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主の膝下において(続き)1

2010年09月15日 06時49分01秒 | スンダル・シング
主の膝下において

ほんとうにたまになのですが、小生の拙訳を求めて来られる方があり、そのたびにファイルを送って差し上げて来ました。しかし考えてみるといつ私がインターネットが使えない状況になるかも知れず、このさい思い切って全文を掲載することにしました。
 昨今世の中は、人間性を疑わしめるような、奇々怪々な事件が起こり、それに対して根本的な対策も取れずに事態が進行して行く状況であると私は見ています。
 それに対して決して悲観的になってはいませんが、やはり心の究極的な問題、すなわち宗教の問題に光が当てられない限り、問題は解決しないように思います。
 そういう意味で、スンダル・シングが主の膝下において聞いた神の啓示は、現代人の私たちにも希望の光を灯してくれると思います。
 どうか、彼の言葉に耳を傾ける心の余裕をお持ち下さいますように。
2010年9月19日(日)神奈川にて

 訳者による序文
 原始福音・幕屋運動の創始者である手島郁朗先生のマタイ伝講義第八十講の中に次のような「主の膝下において」の紹介があります。
 ・・いつぞやわたしは、スンダル・シングの紹介者であるアパサミーというインド人の書きました本を翻訳しようと思って、とうとう訳さずに八年ほどたってしまいました。そのアパサミーがわたしに手紙をくれて、その中にこういうことを書いております。
 自分は一九二一年、二二年、学生時代にスイスのジュネーブにいた頃、スンダル・シングがやって来た。自分の国が生んだ最大の神の人、スンダル・シングか来る。そう思うとたまらなくなって、その会場に早くから詰めかけて、まん前で一言ももらさずに聞いたものだ。その後、なおスンダル・シングに親しく触れて、通訳者となった。
 そういう講演会の後には懇談会というものがあるものだが、そういう時に神学の先生たちがスンダル・シングに問うた。
「あなたは本当に深い宗教知識を持っておられる。そういう知識をどこから学んだか」
 「わたしは中学校もろくに卒業していなければ、神学校にも行ったことがない」
 「神学校に行かずして、どうしてそういう知識を学んだか」
「わたしは聖書だけを読んだ」
 「われわれは聖書をもっと読んでいる。また聖書を研究するにはもっと有益なのはヨーロッパだ。しかしあなたはどこで?」
 「そう言われるなら、わたしは言うけれども、みなさんは、神学に関してはよくご存じだけれども、神学という神に関する知識の源がどこにあるかということをご存じない。神に関する知識の源は、主の膝下にある。もし祈りによって、主の膝下にぬかずくならば、主は鮮やかに示し、語りたもう」。
 しかし、神学者たちはどうしてもそれを理解できなかった。スンダル・シング'は、そのとき、「神はなぜ人間を造ったか。神は自分の話し相手を欲したためである。人間は神とconverse(交わり、会話を交わす)ために造られた被造物である。したがって神の膝下にぬかずきさえすれば、神は親しくすべてのことを教え、語りたもう。聖霊はすべてのことを教え給う。今もキリストは教えてくださる。わたしはキリスト御自身からすべてのことを学ぶ。いつもわたしは神と語り、神と交わった喜びゆえに伝道した。みなさんは神学に関しての知識を欲しがるけれども、わたしは神御自身を欲する」と言った。
 わたしはその手紙を読みながら身震いしました。それでもう一度、わたしも信仰を考え直そうと思い、翻訳しようと思っている本その他を抱えて、グアム島に渡りました。人間は何のために造られているか、もう一度考え直す機会を得ました。わたしにとってうれしい数日間でした。・・
 これを読んで私は、もう一度、「主の膝下にありて」を読んで見たいと願っていました。すると、まったくの偶然からある人がその本を送ってくれたのです。しかも、英語訳も含めて。
スンダル・シングは、はじめこれをウルドゥ語で書き著したらしいが、英文そのものも、彼が目を通したようです。それで英文を参照しながら読み進むと、何となく自分にはしっくり行かない訳文がありました。それでおこがましいことですが、自分なりに翻訳を始めて見たところ、スンダル・シングが序文で述べているように、私にとっては大きな信仰の転換となり祝福となったのです。
 これを私自身の個人的なものに、とどめて置くべきかどうか、迷いましたが、現代ではあまり読まれていないスンダル・シングの著作を紹介する意味でも思い切ってここに発表することにしました。
 彼のキリストへの信仰は、西洋における神学的理解ではなく、直感的に喩え話によって真実を示していることが大きな特徴です。ちょうど、新約聖書の中で、イエス・キリストが多くの喩え話をもって語られたようにです。
 日本ではキリスト教と言えば西洋から伝わって来たもののように考えられていますが、それは東洋の一角で誕生したのです。そしてイスラム教や近代ユダヤ教はもちろんのこと、大乗仏教にも影響を与えていることは周知のことです。
 それで、多分この私の訳文自体は誤りの多い、不完全なものかも知れないのですが、しかし必ずやこれを通してこれまでのキリスト教に関する知識とは違って読者諸氏の目を開き、信仰の飛躍につながることを、確信させられるのです。
私がただ願っておりますのは、これを読むことによって、神が今も語り給うということ、ひとりひとりと語ることを望んでおられるということを知り、そのことが実際に始まることです。
平成十八年七月十五日

