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管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

座古愛子と中村久子

2017年10月25日 17時58分13秒 | 紹介します


・・・テレビ番組「知ってるつもり」、「中村久子とヘレン・ケラー」

https://www.dailymotion.com/video/x2fsewr

の中で両手足切断の中村久子が座古愛子と出会った時のことが紹介されている。

・・・・そんな昭和5年、久子は雑誌に紹介されていた一人の女性に強く惹きつけられました。彼女の名は「座古愛子」、18歳でリュウマチにかかり、首から下は動かない重度の障害者として30年以上寝たきりでした。しかし女学校の購買部で寝たままの姿で働き、キリスト教の伝道にも身を奉げているのです。

 久子は矢も楯もたまらず愛子のもとを訪れました。・・・初めて対面した久子は座古愛子の輝いた顔と安らかなまなざしに思わず息をのみました。視線があっただけで、二人の目に涙が溢れました。

 魂の交流する世界、それはどんなに尊い数秒間であったろう。 
 しかも久子は愛子がそんな体で誰一人身寄りもないのに感謝の日々を送っていることを知り、衝撃を受けました。自分は今日まで親を恨み、手足のない運命をどれほど呪ったことか。しかし自分よりつらい運命を背負っていながら誰一人恨むどころか感謝の日々を送っている人がいる。
 
激しい驚きの中で久子の心に思ってもいなかった世界が開こうとしていました。・・・

 

 座古愛子は明治11年(1878)12月31日、兵庫県東川崎町(現神戸市中央区)に生まれた。
 
彼女の著作としては
『伏屋の曙』明治 39 年 警醒社
『伏屋の曙 続編』明治 41 年 警醒社
『聖翼の蔭』大正2年 警醒社
『闇より光へ』昭和6年 森書店
 など多数あるが、現在ではほとんど入手できず、彼女のことも忘れ去られようとしている。しかし、中村久子が彼女との一瞬の出会を通して心が一変ししまったことは紛れもない事実だ。
 人間は人生の様々な出会いを通してその生き方が変えられて行く。その出会いは一瞬かも知れないが、実はそこに至るまでの、それぞれの様々な道程があることを知って、私たちは現在を生きる勇気を湧かせられることが多い。ここに二人の生涯を紹介しよう。

 

座古愛子という人

 愛子の祖母・武井みつは信州下諏訪の人で、若くして夫に死別し、忘れがたみの長女を伴って亡き夫の菩提を弔おうと、家屋敷を路銀に代えて西国巡礼の旅に出かけた。美濃の谷組寺で三十三カ所の巡礼を終えたが、悲しい思い出が残る故郷へは帰らず、しるべを頼って兵庫に居付き、のち縁あって播州飾磨(兵庫県姫路市)の人に嫁いだ。
 
三十五歳の時に愛子の母「すゑ」を生んだ。すゑは十八歳で兵庫の「浜伊屋」という旧家の入婿に嫁いだが、この入婿が道楽者で、困り果てたすゑは、長男(愛子の 実兄)を連れて祖母の実家に戻って来た。そこでたまたま兵庫に逗留していた薩摩藩の一家老の男児の乳母に採用され、その収入で祖母と長男を養った。務めも終わった数年後、昔の媒酌人がやって来て、かつての夫が今は真面目になり復縁を望んでいる、という。意を決したすゑは二度と跨ぐまいと思って出た婚家の敷居をもう一度跨いで帰ったものの、夫はまたしても道楽の淵に転落、絶望した彼女は再び長男を連れて実家に舞い戻ることになった。
 が、今度は身重であった。こうして生まれて来たのが愛子である。この生い立ちからして愛子の誕生は皆に祝福されてというわけではなかったようだ。
 
