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「ヘレン・ケラー輝ける魂」より

2016年12月16日 17時17分23秒 | 紹介します

「ヘレン・ケラー 輝ける魂」の日本語字幕より

 

タイム誌はヘレン・ケラーを20世紀の重要人物の一人に選定しました。彼女は目と耳が不自由ながら様々な困難に打ち勝ち、世界中の障害者のために尽力したのです。

大勢の人が彼女の影響を受けています。たとえば、マークトゥエンは彼女を歴史上の偉人に並ぶ人物だと評しました。

確かにヘレン・ケラーは偉大な人物です。障害者という概念を変えたのです。彼女は自らの言動で人々に気づかせました。たとえ目と耳が不自由でも人間はみな一緒だと。彼女は人間の共通性に人々の目を向けさせ、人間の新しい在り方を示しました。

彼女は光り輝き、思いやりに満ちていました。周りの人やものすべてに興味を持ち活力にあふれていました。

一方、ヘレン・ケラーのイメージは様々です。同情の目で見る人や、聖人として記憶している人もいます。しかしいずれも彼女には不本意でしょう。彼女は一人の人間として見られるように戦ったのですから。

ヘレン・ケラーの一般的なイメージは偉大な人道主義者、水を指文字で学んだ少女として記憶している人も多いことでしょう。映画「奇跡の人」の有名なシーンを思い出す人も多いでしょう。

しかし彼女の豊かな精神を知る人々は少数です。彼女の人となりは信仰によって形成されました。理想を追い求め、社会運動家や著述家としても活動し、実に多面的な人物でした。

彼女は今もなお人々に影響を与え続けています。

ヘレン・ケラーは1880年 アラバマ州出身です。生まれた時には障害はありませんでした。父アーサーは南軍の大尉を経て新聞の編集者や連邦保安官をしていました。米国聖公会会員のケイトは機知にとんだ上品な女性でした。

ヘレン・ケラーは早熟で利口な子供でしたが、生後19か月の時に、病魔に冒されました。ウィルス性脳炎か髄膜炎だったのか、その結果、視力と聴力が完全に奪われたのです。

闇と静寂に包まれたヘレンはその時のことを「本能だけが頼りの獣のようだ」「私は無の世界の住人だった。そこには過去も現在もない、感情や理性的思考の微塵もない、昼も夜もない、存在するのは空白だけでした。」と記しています。

一方、ヘレンは驚くほど勘の鋭い子供でした。周りに自分の意思を伝えようと、60もの合図を考案しました。

「行って」は手を押す、「行かないで」は手を引く、などなど。

しかし、癇癪を起して暴れまわることもあり、教育は難しいと家族は考えました。そんな折、C・ディケンズの記事がケラー夫人の目にとまります。

パーキンス盲学校でL・ブリッジマンという名の盲聾者の教育に成功したというのです。ケラー夫妻はパーキンスを推薦していたA・G・ベル博士に相談。パーキンス盲学校は半盲のアン・サリバンをヘレンの教育係として選びました。

アンは快活で面倒見がよく、努力家で頑固でもありました。ボストンの孤児院で培ったこれらの資質が前途多難の彼女の助けとなります。アンは事前にL・ブリッジマンの例を研究し、指文字を学びました。(指文字は中世のベネディクト修道士が考案したと言われています。)

6か月の訓練の後、アンは人生が変わる出会いをします。1887年3月3日アンがケラー家に到着。この日はヘレンにとって「魂の誕生日」となります。アンはヘレンの癇癪にも動じませんでした。

「ここに来たことは後悔していない。ヘレンのやる気をくじかずに教育することが私の課題だ。」と彼女は記しています。

アンはヘレンの手にものを握らせその名前を手の平に綴りました。最初ヘレンには意味不明でした。2つの行為の関連性が解からなかったのです。言葉を持たないヘレンは、彼女に起きた出来事を体系的に考えることができませんでした。

目も耳も不自由な人と向き合うのは非常に困難です。1か月以上が立ち、アンはついにヘレンと心を通わせます。アンはヘレンの手に井戸水をかけ、「W―A―T-E―R」と綴りました。実際のものと指文字の関連性を示したのです。

「冷たい水が手に流れ、先生の指先に全神経を集中させた。すると不思議な感動と新しい意識がわき起こった

まるで忘れていたことを思い出したように、言葉の神秘が私に開かれたのだ。すべてのものに名前がありそこから新たな考えが浮かんできた」とヘレンは後にこの時のことを回顧しています。 

言葉に出会った日、ヘレンは30の単語の綴りを覚えました。学びたくて仕方がなかったのです。彼女の中で、アンは先生と同義語になりました。

「心地いい興奮が体を通り抜け、心の中に閉ざされていた甘く不思議なものが歌い始めた。先生が私の闇に光を照らしてくれたおかげで、人生の喜びと美しさに目覚めたのだ。

「今朝のヘレンはキラキラと輝いていた。ものの名前を聞いては喜びのキスをしてくれる。」ヘレンは特別な子だ。夢にも思わない成功が待っているだろう」とアン・サリバンは後に書き記しています。

