良い本を電子化して残そう

著作権切れの場合は、管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約です。oyamakuniopy@gmail.com

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立ち止まる勇気2

2018年04月10日 11時26分54秒 | 紹介します

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<「水俣病」が私たちに投げかけている終わりなき問い>

W:水俣病の患者さんたちは病気を負うことで大変な苦しみや悲しみや嘆きというものを生き抜かなければならなかった。そこから大変深い思想や哲学が生まれて来ています。石牟礼さんも彼らから深い影響を受けたと仰っています。

I:水俣病の患者の一人である漁師のOさんを御紹介します。

 水俣で代々漁業を営むOさん、両親と兄弟8人が水俣病に侵され、自らも長年手足のしびれや頭痛に苦しめられています。水俣病を広く伝える活動を続けて来ました。

I:あのご家族で8人も水俣病に罹ってしまわれたそうですね。

O:私の兄弟家族を含めてですけど、一番衝撃を受けたのは私が6歳の時に、父親が発病して2か月足らずで亡くなってしまいました。私は今62歳で、これは水俣病60年ということとも重なり合うので、非常に小さい時にどでかい課題を与えられたなという気持ちでいます。

S:今も漁に出られるんですか

O:そうですね。ほぼ毎日漁に出ています。水俣病が起きた不知火海で今も漁をしているわけですけど、私たちはどこかで海に養われてきた恩義があるものですから・・・

S:それがとても外の人間にはわからない部分でね。大本をたどればそれは「チッソ」から、都会のしわ寄せから来たんですけど、海から毒も来たわけじゃないですか。それでも自分たちは海と暮らすという・・・

O:多くの水俣病の被害者や患者からは、海や魚を怨む言葉はほとんど出て来ません。海があったればこそ自分たちが支えられて来たということを肌身で感じてきたからだと思いますね。もう一つは何千年、何万年と食べてきた魚に毒が入っているなんて簡単には信じられないんですよね。食というものは生き物の生命の記憶として長い間続けれられて来たものですから。だから「魚を食べるな」というのは、「鳥に空を飛ぶな」というのと同じなんですよね。空気みたいなもんで、我々はそれを吸わないと生きていけないんですけれども、・・・

S:生命の記憶ごと汚されたということなんですよね。 

I:ではOさんがこれまで歩んでこられた道を見てみましょう。 

 水俣病の認定を求めて行政を提訴したOさん、400人の患者団体の先頭に立って闘って来ました。

 ・・・しかし、気が付けば「チッソ」や行政との戦いはお金の問題になっていました。「苦界浄土」にも次のような場面が描かれています。
 

水俣病患者互助会59世帯には、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者には3万円を発病時にさかのぼって支払い、過去の水俣工場の排水が、水俣病に関係があったことがわかっても、一切の追加補償は要求しないという契約を取り交わした。

「大人の命10万円、子供の命3万円、死者の命は30万」・・・と、私はそれから念仏にかえて唱え続ける。命さえもお金に換算される現実、多くの患者たちは疲弊して行きました。

 Oさんは31歳の時、患者団体を抜けて、たった一人で戦う道を選びました。認定申請も取り下げるという厳しい覚悟で臨んだ道です。そして時代と逆行するようにプラスチックではなく、木の舟を作りその船で「チッソ」本社前に通い、半年にわたって一人で座り込みを続けたのです。

Oさんは次のような境地に達します。

 <私は「チッソ」というのはもう一人の自分ではなかったか?と思っています。>

O:それまでは外側にいる敵として「チッソ」を見ていたわけですけれども、もし自分が「チッソ」の工場の中で働く労働者や重役の一人だったらどうしただろうかという問いを初めて持ったわけです。それまでは被害者患者家族という視点から責任を問うていたんですけれども、どこかでそれがお金に換算されていく、補償金とかね。そのことに非常に絶望感を感じて命さえも値付けされていくということに居たたまれなかったんですね。

S:ぼくはこの歳になってやっと文明を追い求める自分も加害者側なんだということが少しだけわかって来たような気がするんですね。それを当事者が分かるってどういうことですかね。当事者はどんなに恨んだっていいじゃないですか。

