育成する役割をもっていた奈良女高師は、テルの想像していたものとは全く違っていた。

 服装、校内生活、寮生活にいたるまで厳しい校則と管理下に縛られたものであった。台頭する左翼思想に対する締め付けも厳しく、彼女が学校を追われることになったのも必然であったと言わざるを得ない。

 東京に帰ったテルはエスペラントの力をみがいた。この頃に、私のブログの碧川企救男と碧川かたの長女碧川澄とのかかわりがあったのではないかと推測する。碧川澄の夫は松崎克己で、彼はJEAとJEIの初期から熱心なエスペランティストであった。

 東北大学の後藤斉教授の講演「続・エスペラント言語文化史の試み」(2014.6.28)にそのあたりのことが詳しく記されている。しかし残念ながら彼、松崎克己は1926年に二十五歳直前の若さで早世してしまったのであった。

 彼は東京商大出身で、彼の残された作品に『エスペラントやさしい読み物』(1924)があり、また翻訳として『愛の人ザメンホフ』がある。これは『ザメンホフの生涯』として、のちの1937年に発行されている。 


 

 女高師四年、卒業まであと一学期を残すだけとなって、思想関係の本を読んだり、進歩的な学生たちと交際したという理由で、彼女は突然退学処分となった。

 夏休みに帰京したとき、思想問題で父と激論をかわしていたので、もしやと思わないでもなかったが、学校から一通の電報で呼び寄せられた父が、そのまま彼女を連れて帰ろうとは夢想だにしなかった。

 その後、私は西村と結婚し、大阪に居を構えたが、その家にテルが突然訪ねてきた。
以前の地味な服装とは打って変わった洋装断髪スタイルで、私たちはどぎもをぬかれた。

 二、三泊して大阪の同志と会ったり、六甲山や宝塚を私たちの案内で見てまわった。あとになって考えると、そのころすでに劉仁と交際していたらしい。
        
 劉仁との結婚については父はカンカンになって怒り、籍は絶対やらない、とがんばった。母が「せめてものこと」はしてやりたい、と願ったのだが、父は彼女にかけた簡易保険をおろさせて取りあげてしまった、と母は涙ならに告げた。

 彼女の出発を見送ったのは、茨城から上京した母の妹と、私の二人だけだった。その前夜、私たち姉妹は二階に床を並べて語り明かした。そして、夫婦生活の面でも、年上の私より彼らの方がずっと進んでいるのを聞いて、驚いたものであった。

 渡航の日の朝早く、劉仁の弟、介庸(東京農大生)が車で迎えにきて、四人は横浜港へ行った。車の中で、妹はほとんど口をきかなかった。ただ介庸が「上海なんて近いんだもの、すぐ帰れますよ。お姉さんも遊びに行けばよい」といったのがハッキリ頭に残っている。

 彼はエスペランティストではないが、日本語を上手に話す気さくな青年だった。港につくと、彼が「のどが渇くでしょうから、みかんでも買ってきてあげてください」という。

 ところが果物屋が近くになく、その帰りに道に迷い、息を切らして駆けもどったときはドラの音が鳴りひびき、船はまさに岸壁を離れようとしていた。

 ようやくののことで甲板に立っている妹をさがし、目で合図すると、テルは例の度の強い眼鏡で私たちを見つめ、一つ大きくうなずいた。

 その顔も涙にかすんで見えなくなる。それが私たち姉妹の永遠の「別れ」であった。


 船は翌日神戸に寄港したので、テルは大阪の住友合資会社に私の夫を訪ねた。昼食時であったので、彼女の好物のサバ寿司をご馳走したいと思ったのに、あいにく持ち合わせがなくて会社の食堂ですませた、と夫は残念そうに話した。

 上海からは、無事着いた、という知らせと、日華事変の直前、大陸での生活を簡単にしるした手紙を最後に、連絡は絶えた。

 終戦の翌年の九月一日、長谷川兼太郎というレントゲン技師が突然テルの伝言を持って、沼田の父の実家を訪れた。長谷川技師はながらく奉天に暮らしていたが、引き揚げる前、ある人の依頼で二階にテル夫婦をおくことになった。