アンの献身的な指導の下、ヘレンは驚くべき学習能力を発揮、規律と指文字を学びながら、創造力を育む遊びも楽しみました。孤立から解放され、苛立ちが収まったヘレンは素直で明るい少女に生まれ変わりました。

学ぶ意欲は旺盛でした。二人は森を歩きながら互いの手のひらにあらゆる単語を綴り合いました。その姿は手でつながれた結合双生児のようでした。二人は言葉という絆で結ばれたのです。

その後、アンが母校に送ったヘレンの報告書が出版され、二人は一躍有名になりました。アンは「奇跡の人」、ヘレンは「国の宝」と呼ばれ、世界の扉が二人に開かれたのです。

パーキンス盲学校はヘレンを生徒として招き、ベル博士は彼女の授業料のため教育基金を設立、スウェーデンボルグ信奉者のH・W・ユングはパーキンスに多額の募金をしました。

偶然にもスウェーデンボルグはヘレンの人生に多大な影響を与えた哲学者です。数か月後、ボストンの通りでユング氏は募金活動中のアンとヘレンに出会います。

祖父は彼らにこう言われました。「私たちがパーキンスに通えるのはあなたのおかげです」と。ヘレンは祖父の上着に指をはわせました。必死に意思を伝えようとする彼女の姿を見て、祖父は涙を流しました。

ヘレンは読書や自然を愛しました。自然は触角と嗅覚を刺激し、読書は世界とつながる術でした。ヘレンは読書を通じ神や宗教について考え始めます。

なぜ神は時に私たちに試練を与えるのか?霊とは?天国はどこ?神の創造主とは?魂とは?

ヘレンはこれらの疑問に対する答えを求め、霊的探究と読書に夢中になりました。「私の考えを書き記せば文字が私の魂の体となる。」霊的探究を続ける中ヘレンは不思議な体験をします。

ヘレンが12歳の時の出来事です。自宅の書斎で歴史書を読んでいました。その時、霊魂がアテネに行くという「体外離脱」を経験したのです。その時、彼女は悟りました。触角が目の代わりであり、霊魂は時と場所との制約を受けないと。

「この驚くべき悟りに私の心は燃立った。霊魂に空間は関係ない。私の霊魂は確かに実在し、それは場所や肉体の制約を受けない。私の霊魂は何千キロも彼方の場所を訪れその景色を見たのである。」

「この新しい意識において神を感じた。万物の創造主である神は、霊魂として宇宙に存在するのだった。」

ヘレンはこの不思議な霊的体験により、さらなる疑問を抱きます。その多くは聖書に関することでした。

「神の真意とは」「神とは誰なのか?」聖書の挿話はギリシャやローマの神話のようで、私が思い描く光り輝く柔和な神の姿はそこにない。思い描く神は存在するのか?ヘレンの信仰が揺らぎます。

ヘレンは後に神の摂理を確信します。13歳の時ベル博士の紹介で元スイス領事のジョン・ヒッツに出会います。ヒッツは聴力が弱く聴覚障害者に関する情報を雑誌で発表していました。また、哲学者スウェーデンボルグの信奉者でもありました。ヒッツは13歳のヘレンに出会い彼女の恩師となりました。

ヘレンはヒッツの事を父親のように慕い私の魂の育ての父と呼びました。ヒッツはヘレンにスウェーデンボルグの「天界と地獄」の点字本を贈ります。この革命的な神学書は19世紀の米国でベストセラーとなった本で、当時の有名な説教師H/Wピーチャーは言っています。「スウェーデンボルグこそ真の教育だ」と。

ヘレンの人生は言葉に出会って変わり「天界と地獄」を読んだ後、再び変わります。スウェーデンボルグの言葉はヘレンの心に深く響きました。

「私の不完全な体の中にも霊体が存在することを確信しました。数年の闇の後、肉眼の内にある霊眼がこの世より完全で満ち足りた世界に開かれるだろう。私は賢者が記した壮大な思想を読み解こうと試みた。」

スウェーデンボルグは18世紀の科学者、政治家、哲学者です。57歳の時突然霊界が見えるようになり、その後27年間にわたり霊的体験や来世観について記録しています。これらの膨大な量の記録は神学書へと姿を変えます。そのテーマは広範囲に及びました。「死後の世界」、「霊と天使」、「愛の本質」、「神と聖書」、「天界と地獄」、「人生の目的と意義」などです。彼は霊的体験に基づく大量の神学書を出版し、その代表作が「天国と地獄」です。

