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ヘレンケラーと中村久子

2017年05月10日 17時14分40秒 | 紹介します

「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 
 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 ヨハネ 

中村久子とヘレンケラー(「知ってるつもり」よりのナレーション)

http://www.dailymotion.com/video/x2fsewr

私自身の悲しい経験を通して人類の苦しみや破れた夢、そして希望の無限さをより深く理解できるようになりました。

人々が彼女に見たもの、それは命の輝きでした。

「私は暗闇の中をさまよいながらも、霊の領域からささやきかける励ましを聞く。私は見えない紐で太陽や星につながり魂の中に永遠の炎を感じる。私は沈黙と暗闇の中に閉ざされつつも光を見ている。」

 そのヘレンケラーが偉大な人と讃えた中村久子。両手両足のない体で彼女が生き抜いた想像を絶する苦難の人生、そしてその果てに彼女が見たものは何だったのか。ヘレンケラーが心の目で見抜いた中村久子の人生、そこにも、20世紀の奇跡が秘められていたのです。

 両手両足のない体で苦難の人生を生き抜いた中村久子、その不幸の始まりとは

 岐阜県飛騨高山、運命の子中村久子は明治30年この世に産声をあげました。畳職人だった父、釜鳴栄太郎32歳、母あや26歳結婚11年目にしての初めての子に両親の可愛がりようも一入でした。そんな一家に異変が起きたのは久子1歳のこと。泣き叫ぶ久子の左足が紫色に変色。あやは久子を背負って病院へ急ぎました。診断の結果思いもよらない病名が告げられました。「特発性脱疽」(手足の血管が血栓で塞がれ血液が流れにくくなり、末梢組織が壊死する)、肉がそげ骨が腐る難病です。手足を切断しなければ命も危ない。医師の宣告に両親は動転しました。何とか、切断せずに治せないものか。手術に踏み切れないまま数か月たったある日、母あやは炉端に落ちている包帯を何気なく拾って気を失いました。久子の左手が腐って落ちていたのです。ほどなく久子は両手足をそれぞれ肘と膝から切断せねばなりませんでした。一命は取留めたものの久子は傷口の痛みに昼夜の別なく泣き続け、近所に気兼ねした母あやは雪の夜中でも久子をおぶい、泣き止むまで外をさ迷い歩く毎日でした。

 両手、両足のない子供がいる。そのうわさを聞きつけて見世物にしようと久子を買いに来る心無い興行師たちを父栄太郎は烈火のごとく怒り追い返しました。それ以来父は久子を片時も話さず、食事や下の世話をすべて引き受け次第に心労を重ねていきます。

 ある夜、久子に添い寝していた栄太郎は突然跳ね起きると、こう叫びました。「久子、たとえ親子で餓死しようとお前を誰にも渡さないよ」そのまま倒れ込んだ父はすでに物言わぬ人でした。37歳急性脳膜炎での突然の最期でした。

 茫然自失となった母あやは久子を背負うと、橋の上で激流を見つめたまま立ち尽くしていました。

 「かか様、怖いよう。早くお家へ帰ろう」泣きじゃくる久子の声にあやはハッと我に返りました。安住の地を死に見つけようとしたあやでしたが、果たせませんでした。

 明治37年、生活に困った母あやは7歳の久子を連れてやはり子連れの畳職人と再婚します。連れ子が障害者、ただでさえ肩身が狭い母あやはことあるごとに久子を強く𠮟りつけました。

 そんなある日のこと、母あやは久子に着物のほどきものを言いつけました。母が放り出した着物を前に久子は戸惑うばかり、固い止め糸は歯で噛みきれるものではありません。

 その当時のことを晩年の久子が語ったテープがありました。

 ハサミを持つことのできない手足、いろいろ考えてできないために母に謝りました。「どうぞ堪忍して下さい。ようほどきません。」謝りましたが、母は許しません。私は母を恨みました。

一つの止め糸を切るのに何日考えただろうか。・・・ある日久子はハサミを口にくわえることに気がつきました。・・・そして(糸の切れる音)

