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管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

立ち止まる勇気2

2018年04月10日 11時26分54秒 | 紹介します

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<「水俣病」が私たちに投げかけている終わりなき問い>

W:水俣病の患者さんたちは病気を負うことで大変な苦しみや悲しみや嘆きというものを生き抜かなければならなかった。そこから大変深い思想や哲学が生まれて来ています。石牟礼さんも彼らから深い影響を受けたと仰っています。

I:水俣病の患者の一人である漁師のOさんを御紹介します。

 水俣で代々漁業を営むOさん、両親と兄弟8人が水俣病に侵され、自らも長年手足のしびれや頭痛に苦しめられています。水俣病を広く伝える活動を続けて来ました。

I:あのご家族で8人も水俣病に罹ってしまわれたそうですね。

O:私の兄弟家族を含めてですけど、一番衝撃を受けたのは私が6歳の時に、父親が発病して2か月足らずで亡くなってしまいました。私は今62歳で、これは水俣病60年ということとも重なり合うので、非常に小さい時にどでかい課題を与えられたなという気持ちでいます。

S:今も漁に出られるんですか

O:そうですね。ほぼ毎日漁に出ています。水俣病が起きた不知火海で今も漁をしているわけですけど、私たちはどこかで海に養われてきた恩義があるものですから・・・

S:それがとても外の人間にはわからない部分でね。大本をたどればそれは「チッソ」から、都会のしわ寄せから来たんですけど、海から毒も来たわけじゃないですか。それでも自分たちは海と暮らすという・・・

O:多くの水俣病の被害者や患者からは、海や魚を怨む言葉はほとんど出て来ません。海があったればこそ自分たちが支えられて来たということを肌身で感じてきたからだと思いますね。もう一つは何千年、何万年と食べてきた魚に毒が入っているなんて簡単には信じられないんですよね。食というものは生き物の生命の記憶として長い間続けれられて来たものですから。だから「魚を食べるな」というのは、「鳥に空を飛ぶな」というのと同じなんですよね。空気みたいなもんで、我々はそれを吸わないと生きていけないんですけれども、・・・

S:生命の記憶ごと汚されたということなんですよね。 

I:ではOさんがこれまで歩んでこられた道を見てみましょう。 

 水俣病の認定を求めて行政を提訴したOさん、400人の患者団体の先頭に立って闘って来ました。

 ・・・しかし、気が付けば「チッソ」や行政との戦いはお金の問題になっていました。「苦界浄土」にも次のような場面が描かれています。
 

水俣病患者互助会59世帯には、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者には3万円を発病時にさかのぼって支払い、過去の水俣工場の排水が、水俣病に関係があったことがわかっても、一切の追加補償は要求しないという契約を取り交わした。

「大人の命10万円、子供の命3万円、死者の命は30万」・・・と、私はそれから念仏にかえて唱え続ける。命さえもお金に換算される現実、多くの患者たちは疲弊して行きました。

 Oさんは31歳の時、患者団体を抜けて、たった一人で戦う道を選びました。認定申請も取り下げるという厳しい覚悟で臨んだ道です。そして時代と逆行するようにプラスチックではなく、木の舟を作りその船で「チッソ」本社前に通い、半年にわたって一人で座り込みを続けたのです。

Oさんは次のような境地に達します。

 <私は「チッソ」というのはもう一人の自分ではなかったか?と思っています。>

O:それまでは外側にいる敵として「チッソ」を見ていたわけですけれども、もし自分が「チッソ」の工場の中で働く労働者や重役の一人だったらどうしただろうかという問いを初めて持ったわけです。それまでは被害者患者家族という視点から責任を問うていたんですけれども、どこかでそれがお金に換算されていく、補償金とかね。そのことに非常に絶望感を感じて命さえも値付けされていくということに居たたまれなかったんですね。

S:ぼくはこの歳になってやっと文明を追い求める自分も加害者側なんだということが少しだけわかって来たような気がするんですね。それを当事者が分かるってどういうことですかね。当事者はどんなに恨んだっていいじゃないですか。

O:それはたぶんそこで私の視点が変わったんですよ。ほかの生き物たちから見たらどう見えるだろうか。亡くなった死者たちから見たらどう見えるだろうか?例えば、お金は亡くなった人たちには直接通用しないんですよね。それからほかの生き物、魚や猫に、これでなかったことにしてくれというわけにはいかないんですよね。人間の社会だけでかろうじて通じている価値観だけで、なかったことに、終わったことに、忘れてくれなんて言う話になっちゃっているんです。人間の一人として、私も問われているんではないか。ということが起きちゃったんですね。

I:じゃあ一人で闘おう。認定の申請も取り下げる。・・・今のお話って石牟礼さんが「人間が担って行かなくてはいけないんだ」という、その価値観とも通じるものなんでしょうか。

W:そうですね。やっぱりOさんも人間からの視点からだけじゃないという点がぼくはとても心打たれるんですね。石牟礼さんも強くおっしゃっていますけれども、とにかく人間が見て、いいんだ悪いんだ、という人間にとって得だ、損だというような倫理観、人間中心の倫理観、世界観だけでは、この水俣病というのはどうしても解決がつかないんだということなんじゃないでしょうか。

S:海を中心にして「生態系の輪」の中で生きて来た生き物の原体験の中にあって、「チッソ」もその輪の中に入れたうえで考えていかなければ何もわからないんだということになる。

 それから木の舟で半年間「チッソ」の前で座り込みをされましたね。何故ですか?

O:正確に言うと、座り込みではなく、その日一日を「チッソ」の正門前で暮らすという、私にとっては「チッソ」の前は表現の場としてとらえたんですね。笑いたい人はどうぞ笑ってください。石投げたい人はどうぞ勝手にやって下さい。受け取り方はそれぞれで、私はただ自分の武装解除した姿を晒しただけなんです。

S:具体的には何をしていたんですか?