彼によると天使と悪魔は存在します。しかし、性別のない存在ではなく、来世の人間の姿だと言うのです。スウェーデンボルグが見た天界は、あらゆる信仰の人々に開かれていました。正しい教義に従い周囲を愛せば誰でも天界に入れると彼は考えていました。彼の言う天界の神はあらゆる宗教を超越して万人を迎え入れてくれるのです。

彼の本からは神の万人を包む愛のイメージが湧き出て来ます。ヘレンは希望を抱きます。神は慈悲深く来世では障害から解放されると。

スウェーデンボルグは奉仕の精神も説いていました。また他界した知人を見ています。天界に行った者もいれば地獄に行った者もいます。地獄に行った者は自己中心的で思いやりがなかったそうです。天界に行けたのは他者の利益のために献身的な人生を送った者でした。

スウェーデンボルグはこうも言っています。「喜びにしがみついても時と共に消滅する、だが、他者と分かち合う喜びは成長し強くなる」と。

奉仕と分かち合いの精神はヘレンの重要な理念でした。その痕跡は彼女の歩んだ人生に刻まれています。

スウェーデンボルグによると天界は「役立ちの王国」で、崇高な考えを抱くたびに天界に行き、奉仕が喜びになるとそこにとどまるのだそうです。

ヘレンだけでなく世界各国の偉大な人達がスウェーデンボルグの影響を受けています。ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー、イエイツ・・・禅学者の鈴木大拙は彼を「北の仏陀」と呼びました。

ヒッツはスウェーデンボルグを通し、ヘレンに精神性や哲学を説き、彼女の人生に大きな影響を与えます。二人は出会った瞬間に生涯の友となりました。ヒッツはヘレンが興味を持ちそうな本を彼女のために点訳しました。そのほとんどがスウェーデンボルグの著書で、手紙で彼女に送りました。

「親愛なるヘレン、スウェーデンボルグの「神の愛と知恵」を点訳しました。彼は説いています。神は不可分であり、それは神の像である人間に現れていると。哲学を学ぶ者には外せない書です。」親愛なるジョン・ヒッツより

ヒッツは毎年夏の6週間をヘレンと過ごし、人生、宗教、魂、スウェーデンボルグについて語り合いました。

ヘレンはスウェーデンボルグの本を点字で読みふけりました。「私は霊界の様々な秘密を知る、内的感覚が見えざるものを見せてくれる。ここにある信仰に深く共鳴した。言葉と肉体とは別であり、私が全体として描く世界も断片的な世界とは別物なのだ。」

スウェーデンボルグは説く。「肉体の中に霊体が存在し」それは完全な感覚を備え、肉体より重要だ」と。肉体の中に霊体が存在するという考えにヘレンは共感します。体は不完全でも魂は完全だと信じていたからです。そして霊界と自然界に関するスウェーデンボルグの概念から自分の障害に固執しなくなりました。

外界からの雑音が少ない彼女は内なる世界に注意を向けます。

「天に輝く星を見ることはできないが、同等に明るい星が私の魂の中で輝いている。私にとって魂は本質的なもの、私は万物と同じもので、できていると思う。私にとって魂は約束の国、そこは永遠の若さ、希望、無限の可能性がある。」

アンは宗教に興味を示しませんでしたが、ヘレンの傾倒に干渉はせず、ヒッツとも親しくなりました。3人は貴重な時間を共に過ごしました。ヒッツとヘレンの話題は様々でした。「死後の世界」や「聖書」について、話し合いました。もっとも語り合ったのは「奉仕」についてです。スウェーデンボルグいわく、天界は「役立ちの王国」だと。

ヘレンは16歳の時にスウェーデンボルグ派を称し彼の著書を生涯読み続けました。スウェーデンボルグの言葉は私の沈黙の中の声、真理を思い出すたびに力と喜びを得る。彼の言葉が私に天界からの真理を届け、私の魂に千の翼を与えてくれた。

やがて、ヘレン・ケラーは芯の強い美しい女性へと成長し、多くの友人に恵まれました。話し方の習得を切望していた彼女はこの不可能に近い難題に挑みます。そして不明瞭な発声ながらも彼女は成功します。

「うまく発声できなくて、大きな失望を味わった。でも、外界と私をつないでくれるこの手段を手放すことはしたくない。」

ヘレンは自身の深い霊的信仰から力を得て数々の落胆や壁に耐えました。彼女は熱心に神を信じていました。その信仰は彼女に希望と慰めを与えました。

彼女は人生に意味を見出そうとしました。障害者は無力だと思っていたからです。

ヘレンはニューヨークのろう学校へ進学後、著述家になるため、大学の学位取得を切望しました。彼女が目指したのは名門ラドクリフ大学。入試に合格したヘレンは1900年にラドクリフ大学に入学。アンが毎日7時間かけ、講義や課題の内容をヘレンの手に綴りました。しかし、ラドクリフでの学校生活はヘレンの顔を曇らせました。どんなに努力しても周りに溶け込めませんでした。