ちょうどそのころ、祖母はキリスト教に入信した。この時のことを愛子は次のように記している。

 ・・・その頃祖母は小さなあきないに出歩いていましたが、お得意様の奥様から、キリストの教えを聞きました。それによれば、「天の下には我らの頼りて救わるべき他の名を、(神は)人に賜いし事なければなり」( 使徒行伝4・12)と聞いて、かつて亡夫の菩提を弔い自分たち親子の将来を念じ、足に豆を作りながら巡礼したその苦行も救いの役には立たないと知らされ失望しました。それならば何によって救われるのだろうかと苦悶しつつあった時に、キリストという門を通らずしては、神の聖前に行けない事を教えられました。そして始めて真の救い主を知って大いなる喜び入れられたとのことです。
 
この奥様の導きによって、八人の受洗者が出来、「兵庫キリスト教会」と改称されたのですが、祖母はその中の一人であったとのことです。
 また、愛子は祖母の信仰を次のようにも書いている。・・・
 「伝道は、伝道者のみの仕事でも、閑人のひまつぶしでもありません。信者よりほとばしり出る噴水です。噴水が、その水源の池より高く上らない様に、私たちはキリスト以上のわざは為し得なくとも、細くとも高く噴きあげて、周囲を潤すのは易しいことです。祖母を導いた方は医師の奥様でした。有閑夫人として生きることもできたかも知れませんが、キリストの救いに感激して、出入の商人をとらえては一言二言、福音を伝えられたのです。祖母もその中の一人として福音を聞く光栄に浴し、世の憂いと苦しみの中で渇き切っていた魂が大いに潤おされたのです。さらにその生命の源へ登るべく示されて、とうとう救いの門に入る事が出来たのです。外に向かって巡礼の旅に出かけなくとも、救いは彼女のすぐ近くにあったのです。しかし巡礼で三十三ヶ所の深山幽谷に分け入ったのも決して無駄ではなく、険阻を辿り谷底へ下る時、御詠歌を唄いながら、ひとえに弥陀の名を呼び奉った事などは、信仰の土台を据えるために深く地を掘り下げた様なものでありましたから、キリストの教えをその上に据えることができたのです。
 
困窮の極みにおいて祖母が救はれたことにより私たち一家三人が救われたのです。日々感謝に充ちて、何事があっても忍ぶ心には、不平不満の影さえも映ることなく、祖母はキリストを愛し、救われた喜びを終生持ち続けるに至ったのです。初めの愛を離れることなく、殊に貧しい人々への愛から、日毎の稼ぎの少しをさき、日曜には必ず仕事を休んで教会の礼拝に集った後は、日頃見ておいた貧しい家を訪問して、愛の言葉に添えて小さい金包を主の名によって与え、聖書の言葉通りに行うのが祖母の唯一の楽しみでした。それによって自分自身の貧しさを忘れることができたのです。 

 ・・・祖母・母・兄、そして愛子という四人の貧しい生活は続いた。愛子の母、すゑは生活費を稼ぐために洗濯、縫い物から代書などの仕事をなりふりかまわずして働いた。中には子供を養子としてもらい受けようと言う人もいたが、彼女は、たとえ乞食をしても子供を手放すことはしないと心に決めていたので、二人の養育を祖母に任せて近くの病院に住み込み看護婦として働いていた。
 
そんな折、祖母は毎日決まった時間になると二人の孫を連れて病院の壁近くに行き、その節穴から母に子供たちを垣間見せたという。
 
ところがある日、思いがけない禍が祖母と愛子を襲った。一夜のうちに、二人の両眼が腫れ上ってしまったのだ。八方手を尽くしたものの、愛子は全快し祖母は盲目となってしまった 。母すゑは病院を辞めて家に戻って働くほかなく、12歳 の兄は農家に年期奉公に出されることになった。
 