O:それはたぶんそこで私の視点が変わったんですよ。ほかの生き物たちから見たらどう見えるだろうか。亡くなった死者たちから見たらどう見えるだろうか?例えば、お金は亡くなった人たちには直接通用しないんですよね。それからほかの生き物、魚や猫に、これでなかったことにしてくれというわけにはいかないんですよね。人間の社会だけでかろうじて通じている価値観だけで、なかったことに、終わったことに、忘れてくれなんて言う話になっちゃっているんです。人間の一人として、私も問われているんではないか。ということが起きちゃったんですね。

I:じゃあ一人で闘おう。認定の申請も取り下げる。・・・今のお話って石牟礼さんが「人間が担って行かなくてはいけないんだ」という、その価値観とも通じるものなんでしょうか。

W:そうですね。やっぱりOさんも人間からの視点からだけじゃないという点がぼくはとても心打たれるんですね。石牟礼さんも強くおっしゃっていますけれども、とにかく人間が見て、いいんだ悪いんだ、という人間にとって得だ、損だというような倫理観、人間中心の倫理観、世界観だけでは、この水俣病というのはどうしても解決がつかないんだということなんじゃないでしょうか。

S:海を中心にして「生態系の輪」の中で生きて来た生き物の原体験の中にあって、「チッソ」もその輪の中に入れたうえで考えていかなければ何もわからないんだということになる。

 それから木の舟で半年間「チッソ」の前で座り込みをされましたね。何故ですか?

O:正確に言うと、座り込みではなく、その日一日を「チッソ」の正門前で暮らすという、私にとっては「チッソ」の前は表現の場としてとらえたんですね。笑いたい人はどうぞ笑ってください。石投げたい人はどうぞ勝手にやって下さい。受け取り方はそれぞれで、私はただ自分の武装解除した姿を晒しただけなんです。

S:具体的には何をしていたんですか?

O:七輪で魚焼いて、焼酎飲んだりお茶飲んだり、草鞋を編んだり、・・・そのために作った木の舟だったんですよ。それこそプラスチックの舟で行くと早いんだけども、なんとなく癪に障るんですよね。ですから大工さんにわざわざ木の舟を作ってもらって、

S:その活動を見て「チッソ」の人たちはどういう反応を見せましたか?・・・

O:びっくりしてました。「一人で来られると困る」って言うんですよ。集団で来ると強制排除したり警察を呼んだりできるので、世間もある程度わかってくれるけれども、一人で来て、しかも営業妨害をしているわけではないので、排除しにくい・・・

I:そこで七輪で魚焼いててね。

O:一番最初に来たお客さんは猫だったです。魚の匂いで・・・

I:猫も、もしかしてチッソの前で表現してたかも・・・

O:小一時間、一緒に食べた後座っていた・・・義理を果たした・・・

S:猫も我々も魚を食べて生きているわけです。これこそ、悲しく楽しく深刻で、全部混ざったものじゃないですか。・・・

そんな中で石牟礼さんはどういう反応をなさいましたか?

O:一番早く分かってくれたですね。

I:理解を示された・・・

O:理解というか、共感というか。むしろ喜んでくれたんじゃないかと思います。「常世の舟(とこよのふね)」という名前を道子さんに書いてもらって、それを大工さんに掘ってもらったんですね。

I:Oさんから見て石牟礼さんはどんな方ですか?

O:あの方は深いまなざしを持っています。私は<古層の現れ>というふうに思っています。古い時代がこの現代社会に立ち現れて、働きかけている姿を見ます。

そして不知火海沿岸の人たちの中でさほど、貨幣経済に染まっていない人たちが被害者になってしまったんです。ですからどちらかというと、感じる世界で暮らしてきた。それを文学として表現したのが道子さんだったと思います。

 

I:ではもうひとかた石牟礼さんが大きな影響を受けた患者さんを御紹介しましょう。 

水俣病で両親を亡くし、自らも患者として 抱えながら漁業を続けてきた杉本英子さん。親しかった石牟礼さんに杉本英子さんはこう語ったと言います。

石牟礼道子:私たちはもう許すことにした。全部許す。日本という国も許す。「チッソ」という会社も許す。いろいろ差別した人も許す。許さんばきつうしてたまらん。みんなの代わりに私たちは病んでいる。それで許す。英子さんはそう仰っていました。