「大学生活は退屈だ。点字本が少ないため、アンに単語を手に綴ってもらう。講義中はノートが取れず、家に帰り覚えていることを点字で書き留める。余計な時間がかかる。記憶の糸を辿り手に綴られた内容を思い出す。

ヘレンは在学中に女性誌に自伝を寄稿します。それは編集者J・メーシーの助力で後に「奇跡の人」として出版されます。

「奇跡の人」は成功を収め、ヘレンは著述業によりアンとの生計を立てようと考えます。アンはヘレンを全面的に支えました。

1904年ヘレン・ケラーはラドクリフを卒業した初の盲ろう女性となりました。その上4か国語を習得し首席で卒業したのです。

「それが正しいことであれば成し遂げられないことはない。そう思うと強くなれる。私の障害が神罰や事故だと思ったことはない。神に感謝します。障害のおかげで魂と仕事、そして神を見つけたのです。」

ヘレンの前向きで善意溢れる性格に多くの人が惹かれました。マークトゥエンもその一人です。人間は目や耳で考えるのではない、考える能力は五感では測れない。彼は私を有能な人間として扱い、口ではなく、心に笑みを浮かべていました。

ヘレンは二度求婚されましたが、残念ながら、障害者に結婚は向かないと言って、家族の反対にあいます。

ヘレンはこの時の苦悩を善への力に転換します。私は夫も子も持てない運命だ。愛される経験ができて幸せだが、この運命に甘んじよう。

神は私に創造への衝動を与えて下さった。心の底から溢れて来るこの衝動を恵まれない人々への奉仕や困難な課題に向けよう。

障害は自立的な思考や社会生活の妨げなのでは?とヘレンは葛藤していました。「私の脳は考える訓練を受けている。それが他の人との違いだ。視力の有無ではない。」

ヘレンは社会運動家となり、社会主義、婦人参政権、人種差別について記事を執筆、様々なキャンペーンも行います。失明予防の啓蒙にはとりわけ熱心でした。

聖書から真理を学び取り、神のゆるぎない力を信じ、それに従って生き、善行を行うこと。これらが、人間が古い殻を破り自身の世界を再構築する方法だ。ヘレンは信仰を拠り所に人生の試練に立ち向かいます。

よき理解者を失った悲しみからヘレンを救ったのは、彼女の宗教的信念でした。彼女はそう固く信じ愛する人の死を乗り越えました。

私は闇の中心部を覗き見たがその抗い難い力には屈しない。私は計り知れない苦悩に耐えて来た。でもスウェーデンボルグは説く。我々には「選択」の機会があると。そして「選択」は「創造」だと。私は人生を選びその対極にある無を拒絶する。人生において乗り越えるべき壁がなければ報われる喜びは得られない。

ヘレン・ケラーの言葉への愛は絶大で、彼女にとっては探求と貢献の術でした。彼女は言葉に励まされ世に多くの名著を残しました。ヘレンは読むことも書くことも好きでした。まだ幼いころに言葉の力に気づき、言葉が彼女を国際舞台に押し上げました。「点字本やタイプライターの存在は障害を忘れさせてくれる。私の魂と心は自由だ」

ヘレンはその文才を生かし自身の信仰を公表します。1927年に「私の宗教」を出版、スウェーデンボルグへの信仰を表した内容でした。

スウェーデンボルグは私の闇に光を照らした。目や耳を閉ざした世界にスウェーデンボルグの思想を紹介できたらこの上ない喜びだ。もし私に宗教がなかったらそれは心のない体を愛するようなものだ。」

「私の宗教」は翻訳され世界中で好評を博しました。しかし、ヘレンはその構成に不満でした。R・シルバーマン博士が構成を編集しなおし1994年に「光の中へ」として再出版されました。

ヘレンの信仰を理解することで、彼女の人生が見えてきます。障害を乗り越える助けとなり献身的な人生を送る手引きとなったのです。

ヘレンはスウェーデンボルグから様々な影響を受けています。霊界では障害から解放されると信じ、後に奉仕活動にも力を入れ始めます。

ヘレンは生涯を通じて7冊の本を出版、詩、政治の論評、論文なども発表しました。驚くべきことに彼女が紡いだ言葉の数々は美しい文体でした。(私たちは忘れてはなりません。ヘレンはいかなる文も聞いたことがありません。彼女の言語は無音なのです。)ヘレンの文体は視覚に訴えるものでした。ニューヨークを訪れた時、こう記しています。

「私が認識できなかったことは山ほどあるだろう。でも想像は世界の果てまで飛んでいける。ハドソン川はきらりと輝く刀身のよう、マンハッタンの島は七色の水面に浮かぶ宝石のようだ。」