O:七輪で魚焼いて、焼酎飲んだりお茶飲んだり、草鞋を編んだり、・・・そのために作った木の舟だったんですよ。それこそプラスチックの舟で行くと早いんだけども、なんとなく癪に障るんですよね。ですから大工さんにわざわざ木の舟を作ってもらって、

S:その活動を見て「チッソ」の人たちはどういう反応を見せましたか?・・・

O:びっくりしてました。「一人で来られると困る」って言うんですよ。集団で来ると強制排除したり警察を呼んだりできるので、世間もある程度わかってくれるけれども、一人で来て、しかも営業妨害をしているわけではないので、排除しにくい・・・

I:そこで七輪で魚焼いててね。

O:一番最初に来たお客さんは猫だったです。魚の匂いで・・・

I:猫も、もしかしてチッソの前で表現してたかも・・・

O:小一時間、一緒に食べた後座っていた・・・義理を果たした・・・

S:猫も我々も魚を食べて生きているわけです。これこそ、悲しく楽しく深刻で、全部混ざったものじゃないですか。・・・

そんな中で石牟礼さんはどういう反応をなさいましたか?

O:一番早く分かってくれたですね。

I:理解を示された・・・

O:理解というか、共感というか。むしろ喜んでくれたんじゃないかと思います。「常世の舟(とこよのふね)」という名前を道子さんに書いてもらって、それを大工さんに掘ってもらったんですね。

I:Oさんから見て石牟礼さんはどんな方ですか?

O:あの方は深いまなざしを持っています。私は<古層の現れ>というふうに思っています。古い時代がこの現代社会に立ち現れて、働きかけている姿を見ます。

そして不知火海沿岸の人たちの中でさほど、貨幣経済に染まっていない人たちが被害者になってしまったんです。ですからどちらかというと、感じる世界で暮らしてきた。それを文学として表現したのが道子さんだったと思います。

 

I:ではもうひとかた石牟礼さんが大きな影響を受けた患者さんを御紹介しましょう。 

水俣病で両親を亡くし、自らも患者として 抱えながら漁業を続けてきた杉本英子さん。親しかった石牟礼さんに杉本英子さんはこう語ったと言います。

石牟礼道子:私たちはもう許すことにした。全部許す。日本という国も許す。「チッソ」という会社も許す。いろいろ差別した人も許す。許さんばきつうしてたまらん。みんなの代わりに私たちは病んでいる。それで許す。英子さんはそう仰っていました。

 それで私たちは許されているんですよ。代わりに病んでいる人たちから許されて生きている。罪なことですね。

 やがて英子さんは耐え難い苦しみを与えた水俣病を「のさり」;海の恵みだと表現するようになります。病を得たからこそ、見いだせたものがあると、亡くなるまで語り部としても活動を続けました。

 

S:これまたすごい話だなあ・・・許す・・・

I:水俣病の患者さんからこういう言葉が出てくるんですね。

O:杉本英子さんが言う「のさり」というのは、天から授かるという意味合いなんです。熊本弁でたとえば子宝に恵まれるのを「のさる」と言います。危ういところを助かって命が「のさった」とかですね。大漁だった後で・・・「のさった」と。さらにその逆にも使います。苦しいことがあった時、悲しいことがあった時も本人に言い聞かせるように、「これもまたのさりぞ」と。杉本英子さんが使っているのは「苦もまたのさり」すべてのことを身に引き受けるという意味ですね。

S:もちろん、今もそうは片づけられない被害者の方がたくさんいると思うんですが、時間をかけて一部の人たちだけでもこう言ってくれていることで、・・・これを言われちゃうと我々に借りはないなんて思えないんですよ。俺らは許された側じゃないかということになりますよね。そうするとやっぱり恥ずかしさというか・・・。

W:ぼくなんかやっぱり、彼らが今も苦しんで生きてくれている。その生涯から意味深いものを掬い取るのは後世の者の務めだと思うんです。そして石牟礼さんはそれを50年前に見つけて、「苦界浄土」の中にギュッと結晶させた。・・・

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<ゆき女聞き書きより>

 5月、患者の雪はこんな望みを語るのです。海の景色も丘の上と同じに夏も冬も秋も春もあっとばい。うちはきっと海の底には竜宮があると思うとる。夢んごと美しかもね。海に飽くってこたあ決してなかりよった。

 磯の香りの中でも、春の色濃くなった「あをさ」が岩の上で潮の引いた後の陽に焙られるにおいはほんに懐かしか。

自分の体に日本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと身体を支えて、ふんばって立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、「あをさ」を採りにいこうごたるばい。

うちは泣こうごたる。もういっぺん行こうごたる、海に。

 

S:この望みは都会の言うところの贅沢でもないし、ささやかなことじゃないですか。これがでも一番の望みなわけですよね。

I:海に春があるっていうことでしたけど。不知火海の春の海ってどういう感じなんですか。

O:陸上より海の底のほうが春は先に来ると私は思っています。その一番典型的なのが若芽ですね。年が明けるころからもう芽が出始めて、正月のころには芽がちょっと出ているんですよね。

S:新芽がもう出ているんですか?

O:だから若い芽と書いて若芽というんです。それがだんだん成長して若芽もヒジキも成長して行くわけです。

I:ゆきの最期の望みも春の海に行きたい、自分の腕で櫓を漕いで「あをさ」採りに行きたいということでしたね。

O:その気持ちはよく分かりますね。海の春っていうのは、いのちの賑わいの中に、人が参加できるわけですよね。・・・

W:石牟礼さんにお会いした時に、「どういう気持ちで「苦海浄土」をお書きになっていましたか」という質問をしたことがあります。その時、「大変苦しかったです」と仰ると思っていたんですが、彼女はそのために身体を壊していくんですけれども、彼女が言ったのは「荘厳されているような気持でした」と仰いました。「荘厳」というのは仏教用語でもともとは深いところから仏様の光に照らされていくといったような意味なんですね。彼女がおそらくその時に語ってくれたのは、患者さんたちの深い祈りに包まれているような心地がした、たくさんの苦しみ、たくさんの悲しみをあじわったけれどもその先にある何か、祈りとしか言いようのないものに支えられて、自分は一文字一文字書いてきた、と仰っていました。

I:最初のイメージとはだいぶ違って深く、この「苦界浄土」を深く読み解いてきました。

S:なんだかわからないけど、ぼく最初の一文で声が詰まったんですけど。そういう意味で本を読んで理解するんじゃなくて感じたいなと思いました。本音を言いますとどの作品よりもエネルギーがいりましたね。