 一人でほどきものができる。自分の力の発見に久子の頬を涙がつたっていました。

 しかし義理の父は久子を他人に見られまいと二階に閉じ込めてしまいます。手無し足なしに何ができるもんか。そんな久子の友達は人形だけでした。

私の大事なお人形におべべを着せてあげる。

 針と糸を前に久子の格闘が始まります。針に糸をどう通すのか?糸の結び球をどうやって結ぶのか?一針一針が四苦八苦の連続でした。・・・こうして数か月後ついに人形の着物が縫い上がりました。

 大喜びの久子はこれを近所の幼友達に贈りました。ところがこともあろうにその子の親が人形を取り上げ川の中に投げ捨ててしまいます。「こんな汚いものをもらってはいかん。」口を使って縫ったことで着物が唾液にまみれていたのです。

 久子が唾液で濡れない着物を縫えるようになるにはそれから10年の歳月が必要でした。

 時代は日露戦争を経て日本は近代国家の仲間入りを果たし、山合いの飛騨高山にも資本主義の波が伝わって来ました。年頃の娘が当時花形の製紙工場で働き現金を稼ぎ出すと、義理の父親の言葉もますます荒くなります。厄介者、食いつぶし

 そんな中で、母あやの言いつけもバケツの水汲みから掃除洗濯と厳しさを増しました。

 ある日母あやは久子の前に山のような麻糸を放り出しました。

 糸をつなぎ合わせる麻糸つなぎは当時盛んだった内職です。

 これでお金を稼ぐことができたら肩身の狭さもどれだけ救われることか。

 しかし針金のように固い麻糸は裁縫糸と違い、口の中で結ぶことは何日経ってもできません。久子の口はいつしか血が滲んでいましたが、母あやは途中で投げ出すことを許しません。何度も何度も失敗を繰り返し、自暴自棄を重ねながらも久子は麻糸と格闘を続けました。・・・それから何日かたったある日、久子の口から出て来た二本の麻糸がしっかり結ばれていました。あまりの不思議さに久子は体が震え、言い知れぬ感動に涙が込みあげて来ました。・・・久子15歳のこと。

とは言え、麻糸つなぎの手間賃など知れたもの、

 久子のこれまでの治療費は借金となって膨らむばかり。母あやは久子にこう言いました。もうこれしか方法がない。こうして久子は借金を返すため200円(今の百万円で)見世物小屋に売られてしまったのです。この時の地元紙の記事が残っています。

 こうして大正5年19歳の久子は母を恨みつつ故郷高山を後にしました。とうとう見世物に堕ちて行くのか。

 祭りから祭りへ、旅の一座として全国をわたりあるくようになった久子の芸名はこともあろうに「ダルマ娘」披露する芸と言っても手足のない体でする裁縫や切り紙細工、リンゴの皮むきなど、自分で習い覚えた生活のすべを見せるしかありません。・・・これは彼女が筆を口にくわえて書いた君が代の色紙、見た人が感激して保存していたものです。しかしその間、興業の請負元に幾度騙されたことでしょう。小屋主からは客入りが悪いと罵倒され、酒の入った客からは「そんなの芸じゃないぞ」という野次。久子の小さな自尊心はずたずたになりました。しかも水汲みや洗濯など身の回りのことは一切自分でやらなければなりません。たとえどんなにつらくても久子にはもはや帰る場所はありませんでした。西へ東へと旅するうちに歳月は過ぎて行きました。

 故郷を出て4年久子のもとに一通の手紙が届きました。それを読む久子の顔からみるみる血の気が引いて行きました。母あやの死の知らせだったのです。あやはまだ46歳でした。

 茫然としてどれくらいたったでしょう。ふと久子の脳裏を稲妻のように貫くものがありました。

 もしかしたら私を一番愛してくれたのは母かも知れない。若くして夫に先立たれ、手足のない私と借金を抱えた母。その上自分が死んだ後までも私に生き抜くことを教えなければならなかったに違いない。そんな母の心を知らずにどれだけ恨んだことか。 

 この時久子22歳。母の計り知れぬ思いに始めて触れ、涙がとめどなく溢れていました。

 その年の秋、まるで亡き母の思いがそうさせたかのように、久子に思いがけないことが続きました。

 一つは雑誌の懸賞作品に応募した久子の手記が当選したのです。自らの半生を語ったこの手記は大きな反響を呼び彼女の存在が世に知られるようになりました。しかも手記に感動した雑誌社の社長から義足が贈られたのです。2本の足で大地に立つのを久子はどれほど夢見て来たことか。自分の力で歩く喜びを久子はこの義足によって晩年まで味わい続けることができたのです。