 生まれたばかりの女の子と五歳になる男子があったが、星というその男の子の利発さは、近所でも評判であった、という。

 長谷川氏の帰国の前日、テルは初めて自分が日本人であることを明かし、たぶん東京は焼け野原になって、父は郷里に帰っていると思うから、氏が任地へ行かれる途中よってくれるよう、頼んだのである。

 住所が明らかになったので、私たちはさっそく手紙を出したが、ついに返事はこなかった。

 テルの死を知ったのはそれから五年もたってからであった。由比忠之進氏から一通の手紙が来た。氏は、牡丹江で紡織会社を視察中、偶然そこで働いている介庸に会い、彼がテルの二人の遺児を育てていることを聞いたとのことであった。

 
 

 (以下今回)


 1977年8月15日、思いがけぬことが起こった。四川省にいる長男劉星から、世田谷区役所にテルの弟長谷川弘を捜して欲しいとの中国語の手紙がきたという知らせだった。彼は二回、同じ手紙を出している。

 二通目の手紙がきたとき、たまたまそこに勤める人の友人で、女子美術付属高校の先生杉山文彦というかたが中国語を勉強しておられ、劉の手紙を翻訳してくださった。

 その方が弘の六中(現・都立新宿高校)の後輩、また杉山さんのお母さんがテルの奈良女高師の後輩という不思議な関係から私の住所がわかり、杉山さんを介して文通が始まったわけである。

 劉星、劉暁蘭の兄妹は、十数年来母の身内の者を捜しつづけていたという。

 78年になってから劉星は、日本語で手紙を書くようになり、この春から私とも文通が始まった。こちらの手紙が着けばすぐにまたその返事がきて、文通は絶えることがなかった。

 弘の所で返事をなかなか書かなかったりすると、暁蘭から激しい催促の手紙がきた。私たちがこれほど待ちこがれているのに、この気持がわからないのでしょうか、といったものである。

 そして78年8月18日、北京空港で私たちは劇的な会見をした。その様子は新聞、テレビで詳しく報道されたから繰り返さない。私はいまなお夢を見ているような気持である。

 中国エスペランティストたちのお骨折りで、私達は北京滞在中の五日間、兄妹といっしょに行動することを許された。私の両側には必ず二人がいた。乗物から降りればたちまち二人が飛んできて、両腕をとらえて離さない。

 そして片言で「オバサン」と話しかけてくるのである。暁蘭は母親そっくり。だが想像と違って「淋しがり屋」であった。

 兄が母の思い出を語るとき、いつも泣いていた。兄は一刻をも惜しんで私に話しかける。   妹だって話せるのである。私が不憫に思ってなるべく妹に話しかけようとすると「兄さんに話してやってください」という。

 一夜許されてホテルの私たちの部屋で通訳を通して二人と語った。テルの最後の話を聞いたとき、私は思わず声をあげて泣いてしまった。「日本人に会いたい」といったのだそうだ。

 劉星は私たちが南の方に旅行している間、詳しい手紙を書き、澤地久枝さんを通して渡してくれた。涙なしには読めない物である。

 澤地さんはそれをそのまま発表し、原稿料は彼らの来日に備えて積んでおくといわれる。1979年の春から夏、テルの三十三回忌を東京で行い、それに二人を招くつもりである。多くのかたたちが二人の訪日には力を貸すと申し出られた。



2 コメント

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お墓に行きます (菜園のおじさん)
2017-08-26 16:55:50
 9月14日 旧満州の各地を巡る旅でジャムスの長谷川テルさんのお墓に行きます。
 参考になるブログに出会い うれしいです
お墓参りよろしく (ebatopeko)
2017-08-27 11:39:07
満州のテルのお墓を参られるとか。
今の満州の様子などお聞かせ下されば有り難いです。

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