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カーライルを学ぶことによる弊害について/内村鑑三

2017年05月11日 12時58分03秒 | 紹介します

 以下内村鑑三のカーライル評から意訳しました。文責はすべて私、大山国男にあることをお断りしておきます。

 ・・・私はすでにカーライルを学ぶことで得られる利益を述べた。彼の性格は非常に愛すべき、尊敬すべきものであるとともに、一面非常に恐ろしく避けるべき点がある。つまり、彼から学んで得る利益は極めて多いのだが、またその弊害も多いことを忘れてはならない。

 その多くは、彼の著書「英雄崇拝論」から来ている。すなわち、感情豊かで血の滾りやすい青年がこの書を読み進むと、その訴えがクライマックスに達するころには、無意識のうちに机を叩いて、その内容が画期的であり、意味深長なものであることに感嘆し、腕を組み、目を凝らして、心の底から世を憂える情動が内心からふつふつと湧き上がってくるのを抑えることができなくなるのである。そして未だその書を読み終えていないうちに、早くも彼の心は変わってしまい、その影響力は驚くほどに激しいのである。

 これはとりもなおさず、これを書いた人物の偉大さを物語るものである。私はこれまで古今東西の偉人に親しく接したり、その著述を読んだり、またその業績を見たりして来たが、彼の著述のように、無意識のうちに著者の精神が読者を鼓舞し、何時の間にか己の霊性の一部となってしまうもの、すなわち読者をして、共に怒らせ、共に喜ばせ、共に泣かせ、また共に笑わせるまでに、すなわちあたかも自分の心が弄ばれているような感覚を覚えるほどに、はなはだしく感化をあたえるものは、私の知る限りでは、未だかつてカーライルの著書に勝るものは見たことがない。

 ましてその思想が未熟で、未だ世の波風を味わったことのない、無邪気で天真爛漫な青年が、彼の書によって感化されやすいのは、きわめて当然の事のように思われる。その弊害とは、すなわち不平の気持ちに耐えられなくなることである。彼はこれを読み進むうちに、他人のなすところ凡て否定的になり、自分の気持ちと違い、自分の理想に合わないものは一片の価値もなく感ぜられるようになるのである。

 たとえば、夕暮れ時になって出会う隣人の挙動にすべて不満を覚えたり、学校で見聞きするもの一つとして満足を覚えることができなかったり、世の政治的状態を観察しては、なにもかもが憤懣の種となり、巷に溢れる文学を読んでみてもすべて批判の対象となり、さらに教会に出入りしても、心に平安を得ることがなく、牧師や信徒に対して不平不満の念を抑えることができなくなるのである。

 その結果、彼の気持ちは荒み、心は猛り、物事を観察しても、これをその明るい面から見ることができず、ただその暗黒面から見下して、憤り、批判するようになるのである。

 多くの牧師や伝道者であろうとする人々が、カーライルを学ぶことを好まない所以は、その温かく誠実で大人しい本来の自分の性質を傷つけはすまいかと恐れるからである。

 つまり、カーライルは現在に満足して太平を謳歌することができる人物ではなく、ただ彼の意に叶い、心に満足させることができるのは、過去と外国だけなのである。どんなにその人が尊敬すべき人物であろうと、如何にその事業が高貴なものであろうとも、いやしくも今日、今現在そうである場合には、彼は決してこれを喜ばない。たとえそれが破壊されても、それを惜しむというようなことがないかのように見える。

 それだからロンドン市中に4百万の市民がいたが、親しく交わって心を交わらせた者はたったの23人しかいない。しかもその2,3の友人すら、ややもすれば疎んじて捨ててしまう傾向があったのである。

 彼は実に近世に友を求めず、むしろこれを阻もうとした。ある人が彼の思想を評して、彼の目に映っている世界においては上帝はクロムウェルの時代まで存在していたが、それ以降はその姿を隠してしまったかのようだと述べている。彼からすれば、天下の英雄はクロムウェル時代に終わったとしているからである。

 しかしながら彼の在世当時、英国社会は決して人物が乏しかったわけではない。スコットあり、ウォルゾウスルあり、バイロンあり、ミルあり、グラッドストーンあり、ヂスレリーあり、天下の名士が政府内外に、星のように多く散在していたのである。

 それなのに、カーライルは多くの英雄がミルトンの時代には生存していたが、今はいないと述べている。すなわち眼前の素晴らしいものを見ても、彼はそれらを讃えることができなかったのである。

 たとえば、名宰相ヂスレリーを呼ぶ場合にも彼をディジーと呼んで決してその本名で呼ぶことをしなかった。また、最近亡くなった有名な解剖学者で厚く彼を尊敬していたオーエンに対しても、少しばかり彼を褒め称えて、「まれにみる英才で、私の家を訪ねて来て、語り合うこと3,4時間にわたり、非常に愉快だった。」と言っているのみである。