 ヘレンの視覚的な表現力に批評家や科学者は当惑するばかりでした。スウェーデンボルグの「対応」(コレスポンデンス)という概念が彼女の想像力の源だとヘレンは語っています。「世界は二つあることを知った。物差しで測ることができる世界と心と直感で感じることができる世界だ。」

自然界と霊界が対応しているというのが、スウェーデンボルグの「対応」という概念です。「対応」の概念が否定されたら私は迷子のコウモリとなるだろう。「対応」はあらゆる現象に通じている。電光石火の閃きは、稲妻やすい星に対応している。真理は私の思考に鮮明さを与えてくれる。その鮮明さの正体を知り目に光が差す感覚を想像できる。それは言葉の集まりではなく、実際的な感覚である。

ヘレンは「対応」の概念からある考えに行き着きます。アンが手に「水」と綴ったのは啓示だったと。スウェーデンボルグによると、水は真理と対応します。幼いヘレンの手に流れた水は彼女にとって真理を表していたのです。その真理が彼女に学ぶ意欲を目覚めさせました。

今日の医師や科学者はヘレンの優れた言語能力や想像力に注目しています。盲聾者の意識が形成される過程を理解し彼らに役立てるためです。ヘレンは自分の内なる力を信じていました。彼女は豊かな想像力によって言語を一次体験に変換していました。想像力が耳と目の代わりとなり盲聾者に様々な世界を見せているのです。

私が興味を惹かれるのはヘレンがどんな世界を見ていたかです。ヘレンが自身の精神生活や思想について綴った著書は彼女の最大の遺産かもしれません。

まだ新しい分野ですが、ヘレンの認知発達を研究することで、認知科学や意識研究に新しい道が開けるでしょう。

ヘレンは生涯執筆をつづけました。しかし、自身とアンを養う十分な収入にはならず、他の収入源を模索しました。二人は全国を回り5年間講演活動を行いました。無声映画への出演も決めましたが興行成績は芳しくありませんでした。1919年戦後のインフレで生活はますます困窮。二人は3年間演芸ショーの巡業に参加しましましたが、友人らは反対、しかしヘレンは旅や冒険での新しい出会いが大好きでした。「人生は恐れを知らぬ冒険か、無のどちらかだ。」

そこではアンが二人の歩みを語りました。「私はヘレンが6歳8か月の時に初めて会いました。彼女は生後9か月以来目と耳と口が不自由でした。ヘレンが話し方を覚えた経緯や苦労も語りました。彼女の手をこのように私の顔に当て口で話すことを示しました。私が話すと彼女は振動を感じました。そして私の手に綴りました。私も自分の口で話したいと。不可能に思えましたが、しばらく試行錯誤を繰り返しました。そして手をこの位置に置くと彼女が言葉の振動を感じられることが分かりました。7回目のレッスンの後、彼女は一語ずつ話せるようになりました。私は・・・もう言葉が・・・不自由ではない!」

生身のヘレンを目の当たりにした人々は彼女の温かく、愉快な人柄を知ります。ある記者は彼女の印象をこう語っています。ヘレン・ケラーほど私を魅了した女性はいない。彼女は沈黙の牢獄に独り閉じ込められている。

なのに、無数の表情が彼女の顔に浮かぶ。誰かがそばを通りかかると顔を上げ笑顔を向ける。足音の振動を感じているのだ。音楽が流れると合わせて拍子を取る。顔にはいつも笑顔がある。・・・W・クレッシー

ヘレンは私生活では瞑想にふけり、社会的には奉仕活動に奔走しました。常に貧しい人や障害者の事を考え世間の認識を広めようとしました。とりわけ人道的活動に熱心でした。

長年の経済的困窮の後1924年自分の役割を見出し米国盲人協会に職を得ます。彼女は使命を持って生まれて来たと信じました。それは世界に幸せを広めることでした。彼女の奉仕の精神のゆえんです。世界の幸せが自分の幸せにつながると知っていました。

ヘレンは44年にわたり米国盲人協会で働きながらスウェーデンボルグの教えを広めます。奉仕の精神は人道の至高だと。この世で極めて大事な愛、それは善意と英知の結集であり、善行を推進する奉仕により愛は表面化するのだと。

ヘレンは視覚障害者に多くの貢献をしました。新しい法律の制定はその一つです。彼女は持ち前のカリスマ性を発揮し、法律の制定を実現しました。1930年当時は4~5種類の点字コードが存在し、それを統一するように働きかけたのです。

そして忘れてはなりません。彼女がいなければ録音図書は実現しませんでした。私を含め大勢の視覚障害者がその恩恵を受けています。

協会の一員となりヘレンの奉仕活動の範囲は今まで以上に広がりました。米国盲人協会と米政府に代わり世界中に招かれました。アンも障害者を助けるという使命を果たせました。二人は障害者に対する無知や偏見を取り除こうと努めました。彼女の訪問国は通算39か国です。