「男になった気で」働いていたすゑに、やがて再婚話が持ち上がった。彼女はもう結婚はこりごりと思っていたが、失明した親と幼い子供のことを考え、自分が「突然病気になったならば、一家が枕を並べて、餓死を待つ惨状となるに違いないと思い、その話に応ずることにした。
 その時彼女は33歳。相手は座古久兵衛といい、陽気で男気があり、愛子を生涯可愛がり、母すゑの死後も実子同然に育ててくれた。愛子が終生、「座古」という、この血のつながらない養父の姓を名乗ったのは、そのせいだと思われる。
 久兵衛も再婚で、死別した前妻との間に実子はなかったが、愛子には義理の姉に当たる養女が一人いた。久兵衛は家鴨や鶏などの養鶏を生業としていたようである。母すゑは、祖母と愛子、それに年期奉公があけて戻ってきた愛子の兄を連れての再婚だったので、「親と二人の子供とを連れている私は、よそのお内儀方よりは四倍の働きをせねばならない」と言って、なりふりかまわず働いた。
 しかし後に不遇の娘時代を送らなければならなくなる愛子にとっては、もっとも幸福な時だったようである。この時のことを彼女は次 のように述懐している。 

 ・・・ 子供三人の中で父の一番可愛坊は私でした。母は蔭でよく言いました。「生みの親より育ての親と言うが、父には大恩がある。何か父が立腹して母を怒鳴りつけていなさる時など、少しでも母をかばうような顔付きや言葉を出してはなりません」とよく申し付けられていました。それでどんな時でも母の味方はしませんでした。
 祖母は私に昔話を毎晩聞かして下さいましたが、桃太郎や、猿蟹合戦よりも、聖書の人物伝というべく、旧新約聖書中の信仰深い人たちの伝記をよく話して下さいました。アブラハムが天幕を張りながら遊牧の旅を続けているところでは、「人間の一生はみなこのような人生の旅路を辿っているのだよ。色々な憂いや苦労から逃げることはできないのです。それで讃美歌に

 たのしきくには天にあり 聖者は栄えかがやく・・・とあります。
 永遠の故郷、天国こそ我らに安息を与えられるところです。私が盲目になり、お前が全治したのは有難い事です。私はもう世の中に告別するに間のない者、お前は先の長い身であるから、それがもし盲人になったら、どれ程悲しみが深いでしょう。老いて目を失っては何の役にも立たない、貧しい人を喜ばす事も出来ないが、しかし霊的には為すことがある。全世界の人の為に祈りの御用が出来る。体を持っての昔より、非常に広い。これを思えば感謝せずにはいられません。」とよく申していました。これは負け惜しみでも何でもなく、その通り信じてすべての事にことごとく感謝して、不平な顔は一度も見せた事のない人でした。
 
・・・私がこの病気になり、世をも人をも恨む時に昔の祖母の笑顔の不思議を深く思いめぐらせました。どう考えても分りませんでした。然し自分が祖母の様に救われた時に、始めてその笑顔の出所が分かりました。 

 明治22年4月、愛子12歳のとき、慈愛あふれる祖母は眠るように天に召された。74歳だった。祖母は家中ただ一人のクリスチャンだったが、兵庫教会より牧師と信徒数名が来て告別式がとり行われた。
 同年7月、母すゑは男児を出産した。が、それまでの無理が災いしてか、産後の肥立ちが悪く、一週間後に彼女はこの世を去ってしまった。残された男児は12歳の愛子が必死に育てることになったが、同年秋にこの子も母の後を追うように逝ってしまった。愛子は同じ年に三人の肉親を失ったのだ。その間、愛子の実兄は家を出、義姉も実の親元へ帰ってしまい、父と愛子の二人だけの家庭になっていた。
 
このような事情の下で、新田夜学会(多聞教会の信者が、働く親の子供のために開設していた塾)での勉強も続けることができなくなり、父久兵衛も健康を害し、回復後はもはや自営業はむずかしく、雇い人になって働いたが、貧困はいよいよその深刻さを増して行った。 