 このように、今現在の美しさを褒め称え、その才能を感じることができないのは、おそらくこれは彼の持って生まれた病と言っても言い過ぎではかろう。

 西洋の諺に言う。「見なかったものは、高価である」と。

 しかし、彼が当時の人物に対して激賞してやまない人がただ一人いた。ゲーテである。エマーソンはこれを訝って彼に問いただした。「あなたのように厳正な宗教観をもち、信念も非常に厚い父母がおり、しかもスコットランドの自然に囲まれて成長したのに、それでもなお、あのゲーテをことさらに褒め称える理由は何ですか」と。

 その通りカーライルの普段の生活を知る者にとっては、彼がゲーテを特愛するのを聞けば、誰でも予想に反して驚くだろう。彼はあらゆる美辞麗句を並べて、ゲーテを褒め称え、あるいは夏の太陽のように、勇ましく昇って勇ましく沈んで行くと言い、ゲーテの一文に接して手の舞足の踏むところを知らないかのようである。 

 さながら天地の神より授けられたかのように喜び、彼に知られていることをして無上の名誉と感じ、ドイツに旅行した時にはウィッテンボルグ(Wittenberg)にルターの墓を弔うよりも、まずゲーテの書斎を訪ねたとのことである。

 彼がゲーテを激賞するようになった動機は、それによって英国人を叱咤しようと願ったからであろう。かつて彼は中国の皇帝を称賛して農事を始めるにあたり自ら鍬を持って儀式を行い、また、労働の実を奉げたということを聞いて、キリスト教国であるイギリスでもこのような美しい慣習は行われなかったと言い、あるいは中国の科挙の制度をもって、それを文明的であるとし、ヨーロッパ諸国においてもそのような例を見ないと主張している。

 しかし、事実を知る我らにとっては、その儀式にしろ、方法にしろ、決して感心するものではないのだが、彼が大いにこれを激賞したのは、つまりは「見たことのないものは高価である」との諺の類ではないだろうか。

 彼は時には暖かい友情を壊してしまうこともあったが、それを惜しむというようなことはさらさらなかった。たとえば、親友エドワード・アービングについては、彼の死後有名な追悼文を作って、英文学中もっともよく追悼の気持ちを述べているものと評せられるけれども、彼らの生前の交友は疎ましかったきらいがあり、その責任はカーライルの側にあったと言わざるを得ない。

 エマーソンとの交友が濃やかで一生変わらなかったのは、私が思うに大西洋を隔てていたからであろう。エマーソンが初めて彼の家を訪ねた時、二人とも意気投合して肝胆相照らし、見るところ昔からの友人のように心の底から談じ合ったにも拘らず、二度目の出会いにおいては、カーライルはあまり喜んではいなかったようで、二人が別れた後、「彼は思いのほか理解し難い人だ」と人には語ったそうである。

 パルマルガゼットの紙上で、救世軍のブース氏と出会った時には、二人は互いに手を握り合って深い交わりを示したにも拘らず、それは初めの時だけで、次の出会いの時には、ぶつかり合い、口論となり、果ては互いに戦おうとして、その前後の変化を示す、一枚の絵を間において彼の欠点を指摘したものであった。

 このように、カーライル自身、遠慮なくその偏りを現す時には、自分の最愛の妻といえども、その愛が深くあることはできなかったようである。別の言い方ですれば、カーライルの家庭が暖かくなかったのは、その妻の性質が温和でなかったことによるのであるが、たとえば、ある一例を挙げれば、夫妻が揃って旅行した折、カーライルがある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。彼はそれが冷たいので不平を洩らしたところ、妻が熱く熱している炭を持って来てその茶碗に投げ入れ、これで暖まるでしょうと言ったことがあったとのことである。

 果たしてこの妻の性質はカーライルを怒らせたであろうが、あるいはカーライルの気性が荒く、妻の偏った癖を醸成したのかも知れず、簡単に結論は出ない。とにかく彼の家庭は春の海が波穏やかでそよ風が吹き、和気あいあいとしたものではなかったようである。

 しかしながら、彼はその妻が世を去って後、二年間は言うに言われぬほどの深刻な苦痛を覚え、ほとんど食べることもせず、妻の死を悲しみ、「一瞬でも良い、もう一度会いたいものだ。」と嘆いたという。

 これを見れば、彼は決して冷酷な、愛を理解しない無情の人ではなく、その心の奥底には燃えるような熱情が潜んでいたけれども、不幸にも彼の多くの性格のために抑圧され、遂に円満にその暖かい気持ちを表すことができなかったのであろう。

