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「深淵より」 ホロコーストから生還した少年の物語

2019年02月05日 06時20分18秒 | 紹介します
永遠のともしび・闇の中に差し込んだ光・希望と信仰について・後々の世代に語りかける不滅の記憶として・・・

ホロコーストから生還した少年の物語

イスラエル・メイル・ラウ著 滝川義人訳
 深淵より ラビ・ラウ回想録 ・ミルトス
 
 
 この本を私はある集まりで著者を叔父と呼ぶ方の講演を聞いた後で読んだ。これまでユダヤ関係の本を何冊か読んできたが、これほど強烈なインパクトをその一節、一節から受けたことはない。この本に書かれていることは現実に、この地球上で、つい数十年前に起こったことなのだ。
 人種的偏見によって、他の人間を自分たちより劣った動物とみなし、彼らの心情、思想、文化、歴史に目を留めることなく、選別し処分するという残虐な行為を人類は幾たびもしてきた。
  いや、もしかしたら自分自身の中にも人を別け隔てし、距離を置き、差別し、見限ってしまう心が潜んではいないだろうか。
  そう思うと空恐ろしくなる。「人類みな兄弟」とか「普遍的な愛」などという言葉はあまりにも空しい。
  私たちは知らなければならない。そして記憶しなければならない。
 この現実に目を背けることは意識あるものとして怠慢ではないだろうか。そう思ってまずは本書の初めの部分;収容所への拘束から解放までの部分の私の抜き書きを読者に紹介したいと思う。
 
<本の帯見出しより>
 強制収容所生き残りの少年が、ユダヤ国家の光輝く青空のもとで成長し、見事自己を開花させている。読者は、苦しみの深淵から名誉と勝利の頂点への道程をたどる。/エリ・ヴィーゼル(ホロコースト作家)

 (元イスラエル国首相)シモン・ペレスによる序文・・・ユダヤ民族史上最も苛烈にして過酷、最悪、最暗黒の時代が描かれている。・・・本書は一語一句が血で書かれた書である。・・・著者のラビ・イスラエル・メイル・ラウ師はディアスポラとイスラエルにおける自分の人生の紆余曲折を描く。背筋の寒くなる描写を読み、心を引き裂く苦悩が行間に溢れる文章を読んで行くと、私は言葉を失い、目は涙でかすむ。・・・そして何故という問いかけには、苦難の果てのどん底に至っても、答えは返ってこない。
 
  (ホロコースト作家)エリ・ヴィ-ゼルによる序文・・・本書は・・・アケダー・・つまりアブラハムと息子の時以来、我が民が支配されていると思われる永遠の暗い影なのか?本書は後年イスラエルの主席ラビとなった少年の物語である。しかしそれだけではない。・・・劇的な回想が豊富に描かれ・・・ゲットーの話、シナゴーグにおける残虐行為、選別、相次ぐ家族生き別れの恐怖、情景は苛烈の度を強め深手の傷となり、凄惨な修羅場と化す。・・・

<まえがき;強制収容所解放60周年の記念式典で>
 ・・・死の陰を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。・・・あなたは私の魂を死から助け出してくださった。・・・命あるもの地にある限り、私は主の御前に歩み続けよう。詩篇23篇
 
 ・・・そのとき私には犠牲になった人々の姿がはっきり見えた。移送列車が到着し、貨車から降りる人々。それから到着したその場で、生か死かの仕分けをする”選別”のため列を作って並ぶ人々。・・・そしてユダヤ人たちをこづきまわし鞭をふるうゲシュタポとその手下のウクライナ人、人を威嚇して低い唸り声をあげるどう猛な犬。もぎ取るように力まかせに乳幼児や子供たちを両親から引き離す兵隊たち、残忍な仕打ちで家族はばらばらとなり、これが永遠の別れとなる。
 