愛子がリウマチに冒された経緯

 愛子は母の存命中多少三味線を習っていたこともあって、このような貧困から脱出しようと芸妓になることを考え始めた。そして16歳の時、父を説得して芸妓見習いになろうと、紹介者の婦人と大阪花街の東京楼という大店へ行ったが、一年たったら娼妓になってもらうと言われ、驚いた愛子はその足で十里の道を父の許に逃げ帰った。その後また、今度は岡山近くの芸者置屋兼料理屋で、やはり芸妓見習いとして働くことになった。ところがこの廓では芸妓と娼妓の区別が無く、二枚鑑札で芸妓が娼妓を兼ねるということが判った。「これは大変、そのような者になるなら、あの堂々たるお城の様な東京楼に身を沈めるのと同じだ。あの時、十里の道を九時間で帰ったのは何の為。」と彼女は急いで実家に帰ってしまった。(注:芸妓は三味線や踊りなどで客をもてなす女、娼妓は売春婦のこと)
 そんな危ない橋をたびたび渡っていた愛子 17 歳の頃・・・
 
「その年の六月に手足の関節が腫れて痛むので医師に診てもらうと、風邪の後の熱が籠ってリウマチになったので、充分養生しないと不治の持病になって、生れも付かぬ不具者になってしまう。今のうちに充分養生しなければと注意されました。・・・初めは赤ん坊の頭程に腫れていた膝関節が一週間も経つと全くもと通りに治り、走っても痛くないまでに治ってしまいました。もう大丈夫と思い、医師にお礼を言って引き上げる時に、『治ったとは言え油断してはいけない。未だ病中のつもりで養生をなさい』と言われました。でも全快したのにと思い、丈夫な時と同じように振舞っていました。この油断こそ一生を病床に投げ込む大敵だった事を後になって知りました。一ヶ月もすると病気が再発して、以後身体をほとんど動かすことのできない身体障害者になってしまったのです。」 

 養父は、彼女のために土間の鶏小屋の上に寝台を作ってくれました。骨と皮のように痩せて衰弱した愛子は、この冬は越せまいと医師の診断を受けていたほどでした。 

<このころの愛子の述解>・・・

 「深夜、家族の寝静まった頃に痛い体をソロソロと虫が這うように這い出して、漸く裏の井戸端へ出ました。空澄み渡って遠目に見える鷹取山上の燈火が夜風にチラチラまたたいているさまは何とも言えない淋しさでした。あの火の様に私の命も消えかかっていると思うのですが、一向に涙が出ません。他人の事の様に感じられて心が澄み切っています。不思議な事もあるもので、何故とも判断が付きません。死という間際はかえって怖ろしくなくなるのか知れません。非常に静粛な、荘厳な気持ちでした。
 この潔い心持のままに井戸に飛び込んで死のうと思いながらも、眼の前に見える井戸へは一歩も足が動きません。幸い家族の者にも気づかれず、「今こそ!」と思うのに、私の足は大地に釘付けされたようで、一歩も前へ出る事が出来ませんでした。そうしてまた一歩ずつ後ずさって、床に入ってからは口惜し涙に濡れて、忍び泣きに泣き明かしました。
 「私は何にも悪い事はしていないのに、そして世の中には悪い事をさんざんしておきながら無病息災で健康な人はたくさん居るのに、何故私だけがこんなに苦しむのか、世の人は皆憎らしい。神も仏も在るものか。」と、そんな荒んだ心になっていました。その頃は、女の命と言われる髪の毛も生え際から切ってしまい、外見も男か女かわからない、まるで地獄から引き返して来た幽霊のようでした。」

  ・・・21歳の暮、病に伏して四年が経った十二月末の日も暮れようとしていた時でした。養父母へは気苦労が募るばかり、読む物は古本も古雑誌も、壁の破れ目に貼ってある古新聞紙に至るまで、読み尽して、暗記する程覚え込んでしまい、終夜身の不幸を嘆いて泣き明かし、早く夜が明けて窓辺から黎明の光りが射して来る時の喜びを味わいつつも、その日もまた空しく暮れて行くのを待ちわびるのが私の日課だった頃のこと。
 