 それで私たちは許されているんですよ。代わりに病んでいる人たちから許されて生きている。罪なことですね。

 やがて英子さんは耐え難い苦しみを与えた水俣病を「のさり」;海の恵みだと表現するようになります。病を得たからこそ、見いだせたものがあると、亡くなるまで語り部としても活動を続けました。

 

S:これまたすごい話だなあ・・・許す・・・

I:水俣病の患者さんからこういう言葉が出てくるんですね。

O:杉本英子さんが言う「のさり」というのは、天から授かるという意味合いなんです。熊本弁でたとえば子宝に恵まれるのを「のさる」と言います。危ういところを助かって命が「のさった」とかですね。大漁だった後で・・・「のさった」と。さらにその逆にも使います。苦しいことがあった時、悲しいことがあった時も本人に言い聞かせるように、「これもまたのさりぞ」と。杉本英子さんが使っているのは「苦もまたのさり」すべてのことを身に引き受けるという意味ですね。

S:もちろん、今もそうは片づけられない被害者の方がたくさんいると思うんですが、時間をかけて一部の人たちだけでもこう言ってくれていることで、・・・これを言われちゃうと我々に借りはないなんて思えないんですよ。俺らは許された側じゃないかということになりますよね。そうするとやっぱり恥ずかしさというか・・・。

W:ぼくなんかやっぱり、彼らが今も苦しんで生きてくれている。その生涯から意味深いものを掬い取るのは後世の者の務めだと思うんです。そして石牟礼さんはそれを50年前に見つけて、「苦界浄土」の中にギュッと結晶させた。・・・

*****

<ゆき女聞き書きより>

 5月、患者の雪はこんな望みを語るのです。海の景色も丘の上と同じに夏も冬も秋も春もあっとばい。うちはきっと海の底には竜宮があると思うとる。夢んごと美しかもね。海に飽くってこたあ決してなかりよった。

 磯の香りの中でも、春の色濃くなった「あをさ」が岩の上で潮の引いた後の陽に焙られるにおいはほんに懐かしか。

自分の体に日本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと身体を支えて、ふんばって立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、「あをさ」を採りにいこうごたるばい。

うちは泣こうごたる。もういっぺん行こうごたる、海に。

 

S:この望みは都会の言うところの贅沢でもないし、ささやかなことじゃないですか。これがでも一番の望みなわけですよね。

I:海に春があるっていうことでしたけど。不知火海の春の海ってどういう感じなんですか。

O:陸上より海の底のほうが春は先に来ると私は思っています。その一番典型的なのが若芽ですね。年が明けるころからもう芽が出始めて、正月のころには芽がちょっと出ているんですよね。

S:新芽がもう出ているんですか?

O:だから若い芽と書いて若芽というんです。それがだんだん成長して若芽もヒジキも成長して行くわけです。

I:ゆきの最期の望みも春の海に行きたい、自分の腕で櫓を漕いで「あをさ」採りに行きたいということでしたね。

O:その気持ちはよく分かりますね。海の春っていうのは、いのちの賑わいの中に、人が参加できるわけですよね。・・・

W:石牟礼さんにお会いした時に、「どういう気持ちで「苦海浄土」をお書きになっていましたか」という質問をしたことがあります。その時、「大変苦しかったです」と仰ると思っていたんですが、彼女はそのために身体を壊していくんですけれども、彼女が言ったのは「荘厳されているような気持でした」と仰いました。「荘厳」というのは仏教用語でもともとは深いところから仏様の光に照らされていくといったような意味なんですね。彼女がおそらくその時に語ってくれたのは、患者さんたちの深い祈りに包まれているような心地がした、たくさんの苦しみ、たくさんの悲しみをあじわったけれどもその先にある何か、祈りとしか言いようのないものに支えられて、自分は一文字一文字書いてきた、と仰っていました。

I:最初のイメージとはだいぶ違って深く、この「苦界浄土」を深く読み解いてきました。

S:なんだかわからないけど、ぼく最初の一文で声が詰まったんですけど。そういう意味で本を読んで理解するんじゃなくて感じたいなと思いました。本音を言いますとどの作品よりもエネルギーがいりましたね。