彼女は障害者の社会参加を訴え人々の認識を変えました。日本訪問はヘレンとアンの共通の夢でした。1936年、健康が衰え始めたアンはヘレンに日本訪問を強く勧めました。アンは臨終の際ヘレンに願いを託しました。

「日本を訪れ目の不自由な人々に光をもたらすように」と。

ポリー・トンプソンが通訳を引き継ぎますが、ヘレンはアンの死に心の整理がつきませんでした。そんな折アンの霊が訪ねて来たと言います。

「私は自分の使命を思い出した。天界の先生から励まされたような気がしたのだ。前方と背後に神の存在を感じ、何も恐れる必要はない。」

1937年戦争が迫る中、ヘレンは悲しみをこらえ、使命感を持って訪日、大歓迎を受けました。ヘレンは訪問国の政策や慣行に多くの影響を与えました。その最たる例が日本です。彼女は日本を訪れこう訴えました。障害者の機会の平等を尊重しリハビリや教育の施設を整備すべきだと。

ヘレンは恵まれない人々の代弁者として40年もの間、世界中を旅し続けました。特に力を入れたのはあらゆる障害者の擁護です。「人生の困難や冒険に立ち向かう時、旗を揚げよう。追随者たちのために。」

ヘレンは世界中の人格者から称賛と敬愛を寄せられます。アラバマ出身の目と耳が不自由な少女は成長し歴代の米大統領とも対面しました。1964年ヘレンは米国で文民最高の名誉である自由勲章を受章しました。この偉大な女性の姿を一目見ようと彼女の行く先々で人だかりができました。ヘレンの存在そのものが人類にとって最高の贈り物です。彼女の活力と明るさ、そして神秘的なオーラに多くの人々が驚き、圧倒されました。彼女の存在は多くの涙を誘いました。脈打つ共感により仲間と揺るぎない絆で結ばれました。

舞踏家M・グレアムのダンス・スタジオを訪ねた時、ヘレンは床と空気中の振動から音楽と踊りを感じ取りました。「ヘレンはドラムに触らずともその強い振動を感じている。」グレアムはヘレンを不屈の闘志と呼びました。

バイオリン奏者J・ハイフェッツはヘレンの音楽に対する愛と鑑賞眼に驚きました。

哲学者のJ・ヒューストンは8歳の時にヘレンに会い、人生が変わったと言います。「なぜ、そんなに幸せなの?」と彼が聞くと、彼女は笑いながらこう答えました。「毎日を人生最後の日と思って暮らし、人生は喜びに満ちているから」と。

彼女は残された感覚を使って豊かな感受性を育んだのです。大きな心を持ち、存在そのものが輝いていました。

ヘレンを通じ誰もが生の喜びを感じます。彼女ほど心が美しく、知的で誠実な人は知りません。

恩師ヒッツの手引きによりヘレンは高い共感能力を開花させます。人々が彼女に神秘を感じたのはその共感能力のためです。外界を閉ざしていたからではありません。視覚と聴覚を持つ人が抱く心象を想像しなさいとヒッツ氏は教えてくれた。そうすれば彼らと同調でき外界をもっと享受できるようになる。彼らの人生を知ると同時に彼らにも私の人生を理解してもらうのだ。

ヘレンのいわば神秘性は、彼女の霊的洞察力や宇宙に対する深い理解、そして共感能力に起因しています。彼女は人生のあらゆる場面で神の存在を感じていました。「見えざるものを見せてくれる内的感覚は霊界と結びついている。触覚で得た体験を見極め、浄化のため私の心に提示する。この感覚は私に神を見させてくれる。そして地球とあの世、現在と永遠、神と人間の闇をつないでくれるのだ。」

ヘレンは高い共感能力の持ち主でした。人や鳥、触れたものや感じたリズム、何にでも同調しました。彼女に直覚力があったかは不明ですが、いつも人の心に寄り添おうとしていました。

障害者の立場は想像しにくいものです。ヘレンはどんな逆境にあっても、社会貢献や夢の実現は可能だと証明しました。精神的、社会的、身体的な理由で、誰もが何らかの壁にぶつかります。しかしヘレンは重度の障害をものともしませんでした。私たちはそんな彼女の姿に感銘を受け、自分の壁に立ち向かうのです。ヘレンは光明への導き手でした。唯一無二の偉大な女性です。ヘレンは世界中を感化し続けました。

現代の著名人も影響を受けています。E・ヴァイエンマイヤーもその一人です。2001年5月25日、彼は世界最高峰のエベレスト登頂に成功した史上初の全盲クライマーとなりました。そして34歳の時に世界七大最高峰を制覇しました。達成者が一〇〇人もいない偉業です。