序文
キリストの言葉;
 「あなたがたは、わたしを教師、また主、と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。」 (ヨハネ伝十三章・十三節 ) 
「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 (マタイ伝十一章・二十九節) 
 この世界において、反論と批判を、はるかに越えたこれほどに完璧な言葉はほかに見当たらない。
 我々に光と熱を与えてくれる太陽ですら、その黒点を免れることはないのだが、その欠陥にもかかわらず、太陽はその規則正しい義務をやめることはないのである。
 同様に、我々に委ねられた最高の我らの能力を、発揮し続け、我々の人生を実り多きものとするために、絶えず懸命に努力することは、我々の当然の義務である。
 この冊子で述べられている数々の真理が、主から私に啓示された時、それらは私の生活に深く影響を与えた。そしてそれらのいくつかは私がヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、オーストラリア、アジア、などでの講演や説教で語って来たものである。
 多くの友人の求めにより、それらをこの小冊子にまとめることにした。この冊子で述べられている中に、欠陥はあり得るだろうが、私は確信する。これらを祈りと偏見のないこころで読む者には、私が得たと同じ利益を受けるであろう。
 私にとっては私に啓示されたこれらの真理を、喩え話を使わないで述べることは、不可能である。そして、喩え話を使うことによって、私の記述は比較的容易になったのである。
 私の祈りは、神がその恵みと憐れみによって、これら数々の真理によって、私を祝福されたように、読者諸氏を祝福されんことである。

あなたの卑しき下僕
  スンダル・シング
一九二二年七月三十日

序章
最初の幻
 ある暗い夜、私は祈るために一人で森に入って行った。そして岩の上に座り、私が深く必要としていることごとを、神の前に持ち出し、彼の助けを懇願した。
 程なくして、みすぼらしい身なりの男が私に近づいて来るのが見えた。その男は空腹で、寒そうだったので、私に何か施しを求めに来たのだと思った。
 私は彼に言った。「私は貧しい人間で、この毛布以外には何も持っていないのです。近くの村ヘ行って、そこで助けを求めた方がよろしいですよ」。
 すると、見よ!私がこのことをまだ話しつつある間に、彼は稲妻のように光り輝き、祝福のしずくをシャワーのように注ぎながら、あっという間に姿を消してしまったのである。
 アー、(何)ということだ!アー、今や私には、はっきりと分かった。この人は私のような貧しい被造物に物乞いするためではなく、私を祝福し豊かにするためやって来た、私の愛する主であった。( コリント人への第二の手紙:八章・九節)
 そして、私は自分の愚かさと、洞察力が欠けていたことを嘆き、泣き続けたのである。」