 このように不平不満の気性は彼の一生を貫いていた。それゆえに彼から学ぼうと思う者はその不平不満の気持ちを減じて読まなければならないのであるが、しかしながら私は彼を弁護してこう言わなければならない。彼は実に人生社会のあらゆる方面において、不平を持ち、慰めを持たなかったけれども、今日の凡庸な政治家や軽薄な文学者たちが抱くところの不平不満と同列に扱うべきではない。

 彼は何ゆえに不平を持ったのだろうか。43年間の長い間世に入れられず、いたずらに自身の生活が不遇であったために、心は塞ぎ、気持ちは広がらず、世の中の偉人たちも彼を認めず、季節は空しく廻り 実力・手腕を発揮する機会に恵まれないのを嘆き、わずかに世を罵り、人を嘲ってその心の煩悶を紛らわそうとしたのに違いない。いや、もし彼にとってそのように、自ら不平の念を禁ぜざるを得なかった者でなかったならば、その雄大な思想と誠実な品性を養うことはできなかったであろう。彼は自分が世に用いられないために、不平不満を訴えるにはあまりに人物が大きかった。

 彼の不平は人生を理解することができなかったことに原因がある。彼はバルンス伝において、バルンスが生計の道に窮して衣食住を支えることができなかったために、ついに首を垂れて諂いを貴族に呈したことを責め、人間の最も悲惨なのは死をおいてほかはない。それでもしその死を覚悟してこのことに従えば、何ら苦痛が彼を煩わすことはない。しかしながら彼はそのような醜態を現すことになったのは死を恐れたためだと論じている。

 言葉は非常に立派だけれども、そのような人生観でよくその心を高き峯の上に置き、綽綽として余裕を持ち、従容として緊張することのないのは難しいことではない。ジョンソンは義務という一つの念願を重んじて、波風荒い人生の戦に勝利することができた。ヒュームは人生を遊びの舞台と見、罪悪を犯さない限りにおいては、窮屈な一生を送るよりは面白おかしく世を終わるのが人間の本望であると思った。

 カーライルの場合、人生の解釈に満足できず、ただただ奮闘激戦してそれと戦って勝利しようと心に決め、まるで人生というものは自分の仇であって、その胸倉をつかんで争い「相手が自分を殺すか、そうでなければ自分が相手を殺そうと、善悪互いに真剣勝負をするもののように考え、自分はあくまでも正義に味方して義務を全うすることを願ったかのようである。

 このため彼はその全生涯において限りなく苦痛が止むことなく、その立ち振る舞いはいつも堅苦しく、不平が絶えることなかったのはこのあたりから来たもので、和気あいあいとして幸福な一生を送ることができなかったのはそのためであろう。

 しかし、まじめな人間がまじめな生涯を送るにあたり、たとえ、暗澹たる妖雲がその一生を覆ってしまったとしても、また天よりの光を赫々と仰ぎ見ないでいる者は少ない。彼はかつてその生まれた地、ニスの川辺においてエマーソンに書き送った手紙の中で言っている。「私の心の中は私の頭の上の天候のようだ。黒雲が覆って一転の光明がないような時に際して、また雲間を通して天からの光が差してくることがある。」彼はいつも英国の国民の生活をナイアガラの滝の上流に竿さす船にたとえ、遂には押し流されて滅亡してしまうと警告したが、一方ではまたイギリスは神の国であると言って自らを慰めている。

 泥の土の下には固い岩がある。雲霧の上には太陽がある。不平の極みにはまた幸と希望がないというわけではない。彼は希望のない不平家ではない。光明を仰ぎ見ることのできない厭世家ではない。ヂーン・スタンレーは彼の死後ウェストミンスター寺院での説教において、このように指摘した。

 彼が80歳を越えたころ、もはや友人と手紙の往復をすることもできずに、ただ退屈に無聊を感じていたころ、ある夕方一人寂しそうに窓のあたりに座って黄昏を眺め、塒に帰る鳥の声も悲しげだったのできっと物のあわれを感じたのであろう、鉛筆でその時の感慨を「神は愚かな私をも此処まで導いて来て下さったのだから、ここで私を捨て去ることはないであろう。またこれからも導いて下さるだろうと記している

 彼が這般の光を仰ぎ見て、麗しい感慨を起こしたのはただ一度だけだったと考えてはいけない。彼のように正義に憧れ、労働を尊び貧しい人々の友となって、主義と共に立ち上がり、主義と共に倒れ、雄大な霊魂を持ち、たとえ一時は暗澹たるこの世界を悲観して憤り、不平不満やるかたない時があったにしても、その行くべき道を走り尽したならば、遂に天地を喜びとともに、仰ぎ見て光明を仰ぐに至ったことは、少しも疑うべきではない。まさに彼はこの光明を仰ぎ見ながら不平に満ちたこの世を去ったのだった。