 そしてもう一つ、念願の年季明けを機に結婚することになったのです。相手は同じ座員の一人中谷雄三、久子より3つ上の実直な男でした。興業の世界では売れる芸人の逃さないための形だけの結婚も多かったのですが、 中谷が久子の面倒を見るうちに二人の間に愛が芽生えていました。

 さらに久子は母となる日を迎えます。私のような女にも神仏は人並みに女としての喜びを与えてくれた。

 しかし、久子の幸せは突終わりを告げたのです。結婚、そして出産、ようやく人並みの幸せを手に入れたかのように見えた中村久子。しかし、彼女の幸せは長くは続きませんでした。・・・大正12年夫が腸結核で急死したのです。久子の結婚生活はわずか3年で終わりを告げました。幼い子供抱えて生活に行き詰った久子は悲しみにくれる間もなく一座と共に旅してまわらなければなりませんでした。興業の世界に生きる限り男手はどうしても必要でした。久子は再婚せねば生きられない定めだったのです。生活のための再婚。死んだ母と同じ轍を踏まねばならないとは。

 人に勧められるままに再婚した久子はやがて二人目の子供をもうけますが、再婚相手ともまたも死別、なぜ私ばかりがこんな目に合うのだろう。こうまでして人は生きなければならないのか。

 自らの運命を呪う久子の胸には言い知れぬ絶望感だけが広がっていました。

 そんな昭和5年久子は雑誌に紹介されていた一人の女性に強く惹きつけられました。彼女の名は「座古愛子」、18歳でリュウマチにかかり、首から下は動かない重度の障害者として30年以上寝たきりでした。しかし女学校の購買部で寝たままの姿で働き、キリスト教の伝道にも身を奉げているのです。

 久子は矢も楯もたまらず愛子のもとを訪れました。・・・初めて対面した久子は座古愛子の輝いた顔と安らかなまなざしに思わず息をのみました。初対面にも関わらす視線があっただけで、二人の目に涙が溢れました。

 魂の交流する世界、それはどんなに尊い数秒間であったろう。

 しかも久子は愛子がそんな体で誰一人身寄りもないのに感謝の日々を送っていることを知り、衝撃を受けました。自分は今日まで親を恨み手足のない運命をどれほど呪ったことか。しかし自分よりつらい運命を背負っていながら誰一人恨むどころか感謝の日々を送っている人がいる。

 激しい驚きの中で久子の心に思ってもいなかった世界が開こうとしていました。

 昭和8年36歳の久子は一座で働いている若い衆の一人、中村敏雄と結婚。二人の子供たちも成長し、ようやく安らいだ家庭生活を手に入れました。今の私は子供からこんなにも幸せを受けている。それに比べて私が母に与えたものは悲しみと苦しさだけだった。

 母を恨み続けた久子の大きな変わりようでした。

 

 ここに久子さんが使った道具が残っているんですよ。このお人形さん、これは小さなものですけれども、ほんとうに涎もつかないで着物が仕上げられるようになっていますね。 これは鏝でしょう。噛んだ跡だね このへらがね、ここに歯を当てていたんでしょうね。

 石井さんどうですか。

 私はこの久子さんのお母さんの気持ちが少しだけわかるんですけども。私の子供も生まれてすぐに目も、耳も手も足も駄目だと言われて、実際にずっと寝たきりで自分の意思を伝えることも難しい子供だったんですけども、そういう子供が生まれてしまってやっぱり一番最初に考えるのは、この子が生きて行けるわけないんだからこの子と一緒に今ここで死んでしまおうと言うことなんですよ。でもいや、そうじゃないんだと気がついたときに、次に考えるのは、じゃあどうやってこの子と生きて行こうということなんですね。ちょっとでも人間て甘える気持ちとか、どこかに逃げられる場所があると逃げてしまいますから、お母様はわざと厳しくされてらして、最後までそれは敢えて言わないでいたんだなと思ったら、お母様もすごい方だなと思いました。

 