二回目の幻
 別の日に、仕事が終わったので、私はまた祈るために森に入って行った。そして、例の同じ岩の上に座り、どのような主の祝福を懇願すべきかを熟考し始めた。
 しばらくそうしていると、別の男が私の側近くに立っている気配がした。彼の物腰や身なり、そして話し振りからすると、尊敬すべき献身的な、神の下僕のように見えたが、彼の目は狡猾そうに、ぎらぎらと輝き、彼が口を開くと、地獄の悪臭を吐いているようだった。
 彼は次のように述べた。「聖なる、栄誉あるお方よ、あなたの祈りを中断し、お一人の時を邪魔して申し訳ありません。しかし、ほかの人たちの便宜を計るのが、いわゆる人の義務であり、それで私は、あなたにとって重大な要件を持ち来たったのです。
 あなたの純粋で私心のない生活は、深い印象を私だけでなく多くの敬虔な人々に与えて来ました。
 しかしながら、神の名において、あなたがどれだけ他人のために身と魂を捧げようとも、あなたはほんとうには評価されて来ませんでした。
 私の言う意味は、クリスチャンであることで、ほんの数千人のキリスト教徒たちがあなたの影響下にやって来たのですが、これらの人たちの、なおいくらかは、あなたに信頼を寄せてはいないと言うことなのです。
 もしあなたが、ヒンズー教徒かモスレム教徒になり、実際に偉大な指導者になるとしたら、そのほうがどれだけ素晴らしいでしょうか?
 彼らはそのような霊的指導者を捜し求めているのです。
 もしあなたが私のこの提案を受け入れてくれるなら、三億一千万人のヒンズー教徒とモスレム教徒があなたの信奉者になり、敬虔な忠誠を捧げるのです。」
 その男の、これらの言葉を聞くやいなや、私の唇からこれらの言葉がほとばしり出た。「汝、サタンよ、この場から立ち去れ!
 私にはお前が羊の皮をかぶった狼であることがすぐに分かった。
 お前の唯一の願いは、私から十字架と生命に至る狭き道を諦めさせ、死に至る広い道を選ばせようとしていることだ。
 御自身がその生命を私のために与えて下さった私の主が、私の嗣業であり私の分け前なのだ。私にとって全ての全てである主に、私の命と私の持てる物、全てを捧げることは当然のことなのだ。
 だから、ここから立ち去れ。お前とは、私は何の関係もないのだ。」
 これを聞いて、彼は怒りでぶつぶつ言いつつ、唸り声をあげながら去って行った。
 そして、私は涙しつつ、神への祈りの中に私の魂を注ぎ出した。
 「我が主なる神よ、我が全ての全てよ、我が生命の生命よ、そして、我が霊の霊よ、憐れみをもって私に目を留め、あなたの聖霊で満たして下さい。私の魂があなたの愛以外の何ものにも場を与えないようにして下さい。
 私はあなたからあなた自身以外の何ものも求めません。あなたはすべての生命と祝福を与える方です。
 私は世界とその富を決して求めないばかりか、天国さえも求めません。あなただけを私は渇き求め、待ち焦がれます。そしてあなたがおられるところにこそ天国はあるのです。
 この我が魂の飢えと渇きは、我が魂を生んだあなたによってのみ満たされます。
 おお、私を創られた方よ!
 あなたは私の魂をあなた御自身のためだけに造り給うたのであって、他のいかなるもののためでもありません。ですから、この私の魂はあなたの内においてのみ、休息と安らぎを見出だすのです。私の魂を創られ、このまさに休息を慕い求めるようにされた、あなたの内にこそであります。
 あなたに敵する全てのものを我が魂から取り去って下さい。そして、私の内に入って内住し、永遠に支配して下さい。アーメン」
 この祈りから身を起こした時、私は光輝く方が、光と美に包まれて、私の前に立っているのを見た。
 彼は一言も話さなかったが、また私の目が涙に溢れて、彼を定かに見ることが出来なかったが、彼から、生命を与える愛の光のような光線が注ぎ出されて、強烈な力で私の中に入り込み、 私の魂そのものを浸し尽くした。
 直ちに私は、わが愛する救い主が、私の前に立っていると悟った。
 私は直ちに座っていた岩から立ち上がり、主の足下に平伏した。
 彼はその手に、私の心の鍵を持っていた。
 彼は私の心の内奥を、その御愛の鍵で開けることによって、彼の臨在でそれを満たして、内も外も私に見えるのは、ただ彼だけだった。
 それから私は、人の心はまさに神の王座であり、その城砦であることを知った。そして神がその内に住もうとお入りになる時、天国が始まるのだ。
 これらのほんの僅かの間に、彼は私の心を満たし、例え私が多くの本を書こうとも、語り尽くせないほどの素晴らしい御言葉を、私に語ってくれた。
 というのも天国の消息は天国の言葉でしか説明出来ないからだ。この世的な舌はそれらを述べるには十分ではないのである。
 それでも、私は、主から幻として伝えられた、これらの天界の消息を、ほんの少しでも、書き留めようと努力してみるつもりだ。
 以前に私が座っていた岩の上に、主、御自身がお座りになり、私はその足許に座し、主と弟子の間で以下に述べる対話が始まったのである。
第一章
 第一節
 神の実存の顕現
弟子
 おー、主よ!生命の源泉よ!
 何故あなたは、あなたを崇拝する者から御自身をお隠しになり、あなたを見上げて待ち望む者の目を喜ばせないのですか?
主 
 1.私のまことの子よ、まことの幸せは肉の眼によるのではなく、霊的幻を通して来るのであって、心によるのだ。
 パレスチナにおいて、何千という人々が私を見たが、それによって彼らの全てがまことの幸せを手にした訳ではなかった。
 やがて滅び行く眼では、滅び行くものしか見えない。何故ならば、肉の眼では不滅の神や霊的な存在は見ることは出来ないのだ。
 例えば、お前は自分自身の霊を見ることは出来ない。それで、どうやってお前はその創造主を見ることが出来ようか。
 しかし霊的な眼が開けると、その時は、確実に霊なる神を見ることが出来る。 (ヨハネ伝四章・二十四節)ちょうど、いまお前が私を見ているのは肉の眼ではなく、霊の眼で見ているようにだ。
 お前が言うように、何千という人々が、パレスチナで私を見たと言うのなら、彼ら全ての霊眼が開けていたのだろうか、それとも私自身が滅び行く者になったのか?
答えは、(否)だ。
 私は滅び行く肉体をまとった。それは肉体において、私がこの世の罪のための賠償金を支払うためだった。そしてこの罪人を救済する業をなし終えた時 (ヨハネ伝十九章・三十節) 滅び行くものが滅びざるものへ、栄光ヘと変貌したのだ。
 従って、復活の後では、霊的視力を受けた者のみが、私を見ることが出来た。 (使徒行伝・十章・四十節から四十一節)