 ・・・私は本書を永遠のともしびとして綴った。あの暗黒のトンネルの中で起きたことについて、闇の中に差し込んだ光の輝きについて、そしてその後に続く希望と信仰について、後々の世代に語りかける不滅の記憶として書き残した。
 本書の内容は、ホロコーストに関する私自身の記憶である。業火の炉からの脱出、体と心を痛めつける苦しみ、両親も家もない中での成長の記録である。
 ・・・時がたてば、生き残った者の激しく燃える炎は残り火となってくすぶり、やがて消える。私はその火が絶対に消えないように、残り火をあおぎ続ける。私は自分の話が、読者の意識に触れ奮起させ、もう一度考える縁(えにし)になれば、と願っている。そしてホロコーストがつきつけたあらゆる問題があるにもかかわらず、これを乗り越え「命あるものの地にあるかぎり、私は主の御前を歩き続けよう(詩篇116篇)との結論を得ていただければ、幸いである。
 
 ・・・エジプトで宰相となったヨセフが、食料を求めてやってきた兄弟たちに、末弟のベニヤミンを連れて来いと謎めいた要求をした時、「それによってお前たちは試される」と言った。(創世記42章)信仰は測り知れない、不可思議なことを通して試されるのである。
 
 私は神を信じる者であり、死を迎える日までそれに変わりはない。
 「主は私を激しく懲らしめられたが、死には渡されなかった。(詩篇118篇)
 私は偶然を信じない。私が信じるのは神の摂理である。私がまだ答えを得ていない問題は、何故という問いであり続ける。何故あれが起きなければならなかったのか。・・・私には分からない。しかし、それで私の信仰が薄れることはなく、いつも朝の祈りで「御手に私の霊を委ねるのである。(詩篇31篇)



<第一部 ;刃物そして火、薪>

 
 第1章 最初の記憶、蹂躙、消滅 

 <ユダヤ人たちが集められ収容されて>
 ・・・この選別の後、警備兵たちが女子供を男性から分けた。彼らは私の母、兄シュムエル、そして私を大シナゴーグに入れた。・・・その日の夜遅く、二人のゲシュタポが入ってきてドアの近くに陣取り、名前を読み上げられた者はすぐに起きて家に帰れと言った。最初に呼び上げられたのは私の母、ラウ・ハヤであったが、母は二人の息子が呼び上げられるのを待っていたので立ちあがらなかった。・・・最後に促されて母は「今行きます!」と叫んで二人を抱えて通ろうとした。・・・ゲシュタポの一人が両手を振り下ろした。それで左側にいたシュムエルはシナゴーグの床に倒れ、戻らざるを得なかった。これが運命の別れ道であった。その後シュムエルを見ることは二度となかった。
 ・・・帰ってきた父は私たちにさよならと言い、シナゴーグに戻った。そこではトーラーの巻物をしっかりと抱きしめ続け、移送の時が来ると昂然として列車に向かい、トレブリンカのガス室へ向かった。そして死出の旅に出る人々に向かい、ラビ・アキバの最後について触れ、・・・ローマ人たちがアキバの肉体を鉄櫛で引っ掻いたとき、弟子たちは拷問に耐えられるかと心配した。するとアキバはシェマー(聞け、イスラエルよ、我らの神は唯一の神である)の神への絶対的帰依の表明の後、「あなたは心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という個所について、・・・たとい主があなたの魂をとっても、あなたの神を愛せよ、という意味に理解した。私はこの掟を守る機会をいつ持てるのであろうかと自問した。今がその機会である。私が見逃すことがあり得ようか」そう言うと、彼はシェマーの章句を誦し、最後の、「唯一の主」を長く引きのばして唱え魂が抜け息絶えた、と話した。
 ・・・父はその場のユダヤ人たちに向かって言った。613のミツボット(掟の数々)の内、私たちが尊守しなければならないミツバー(掟)が一つ残っている。・・・神の聖名のためにあなた方の命を捧げることである。・・・さあ、兄弟たちよ、この掟を喜びのうちに守ろう。この世は法の支配がない。憎悪と流血で沸き立つ暴風雨でしかない。私たちに残されたミツバーは「神の聖名を聖別」することである・・・ラビ・シムハ・プニム師は「喜びに満ちて私たちは去る。喜びを力として私達は、この世界の様々な困難、苦しみそして試練を後にする。」と言った。
 ・・・その後父はヴィドィ(死の前に神と向き合ってする告白)を唱え、「あなたの前に罪を犯しました。」と祈りを捧げた。群衆は父の後から斉唱した。祈りは囁くような低い声で始まった。「シェマー・イスラエル(聞け、イスラエルよ)、主は我らの神、主は唯一である。神がしろしめす。未来永劫、神はしろしめす。祈りは大合唱で終わった。
 