 昭和12年中村久子は一人の思いがけない女性と対面することになりました。その女性とは奇跡の人ヘレンケラーです。この歳57歳になったヘレンケラーは障害者を勇気づけるために日本へやって来ました。実はこの前年長年人生を共にしてきた恩師サリバンが70歳でこの世を去り、ヘレンは悲しみにくれていました。そのサリバンが生前ぜひとも行ってみたいと願っていたのが、日本だったのです。4月17日、ヘレンと久子の出会いの日です。この日久子はヘレンのために縫い上げた人形を携えていました。そして久子の肩を抱いたヘレンがそっと肩から下をなでおろした瞬間、ヘレンの表情がハッと変わり、下半身が義足と分かった時ヘレンはいきなり久子を抱き寄せました。「私より不幸な人、そして偉大な人」・・・ヘレンも久子も涙で頬を濡らし、すすり泣きが会場を包んでいました。

「(ヘレンケラー)女史に接して思いましたことは人間は体で生きるものでないということ、はっきり私は教えられたのでございます。私はただ自分の心を見ることのできる人間になりたいと思いました。」

 ヘレンとの出会いが久子にとって大きな転機となりました。見世物として身をさらすのはもう終わりにしよう、久子は長かった芸人生活を抜け出し、求めに応じて全国を講演してまわることになりました。

 ところがそのことが久子に思わぬ心の壁となって立ちはだかったのです。その壁とは己の慢心、思い上がりでした。今までの苦労を大勢の前で自慢げに話し、人生に不可能なしと言い放つ、そんな自分の思い上がった姿に耐えられなくなったのです。

 結局何でもこなして来た自分自身にとってそれで何が見つかったか。それは彼女の喜ぶべき地震ではあったんだが、請われるまま人に語って行く中で、その自信は慢心以外の何物でもなかったといういことは彼女の精神的な行き詰まりになった。

 そんなある時久子は一冊の本と出会います。親鸞の「歎異抄」です。人は知恵や能力努力だけでは救われない。その無力さを知り自然のあるがままの姿で仏の手に身を委ねた時、初めて人は救われる。

 読み終えた時、久子は己の慢心の正体に気づきハッとしました。今まで逃げ場もなく絶体絶命の中で生き抜いて来た自信、この自信こそ、慢心の正体であり、自分の目を曇らせていたのだ。

 そして次の瞬間久子は愕然としました。ここまで自分を育て教えてくれたのは両手両足の無いこの体なのだ。

 そう気がつくと今まで自分を育ててくれた、あの見世物小屋が宝に思え、自分に厳しく当たった人たちこそ自分を磨いてくれたと、深い感謝の気持ちがとめどなく湧いて来ました。そして久子はあれほど忌み嫌って来た見世物小屋へ帰って行く決心をしました。これが自分に与えられた境遇であり、業の尽きるまで芸人でいよう。目の前に開けた新たな世界を久子はこう記しています。あらゆる苦しみ、悲しみと取っ組み切った私にも今ようやく苦難の夜が明け輝かしい朝が訪れた。私は今明るい喜びに浸りながら苦あればこそまた滋味豊かな人生を静かに省みつつ味わっている。人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない。

 ここに至って久子は体の不自由な人を励ます全国行脚を再開、かつてのように高みから語るのではなく、感謝の気持ちを胸に秘め、自然体で語る久子の姿がありました。

 戦争を挟んで一家はあい変わらずの貧しさでしたが、久子は言い知れぬ喜びを感じていました。孫ができ、娘はそばにいて、そして優しい夫がいつも背負っていてくれる。長い道のりを経てようやくたどり着いた安らいだ境地を久子はこう語っています。

 人間の命というものの強さ、尊さというものが命にはあるものだといつも思うのでございます。

 昭和四〇年六七歳になった久子は故郷高山にこの悲母観音像を建立しました。自分を今日まで生かしてくれた母、その母への感謝の気持ちを久子は形に残して置きたかったのです。その後、肩の荷を降ろしたかのように病の床に伏した久子は次女の富子に最後に一つだけ無理を聞いてくれるように頼みました。