以下は私の感想・・・

 水俣病などの公害問題は文明の進歩とともに、起こって来たし、今も日本だけに限らず世界中に起こりつつある。

 特に私は現象としての自然界や肉体を蝕む公害はもちろんだが、人間の精神を蝕む「公害」が蔓延しているのではないだろうかと危惧する。 

過去においては、テレビの普及によって「一億総白痴化」ということが言われたが、昨今はインターネットとスマートフォンの普及によって、個々の人間の精神が矮小化しつつあるのではないだろうか。目の前の人と人との関係が希薄となり、ヴァーチャルな自分だけの世界で個々人が生き始めている。しかもその個々人が個性豊かに成長して行くというならまだしも、没個性的な大衆迎合主義に冒されてしまいやすい。ビッグデータを解析し、自ら進化し続けるいわゆるAI(人工知能)に人間が支配される時代が始まっているようにも思える。

いま私たちに必要なのは立ち止まる勇気だ。そして人間を含むすべての生物は進化の過程で物質(塵)から創造されたものに過ぎないという存在の原点に立ち返るべきである。

目を上げてこれらのものを視よ!誰がこれらを創造したか? 聖書の詩編

あらゆる真実を希求する宗教はそこに辿り着く。


立ち止まる勇気(つづき)

2018年04月10日 10時55分18秒 | 紹介します

I:石牟礼さんご自身はその近代の闇にどう立ち向かおうとしていたんですか?

W:石牟礼さんを頻繁にお訪ねして、ある時「苦界浄土」をどんなお気持ちで書かれたんですかとお聞きしたら「戦いだ」、「一人で戦うつもりで書きました。今も戦っているつもりでいます。」と仰っていましたね。

近代という「バケモノ」に我々が立ち向かおうと思ったときに、我々は最初は個人で立ち向かわねばならない。一人立つというときに何か計り知れない力がある。 

I:現代はすごく人とつながりますし、集まったり群れたりということが簡単にできますけれども、個人で立ち向かうという厳しさというのを聞きますと、・・・

S:自分が正しいと信じて独りでやっていたら誰かがわかってくれるということかな?

I:石牟礼さんの闘い続けているその強さと、そして今もなおその問題が続いているということを我々は忘れてはいけませんよね。

W:「水俣病は終わらない」ということを言った人がいます。我々はそこから今も大きな問いを突き付けられていると思います。

 

I:今日は<近代の闇>ということで読み解いてきました。公害に第三者はいない、近代化の恩恵を私たちも十分解っていて、このことは自分たちの物語でもあるんだなと感じ始めたところです。

Sさんいかがですか?

S:ぼくは「チッソ」という企業が、水銀を大丈夫だと思って流し続けた時代と、わかっていてそれでも止まれなかった時期の問題と、そこには結構大きな差があって、少なくとも自分たちは止まる勇気とか、スピードを落とす勇気とか、時には逆行に見えることをする勇気みたいなのがないと、いけないということを学びました。

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いのちの尊厳とは

水俣病の存在を広く世に知らしめた石牟礼道子の「苦界浄土」

患者さんとその家族の声なき声を掬い上げ、その意義を問うた作品として「いのちの文学」とも言われます。そこには経済成長を優先して来たこの国の姿も浮かび上がってきます。

 

S:ぼくらが子供のころ、日本が近代化するのに必要だったプラスチックを作るためにできたのが「チッソ」という工場で、そこから流れ出た水銀が巻き起こした水俣病だったという、この関係性みたいなものが、現代でも終わっていないんじゃないかということを考えさせられます。

W:「いのちの尊厳」ということが「苦界浄土」という作品を通じて、石牟礼さんがずーっと考え続けてこられたテーマなんですね。

*****

劇作家で俳優の砂田明さん(1928-1993)は「苦界浄土」を読み大きな衝撃を受けます。

水俣に移住し、一人芝居を製作、全国で上演して「苦界浄土」の世界を多くの人々に伝えようとしました。・・・

砂田さんは「苦海浄土」についてこのように語っています。

 水俣病は最も美しい土地を侵した、最もむごい病でした。そのむごさはまず力弱きもの、魚や貝や鳥や猫の上に現れ、次いで人の胎児たちや稚子、老人たちに及び、ついに青年壮年をも倒し数知れぬ生命を奪い去りました。生きて病み続ける者には骨身を削る差別が襲いかかりました。 

そして大自然が水俣病を通して人類全体に投げかけた警告は無視され、死者も病者も打ち捨てられ、明麓の水俣は深い深い淵となりました。

 

S:「苦界浄土」がさらにこの砂田さんの心を打ち抜いて、そのメッセージ;「大自然が水俣病を通して人類全体に投げかけた警告」が無視されたという言葉は心に刺さるものがありますね。

W:つまり水俣病、水俣病事件と言ったほうがいいのでしょうか、それを人間の目からだけでは見ない。魚や猫などの生き物の目で見てみる、そして生者、死者両方に彼の眼差しが注がれています。

I:石牟礼さんもこのような視点で、「土の低きところを這う虫に逢えるなり」というようなことを言っていますね。

W:人間というのは1メーター少しくらいの高いところから、どうしても世界を眺めているわけなんですね。けれども大変苦しいことがあって地面を這いつくばらなければいけない時に見えてくる光景というものが人生の中に幾度かあるんだと思うんですね。

 水俣病患者さんたちはそういうことを強いられた人々で、彼らは我々とは全く違う世界を視ている、人間も地を這うような虫になってみて初めて見えてくる世界があるのではないかということを彼女が詩の中で歌っています。

S:さっきの砂田さんの文章にあった、鳥、貝、猫、魚、胎児、これが繋がっているということをぼくらは気づかないんですけど、初めてこういう病気になった時に・・・繋がっているということを理解するのかな。

W:石牟礼さんは時々、「生類(しょうるい)」という言葉をお使いになるんですね。「生類」という大きな世界があってその中に人類があるんだと言って「人間の犯した罪を自分も背負わなくてはならない」ということをお書きになっていらっしゃいます。それは水俣病が「人類が「生類」に対して犯した大きな罪なんだ」と。