 ナフタリは父と交わした最後の会話について思い出を語った。父は自分の家系と母方の家系が代々ラビを天職とする家で、ともに37代続いていると語った。父は抹殺の脅威から誰かが生き残るならば、その人は伝統の鎖をつなぎ守って行く責任がある、と示唆したのである。
 「あなたの未来には希望があると主は言われる。(エレミヤ記);「息子たちは自分の国に帰って来ると述べ、私たちがもしこの地獄の業火から無事に逃れるなら、家を探すすべも分かって来る。その家は(今私たちが住んでいる)この家でもなく、この敵の地に建つ家でもない。「君の家はたとえ大きな苦しみを通して確保しなければならぬとしてもエレッツ・イスラエルにある。
 
 ・・・1944年ロシアの飛行機が飛来して上空を旋回するようになったころ、・・・(収容されていた私たちの群れは)命令によって女子供と男に分けられた。・・・私の母親は、区分けの意味をとっさに判断した。・・・母は私を力いっぱい男子グループの方へ押しやった「トゥレク、ルレクをよろしくね。さようならトゥレク、さようならルレク!」と言っているのが聞こえた。母の母性本能がとぎすまされ、決定的瞬間にそれが発揮されたのである。彼女は男子に比べれば女子供に生存のチャンスは少ないと理解した。・・・ロシア軍の反攻に備え、ドイツは戦時生産で労働力を必要とする。自分といるよりナフタリと一緒の方が良いと判断し、私を長兄のほうへ押しやったに違いない。
 ・・・当時を振り返ってみると6年間の戦争中一番辛かったのはこの日の出来事である。後にも先にもあれほど泣いたことはない。母から引き裂かれるのは普通の子にとっては考えられぬことであり、心を傷つけ、その傷は生涯残る。・・・母が私をナフタリの方へ押しやったのは私を助けるためであった、と理解したのはずいぶん時間がたってからである。


 第2章 家族の絆
 ・・・戦争になりドイツが占領するとゲシュタポがラビ・イスラエル・ヨセフに仰天するような仕事の遂行を命じた。ユダヤ人墓地を取り壊し、墓石を割る作業である。ナチスは道路の敷石に使うつもりであった。
 ラビは状況の深刻性を理解した。そしてユダヤ人社会のメンバーたちに中心シナゴーグへの集合を求めた。断食し祈るためである。その後ラビはメンバーたちを墓地に導いた。そしてつるはしを手に、先代ラビの傍らに立って言った。「ここに眠る偉大なラビ、そして皆の先祖家族に、この行政命令を遂行すべきかを訊ねるなら、答えは分かっている。もしこの行為で各人の命がたとい一日でも延びるなら、故人はやむなく私達に遂行させるだろう。天と地の創造主;天の証人は、私たちが力づくでやらされることを、お分かりになっている。」と述べ、神に対するタハヌン(祈願)の祈りを捧げながら、つるはしをあげ、ラビの墓石を掘った。ユダヤ人社会の有力者たちがこれにならい、やがて全員がそれぞれ自分の家族の墓を掘り始めた。・・・
 
<惜しみなく注がれる愛>

 カントールには天の授けた才能がある。ナフタリはそう考えた。彼はハシドの人たちの中に座り込み、ピョートルクフのラビ・ラウの息子であると自己紹介した。回りの人たちは全員私の父とその一族だけでなく、母親とその一族についても知っていた。私たちの家系については、ナフタリや私よりも熟知していた。彼らは温かい愛で兄を包み、私たちの住む暗黒世界で一条の光となってくれた。