 最近私の手元に届いた外字新聞によれば、カーライルの末妹ジェン・カーライルの死を報じていた。彼女はスコットランドの農夫であるハンニングという人に嫁いで、その後夫妻でカナダに移住した人で、もとより教養無い農夫の妻であり、歳も80歳を越えていた。しかし、新聞はその老女の死を大々的に世界に伝えて、読者もまた注目してその知らせを読む理由を考えれば、未だカーライルの影響が世界に及んでいることを察するに十分である。

 ある記者が生前の彼女を訪ねて、兄のトーマス・カーライルの日常を尋ねたところ、彼女まず答えて、世の中の人はカーライルの名の発音を間違えていると指摘し、スコットランドの方言によれば、カルルライルであって、rを3つ連ねて発音すべきであると言い、続いてフルウドのカーライル伝を批評し、これは彼の一面を著したに過ぎず、大いにその真相を誤っていると言い、この書によれば、チュム(カーライル)は厳正一辺倒の人に見えるけれども、内面的には愛情細やかな人で、あたかも婦人のような性格だった。敵に向ってはその勢い当たるべからずで、空恐ろしい人だったが、友人や家族の者に対しては至って優しい人だったと述べている。カーライルは常にその弟や妹のことを心配し、彼が逆境に在って非常に困難な時でも、弟ジョンの教育費を支出し、それからあのハンニングが貧乏で、彼が死んだときには一銭の貯金も無かったけれども、ジェンが生活に苦しむようなことがないように、安らかにその一生を全うせしめたのは実はカーライルの遺産を分配したからであった。

 このように彼はダンテと同じように、義においては厳しく強かったけれども、情においては暖かく、かつ脆い人だった。詩人シルレルは言ったものだ。「勇敢な人は他に人がいないところでなければほんとうにその勇を現わすことができない。というのは他人に対しては往々にして情に負けてしまうことが多いからである」と。


ヘレンケラーと中村久子

2017年05月10日 17時14分40秒 | 紹介します

「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 
 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 ヨハネ 

中村久子とヘレンケラー(「知ってるつもり」よりのナレーション)

http://www.dailymotion.com/video/x2fsewr

私自身の悲しい経験を通して人類の苦しみや破れた夢、そして希望の無限さをより深く理解できるようになりました。

人々が彼女に見たもの、それは命の輝きでした。

「私は暗闇の中をさまよいながらも、霊の領域からささやきかける励ましを聞く。私は見えない紐で太陽や星につながり魂の中に永遠の炎を感じる。私は沈黙と暗闇の中に閉ざされつつも光を見ている。」

 そのヘレンケラーが偉大な人と讃えた中村久子。両手両足のない体で彼女が生き抜いた想像を絶する苦難の人生、そしてその果てに彼女が見たものは何だったのか。ヘレンケラーが心の目で見抜いた中村久子の人生、そこにも、20世紀の奇跡が秘められていたのです。

 両手両足のない体で苦難の人生を生き抜いた中村久子、その不幸の始まりとは

 岐阜県飛騨高山、運命の子中村久子は明治30年この世に産声をあげました。畳職人だった父、釜鳴栄太郎32歳、母あや26歳結婚11年目にしての初めての子に両親の可愛がりようも一入でした。そんな一家に異変が起きたのは久子1歳のこと。泣き叫ぶ久子の左足が紫色に変色。あやは久子を背負って病院へ急ぎました。診断の結果思いもよらない病名が告げられました。「特発性脱疽」(手足の血管が血栓で塞がれ血液が流れにくくなり、末梢組織が壊死する)、肉がそげ骨が腐る難病です。手足を切断しなければ命も危ない。医師の宣告に両親は動転しました。何とか、切断せずに治せないものか。手術に踏み切れないまま数か月たったある日、母あやは炉端に落ちている包帯を何気なく拾って気を失いました。久子の左手が腐って落ちていたのです。ほどなく久子は両手足をそれぞれ肘と膝から切断せねばなりませんでした。一命は取留めたものの久子は傷口の痛みに昼夜の別なく泣き続け、近所に気兼ねした母あやは雪の夜中でも久子をおぶい、泣き止むまで外をさ迷い歩く毎日でした。

 両手、両足のない子供がいる。そのうわさを聞きつけて見世物にしようと久子を買いに来る心無い興行師たちを父栄太郎は烈火のごとく怒り追い返しました。それ以来父は久子を片時も話さず、食事や下の世話をすべて引き受け次第に心労を重ねていきます。