私の寝ている床の前面は荒壁で直ぐその後は道路なのですが、湊川の補修工事にカンテラを提げて昼となく夜となく土方が通っていました。その時、突然大声で叱っている声が聞こえて来ました。「奥江さんは、ああいう人だから、何もおっしゃらないが、あれでは困るじゃないか!!!」 誰かが大眼玉を頂戴している様子です。相手が、何と詫び言を言ったのか、小声なので聞こえませんでした。私は思いました。何の失策か知らないが、叱られているのは、土方だろう。叱っているのは現場監督か、それとも事務員か。敬語を使っているから奥江さんというのは、上役の人に違いない。技師?とも思える。ガミガミ叱らなければ人が使えないような浅薄な人ではなく、何もおっしゃらないで多数のあらくれ男の土方を、自分の手足のように使う奥江さんとかいう人は、深みのある人格者だろう。誠に敬慕すべき御方ではある、と感じ入っていました。
 
この出来事から数日の後、私の事から家庭に風波が起り、母は外へ逃げ出し父が追いかけて行った時に、通りがかりの一紳士が仲裁して家の中に入って来られました。争いの原因は、父が「病気の子を労わってやれよ」と常々言っているのに、彼の妻は兎角つれなくする。その為にこの有様、お恥ずかしい次第、と語りました。  
 紳士はそのお子さんを見舞いたいと言って私の枕許に来られ、「お父さん、この子は、息子ですか、娘ですか」と聞かれました。それもそのはず、一時の病気と思っていたのに、どうしても治らず、失望の極みにあって、女の命ともいう髪まで切ってしまい、さらには剃り落して、坊主頭になっていたので、一見男女の見分けが付かなかったのです。
 
その日は両親を諭し、双方を慰めて帰られ、三日目には、夫人同道で見舞に来て下さり、菓子と金包と一枚のカードとをいただきました。金包には赤鉛筆で、「神の恵」とだけ書いて署名はしてありませんでした。カードを手に取って見ると、赤地に福寿草の絵で「今は救いの日なり、コリント後書六ノ二」と書いてありました。さてはこの方はクリスチャンだなと思い、「貴男は信者でありますか」と問うと、先方が驚かれて、「信者と言われるのは、キリスト教を聞いた事でもありますか」と言われるので「ハイ。信者であればお懐かしい。私の祖母は兵庫教会の古い信者で、今此カードが読めましたのも、多聞教会の信者が開いていた新田夜学会(あるクリスチャンが、働く子供達のために開設していた塾)で、私はそこで三年間学ばして頂きました。
 
紳士は、「成程、そんな訳でしたか。兵庫教会に、お祖母さんの御教友方も、生存して居られるかも知れませんねえ」とおっしゃって、とても喜ばしそうにご帰宅になられました。」
 この紳士こそ数日前愛子が壁越しにその名を聞いた奥江清之助その人でした。奥江は初め内務省土木局の役人でしたが、このころは役人を辞めて、技師として各地で土木工事を指導していた。彼の卓抜した人格の影響力は、彼の許に働く土方労働者たちがみな禁酒を誓うほどだったという。やがてアメリカに移住するが、愛子は奥江を生涯の「霊の父」として敬慕し続けた。
 
3年後、愛子が21歳になった明治33年(1900年)3月、彼女は受洗することになった。近所のカトリック信者一家もこの事を聞いて非常に喜び、兵庫教会からの出席者も含めて8名が愛子の枕元に集った。
 不思議なことに受洗したその翌日から、愛子は文字が書けるようになり、牧師や教会員から諸所の病人に手紙を書くようにと依頼を受けるようになった。彼女は病床にあっても、救われた十字架の愛の教えを書き綴ることを自分に託された使命と受け止めるようになった。
 
手紙を出したうちの一人に18歳の肺を患った看護婦会の娘、「まさ江」がいた。ともに病む身で心が通じ合い、愛子は招かれて、「まさ江」の家に泊まった。「まさ江」が稽古で覚えた三味線で伴奏をして愛子が讃美歌を歌うという楽しい時を過ごしたこともあった。
 