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<苦海浄土より>

杢太郎(もくたろう)とその祖父

 石牟礼さんを姉さんと呼ぶ漁師は「苦界浄土」の中でもひときわ強い印象を残す漁師です。9歳になる杢太郎は重度の胎児性水俣病患者として生まれて来ました。自分一人では歩くことも食べることも、喋ることもできません。そんな杢太郎のことを老人はこう語ります。

杢は、こやつは物を言いきらんばってん、人一倍魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。なんでも聞き分けますと。聞き分けはでくるが、自分が語るっちゅうこたできません。

 働き者だった杢太郎の父親も水俣病にかかり、母親は子供を遺して家を出て行きました。老人は自分が死ねば一家がどうなるか、心配で先立つこともできないと嘆くのです。

 「姉さん、この杢のやつこそ仏さんでござす。こやつは家族のもんにいっぺんも逆らうっちゅうことがなか。口もひとくちも聞けん、飯も自分で食やならん。便所も行きゃならん。それでも目は見え、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。ただただ家のものに心配かけんごと気ぃつこうて、仏さんのごて笑うてござりますがな。」

 ある日沖に漁に出た老人は、網にかかった石があまりに人の姿に似ているので、大切に持ち帰って来ました。焼酎をかけて魂を入れ、この石に杢太郎の守り神になってもらおうと考えたのです。

 「あの石を神さんちゅうて拝め、爺やんが死ねば、爺やんちゅう思うて拝め、・・・分かるかい、杢。お前やそのような体して生まれてきたが、魂だけはそこらわたりの子供と比ぶれば、天と地のごとくお前のほうがずんと深かわい。泣くな、杢。爺やんのほうが泣こうごたる。」

S:この<人の形の石>は誰を癒すのか。杢君のために持ってきて、彼にあげる石なんだけど、爺やんの癒しのため、救いでもあると思う。爺やんがいなくなった後、不安を少しでも薄めるための石でもあるし、・・・ 

I:杢太郎君はお母さんのおなかの中で水銀中毒にかかって生まれてきた胎児性水俣病で、こうした方もたくさんいらっしゃったんですよね。 

W:胎児性水俣病というのは大変小さな肉体の中に、水銀の被害が及ぶのでとても深刻になっていくわけですね。今年はちょうど水俣病公式確認から60年という話をした時に、石牟礼さんが「60年間も一度も自分の思いを伝えられない人がいるんですね」と仰るんですね。 

I:長い年月ですね。 

W:人が生涯の間に一言も自分の思いを語ることができないということがどういうことか。・・・杢っていう少年は人の言っていることは全部わかるんです。だけども自分の思いを伝えることができない。 

S:最初は爺やんがそう思いたいということもあるのかと思ったんです。でも最後の涙のくだりを読むとほんとうに言葉以上に杢太郎君に通じているということがよく分かりました。 

I:おじいさんは杢太郎君のことを人一倍魂の深い子と言うんですよね。 

W:我々は自分の思いを語るということに慣れているんですが、「沈黙」というのは我々の心を深めて行きますよね。自分で言いたいことを言えないというときに、人は魂を掘り始めるんだと思います。そして杢太郎は魂を掘ることだけを定められた人間なんですけど、現代人は言葉というスコップでいろいろなものを掘ろうとする。けれども、杢太郎は素手で大地を掘るように生きているんですね。 

S:言葉を喋れないというのは、果てしなくきついことだけれども、言葉がなくてもできたコミュニケーションがあるんですね。・・・ 

I:お爺さんと杢太郎君のような・・・魂のやり取りというか・・・

 

<石の神様に込められた祈り>


 

I:お爺さんは拾ってきた石を杢太郎君の守り神にしようとしましたね。 

W:ぼくは、<祈り>ということをどうしても感じてしまいます。・・・「苦界浄土」という作品はもちろん、怒りや恨みも描かれています。しかしその底に何とも言葉にできないような深い祈りが、怒りと恨みを支えている。 

S:逆に言うと一番正しい信仰、宗教の起こり方のような気がします。たまたま人間に似ているように思えた石に託してそれに祈りたい。 

W:石牟礼さんはイハン・イリイチという大変世界的に知られた思想家と対談しているんですけど、その中で「水俣病が起こった時、日本の宗教はすべて滅びたと感じた」と語っていますね。それはぼくにとってはとっても衝撃的だった。確かに水俣病が起こった時、それに寄り添った宗教者たちはいたんです。しかし、宗教界は沈黙した。 

こういうところで新しい信仰というものが生まれていると石牟礼さんは言っています。
W:それから、この事件が起こったのは辺境の地だったということですね。日本人はどうしても東京中心の世界観で生きている、しかし近代の闇を突き付けてくるような問題は東京からではなく、辺境から起こる。それは見えにくい。我々はそのことにしっかり目を見開いていかなくてはならないと思います。 

S:福島のことを忘れてしまって今となっては何も考えない人もいるわけじゃないですか。でも福島は東京にたくさん電力を送るために作られていた原子力発電所で、それが天災であるところの地震とミックスされた形で、今現在「被災地」と呼ばれるところになっているわけですね。それに対して、「福島大変ですね」という人もいる。でもこれですらちょっと他人事じゃないですか? 