 ある夜、久子に添い寝していた栄太郎は突然跳ね起きると、こう叫びました。「久子、たとえ親子で餓死しようとお前を誰にも渡さないよ」そのまま倒れ込んだ父はすでに物言わぬ人でした。37歳急性脳膜炎での突然の最期でした。

 茫然自失となった母あやは久子を背負うと、橋の上で激流を見つめたまま立ち尽くしていました。

 「かか様、怖いよう。早くお家へ帰ろう」泣きじゃくる久子の声にあやはハッと我に返りました。安住の地を死に見つけようとしたあやでしたが、果たせませんでした。

 明治37年、生活に困った母あやは7歳の久子を連れてやはり子連れの畳職人と再婚します。連れ子が障害者、ただでさえ肩身が狭い母あやはことあるごとに久子を強く𠮟りつけました。

 そんなある日のこと、母あやは久子に着物のほどきものを言いつけました。母が放り出した着物を前に久子は戸惑うばかり、固い止め糸は歯で噛みきれるものではありません。

 その当時のことを晩年の久子が語ったテープがありました。

 ハサミを持つことのできない手足、いろいろ考えてできないために母に謝りました。「どうぞ堪忍して下さい。ようほどきません。」謝りましたが、母は許しません。私は母を恨みました。

一つの止め糸を切るのに何日考えただろうか。・・・ある日久子はハサミを口にくわえることに気がつきました。・・・そして(糸の切れる音)

 一人でほどきものができる。自分の力の発見に久子の頬を涙がつたっていました。

 しかし義理の父は久子を他人に見られまいと二階に閉じ込めてしまいます。手無し足なしに何ができるもんか。そんな久子の友達は人形だけでした。

私の大事なお人形におべべを着せてあげる。

 針と糸を前に久子の格闘が始まります。針に糸をどう通すのか?糸の結び球をどうやって結ぶのか?一針一針が四苦八苦の連続でした。・・・こうして数か月後ついに人形の着物が縫い上がりました。

 大喜びの久子はこれを近所の幼友達に贈りました。ところがこともあろうにその子の親が人形を取り上げ川の中に投げ捨ててしまいます。「こんな汚いものをもらってはいかん。」口を使って縫ったことで着物が唾液にまみれていたのです。

 久子が唾液で濡れない着物を縫えるようになるにはそれから10年の歳月が必要でした。

 時代は日露戦争を経て日本は近代国家の仲間入りを果たし、山合いの飛騨高山にも資本主義の波が伝わって来ました。年頃の娘が当時花形の製紙工場で働き現金を稼ぎ出すと、義理の父親の言葉もますます荒くなります。厄介者、食いつぶし

 そんな中で、母あやの言いつけもバケツの水汲みから掃除洗濯と厳しさを増しました。

 ある日母あやは久子の前に山のような麻糸を放り出しました。

 糸をつなぎ合わせる麻糸つなぎは当時盛んだった内職です。

 これでお金を稼ぐことができたら肩身の狭さもどれだけ救われることか。

 しかし針金のように固い麻糸は裁縫糸と違い、口の中で結ぶことは何日経ってもできません。久子の口はいつしか血が滲んでいましたが、母あやは途中で投げ出すことを許しません。何度も何度も失敗を繰り返し、自暴自棄を重ねながらも久子は麻糸と格闘を続けました。・・・それから何日かたったある日、久子の口から出て来た二本の麻糸がしっかり結ばれていました。あまりの不思議さに久子は体が震え、言い知れぬ感動に涙が込みあげて来ました。・・・久子15歳のこと。

とは言え、麻糸つなぎの手間賃など知れたもの、

 久子のこれまでの治療費は借金となって膨らむばかり。母あやは久子にこう言いました。もうこれしか方法がない。こうして久子は借金を返すため200円(今の百万円で)見世物小屋に売られてしまったのです。この時の地元紙の記事が残っています。

 こうして大正5年19歳の久子は母を恨みつつ故郷高山を後にしました。とうとう見世物に堕ちて行くのか。

 祭りから祭りへ、旅の一座として全国をわたりあるくようになった久子の芸名はこともあろうに「ダルマ娘」披露する芸と言っても手足のない体でする裁縫や切り紙細工、リンゴの皮むきなど、自分で習い覚えた生活のすべを見せるしかありません。・・・これは彼女が筆を口にくわえて書いた君が代の色紙、見た人が感激して保存していたものです。しかしその間、興業の請負元に幾度騙されたことでしょう。小屋主からは客入りが悪いと罵倒され、酒の入った客からは「そんなの芸じゃないぞ」という野次。久子の小さな自尊心はずたずたになりました。しかも水汲みや洗濯など身の回りのことは一切自分でやらなければなりません。たとえどんなにつらくても久子にはもはや帰る場所はありませんでした。西へ東へと旅するうちに歳月は過ぎて行きました。