また、26歳の青年が牧師の紹介で愛子を見舞ってくれ、教員であったため女学校の教科書を5年分揃えて来て指導してくれたこともあった。兵庫教会に新しく就任された武田猪平牧師は愛子の文才を認めて、和歌や俳句の手ほどきをしてくれた。こうしてその後、愛子は『伏屋の曙』などを出版したが、以来遠方からの来訪者が増えてきた。
 あるとき、耳の不自由な「英子」という名の婦人が愛子を頼って来訪して来た。対応した養父は彼女にいたく同情して同居を勧めた。愛子には筆談を通しての聖書と信仰談をする役割が与えられた。その頃、愛子は姫路へ伝道旅行に行くことになり、彼女は看護婦を兼ねて同行することになった。こうして彼女は愛子と起居を1年半共にして裁縫で部屋代を賄ったが、33歳の時、愛子の世話で結婚した。結婚式と祝福の宴は、ムシロを囲った愛子の家で、兵庫教会から牧師と役員数名、教会員有志らが両者の家族とともに式に連なった。
 愛子はいつまでも、老いて行く養父の世話ばかりを受けていては済まないと、古着屋から7枚の布団を買い入れて、貸し布団屋を始めた。その仕事は繁盛して、5年後には53枚の布団に膨れ上がり、義母も番頭役をするほどになった。こうして愛子は自分の生活費と家族の面倒を見ることができた。
 
その後、神戸女学院の創始者タルカット女史が愛子を知り、彼女は約二十年間住み込みで働くことになった。
 
それまでの貸布団業で得た収益の半分は養父に贈り、布団は下宿屋へ売り、残りを懐にして彼女は購買部へ移り住んだ。そこで愛子は寝たままで学用品を買いに来る学生たちに対応していた。(「清く平和な別世界で、夢のように歳月が流れた」と愛子は後に述懐している。)
 
そこで多くの人々に出会うことができた。(両手両足を失った中村久子は昭和5年彼女に面会し、生かされているという感謝が湧いて来たと回顧している。)文頭参照
 無教会の内村鑑三は、大正8年(1919)9月1日の日記に「神戸、座古愛子女史の新著述「父}に附すべき序文を書いて「大いなる名誉と感ずる」と書き留めている。どこで、どのような経緯で内村鑑三との接点ができたのだろうか?
 この年12月1日から4日まで神戸イエス・キリスト教会で青木澄十郎司会の下で中田重治の説教が行われたが、愛子は、ここで中田重治にも会っている。
 
やがて女学院の新校舎建設にともない、彼女はそこを去った。
 
その後、愛子は洗髪用洗粉を思いつき、主婦之友社(創業者・石川武美)が「ぬれがらす」と名づけて売り出したり、顔洗粉「ひばり野」を考案したりした。
 
また愛子には発明の才があった。たとえば、教会やその他に人力車で出かけると乗り降りが不便で事故に遭うこともあったので、彼女は車椅子を考案した。「介護車」であるが、これで山登りへも海岸へも出かけることができるようになって、行動半径も広がった。(彼女が出版した『闇より光へ』には愛子が考案した車椅子姿の愛子の写真が掲載されている。)

 昭和6年1月号の『主婦之友』誌上に愛子のことが掲載され、愛子のもとにたくさんの手紙が届いた。
 彼女の著作に『煩悶苦悩』、『伏屋の曙』、『微光』、『闇より光へ』(自叙伝)などがあり、『現代詩体系3』に作品の一部が収録されている。今日、彼女の残した文書を読んでも、その深い霊性と福音理解は驚嘆に値する。事実、明治末期から昭和初期まで、彼女の書を読んで生きる勇気と力を与えられた人は数え切れない。 

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中村久子の生涯(1897~1968)

・・・自叙伝『こころの手足』より

 
 中村久子は明治30年岐阜県高山市に生まれた。3歳に満たないとき、両手両足が突発性脱疸にかかり、両親が手術を躊躇しているうちに左手首がもげ落ち、遂に両手足を切断、以後四肢なき子として筆舌に尽くし難い人生を歩んで行くこととなる。勿論両親の苦しみも大変だった。