 第3章 命を救った言葉
 ・・・この小汚いガキ共が何のためになる。全くの役立たつだ。ここでやっているのはメシを食うことだけだ。
 ・・・私はこの時、キャンプの所長に生まれて初めて自己主張して、演説をした。それは必死で生きようとする私の命がけの演説であった。・・・「僕たちは役立たずとか能力がないなどと、所長さんはどうしてそんなことを言うのだろう。ぼくはピョートルクフのガラス工場で一日12時間働いていました。・・・今はその時より年をとっているし、もっとできます。一番年少の僕だって、ぼくより年長の子供も生きる権利があります。」

・・・移送担当のゲシュタポ隊長が・・・私の顔に警棒を突きつけ、頸筋をつかむと「子供は母親と一緒だ!」と怒鳴った。そして私を突き飛ばして同じ列車の別の貨車に入れた。・・・ナフタリはそれがやがては別の収容所へ向かうことを知った。・・・私が一号貨車に押し込められたころ、ナフタリはほかの男たちと、同じ移送列車の後方の貨車に入れられた。・・・父との約束、兄は父の前で私から目を離さず、家系の継続に手を尽くすと誓ったのである。移送列車が止まった後、ナフタリは友人たちと一緒に扉を開け、線路に降りて貨車の下に潜り込むと肘を使い前の貨車まで匍匐(ほふく)前進した。
 ・・・彼はそうして七度目に私を見つけた。そして私は兄のいる貨車に戻ることができた。数時間後貨車は分離され、私たちの列車はヴッヘンベルトへ到着した。

 第4章 ヴッヘンヴァルトー暗黒のトンネルと一条の光
 収容所入り口の門扉に書かれていた言葉:イェーデム・ダス・ザイネ:古代ギリシヤ以来の正義の概念である。「各人に各人のものを」・・・この呪われた場所では自分で自分の未来を選択することはできなかった。待ち構えていたのは、強要された恐ろしい運命であり、・・・相手はあらゆる手段を使って、人々から人間性を奪ったのである。自己責任を問うこのセンテンスと現実との間には無限の距離があった。

 ・・・2004年5月IDF(イスラエル国防軍)のある兵員輸送車が地雷に触れて大破、乗車中の兵隊たちが吹き飛んだ。IDFは兵員の遺体が如何に小さな断片でも良い、取り戻して埋葬するために、テロリストと交渉すべきかを訊ねてきた。私の返事は、・・・兵士はその生死にかかわらず、「運命は人それぞれ」という規定のもとで扱われてはならない。・・・兵士全員を家族のもとに戻す責任がある。・・・惨事があったとしても、遺体はきちんと敬意を払って戻さなくてはならない。そうしなければ、戦場に赴く兵士や、困難な任務に就く国民の士気にかかわる。負傷すれば味方から見放され戦場に遺棄される、という考えに苛まれる。生存者の安全と福祉を守るだけでなく、死者の名誉のために、私たちは兵士全員の帰還を果たすため、あらゆる努力を払う責任がある。
 IDFとイスラエルを導く道義の力は、「ユダヤ人は全員が互いに責任を共有する(コールイスラエル・アレヴィム・ゼ・ラゼ)という言葉に表現されている。
 
 ・・・私は奇跡とたまたま出会った善意の人々のおかげで、選別過程を通り抜け生きのびた。戦時中の少年時代を振り返ると、私は自分が経験した奇跡の連鎖に驚く。そして偶然ではなく、神の摂理の手がすべてを導いていると、心の中で思っている。
 ・・・(収容所では)シャワー室を出てから・・・一人一人に番号を与えられた。その時から私たちの名前は抹消され、番号だけの存在となる。・・・私は金髪で色白であったから・・・ポーランド人の子供ということになり、兄と別れて第8ブロックに移った。そこにはフョ―ドルというロシアの軍人がいた。…まるで私の守護天使のような人だった。よくジャガイモを盗んできて、温かいスープを作ってくれたものである。・・・黒っぽいスェーターをほぐして耳覆いを編んでくれた。
 
 ・・・私の帰属はユダヤ人ではないポーランド人児童の身分であったが、そのようなことにお構いなく、ナフタリは収容所のユダヤ人の動静についていつも私に教えてくれた。私は極めて幼かったので、ユダヤ教についてまだ教育を受けておらず、ユダヤ人社会の慣習も祝祭日に関する知識も非常に限定されていた。
 