二、この世界では、私について知っているのに、私を知らない者が多い。それは、彼らが私と個人的な関係を持っていないからだ。従って、彼らは私のことをほんとうには理解していないし、私に信ずることもない。それで彼らは私を自分たちの救い主として、また主として受け入れないのだ。
 それはちょうど、生まれつき、赤や青や黄色のような違った色について、識別出来ない人と話をしているようなものだ。その人は、それらの持つ魅力や美しさについては全く気がつかないままだし、何らその価値にふれることも出来ない。彼はただそれらについて知っているだけであり、さまざまな名前を知っているだけなのだ。
 しかし、色彩に関しては、彼の眼が開かれるまでは、そのほんとうの概念を持つことは出来ない。
 同様に、人間の霊的な目が開かれるまでは、彼がどんなに学問を積んでも、彼は私を見ることは出来ない。彼は私の栄光を見据えることも出来ないし、私が神の顕現であることも理解できないのだ。

三、その心に霊的生命と平安を彼らにもたらしている私の臨在に気づいているのに、はっきりと私を見ることができない、多くの信仰者がいる。それはちょうど、目が多くのものを見ることが出来るのに、誰かが目薬を差すと、眼はそれを見ないが、目薬の存在は眼の内側を洗浄し、視力の回復を促進しているのを感じ取ることが出来るようにだ。