<久子の述懐>

 忘れもしない7歳の年、7月も半ば過ぎ、連日の大雨に宮川の水が増して、恐ろしく聞こえる水音に、ともすれば眠りを妨げられそうな、物凄い夜のことでした。
 一緒に寝ていた父は突然私を揺り動かし、『ひさ、とゝ様が乞食になっても、死んでも決して放さないよ』と言いながら、つよく抱きしめました。とゝ様、今夜はどうしたのかしらと子供心にも不思議に思った矢先、父はそのまま夜具の上に倒れました。・・・」
 
父が39歳で逝った後、赤貧の中、久子は病弱な母と祖母に育てられた。幼い久子にとっては人形が唯一の友だった。
 ・・・「紅い椿模様の着物がよく似合う人形の、ふさふさとした豊かな黒髪よりも、鈴のようなつぶらな瞳よりも、何よりもうらやましいものは小さいながらも指の揃った二本の手、二本の足でした。ほんのりと紅をさした指を持つお人形の幸福、―私の幼い憧れは、いつもはかなく寂しいものでした。「あんたはお手々もあんよもあって好いのね。そのお手々、あたしに貸してちょうだいな」無心な人形にこう言いながら頬ずりする私。それを見る度に、顔をそむけて涙をそっと拭く祖母、―それは私が生涯思い出される深刻な祖母の印象となってしまいました。」
 
久子は知的には人並みはずれて優秀な子でしたが、当時はもちろん学校に行くことなど許されるはずもありませんでした。しかし彼女は、石筆や鉛筆を口にくわえて字を祖母から習った。やがて母は生活苦から久子を連れて再び貧しい畳職人と再婚するが、重い障害を負った連れ子である久子はここでも暗く悲しい日々を送らなければならなかった。9歳のときに久子は突如両眼を失明した。四肢なき上に盲目となった久子の世話のために、母は久子のたった一人の愛する弟を、孤児のように岐阜の育児院に送らなければならなくなった。
 ・・・その「前夜、闇夜にまぎれて母は、盲いた私を負って足音も忍びやかに、今宵を限りの愛し子のいる家(このとき弟は叔父の家に居た)の前にそっとたたずんだ。人の世の悲しいさだめさえ知らない無心のわが子の声を、よそながら聞きつつ、うしろ髪引かれる思いで、泣きぬれた顔を襟元深くうずめ、悄然と立ち去った母の心を誰ぞ知ろう。
 『……かゝ様、どこへ行くの?』とぼとぼと力なく歩んでいる母。
 『かゝ様とよい所へ行こうなァ』
  その声は消え入るように寂しい。夜更けの道に、小砂利を踏む母の駒下駄の音さえ何となくもの悲しいひびきを刻んでいた。鬼気迫る寂とした大自然の中に母と子は、妖魔の手ぐる糸に牽かれるかのように、一歩一歩よろめきながら吸い込まれて行った。ゴゴーッ、不気味な音をたてて、高原特有の夜風が樹々の梢を、強くゆるがせては去る。恐怖に襲われて、思わず私は母の肩にしがみついた。
 『ひさ、堪忍してなァ』とかすかに首を振り向けた母の顔から、冷たい涙が私の額に落ちた。ただ、わけもなく悲しくなり、母の背で私は泣き出した。なだめるように低い声で何か言いつつ、とぼとぼ歩み続けている母。
 かゝ様はどこへ行くのだろう。初夏といっても、新緑がようやく萌えだしたばかりの、飛騨高原の夜は肌寒く、冬の名残りが身にしみる。やがて母がたたずんだ所は、直ぐ足元で、ドドドーッ、もの凄い水音が地ひびき立てている激流。町を遠く外れて東南、ここは宮川の上流。じいっと身動きもせず、いつまでも、いつまでも立ちつくしている母。何とはなしに襲いかかるような恐ろしさに、固く小さくふるえている私の身体にも、夜露が冷え冷えと降りて来る。
 『かゝ様、こわいよッ』『・・・・』
 母は身じろぎもしない、放心した人のように。『……』」地獄の底を思わせるような凄い水音は、ひっきりなしに大地をふるわせている。
 『泣かんでなァ……何でもないの、……帰ろうなァ』
かすかな溜め息をついて、よろよろと母は歩きだした。・・・」
 実際、障害児を持った親で、子供を殺して自分も死のうと考えなかったというような人はいるだろうか。
 しかしこの悲母観音(後に久子は母をそう讃えている)は、どん底のなかでこの小さな生命の火を守り育てて行った。半年後、医師の治療のかいもあって、久子は奇跡的に光を取り戻した。それからの彼女は、強い意志と血のにじむような努力で自らの障害を乗り越えて行った。口と両腕(両手ではない)と、ときには脚(足ではない)を使って、自分で食事をすることはもちろん、裁縫(口で運針するために、どうしても唾でぬれてしまうのを克服するのに13年要したという)・編物・炊事・書道等々、当時、女性が身につけなければならないとされた技能や仕事はすべて、自らの独創と努力によってマスターして行った。
 