 故郷を出て4年久子のもとに一通の手紙が届きました。それを読む久子の顔からみるみる血の気が引いて行きました。母あやの死の知らせだったのです。あやはまだ46歳でした。

 茫然としてどれくらいたったでしょう。ふと久子の脳裏を稲妻のように貫くものがありました。

 もしかしたら私を一番愛してくれたのは母かも知れない。若くして夫に先立たれ、手足のない私と借金を抱えた母。その上自分が死んだ後までも私に生き抜くことを教えなければならなかったに違いない。そんな母の心を知らずにどれだけ恨んだことか。 

 この時久子22歳。母の計り知れぬ思いに始めて触れ、涙がとめどなく溢れていました。

 その年の秋、まるで亡き母の思いがそうさせたかのように、久子に思いがけないことが続きました。

 一つは雑誌の懸賞作品に応募した久子の手記が当選したのです。自らの半生を語ったこの手記は大きな反響を呼び彼女の存在が世に知られるようになりました。しかも手記に感動した雑誌社の社長から義足が贈られたのです。2本の足で大地に立つのを久子はどれほど夢見て来たことか。自分の力で歩く喜びを久子はこの義足によって晩年まで味わい続けることができたのです。

 そしてもう一つ、念願の年季明けを機に結婚することになったのです。相手は同じ座員の一人中谷雄三、久子より3つ上の実直な男でした。興業の世界では売れる芸人の逃さないための形だけの結婚も多かったのですが、 中谷が久子の面倒を見るうちに二人の間に愛が芽生えていました。

 さらに久子は母となる日を迎えます。私のような女にも神仏は人並みに女としての喜びを与えてくれた。

 しかし、久子の幸せは突終わりを告げたのです。結婚、そして出産、ようやく人並みの幸せを手に入れたかのように見えた中村久子。しかし、彼女の幸せは長くは続きませんでした。・・・大正12年夫が腸結核で急死したのです。久子の結婚生活はわずか3年で終わりを告げました。幼い子供抱えて生活に行き詰った久子は悲しみにくれる間もなく一座と共に旅してまわらなければなりませんでした。興業の世界に生きる限り男手はどうしても必要でした。久子は再婚せねば生きられない定めだったのです。生活のための再婚。死んだ母と同じ轍を踏まねばならないとは。

 人に勧められるままに再婚した久子はやがて二人目の子供をもうけますが、再婚相手ともまたも死別、なぜ私ばかりがこんな目に合うのだろう。こうまでして人は生きなければならないのか。

 自らの運命を呪う久子の胸には言い知れぬ絶望感だけが広がっていました。

 そんな昭和5年久子は雑誌に紹介されていた一人の女性に強く惹きつけられました。彼女の名は「座古愛子」、18歳でリュウマチにかかり、首から下は動かない重度の障害者として30年以上寝たきりでした。しかし女学校の購買部で寝たままの姿で働き、キリスト教の伝道にも身を奉げているのです。

 久子は矢も楯もたまらず愛子のもとを訪れました。・・・初めて対面した久子は座古愛子の輝いた顔と安らかなまなざしに思わず息をのみました。初対面にも関わらす視線があっただけで、二人の目に涙が溢れました。

 魂の交流する世界、それはどんなに尊い数秒間であったろう。

 しかも久子は愛子がそんな体で誰一人身寄りもないのに感謝の日々を送っていることを知り、衝撃を受けました。自分は今日まで親を恨み手足のない運命をどれほど呪ったことか。しかし自分よりつらい運命を背負っていながら誰一人恨むどころか感謝の日々を送っている人がいる。

 激しい驚きの中で久子の心に思ってもいなかった世界が開こうとしていました。

 昭和8年36歳の久子は一座で働いている若い衆の一人、中村敏雄と結婚。二人の子供たちも成長し、ようやく安らいだ家庭生活を手に入れました。今の私は子供からこんなにも幸せを受けている。それに比べて私が母に与えたものは悲しみと苦しさだけだった。

 母を恨み続けた久子の大きな変わりようでした。

 

 ここに久子さんが使った道具が残っているんですよ。このお人形さん、これは小さなものですけれども、ほんとうに涎もつかないで着物が仕上げられるようになっていますね。 これは鏝でしょう。噛んだ跡だね このへらがね、ここに歯を当てていたんでしょうね。