四、真の信仰者の心の中に私の臨在から生じたほんとうの平安を、肉眼でみることはできない。しかしその力を感じ、その中で幸福になる。
 また、思いと心の幸福感を通して彼らは私の臨在から来る平安を楽しむのだが、それらを見ることは出来ない。
 それはちょうど、舌と砂糖菓子との関係と同じだ。
 舌にある味覚と、そこで感じる甘味はともに目で見ることは出来ない。
 このように、私は私の子たちに、隠されたマナによって、生命と喜びを与えているが、それはこの世がどんなに知恵を尽くしても知ることがないし、また、知ることが出来ないのである。 (黙示録二章・七節)

五、時に、病の間、舌の味覚が鈍くなる時がある。その間は、どんなに美味しいものを病人に与えても、彼には、まずい味に感じるだろう。
 まさにそれと同じように、罪が霊的なものを感ずる妨げとなっているのだ。
 そのような状況下では、私の言葉や、私の業、私の臨在は、罪人にとっては魅力を失ってしまう。それらによって多くの益を受ける代わりに、彼はそれらについて議論し始め、それらを批判し始めるのだ。

六、多くの信者たちはまた、生まれつきの盲人がその視力を得た時のように、イエスを預言者、あるいは人の子として見ることは出来るが、しかし再び力を帯びて、彼等に私が現されるまでは、私を救い主、神の子と見なすことは出来ないのである。(ヨハネ伝九章・十七節、三十五節から三七節)

七、かつてある母親が、庭園で潅木の生い茂る中に身を隠したが、幼い息子が彼女を探し求めて、あちらこちらを泣きながら歩き回った。
 庭園全体を歩き回ったが、彼女を見つけることはできなかった。
 ひとりの召使いが彼に言った「ぼっちゃま、泣かないで。
 あの木になっているマンゴーや庭に咲いているきれいな花々をご覧なさい。
 さあ、いらっしゃい、あなたのためにそれらをいくつか取って差し上げますから」と。
 しかし、息子は泣き叫んで言った。「いやだ。いやだ。ぼくはお母ちゃんがいいんだ。
 お母ちゃんがぼくにくれるものはどんなマンゴーより素晴らしいし、お母ちゃんの愛はこれらのどの花よりもはるかに綺麗なんだ。それに、この庭にあるものは全部ぼくのものだ。お母ちゃんが持っているものは全部ぼくのものだからだ。
 いやだ。ぼくはお母ちゃんがいいんだ!」
 藪の中で隠れていた母親は、これを聞いた時に、藪から飛び出し、息子をひったくるようにして、胸に抱きしめ、息もつけないほど息子にキスをあびせかけた。そうしてその庭は息子にとってパラダイスとなったのだった。
 このようにして、私の子たちも、この大いなる世界の庭で、魅力的で、美しいものが満ち溢れていても、私を発見するまでは、ほんとうの喜びを見つけ出すことができない。
 私はインマヌエルの神であり、永遠に彼らと共にいる者である。そうして私は彼らに私自身を現そう。 (ヨハネ伝・十四章・二十一節)

八、水の中に浸かっているスポンジのように、水はスポンジに満ちているが、水はスポンジではなく、スポンジもまた水ではなく、違ったものとしていつまでも残っているように、私の子たちは私の中に留まり、私もまた彼らの中に留まる。
 これは汎神論ではなく、この世界に住む人々の心の中に構築されている神の王国なのである。そしてスポンジの中の水のように、私はあらゆる場所、あらゆる物の中にいるが、しかしそれらは私ではないのである。(ルカ伝十七章・二十一節)

九、炭を一つ取りなさい。それをどんなに洗っても、その黒さは消えることがない。しかし、その中に火を入れてみなさい。その黒い色は消え失せてしまう。
 だからまた、罪人が聖霊を受けたならば(それは父と私から来る。何故なら、父と私は一つだからだ。そして、それは火のバプテスマだから、罪の全ての黒さは追い払われてしまい、彼は世の光とされるのである。(マタイ伝三章・十一節、五章・十四節)
 炭の中の火のように、私も私の子たちの中に棲み、彼らは私の中に留まる。そして彼らを通して、私は世に私自身を顕現するのだ。」