それにしても、母が再婚した家で、義父や異母兄姉と暮らしていくのは容易なことではなかった。
 
「不具の子を家の子と思われることは恥ずかしい、と、他人に見られることをひどく嫌われて、義父の所では私は二階の一室のみに朝夕を過ごさせられておりました。お便所に行きたくてもすぐには行かれず三時間も五時間も辛抱しなければならないのは、食事の時間が遅くなるのよりも辛い悲しいことでした」。そして経済的にも、将来の見通しのまったくない厄介者に過ぎなかった彼女は、死ぬことばかり考えていた。
「『家では幾人稼いで、幾人遊んでいる』。義父のこの言葉は、いつも母と子の胸をいばらの棘で刺すようにこたえました。
 
『お前さえ無かったら、こんな苦しい思いはしないのに……』と、母は苦しさを抑えかねて、つい口に出すこともありました。「死んだらえゝのに、死にたい」
 ・・・四肢障害者が逆境に生きていくことは決して幸せでもなければ、喜ぶべきことでもない。四六時中、頭の中を去来するものは、死のみでした。祈り求める死には直面せず、求めざる生のみ押し寄せて、そこにさまよわねばならぬとは、目に見えぬ宿業の深さ、悲しさでありましょうか」。
 20歳のとき久子は経済的に自立するために、ある人の世話で見世物小屋の芸人になり、「だるま娘」として出演することになった。そこはいわゆる香具師(やし)といわれる渡世人の世界で、ここで久子は人気芸人になったこともあって、予想外の自由な世界が開かれることになった。
 そしてこういう世界には、彼女を人間として扱うという、堅気の世界にはない良さがあり、彼女はここに22年間暮らすことになった。この時代に彼女は恋もし、結婚もし、子供も産んだ。結婚は四度しているが、最後の中村氏との結婚まで、最初の二回が死別、三度目が夫の放蕩と、必ずしも幸福だったとは言えないかも知れない。(座古愛子に会いに行ったのもこの時代である)。
とは言え四肢なき彼女には、とりわけ男手がどうしても必要であり、結婚は不可欠なことだった。
 
 昭和12年、来日してきたヘレン・ケラー女史と出会った時女史が彼女に触れて私より不幸な人、そして私より偉大な人」と言われたことは知らぬ人はない。
 昭和13年、彼女は縁あって懐かしい祖母の帰依していた浄土真宗に入信した。そして各地での講演の生活が始まった。しかし、既に宗教に触れる前に、苛酷な現実の試練を受けていた彼女にとって、宗教宗派とか入信とかにどれほどの意味があったろう。宗教が彼女を作ったのではない、現実が彼女を新たに創造したのである。
 昭和42年、彼女は神戸女学院と臨済宗祥福寺にて座古愛子の二十三回忌法要を営んでいる。

 昭和43年72歳の生涯を終えた。