「ヘレンは大事なことを教えてくれました。生まれ持ったものを嘆くのではなく、それを最大限に生かすべきだ」と。

私はヘレンの影響で職業を決めました。彼女は障害にも負けす豊かな才能を開花させました。

一九九五年には聴覚障害を持つ初めてのミス・アメリカが誕生しました。「ヘレン・ケラーは私のローカルモデルです。目と耳が不自由な彼女は私よりも障害を抱えていましたが、多くの功績を残しました。」

彼女は言いました。「問題と対峙しなさい。でも、決してそれに支配されてはならない。その問題から忍耐と思いやりを学ぶのです。自分や他の人の人生にどんな奇跡を引き起こすか分からない」と。

私はたった一人の人間だ、それでも一人の人間である。全てはできないが、何かはできる。出来ることをできないとは言わない。

ヘレンのこの格言から優劣で人生を考えるのをやめました。誰もが長所と短所を持っているのです。持っていないものを気にしていても仕方がありません。あるものでベストを尽くすのみです。それが人生を一変させ世界を動かすことさえあります。

彼は奉仕活動も行っています。世界中を旅しながら「国境なき点字」活動を広め視覚障害児に登山やリーダーシップを教えています。

「ヘレンは重要な遺産を残してくれました。彼女の不屈の精神は私たちを鼓舞し国際社会が抱える様々な問題の解決に向かわせます。世界の課題は山積みで、誰もが暗中模索の心境でしょう。しかし我々は今こそ立ち上がらねばなりません。ヘレンのような先駆者となり周りを勇気づけるのです。

晩年ヘレン・ケラーは牧師のC・ブリーストナルと親交を深めます。彼はスウェーデンボルグ派の牧師でした。

彼女が聖餐式を受けた時に実際に使用された道具一式です。死期を感じたヘレンは、その信仰により死を正面から受け入れました。

「死を恐れる理由が分からない。この世の生は死より残酷だ。生は別離や離反を生むが、死は永遠の生であり、再会と和解を生む。スウェーデンボルグが死の恐怖を取り除いてくれる。私は信じている。内なる目が来世で開かれた時、意識だけを持って自分の心の国で生きるのだと

ヘレンは何度か脳卒中を起こし、1968年に88歳で他界。彼女はブリーストナル牧師に葬儀を依頼していました。しかし、親族の意向によりワシントン大聖堂で行われます。式は主任司祭が執り行いました。ヘレンの亡骸はアンとポリーと共に聖堂に安置されています。ヘレンの輝ける偉大な魂は世界中の人々の心に刻まれています。

マーク・トウェインは予言しました。彼女は1000年後も変わらず有名であり続けるだろう。と

彼女は完全な人間であり、偉大な人道主義者、著述家、社会運動家でもありました。

「信仰は壊れた世界を光の中へと導いてくれる」彼女の深い信仰が人々の心を動かしました。ヘレン・ケラーの人生と功績は、代々語り継がれていくでしょう。


奇跡の人の奇跡の言葉/高橋和夫・鳥井恵 共訳

2016年12月03日 11時26分52秒 | 紹介します

「奇跡の人の奇跡の言葉」/高橋和夫、鳥田恵 共訳

・・・ヘレン・ケラーの魂を生涯に亘って導いたもの

私がこの世に来たのはさばくためである。すなわち見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。・・・あなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が「見える」と言い張るところにあなたがたの罪がある。

ヨハネ9;39

“But what am I?

An infant crying in the night;

An infant crying for the light;

And no language but a cry.”

然らば我は何なるか、

夜暗くして泣く赤児

光欲しさに泣く赤児

泣くよりほかに言語なし。・・・求安録より

内村鑑三

 

 本書は1927年に発刊された、ヘレン・ケラーのMy Religeonの全訳で、日本語のタイトルは「奇跡の人の奇跡の言葉」となっています。その中から引用すると、

p164

 私も決して傲慢な気持からではなく、闇の中での私の生活経験を有効に使うための能力を身に着けたいと願っています。神の愛やその被造物たる人間の愛は、私を完全な孤立状態から引き離してくれますが、そうした愛の持つ力を記録し続け、私の不運をほかの人たちへの援助や善意の媒介として役立てることができれば、私にとってこれに勝る喜びはありません。・・・

p186

 神はあらゆる地域に何らかの宗教を提供してこられたのですから、各人が理想とする正しい生き方に忠実でありさえすれば、誰がどんな人種や信条に属していようとも全く問題はないのです。・・・宗教とは(神を信ずるということ)その教義に従って生きることではなく、また単にそれを信ずれば良いというものではありません。

 ムハマッドが偶像崇拝を打破するために立ち上がったのも、神の摂理からでした。この偉大な予言者は東洋人特有の気質に適した形で宗教を説いたのですが、このことは、この信仰が何故多くの国々で人を善に向わせるのに大きな影響力を発揮できたのかを説明しています。