W:東日本大震災以後ですね、何が起こったかというと、やはり人々が故郷を奪われたということがとても大きいと思います。自分の生まれたところの命のつながり、時間のつながりというものが失われた。水俣病事件というのはそういう現実を我々に突き付けて来たんですね。 

S:ぼくは新製品が好きだし、未来的なものが好きだから、進歩を止めろという側にはならないんですが、でも、何かが前進するときそう簡単じゃないよというということは肝に銘じておかないといけないんじゃないかなと思いました。 

I:「苦界浄土」というのは50年前に書かれた本ですけど、今を生きる私たちも深く受け止めて行かなくてはならないということを噛みしめました。 


立ち止まる勇気

2018年04月07日 16時06分53秒 | 紹介します

 私はここ雫石に住んで思うことがあります。「ほんとうの豊かさ」とは何だろう。確かに近代になって、私たちの生活は大変便利になり、快適になったが、それによって失ってしまったものも多いのではないだろうか。それは一言でいうと、心の豊かさだ。

 私は2000年前のナザレやガリラヤ地方の情景を懐かしむ。また日本でいうと、江戸時代の武士や町人たちの生きざまに惹かれる。(もちろんその時代にはその時代なりの苦悩があったであろうが。)

 昔を今に帰すことはできないし、現代の科学技術がもたらした恩恵を捨てて、原始時代に帰ろうとも思わない。しかし、ここで立ち止まって、失いつつあるものを再認識し、本来の人間らしい生き方に立ち帰ることが人類には絶対必要だと思う。もしそうしなければ早晩この文明は破局を迎え、滅亡するだろう。

 そのことに関して先に、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を通して、そのような兆候が現れていることを指摘したが、さらに日本国内で起こったいわゆる水俣病事件を通して、近代化によって人々の心が如何に蝕まれたか、いや人間だけではなく、自然が破壊されてしまったかを指摘したい。

 題材は「100分で名著:「苦海浄土」を読み解く」から引用した。コメンテーター名を記号で記したのは、あくまでも私個人のとらえ方である一方、さまざまな見方を紹介するためだ。 

 番組そのものに興味がある方はユーチューブなどで上記番組名を検索してご覧になっていただきたい。

 

<100分で名著:「苦海浄土」を読み解くより>・・・

 敗戦後目覚ましい高度成長を遂げた日本、豊かさの代償として公害問題が各地で起こりました。大気汚染や工場排水で自然が汚れ、人体に深刻な影響を与えていたのです。

 中でも甚大な被害をもたらした水俣病、その水俣病と向き合い真実の姿を世の中に知らしめたのが「苦界浄土」です。作者の石牟礼道子さんは水俣に住む一介の主婦でありながら患者たちの魂の声を伝えようとしました。

 

I:「苦界浄土;我が水俣病」は、1969年に出版されまして、広く社会に水俣病を知らしめる作品になったわけですね。今年は水俣病公式確認から60年という年ですので、そんな節目に深く読み解いてまいりましょう。指南役のさんです。よろしくお願いします。

さんが「苦界浄土」を読まれたきっかけは何だったんですか?

W:たまたま古本屋で見つけたんですが、「もしこの本を読み通してしまったら自分の人生が変わってしまう」と感じたことを今でもはっきりと覚えています。

I:震災後に改めて読んだということですけれども。

W:我々が東日本大震災で直面したことは「命」と「生きる意味」という問題だったと思うんですね。この二つをめぐってこの本が書かれているということが、その時になってやっと分かったという感じがしましたね。

I:では基本情報を見ていきましょう。

苦界浄土;わが水俣病

作者は石牟礼道子(いしむれみちこ)

第一部が1969年に発表され、その後第3部「天の魚」/1974年を先に出しまして,次に第2部「神々の村」/2006年と、およそ40年かけて書かれた大作です。

 

 W:この本は何となく告発文学のようにとらえられています。しかしよく読んでみると決してそれでは終わらない、むしろこの物語の一番大事なところはそこにないと思います。

S:タイトルやなりたちを見たりすると、ルポルタージュと言いますかね、でもメインのところはそうじゃない・・・

W:やはりこの物語の主人公は言葉を失なった人たちだということが、とても大事なことだと思うんですね。水俣病というのは人間から喋る機能を著しく奪う病なんですね。

そういう人の、言葉にならない思いっていうのを石牟礼道子という人が掬い上げて書き上げたというところに、独自の意味があるんだろうと思います。

 

<苦界浄土が生まれた背景>

 熊本県の最南端不知火(しらぬい)海に臨む水俣市は昔から豊かな海が人々の暮らしを支えて来ました。今から60年前、保健所の医師からある届け出がありました。「手足のしびれや言語障害を症状とする奇病が発生している。」

 原因は化学肥料などを造る「チッソ」の工場が垂れ流していた有毒の有機水銀でした。しかし「チッソ」はその事実を知りながら排水を止めなかったのです。経済成長の名のもと国や県も規制をせず、被害は広がって行きました。

 ひとたび水俣病にかかると段々言葉が不自由になり、自分の苦しみを表すこともできなくなります。初期の患者たちは激しい痙攣や硬直を起こして亡くなっていきました。

 その姿を目にした、地元に住む石牟礼さんは思わずペンをとりました。

 最初に書かれたのは「ゆき女きき書き」という章です。(苦界浄土第3章)

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 昭和34年5月下旬、まことに遅ればせに水俣病患者を一市民として私が見舞ったのは、坂上ゆき(37号患者、水俣市月の浦)と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。

 真新しい水俣病の特別病棟の階廊下は、かげろうの燃え立つ初夏の光線を透かしているにもかかわらず、まるで生臭いにおいを発している洞穴のようであった。それは人々のあげるあの形容しがたい「おめき声」のせいかもしれなかった。

ゆきは早くに夫を亡くし、同じく連れ合いと死に別れた漁師の茂平と再婚、夫婦(めおと)船で仲良く漁に出ていましたが、ゆきが病にかかると茂平がその世話をしていました。ゆきの体はずっと痙攣(けいれん)し続けており自分で食事をすることも、歩くこともできなかったのです。

 

 嫁に来て3年もたたんうちにこげん奇病になってしもうた。残念か。

 うちは自分の体がだんだん世の中から離れていきよるような気がするとばい。自分の手でものをしっかり握るということができん。世の中から一人引きはがされていきよるごたある。

 うちはさびしうしてどげんさびしかか。あんたにはわかるみゃあ?