以下は私の感想・・・

 水俣病などの公害問題は文明の進歩とともに、起こって来たし、今も日本だけに限らず世界中に起こりつつある。

 特に私は現象としての自然界や肉体を蝕む公害はもちろんだが、人間の精神を蝕む「公害」が蔓延しているのではないだろうかと危惧する。 

過去においては、テレビの普及によって「一億総白痴化」ということが言われたが、昨今はインターネットとスマートフォンの普及によって、個々の人間の精神が矮小化しつつあるのではないだろうか。目の前の人と人との関係が希薄となり、ヴァーチャルな自分だけの世界で個々人が生き始めている。しかもその個々人が個性豊かに成長して行くというならまだしも、没個性的な大衆迎合主義に冒されてしまいやすい。ビッグデータを解析し、自ら進化し続けるいわゆるAI(人工知能)に人間が支配される時代が始まっているようにも思える。

いま私たちに必要なのは立ち止まる勇気だ。そして人間を含むすべての生物は進化の過程で物質(塵)から創造されたものに過ぎないという存在の原点に立ち返るべきである。

目を上げてこれらのものを視よ!誰がこれらを創造したか? 聖書の詩編

あらゆる真実を希求する宗教はそこに辿り着く。

コメント

立ち止まる勇気(つづき)

2018年04月10日 10時55分18秒 | 紹介します

I:石牟礼さんご自身はその近代の闇にどう立ち向かおうとしていたんですか?

W:石牟礼さんを頻繁にお訪ねして、ある時「苦界浄土」をどんなお気持ちで書かれたんですかとお聞きしたら「戦いだ」、「一人で戦うつもりで書きました。今も戦っているつもりでいます。」と仰っていましたね。

近代という「バケモノ」に我々が立ち向かおうと思ったときに、我々は最初は個人で立ち向かわねばならない。一人立つというときに何か計り知れない力がある。 

I:現代はすごく人とつながりますし、集まったり群れたりということが簡単にできますけれども、個人で立ち向かうという厳しさというのを聞きますと、・・・

S:自分が正しいと信じて独りでやっていたら誰かがわかってくれるということかな?

I:石牟礼さんの闘い続けているその強さと、そして今もなおその問題が続いているということを我々は忘れてはいけませんよね。

W:「水俣病は終わらない」ということを言った人がいます。我々はそこから今も大きな問いを突き付けられていると思います。

 

I:今日は<近代の闇>ということで読み解いてきました。公害に第三者はいない、近代化の恩恵を私たちも十分解っていて、このことは自分たちの物語でもあるんだなと感じ始めたところです。

Sさんいかがですか?

S:ぼくは「チッソ」という企業が、水銀を大丈夫だと思って流し続けた時代と、わかっていてそれでも止まれなかった時期の問題と、そこには結構大きな差があって、少なくとも自分たちは止まる勇気とか、スピードを落とす勇気とか、時には逆行に見えることをする勇気みたいなのがないと、いけないということを学びました。

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いのちの尊厳とは

水俣病の存在を広く世に知らしめた石牟礼道子の「苦界浄土」

患者さんとその家族の声なき声を掬い上げ、その意義を問うた作品として「いのちの文学」とも言われます。そこには経済成長を優先して来たこの国の姿も浮かび上がってきます。

 

S:ぼくらが子供のころ、日本が近代化するのに必要だったプラスチックを作るためにできたのが「チッソ」という工場で、そこから流れ出た水銀が巻き起こした水俣病だったという、この関係性みたいなものが、現代でも終わっていないんじゃないかということを考えさせられます。

W:「いのちの尊厳」ということが「苦界浄土」という作品を通じて、石牟礼さんがずーっと考え続けてこられたテーマなんですね。

*****

劇作家で俳優の砂田明さん(1928-1993)は「苦界浄土」を読み大きな衝撃を受けます。

水俣に移住し、一人芝居を製作、全国で上演して「苦界浄土」の世界を多くの人々に伝えようとしました。・・・

砂田さんは「苦海浄土」についてこのように語っています。

 水俣病は最も美しい土地を侵した、最もむごい病でした。そのむごさはまず力弱きもの、魚や貝や鳥や猫の上に現れ、次いで人の胎児たちや稚子、老人たちに及び、ついに青年壮年をも倒し数知れぬ生命を奪い去りました。生きて病み続ける者には骨身を削る差別が襲いかかりました。 