 石井さんどうですか。

 私はこの久子さんのお母さんの気持ちが少しだけわかるんですけども。私の子供も生まれてすぐに目も、耳も手も足も駄目だと言われて、実際にずっと寝たきりで自分の意思を伝えることも難しい子供だったんですけども、そういう子供が生まれてしまってやっぱり一番最初に考えるのは、この子が生きて行けるわけないんだからこの子と一緒に今ここで死んでしまおうと言うことなんですよ。でもいや、そうじゃないんだと気がついたときに、次に考えるのは、じゃあどうやってこの子と生きて行こうということなんですね。ちょっとでも人間て甘える気持ちとか、どこかに逃げられる場所があると逃げてしまいますから、お母様はわざと厳しくされてらして、最後までそれは敢えて言わないでいたんだなと思ったら、お母様もすごい方だなと思いました。

 

 昭和12年中村久子は一人の思いがけない女性と対面することになりました。その女性とは奇跡の人ヘレンケラーです。この歳57歳になったヘレンケラーは障害者を勇気づけるために日本へやって来ました。実はこの前年長年人生を共にしてきた恩師サリバンが70歳でこの世を去り、ヘレンは悲しみにくれていました。そのサリバンが生前ぜひとも行ってみたいと願っていたのが、日本だったのです。4月17日、ヘレンと久子の出会いの日です。この日久子はヘレンのために縫い上げた人形を携えていました。そして久子の肩を抱いたヘレンがそっと肩から下をなでおろした瞬間、ヘレンの表情がハッと変わり、下半身が義足と分かった時ヘレンはいきなり久子を抱き寄せました。「私より不幸な人、そして偉大な人」・・・ヘレンも久子も涙で頬を濡らし、すすり泣きが会場を包んでいました。

「(ヘレンケラー)女史に接して思いましたことは人間は体で生きるものでないということ、はっきり私は教えられたのでございます。私はただ自分の心を見ることのできる人間になりたいと思いました。」

 ヘレンとの出会いが久子にとって大きな転機となりました。見世物として身をさらすのはもう終わりにしよう、久子は長かった芸人生活を抜け出し、求めに応じて全国を講演してまわることになりました。

 ところがそのことが久子に思わぬ心の壁となって立ちはだかったのです。その壁とは己の慢心、思い上がりでした。今までの苦労を大勢の前で自慢げに話し、人生に不可能なしと言い放つ、そんな自分の思い上がった姿に耐えられなくなったのです。

 結局何でもこなして来た自分自身にとってそれで何が見つかったか。それは彼女の喜ぶべき地震ではあったんだが、請われるまま人に語って行く中で、その自信は慢心以外の何物でもなかったといういことは彼女の精神的な行き詰まりになった。

 そんなある時久子は一冊の本と出会います。親鸞の「歎異抄」です。人は知恵や能力努力だけでは救われない。その無力さを知り自然のあるがままの姿で仏の手に身を委ねた時、初めて人は救われる。

 読み終えた時、久子は己の慢心の正体に気づきハッとしました。今まで逃げ場もなく絶体絶命の中で生き抜いて来た自信、この自信こそ、慢心の正体であり、自分の目を曇らせていたのだ。

 そして次の瞬間久子は愕然としました。ここまで自分を育て教えてくれたのは両手両足の無いこの体なのだ。

 そう気がつくと今まで自分を育ててくれた、あの見世物小屋が宝に思え、自分に厳しく当たった人たちこそ自分を磨いてくれたと、深い感謝の気持ちがとめどなく湧いて来ました。そして久子はあれほど忌み嫌って来た見世物小屋へ帰って行く決心をしました。これが自分に与えられた境遇であり、業の尽きるまで芸人でいよう。目の前に開けた新たな世界を久子はこう記しています。あらゆる苦しみ、悲しみと取っ組み切った私にも今ようやく苦難の夜が明け輝かしい朝が訪れた。私は今明るい喜びに浸りながら苦あればこそまた滋味豊かな人生を静かに省みつつ味わっている。人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない。

 ここに至って久子は体の不自由な人を励ます全国行脚を再開、かつてのように高みから語るのではなく、感謝の気持ちを胸に秘め、自然体で語る久子の姿がありました。

 戦争を挟んで一家はあい変わらずの貧しさでしたが、久子は言い知れぬ喜びを感じていました。孫ができ、娘はそばにいて、そして優しい夫がいつも背負っていてくれる。長い道のりを経てようやくたどり着いた安らいだ境地を久子はこう語っています。

 人間の命というものの強さ、尊さというものが命にはあるものだといつも思うのでございます。

 昭和四〇年六七歳になった久子は故郷高山にこの悲母観音像を建立しました。自分を今日まで生かしてくれた母、その母への感謝の気持ちを久子は形に残して置きたかったのです。その後、肩の荷を降ろしたかのように病の床に伏した久子は次女の富子に最後に一つだけ無理を聞いてくれるように頼みました。