 

 海の上はほんによかった。爺ちゃんが艫櫓ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで、今頃はいつもイカ籠やタコつぼやらをあげに行きよった。ぼらもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもも、もぞか(可愛い)とばい。

月から10月にかけてシシ島の沖はなぎでなあ・・・

 

I:ほんとに一部の抜粋ですけど、心を動かされるものがありますね。

S:病の様子だけではなくて、病に罹る前の元気で漁に出ていたころのきらきらした夫婦での生活も描かれていますね。


<水俣病はなぜ発病したのか>

「チッソ」水俣工場の排水に含まれていた有機水銀に魚介類が汚染され、その魚介類を食べた人が脳などの中枢神経が破壊される有機水銀中毒に罹りました。認定患者は2280人、うち死者1879人、認定を求める患者は1万2千人いるが、実際はその10倍だと言われています。未だにその治療法は見つかっていません。

 

S:さっきの抜粋した文章と重ね合わせると、二人で櫓を漕ぐこととかタコやイカを可愛いと感じられたりするほど海と寄り添った暮らしをしていたからこそ、罹ってしまった病なんですね。

W:病に罹った人たちは奇病ですから、そのことでまず差別を受ける。また貧しいからなったんだというほんとうに根も葉もないデマのような噂にも苦しめられざるを得なかったようです。

S:そういう状況の表現として「自分の体が世の中から離れて行くようだ」と仰っていますが、・・・

W:体が離れて行くと言うときに、彼女はとっても強く「自分の魂」を感じている。

S:つまり私たちは日ごろ世の中とくっついているんだという意識を持っているのに、これがあと数ミリで離れてしまうかも知れないという意識があるんですね・・・。

 

<「苦海浄土」の誕生>

 1969年「苦海浄土」でセンセーショナルに文壇に登場した石牟礼道子、詩をたしなむ主婦だった石牟礼さんは水俣病と出会ったことで作家になります。

 50年代からすでに奇病のうわさは町に広まっていました。

 石牟礼さんがうめき声が響く病室を訪ねると、そこで見たのは苦しさのあまり患者が壁をかきむしったその跡でした。その時出会った一人の漁師、その姿を目にした時の衝撃を次のように記しています。

*****

 「安らかに眠って下さい」などという言葉はしばしば生者たちの欺瞞のために使われる。この時この人の死につつあった眼差しはまさに魂魄(こんぱく)この世にとどまり、決して安らかに往生などしきれぬ眼差しであったのである。

 この日はことに私は、自分が人間であることの嫌悪感に耐えがたかった。この人の悲しげな、山羊のような、魚のような瞳と、流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄はこの日から全部私の中に移り住んだ。

 

I:石牟礼道子さんという人は普通の主婦の生活をしていらっしゃったんですよね。

W:それが病を得た人々の姿を見て彼女が書き手になって行く。彼女は自分でなりたくてなったのではなく、ならざるを得なかったと言っています。

I:この「苦界浄土」は聞き書きでなく石牟礼さんの創作もかなり入っていると伺ったんですが。・・・

W:水俣病の患者さんたちは話すことができないわけなんですよね。だけども石牟礼さんに言わせれば我々が聞いている言葉とは違う、心から心へ伝わるような言葉を彼女は引き受けているんだと思います。それは彼女にきわめて深い実感と自覚があるからだと思うんですね。ルポルタージュという純粋な意味での聞き書きではないし、また我々が今日考えるような創作とは違う、とぼくは思っています。

S:ここはとても大事なことだと思うんです。聞いたものを理解して、その場にいなかった人間に通訳として渡す、という行為が「創作」といえば「創作」なのかもしれないけれど、心の部分を伝えるためにぎりぎりの表現をするということですね・・・

W:やはり言葉を奪われた人の口になるっていうことなんだと思います。それは自分の思いを語るのとは違う。相手はほんとうに語りたいことがたくさんあるのに、語ることができなくなったという水俣病の患者さんたちだったわけですよね。その口になるというのが、石牟礼さんの書き手として立っていくときの覚悟なんだと思います。

水俣病というのは別の言い方をすると<沈黙を強いる>病だと思うんですね。我々が今「苦界浄土」という作品を通じて、その沈黙の中にこんなに痛切でたくさんの思いが潜んでいる。

I:そう考えると独特な本ですね。

W:石牟礼さんが「自分は詩のつもりで書いています」と仰っているのを聞いた時、ほんとうに心が震えました。でも何かわかるような気がしたんですね。今までにない問題が現れて来た以上、表現も生まれ変わらなくてはならない、というのが石牟礼さんの持っていた深い認識だったと思います。

S:彼女がここで暮らしていたこと、そこでこんな恐ろしいことが起こってしまったこと、そしてたまたま彼女が詩を嗜んでいたこと、すべてに意味があった・・・

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<ゆき女きき書き>

 病床にあってもゆきは我が庭のような海のことを懐かしがり、再び漁に出ることだけを願い続けます。しかし治る見込みがないことも感じており、こう語るのです。

人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。うちはやっぱりほかのもんに生まれ変わらず人間に生まれ変わってきたがよか。うちはもういっぺん爺ちゃんと舟で海にゆこうごたる。うちが脇櫓ば漕いで爺ちゃんが艫櫓ば漕いで二丁櫓で。・・・漁師の嫁ごになって天草から渡って来たんじゃもん。・・・うちはぼんのうの深かかけん、もう一遍きっと人間に生まれ替わってくる。


W:
ぼんのう(煩悩)と言いますと我々は欲望とか執着とか、捨てなくてはならないもののように理解しているんですけど、石牟礼さんは煩悩は情愛という言葉に置き換えられると仰っています。捨てるんじゃなくて深めることができる。ひらがなにすることで語り手がどのくらいこの世界を愛しているかということも伝わってきますね。

S:逆説的に言うとこの病気がどれだけ苦しいかということも・・・

W:肉体は、もう苦しいなんて言葉で言えないくらい苦しい。だけども彼女の存在の深みではとても豊かな命を生きている・・・

I:そこでこの人は生きていて、命を全うしている・・・

W:むしろ我々に命というものがどういうものかということをまざまざと教えてくれていると思います。

S:なんかほんとうに心に突き刺さりますね。

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<坂本きよ子さんという20代の患者さんとそのお母さんの話>

 きよ子は手も足もよじれて来て、手足が縄のようによじれてわが身を縛っておりましたが、見るのも辛うしてそれがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散りますころに、わたしがちょっと留守をしておりましたら縁側から転げ落ちて地面にほうっとりましたです。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で桜の花びらば拾おうとしとりましたです。曲がった指で地面に、にじりつけてひじから血出して「おかしゃん、ば」ちゅうて花びらば指すとですもんね。花もあなたかわいそうに地面ににじりつけられて。