そして大自然が水俣病を通して人類全体に投げかけた警告は無視され、死者も病者も打ち捨てられ、明麓の水俣は深い深い淵となりました。

 

S:「苦界浄土」がさらにこの砂田さんの心を打ち抜いて、そのメッセージ;「大自然が水俣病を通して人類全体に投げかけた警告」が無視されたという言葉は心に刺さるものがありますね。

W:つまり水俣病、水俣病事件と言ったほうがいいのでしょうか、それを人間の目からだけでは見ない。魚や猫などの生き物の目で見てみる、そして生者、死者両方に彼の眼差しが注がれています。

I:石牟礼さんもこのような視点で、「土の低きところを這う虫に逢えるなり」というようなことを言っていますね。

W:人間というのは1メーター少しくらいの高いところから、どうしても世界を眺めているわけなんですね。けれども大変苦しいことがあって地面を這いつくばらなければいけない時に見えてくる光景というものが人生の中に幾度かあるんだと思うんですね。

 水俣病患者さんたちはそういうことを強いられた人々で、彼らは我々とは全く違う世界を視ている、人間も地を這うような虫になってみて初めて見えてくる世界があるのではないかということを彼女が詩の中で歌っています。

S:さっきの砂田さんの文章にあった、鳥、貝、猫、魚、胎児、これが繋がっているということをぼくらは気づかないんですけど、初めてこういう病気になった時に・・・繋がっているということを理解するのかな。

W:石牟礼さんは時々、「生類(しょうるい)」という言葉をお使いになるんですね。「生類」という大きな世界があってその中に人類があるんだと言って「人間の犯した罪を自分も背負わなくてはならない」ということをお書きになっていらっしゃいます。それは水俣病が「人類が「生類」に対して犯した大きな罪なんだ」と。

*****

<苦海浄土より>

杢太郎(もくたろう)とその祖父

 石牟礼さんを姉さんと呼ぶ漁師は「苦界浄土」の中でもひときわ強い印象を残す漁師です。9歳になる杢太郎は重度の胎児性水俣病患者として生まれて来ました。自分一人では歩くことも食べることも、喋ることもできません。そんな杢太郎のことを老人はこう語ります。

杢は、こやつは物を言いきらんばってん、人一倍魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。なんでも聞き分けますと。聞き分けはでくるが、自分が語るっちゅうこたできません。

 働き者だった杢太郎の父親も水俣病にかかり、母親は子供を遺して家を出て行きました。老人は自分が死ねば一家がどうなるか、心配で先立つこともできないと嘆くのです。

 「姉さん、この杢のやつこそ仏さんでござす。こやつは家族のもんにいっぺんも逆らうっちゅうことがなか。口もひとくちも聞けん、飯も自分で食やならん。便所も行きゃならん。それでも目は見え、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。ただただ家のものに心配かけんごと気ぃつこうて、仏さんのごて笑うてござりますがな。」

 ある日沖に漁に出た老人は、網にかかった石があまりに人の姿に似ているので、大切に持ち帰って来ました。焼酎をかけて魂を入れ、この石に杢太郎の守り神になってもらおうと考えたのです。

 「あの石を神さんちゅうて拝め、爺やんが死ねば、爺やんちゅう思うて拝め、・・・分かるかい、杢。お前やそのような体して生まれてきたが、魂だけはそこらわたりの子供と比ぶれば、天と地のごとくお前のほうがずんと深かわい。泣くな、杢。爺やんのほうが泣こうごたる。」

S:この<人の形の石>は誰を癒すのか。杢君のために持ってきて、彼にあげる石なんだけど、爺やんの癒しのため、救いでもあると思う。爺やんがいなくなった後、不安を少しでも薄めるための石でもあるし、・・・ 