 あなたにこんな辛い頼みをして申し訳なかった。ごめんねと母は言ったんですね。

 久子の最後の頼み、それは死んだ後、自らの体を医学に役立てるために献体して欲しいというものでした。

 私自身は何にも親孝行してあげられなかったので、すべての親孝行が母の解剖をきちんとしてもらうように計らうことが最後の親孝行だと思ったんです。

 それから間もない三月一九日中村久子は両手両足のない体をさらに奉げ尽くして、七〇年の天寿を安らかに全うしました。

 そして全世界に感動を与えた奇跡の人ヘレンケラーも同じこの年八七歳の生涯を閉じました。ヘレンケラーはワシントンのこの教会であのサリバン先生と共に眠っています。

 ヘレンケラーと中村久子、二つの輝ける命が二〇世紀に投げかけた光とはいったい何だったのでしょう。

 

 さあ、美穂ちゃんどうですか、何か参考になりましたか。

 いやあ、お金とかでは幸せにはなれないんだなと思って、やっぱり「自分と向き合う」と二人仰っていましたけど、内側に何かを見つけないと幸せって見つけられないのかなというふうにちょこっと感じました。

 田中君。

 こういう人生を見ると一生懸命生きなければ命というものは使えないな、ただ生きているだけと、やっぱり命を全うすることは絶対違うなというふうにすごい感じますね。ですから今この自殺が増えているじゃないですか。その選択はやっぱり間違いだなというふうに思いますね。

 そうだね。

 石井さんどうでしたか。

 あの私の子供のことをテレビの番組で放送した時に、ある方から自分の子供を見世物にするのかっていうお叱りの手紙をいただいたんですね。でもその時に私は見世物結構じゃないと思ったんですよ。見せなかったら知ってもらえないんだからとにかくみんなに見せて、こんなに頑張って生きている子がいるんだよって知ってもらいたかったんですよ。そこから人の理解とかいろんなことに広がって行くんだろうからそういうふうにしてみたい、それがたぶん、子供と私に課せられた役割なんだなと思ったんですね。

 だから多分ヘレンケラーさんも、中村久子さんもとっても重要な役目をもってこの世に生まれてらしたんだなと改めて感じました。

 大空さん

 まだ間に合うかなって。・・・・

 どうしてもそう思っちゃうよね

 ああいうほんとうの映画のように・・・まだなれるかな、間に合うかな・・・

 はい、ありがとうございました。

 牧ちゃんも何か

 あの人間は体で生きているものではないということが何か引っかかっていて、これから自分の魂の中に確固たる命に対する意識とか、一つ一つ積み上げて行けるかな、・・・これから頑張らなくちゃいけないなという気がしました。

 さあ、それじゃこちらご覧いただいてお別れいたします。

 繁栄の二〇世紀私たちの目は外へ外へと向けられ、内なる自分を見つめることが少なくなってきたように思います。しかしヘレンケラーと中村久子は常に内なる自分を見つめ続ける道を歩み続けました。それは誰の人生も自らの命と対話し続けることの大切さを私たちに教えてくれているようです。晩年の中村久子さんの声が残っています。

 自分を知るということ、世の中に何が難しいと言いましても自分を知ることくらい難しいものはございません。私はただ自分の心を見ることのできる人間になりたいと思いました。

 そしてヘレンケラーも私たちに同じメッセージを残しています。

 もっと自分自身を見つめて下さい。・・・・ヘレンケラー

 中村久子の自伝「こころの手足」を読んで・・・・・・・・・・・・・・
 数ページ読むたびに感動の涙が流れて来てなかなか先に進めなかったが、ようやく読み終えた。まことに人の偉大さはその人が何を成し遂げたかではなく、何を目指し、どう生きたかであり、それは人の評価ではなく、神の目からのみ評価されるものだとつくづく感じている。
 しかし、往々にして私たちは人をその業績や、到達した地位などで評価してしまう。その方が分かりやすいし、みんなが共感するからだ。だが、マークトーエンが「ヘレン・ケラーは1000年後においても有名であり続けるだろう」と言ったように、この中村久子のすさまじい生きざまも、歴史を越えて輝いているのを感ずる。
 だから、評価することなどやめてしまおう。自分に与えられた人生を悔いのないものとして全うしたい。「すべてのことは神ながらにあれ!」と祈り、願う。
  ヘレン・ケラーは、晩年気が狂ったとも言われるスウェーデンボルグを信奉し、中村久子は浄土真宗を開いた親鸞を、そして座古愛子(別のブログで詳しく掲載予定)はクリスチャンだった。
 私は「人間世界に完全なものなどない。」と思う。