 何のうらみも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった1枚の花びらば拾うのが望みでした。

 それであなたにお願いですが、文ば「チッソ」の方々に書いてくださいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に花びらば1枚、きよ子の代わりに拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に。

 
W:
とても象徴的な言葉なんですが、石牟礼道子さんという人がなぜ文章を書き続けているのかということがとても鮮明に描かれていると思うんですね。「苦界浄土」というのはとっても悲しいんですけど、それだけでは終わらない美しさがやはりそこにある。・・・

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<近代の闇>

 1960年代、高度成長を果たした日本は大量消費時代に突入。人々が豊かな暮らしを手に入れ始めていたころ、各地で深刻な公害問題が起こっていました。そのさなかに刊行された「苦界浄土」は社会に大きな衝撃を与えました。それは作者石牟礼道子さんによる我々日本人への鋭い問いかけでもあったのです。

W:水俣病という病は近代という時代が生み出したものだと言っていいと思うんですね。石牟礼さんたちが暮らしていたのは、言わば古代的な自然と共に生きている世界であって、近代というのは人間中心の、人間が作った社会であって、その二つの世界がぶつかり合った、そういうところに生まれたのが水俣病だったと思います。

 

 S:では水俣がもともとどのような場所だったのか見て行きましょう。

石牟礼さんは天草で生まれ 水俣で育ちました。幼いころから親しんだ水俣のかつての

姿を「椿の海の記」で次のように描写しています。

 

 春の花々があらかた散り敷いてしまうと大地の深いにおいがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿は朝明けの靄(もや)が立つ。朝日がそのような靄をこうこうと染め上げながら昇りだすと光の奥からやさしい海が現れる。大崎ヶ鼻(うさぎがばな)という岬の磯に向かって私は降りていた。

 

 楽園のようなこの場所には近代とは全く異なる暮らしが根付いていました。水俣湾を包む不知火海は魚介類の宝庫であり、村人たちはずっと海の恵みとともにありました。

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 あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただでわが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこに行けばあろうかい。

 

S:病気の描写に対して逆にこっちは光の部分なんで、とても幸せなというか、・・・

I:素晴らしい場所だったんだなあというのが分かりますよね。

水俣というのはこの不知火海に面したところにあります。不知火海は九州本土と天草に囲まれた内海で、大変豊かな漁場だったんですね。

W:お魚も大変よくとれる場所なんですけれども、その分だけお米とか野菜などがあまり簡単に手に入らないわけですね。そうしますと漁民の人たちは自分で捕った魚をたくさん食べる、作品の中では一升の一升皿に入れたお魚を食べる、そういう人たちが水俣病に罹って行ったとありますね。

S:天の恵みであったお魚が逆に汚染されて行くという・・・

W:一番海を愛した人たちが、海によって傷つけられた。その海というのは自分たちの愛した海ではなくて、近代が冒した海ですよね。

 

I:ではその水俣が近代化の中でどう変わって行ったのでしょうか。

 水俣のシンボル、「チッソ」水俣工場、明治末期に工場ができて以来会社の発展と共に水俣市も成長して行きました。戦後の「チッソ」の主力製品は塩化ビニールやプラスチックに使用する化学原料、これらは冷蔵庫や洗濯機の部品にも使われていました。経済成長と共に生産量も増加し、工場からは膨大な量の排水が流されるようになりました。

 1959年熊本大学医学部は水俣病の原因として有機水銀説を発表。その時すでに「チッソ」は原因を突き止めていました。しかし、操業を止めることはありませんでした。国が「チッソ」の排水が原因と発表したのはそれから9年後のこと。長い間、謝罪もなく放置された患者やその家族の中にはこう語る者もいました。

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 銭は一銭もいらん。その代わり会社のえらか衆の、上から順々に水銀母液ば飲んでもらう。上から順々に42人死んでもらう。奥さん方にも飲んでもらう、胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人水俣病になってもらう。あと、百人くらい潜在患者になってもらう。それでよか」

・・・もはやそれは死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである。

 

S:ほんとうに怒りの凝縮された言葉ですよね。

W:言葉にならない叫びですよね。

S:さっき、「姉さん、魚は天のくれらすもんでごわす。要るだけ魚とってその日暮らす、こんな幸せな暮らしあります?」って言ってた水俣の人たちがここまでになる、それだけ大事なものが、それだけ傷ついたということの裏返しでもありますね。

I:そもそも会社としても原因がわかっていたという風にありましたけれども、会社は排水を止めることができなかったんでしょうか?

W:「チッソ」という会社は水俣市という小さな町の中で大変大きな影響力を持っていたんですね。それは経済的だけでなく、様々な影響力を持っていた。また暮らしている人にとっても「チッソ」という会社は誇りだった。地元で暮らしている人たちも「チッソ」で食べている、「チッソ」によって生きているということなんです。

S:「チッソ」というのは肥料を作る会社のイメージが少しあるんですが、実はプラスチックの原料を作っていた・・・

W:そうなんですね。

S:我々の世代は、夢のプラスチックとか言って、プラスチックはすべてに優る、なんかプラスチック製品ってかっこよく見えたんですね、子供心に。

I:そうなんですか。

S:ぼくらが小学校に入るころには、プラスチックのない世の中は考えられなくなってくるわけで・・・ほんとうにプラスチックこそが近代の象徴で・・・

W:やはり自分たちが何をしているのかということを知らないで、我々はその成果だけを手に入れようとしたんだと思うんです。

W:宇井純(1932-2006)という人が「公害に第三者は存在しない」という言い方をしています。どういう事かというと、一方で我々もプラスチックを使っているわけですよね。水俣病を客観的にみると、我々も知らないうちにそれに加担しているわけですね。・・・

 

<近代的知性とは>

W:当時の「チッソ」という会社はですね、大学を首席で卒業したという証明書がなければ入れなかったくらい、ものすごく優秀な人たちが勤めていた会社なんですね。ぼくはこれから考えてみたいのは、近代的な知性が独り歩きするとき、とっても危ないということなんだと思うんです。