 あなたにこんな辛い頼みをして申し訳なかった。ごめんねと母は言ったんですね。

 久子の最後の頼み、それは死んだ後、自らの体を医学に役立てるために献体して欲しいというものでした。

 私自身は何にも親孝行してあげられなかったので、すべての親孝行が母の解剖をきちんとしてもらうように計らうことが最後の親孝行だと思ったんです。

 それから間もない三月一九日中村久子は両手両足のない体をさらに奉げ尽くして、七〇年の天寿を安らかに全うしました。

 そして全世界に感動を与えた奇跡の人ヘレンケラーも同じこの年八七歳の生涯を閉じました。ヘレンケラーはワシントンのこの教会であのサリバン先生と共に眠っています。

 ヘレンケラーと中村久子、二つの輝ける命が二〇世紀に投げかけた光とはいったい何だったのでしょう。

 

 さあ、美穂ちゃんどうですか、何か参考になりましたか。

 いやあ、お金とかでは幸せにはなれないんだなと思って、やっぱり「自分と向き合う」と二人仰っていましたけど、内側に何かを見つけないと幸せって見つけられないのかなというふうにちょこっと感じました。

 田中君。

 こういう人生を見ると一生懸命生きなければ命というものは使えないな、ただ生きているだけと、やっぱり命を全うすることは絶対違うなというふうにすごい感じますね。ですから今この自殺が増えているじゃないですか。その選択はやっぱり間違いだなというふうに思いますね。

 そうだね。

 石井さんどうでしたか。

 あの私の子供のことをテレビの番組で放送した時に、ある方から自分の子供を見世物にするのかっていうお叱りの手紙をいただいたんですね。でもその時に私は見世物結構じゃないと思ったんですよ。見せなかったら知ってもらえないんだからとにかくみんなに見せて、こんなに頑張って生きている子がいるんだよって知ってもらいたかったんですよ。そこから人の理解とかいろんなことに広がって行くんだろうからそういうふうにしてみたい、それがたぶん、子供と私に課せられた役割なんだなと思ったんですね。

 だから多分ヘレンケラーさんも、中村久子さんもとっても重要な役目をもってこの世に生まれてらしたんだなと改めて感じました。

 大空さん

 まだ間に合うかなって。・・・・

 どうしてもそう思っちゃうよね

 ああいうほんとうの映画のように・・・まだなれるかな、間に合うかな・・・

 はい、ありがとうございました。

 牧ちゃんも何か

 あの人間は体で生きているものではないということが何か引っかかっていて、これから自分の魂の中に確固たる命に対する意識とか、一つ一つ積み上げて行けるかな、・・・これから頑張らなくちゃいけないなという気がしました。

 さあ、それじゃこちらご覧いただいてお別れいたします。

 繁栄の二〇世紀私たちの目は外へ外へと向けられ、内なる自分を見つめることが少なくなってきたように思います。しかしヘレンケラーと中村久子は常に内なる自分を見つめ続ける道を歩み続けました。それは誰の人生も自らの命と対話し続けることの大切さを私たちに教えてくれているようです。晩年の中村久子さんの声が残っています。

 自分を知るということ、世の中に何が難しいと言いましても自分を知ることくらい難しいものはございません。私はただ自分の心を見ることのできる人間になりたいと思いました。

 そしてヘレンケラーも私たちに同じメッセージを残しています。

 もっと自分自身を見つめて下さい。・・・・ヘレンケラー

 中村久子の自伝「こころの手足」を読んで・・・・・・・・・・・・・・
 数ページ読むたびに感動の涙が流れて来てなかなか先に進めなかったが、ようやく読み終えた。まことに人の偉大さはその人が何を成し遂げたかではなく、何を目指し、どう生きたかであり、それは人の評価ではなく、神の目からのみ評価されるものだとつくづく感じている。
 しかし、往々にして私たちは人をその業績や、到達した地位などで評価してしまう。その方が分かりやすいし、みんなが共感するからだ。だが、マークトーエンが「ヘレン・ケラーは1000年後においても有名であり続けるだろう」と言ったように、この中村久子のすさまじい生きざまも、歴史を越えて輝いているのを感ずる。
 だから、評価することなどやめてしまおう。自分に与えられた人生を悔いのないものとして全うしたい。「すべてのことは神ながらにあれ!」と祈り、願う。
  ヘレン・ケラーは、晩年気が狂ったとも言われるスウェーデンボルグを信奉し、中村久子は浄土真宗を開いた親鸞を、そして座古愛子(別のブログで詳しく掲載予定)はクリスチャンだった。
 私は「人間世界に完全なものなどない。」と思う。

 

 

 

 


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