 ・・・プリム祭で手作りのエステル記を読んだ後、アブルムはいつものように、倒れそうな人たちを支え、命を救った。このタフなユダヤ人を大いに尊敬していた、ウクライナ人監視兵が・・・彼の耳元で囁いた。「ヒトラー、カブート」ヒトラーはくたばったの意味である。・・・私を滅ぼそうとしたハマンよ、呪われよ。/ヤコブのバラは歓喜し、意気上がり・・・祭りの夕べの歌が翌朝再び歌われた。解放の1か月前である。
 
 ・・・戦争は終わりつつあった。・・・移送されることになったナフタリは私のところに来て言った。「ルレク、私は連れて行かれる。そこからここへは戻れない。再会できるといいけど、どうなるか分からない。君はあと数か月で8歳になる。立派な大人だ。ほんとうの話しは隠せないし隠そうとも思わない。この地獄からは助からない。もうこれで世界の終わりだ。お父さんはもういない。ミレクもだ。母がどうなったか分からない。・・・ほんとうに生きているかどうか、兄さんには分からない。今度は兄さんの番だ。君は一人ぼっちになる。でもここには友達がいる。・・・奇跡が起きて、君はずっと生きているかも知れぬ。こんなことはいつかは終わる。・・・よく聞いておくのだよ。この世界にエレッツ・イスラエルというところがある。  
 ・・・そこはユダヤ人の家だ。昔々外国人達が私たちをそこから追い出したのだよ。私たちは戻らなければならない。

 ・・・ドイツ人たちは全員を集めゲートの所へ移動させた。残虐行為の目撃者である囚人を一人でも残さないためである。それから彼らは待機中の列車に囚人たちを積み込んだ。・・・思惑通り、生きて移送列車を降りた囚人は一人もいなかった。  
 ・・・ナフタリは積み切れずに残された囚人の一人だった。・・・脱走を試みたが失敗した。最後には列車から飛び降りたが、体力の限界だった。・・・しかし自分に囁いた母の言葉、「あの子から目を離さないでね・・・」父が「ルレクを救え」と求めたことを思い出し勇猛心を奮い起こした。・・・列車から飛び降りたナフタリは森や野原を歩き続け、そして収容所の第8ブロックへ這って行きその近くで力尽きた。・・・米兵はチフスにかかっていた彼を病院に運び、私たちはそこで再会した。

 ナフタリの回想録「バラムの託宣」より
 この50年間私は、トレブリンカに移送される前に父が私に託した責任を守って来た。父は当時5歳の虚弱児の面倒を見よと言ったのである。小さくて3歳児、いやもっと幼く見えた。以来3年、私たちがルレクと呼んでいた弟イスラエル・ラウの父親、母親、後見人そして守護者として行動した。状況が状況であり、私はしばしば絶望感に襲われ、自分自身度々破滅の淵に追い込まれた。普通であれば、私たちの家族に振りかかった恐るべき運命に屈したであろうが、弟の安全を守りラビの家系である一家の血を絶やすなという父の指示があった。私たちの命のために戦うという使命感が私に生き抜く力と意志を与えてくれたと思っている。・・・

 第5章 解放
 1945年4月11日ヴッヘンヴァルト解放の日。
 ・・・どうにかして助かりたい、考えることはそれだけである。私はジャガイモの皮を集めて口に入れ、無くなるまでもぐもぐ噛んだ。・・・
 ダヴィッド・アニレビッチの証言・・・ゲートに向かって走る群れの中に、一人の小さい子供がまじっていました。・・・彼はルレクと言い、8歳に満たない子供だったのです。・・・私はその子に飛びかかって押し倒し、銃弾から守ろうと蔽いかぶさったのです。そして今日私の目の前に、なんとそのご本人がいるではありませんか。・・・ラビ・ラウ師こそ、そのルレク、御本人です。・・・自分の体を張って守った子供が、自分の精神的な指導者になる、皆さん功徳とはこれを言うのです。