S:ぼくは進歩も近代化も完全否定はしない。それは必要だからであり、みんなが幸せになるためだと思うんですけど、どこかで進化のための進化、なんか命題が変わってしまい、<プラスチックを作る>ということが目標になる。そういうことが起きるという自覚が、現代社会に今もあるかどうか分からないけれども・・・

W:幸せとは何かということを考える前に、プラスチックを増産してお金を儲けるということが第一目標になって来るんですね。幸せを求めていたはずなんですけど、ほんとうの意味での「幸せ」すら求めなくなる。

もっと言えば、「幸せ」とは何かをよく考えないまま、我々は「幸せ」だと言われていることに向かって走り出した。これが近代という時代じゃなかったかなと思うんですね。

 

<近代という人格>

W:石牟礼さんは、「近代産業の所業はどのような「人格」としてとらえなければならないか」と仰っていますが、・・・

I:実体のないものを「人格」、人であるという・・・

W:今日の我々の表現でいうと、「バケモノ」みたいなもの、人間の欲望ということだと思うんですが。これは大変見えにくいですよね。例えば国家であったり、巨大産業であったり、会社であったり・・・

 

I:ではその「近代という人格」によって押しつぶされようとしたものは何だったのか。ごらんいただきましょう。

*****

 杉原彦治の次女、ゆり、41号患者、無残に美しく生まれついた少女のことを、ジャーナリズムはかつて、ミルクのみ人形と名付けた。現代医学は彼女の緩慢な死、あるいはその生の様を規定しかねて、植物的な生き方ともいう。

 ゆりはもう抜け殻じゃと、魂はもう残っとらん人間じゃと新聞記者さんの書いとらすげな。大学の先生の見立てじゃろかいな。そんなら父ちゃん、ゆりが吐きよる息は何の息じゃろか。草の吐きよる息じゃろうか。うちは不思議でよーくゆりば嗅いでみる。やっぱりゆりの匂いのするもね。ゆりの汗じゃの息の匂いのするもね。身体ばきれいに拭いてやったときには、赤子のときとはまた違う、肌のふくいくしたよかにおいがするもね。娘っ子のにおいじゃとうちは思うがな。思うて悪かろうか。ゆりが魂のなかはずはなか。そげんした話は聞いたこともなか。木や草と同じになって生きとるならば、その木や草にあるほどの魂ならば、ゆりにも宿っておりそうなもんじゃ。なあ、父ちゃん。


S:いつの時代もあるマスコミの無神経さみたいなものと、それがお母さんの心ををえぐってしまうことも含めていろいろなことがこの中に入っているような気がします。

 

W:ジャーナリズム、もしくは現代医学というものは目に見えるものしか見えていない。お母さんがここでほんとうに目を離さないのは、娘の魂はどこに行ったんだという問題なんですね。ここでは「娘の魂の匂い」という言葉すら使っているわけですけれども、・・・

 

I:実際に産んでお世話をしているお母さん、我が子の存在を匂いや汗で感じているというのが、すごく迫って来ますね。

 

W:その匂いや汗っていうのもお母さんにとっては魂の現れなんです。生きている魂の現れとしてお母さんに受け止められているんですね。

 

 水俣病の訴訟、もしくは水俣病事件というのは、患者の人たちにとっては、ほんとうに今もですけれども、魂の問題なんです。

 

いわゆる現代医学とジャーナリズムは確かにそれを捉えにくい。けれども、魂の問題、命の問題と言い代えてもいいんですが、その問題を国が尊厳をもって受け止めてくれていないというこれは大きな「異議申し立て」なんだと思います。いくらお金をもらっても駄目なんです。

 

I:そしてゆりちゃんは41号患者というふうに呼ばれていたんですね。

 

 <番号で呼ばれる患者たち>

 

W;そうですね。ぼくはこれは決して見過ごしてはならないことだと思います。人を番号で呼ぶというのは、アウシュビッツがそうだったんですね。ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という本を開くと、「収容所に入れられた人たちは番号で呼ばれた、そして名前を奪われた。」という話が最初に出て来ますね。人を番号で呼ぶというときには、我々は人間がかけがいのない存在だということを忘れているんです。

 

S:この本はそのことをわざと投げかけてきていますよね。

 

W:番号にするというのは人間を量的な存在として考えるということですね。ですけれども我々の命と言うのは徹底的に質的なものですね。そして質的なものというのはかけがいのないただ一つのものということです。石牟礼道子さんの世界では、ほんとうは人間の命と言うものは、番号なんかで呼ぶことのできない何ものかであって、近代的知性というものはそれすら番号で呼ぼうとする。

 

I:石牟礼さんご自身はその近代の闇にどう立ち向かおうとしていたんですか?

 

W:石牟礼さんを頻繁にお訪ねして、ある時「苦界浄土」をどんなお気持ちで書かれたんですかとお聞きしたら「戦いだ」、「一人で戦うつもりで書きました。今も戦っているつもりでいます。」と仰っていましたね。

 

近代という「バケモノ」に我々が立ち向かおうと思ったときに、我々は最初は個人で立ち向かわねばならない。一人立つというときに何か計り知れない力がある。 

 

I:現代はすごく人とつながりますし、集まったり群れたりということが簡単にできますけれども、個人で立ち向かうという厳しさというのを聞きますと、・・・

 

S:自分が正しいと信じて独りでやっていたら誰かがわかってくれるということかな?

 

I:石牟礼さんの闘い続けているその強さと、そして今もなおその問題が続いているということを我々は忘れてはいけませんよね。

 

W:「水俣病は終わらない」ということを言った人がいます。我々はそこから今も大きな問いを突き付けられていると思います。

 

 

 

I:今日は<近代の闇>ということで読み解いてきました。公害に第三者はいない、近代化の恩恵を私たちも十分解っていて、このことは自分たちの物語でもあるんだなと感じ始めたところです。

 

Sさんいかがですか?

 

S:ぼくは「チッソ」という企業が、水銀を大丈夫だと思って流し続けた時代と、わかっていてそれでも止まれなかった時期の問題と、そこには結構大きな差があって、少なくとも自分たちは止まる勇気とか、スピードを落とす勇気とか、時には逆行に見えることをする勇気みたいなのがないと、いけないということを学びました。