 

p217訳者後書きより

 ・・・ヘレン・ケラーは熱病のために2歳になる前に失明し、耳と口の機能も失いました。・・・(電話の発明で有名な)グレアム・ベル博士がケラー家に紹介したのが、パーキンス盲学校を卒業したばかりのサリヴァン先生でした。彼女はこの時、20歳、以後50年もヘレンに影のように寄り添います。

 ベル博士との交流はその後もずっと続き、ヘレンがサリヴァンに次ぐ「第2の恩人」と書いたジョン・ヒッツへとつながります。・・・ヒッツはスェーデンボルグボルグ派のキリスト教徒で、12歳のヘレンと出会った時は、すでにかなりの高齢でした。その交流はヘレンの20代後半まで続きました。この人こそ、ヘレンが生涯に亘って信奉した「宗教」を教えた恩人なのです。・・・ヘレン・ケラーの人生は、彼女を取り巻いた多くの人々の愛と善意に支えられていたのです。・・・

 暗闇と沈黙の世界に生き、飢えれば食物を本能的に求めるだけの少女が、「三重苦の聖女」、「奇跡の人」「光の天使」などと呼ばれるまでに変身した経緯は、私たちに教育の力をまざまざと見せつけます。サリヴァン先生自身も、パーキンス盲学校に入るまでは、孤児同然であり、視力も失いかけていました。・・・ヘレン・ケラーが「私の幸福はサリヴァン先生の不幸の上に成り立っていた」と語らせるほど、悲劇的な献身の生涯だったように思います。

 その驚異的な努力によって、ヘレンは読み書きを覚え、話せるようになり、ハーバード大学の女子部を優秀な成績で卒業しました。その後88歳で世を去るまでどんな働きをしたかは周知のとおりです。・・・

 本書はヘレン・ケラーが自らの内面を率直かつ真摯に吐露した重要な著作であるにも関わらず、日本ではほとんど知られていません。・・・その理由は・・・サリヴァン先生でさえ、スウェーデンボルグを誤解し、狂人扱いしたままであったと伝えられています。

 しかし、私は、本書を読まないでは・・・ヘレンの内面のほんとうの姿は決して知りえないと思います。確かにサリヴァン先生の尋常でない努力のおかげで、・・・感覚や理解力の発達という知性的な側面の成長は奇跡的だったと言えるでしょう。

 けれども、彼女の霊性という側面、つまり心の奥深い領域における自覚の深まりとか、魂の成長はどうだったのでしょうか。

 ・・・ヘレンには自然への関心以上の、存在の根源すなわち神へのもっと深い宗教的な問いがありました。それは誰もが抱く宗教的な懐疑や苦悩に関するもろもろの問いです。これらに対して納得のゆく答えが見出されない限り、彼女の魂に真の安らぎは訪れませんでした。

 ・・・無類の読書家だったヘレンは、・・・自分の生活を豊かにしてくれたどうしても挙げずにおれない書物として、第一に聖書を、そして次にスェーデンボルグの「神の愛と知恵」を挙げています。ヘレンはヒッツが点字にして送ってくれたスェーデンボルグの著作を手引きにして、点字の自分の聖書を、その点字が磨滅してしまうまで幾度となく読んだと言っています。こうして彼女は神の愛に触れ、ほんとうの信仰を得ることができました。これは彼女の霊性の開顕であり、暗黒と沈黙の世界は光と歓喜の世界へと変貌したのです。そしてここから、泉から水が湧きだすように、ヘレンの社会事業家、講演者、著述家・・・等々としてのあの力強い活動の原動力が生まれたのです。・・・

 英文で書かれた原書はインターネットで無料で閲覧できるので、英語を理解する方々はぜひお読みください。

 ただ、訳者あとがきにあるように、ヘレン・ケラーの生涯を貫いた信仰についてはあまり多くは知られていないのが実情です。それは信仰というものは知性によって体得されるではなく、一人一人が地上の人生で霊性を発芽させ、成長することによってのみ会得できるものだからであろうと私は思っています。
 想像してみて下さい。目を閉じて、さらに何も聞こえない状態にある自分を。おそらく私たち人間が死ぬ直前、そのような状況になるのではないかと私は思います。何も見えない、何も聞こえない。そんな時あなたの心は何を頼りにしますか?
 彼女が信奉したスェーデンボルグの言葉は、いわゆる正統派キリスト教からは異端視されています。そして歴史を通して、多くの偉大な魂は一方では異端視されながらも、ありありとした来世を垣間見つつその希望に生きて、逝きました。(ある者は焼き殺されつつも)

以下ヘレン・ケラー 輝ける魂」から抜粋します。またぜひこれをご覧ください!