 それは米第3軍の従軍ラビは、ハーシェル・シャクター師であった。・・・師は両眼を大きく見開いて睨みつけている私を見つけてぎょっとしたらしい。殺戮の現場、血の海の中に、いきなり小さい子供に出くわしたので驚くのも当然である。・・・師は私を両手で抱え上げ、父親のように抱いて言った。「何歳だね、ぼくは?」。・・・私は彼の両眼に涙が溢れるのを見た。それでも私は、染みついた習慣から・・・「どうしてそんなこと聞くの?ぼくの方が大人なのは分かっているでしょう。」・・・おじさんは子供のように笑ったり、泣いたりしているからだよ。ぼくは長い間笑っていないよ。もう泣くこともできない。どっちが大人か分かるでしょう。」と答えた。
 
 ・・・このアメリカ人ラビはイーデッシュ語で「ユダヤ人よ、君たちは解放されたぞ!」と叫んだ。
 ・・・4月末ロシア兵捕虜たちは自国へ戻されることになった。私が大変なついているフョードルは、私が一緒にロシアに帰ることを、当然のように思った。・・・チフスにかかって病院に収容されていたナフタリは、彼らが帰還の途につく日、見送りのため病棟を出て恐ろしい光景を見た。・・・私がフョードルと一緒に小さいスーツケースを提げ、もう一方の手は彼の手をしっかりと握っていた。・・・がっかりした兄の顔を見て、私はフョードルの手をふりほどき、彼の所へ行って言った。「トウレク(ナフタリのこと)、ぼくは行かないよ、フョードルのスーツケースを持ってあげるだけだよ。・・・ぼくはお兄ちゃんと一緒だよ。エレッツ・イスラエルへ行くって言ったよね。」・・・私にとってイスラエルは誰も殺されずにすむところであり、・・・私たちの家であった。
 
 1945年5月私ははしかにかかった。・・・私は病院の二階病棟に隔離されていたが、ある日、チフスから回復したばかりの体で兄は私をおぶって、イスラエルへの移住許可証をもらうために並ぶことになった。彼は言った。今この列に並ばないと、ヴッフェンヴァルト残留となりエレッツ・イスラエルには行けなくなると付け加えた。
 
 1945年6月2日、・・・私たちは汽車でフランスへ向かった。・・・出発の前一人のアメリカ兵が軍支給の古いスーツケースを私にくれた。このスーツケースはいつも私と一緒だった。 ・・・結婚するころになると、それはぼろぼろの状態になっており、妻は捨てたいと言った。しかし私は断固として拒否し、「これは私の拠りどころだ。・・・今は神の御心によって、子供たちは何不自由のない生活をしている。しかし、いつか子供のひとりが、あれが足りない、これが足りないなどと文句を言うようになったら、その子に屋根裏部屋からそのスーツケースを持ってこさせ、そして何十年もたくさんのところでこれが父さんの拠りどころだった。不平を言ってはならないよ、父さんは一度も言ったことがないのだ」と諫めるつもりだ。」と妻に言った。・・・残念ながらそのスーツケースは今は存在しない。
 しかしエリ・ヴィーゼルがある時バンクーバーのホロコースト教育センターの展示の中から、そのスーツケースを手に笑っている私の写真を見つけて、私に送ってくれた。(文頭参照)
  ・・・私はその写真を玄関の右手の壁にかけ、外出する度にそれを見ている。・・・左手にはメズザー(聖句箱)がとりつけてある。この二つのシンボルが私を囲み、私の世界を構成している。写真を見るたびに私は、「イスラエル・ラウよ、君には命をかけた任務がある。殺害された父、母そして兄の遺志を継ぎ言葉を伝える者として仕え、宗派の一門を守って、君の存在とその存在が正しいことを証明せよ。」と自分に言い聞かせている。

 賢者たちは「汝は自分がどこから来たのか理解せよ」と言った。私は自分の生涯をかけて、毎日、毎時間この任務のために働いている。・・・
汝は、自分がどこへ進んでいるのか、そしてどなたの前で弁明し申し開きをするのか、理解せよ!




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