I:杢太郎君はお母さんのおなかの中で水銀中毒にかかって生まれてきた胎児性水俣病で、こうした方もたくさんいらっしゃったんですよね。 

W:胎児性水俣病というのは大変小さな肉体の中に、水銀の被害が及ぶのでとても深刻になっていくわけですね。今年はちょうど水俣病公式確認から60年という話をした時に、石牟礼さんが「60年間も一度も自分の思いを伝えられない人がいるんですね」と仰るんですね。 

I:長い年月ですね。 

W:人が生涯の間に一言も自分の思いを語ることができないということがどういうことか。・・・杢っていう少年は人の言っていることは全部わかるんです。だけども自分の思いを伝えることができない。 

S:最初は爺やんがそう思いたいということもあるのかと思ったんです。でも最後の涙のくだりを読むとほんとうに言葉以上に杢太郎君に通じているということがよく分かりました。 

I:おじいさんは杢太郎君のことを人一倍魂の深い子と言うんですよね。 

W:我々は自分の思いを語るということに慣れているんですが、「沈黙」というのは我々の心を深めて行きますよね。自分で言いたいことを言えないというときに、人は魂を掘り始めるんだと思います。そして杢太郎は魂を掘ることだけを定められた人間なんですけど、現代人は言葉というスコップでいろいろなものを掘ろうとする。けれども、杢太郎は素手で大地を掘るように生きているんですね。 

S:言葉を喋れないというのは、果てしなくきついことだけれども、言葉がなくてもできたコミュニケーションがあるんですね。・・・ 

I:お爺さんと杢太郎君のような・・・魂のやり取りというか・・・

 

<石の神様に込められた祈り>


 

I:お爺さんは拾ってきた石を杢太郎君の守り神にしようとしましたね。 

W:ぼくは、<祈り>ということをどうしても感じてしまいます。・・・「苦界浄土」という作品はもちろん、怒りや恨みも描かれています。しかしその底に何とも言葉にできないような深い祈りが、怒りと恨みを支えている。 

S:逆に言うと一番正しい信仰、宗教の起こり方のような気がします。たまたま人間に似ているように思えた石に託してそれに祈りたい。 

W:石牟礼さんはイハン・イリイチという大変世界的に知られた思想家と対談しているんですけど、その中で「水俣病が起こった時、日本の宗教はすべて滅びたと感じた」と語っていますね。それはぼくにとってはとっても衝撃的だった。確かに水俣病が起こった時、それに寄り添った宗教者たちはいたんです。しかし、宗教界は沈黙した。 

こういうところで新しい信仰というものが生まれていると石牟礼さんは言っています。
W:それから、この事件が起こったのは辺境の地だったということですね。日本人はどうしても東京中心の世界観で生きている、しかし近代の闇を突き付けてくるような問題は東京からではなく、辺境から起こる。それは見えにくい。我々はそのことにしっかり目を見開いていかなくてはならないと思います。 

S:福島のことを忘れてしまって今となっては何も考えない人もいるわけじゃないですか。でも福島は東京にたくさん電力を送るために作られていた原子力発電所で、それが天災であるところの地震とミックスされた形で、今現在「被災地」と呼ばれるところになっているわけですね。それに対して、「福島大変ですね」という人もいる。でもこれですらちょっと他人事じゃないですか? 

W:東日本大震災以後ですね、何が起こったかというと、やはり人々が故郷を奪われたということがとても大きいと思います。自分の生まれたところの命のつながり、時間のつながりというものが失われた。水俣病事件というのはそういう現実を我々に突き付けて来たんですね。 

S:ぼくは新製品が好きだし、未来的なものが好きだから、進歩を止めろという側にはならないんですが、でも、何かが前進するときそう簡単じゃないよというということは肝に銘じておかないといけないんじゃないかなと思いました。 

I:「苦界浄土」というのは50年前に書かれた本ですけど、今を生きる私たちも深く受け止めて行かなくてはならないということを噛みしめました。 

コメント

立ち止まる勇気

2018年04月07日 16時06分53秒 | 紹介します

 私はここ雫石に住んで思うことがあります。「ほんとうの豊かさ」とは何だろう。確かに近代になって、私たちの生活は大変便利になり、快適になったが、それによって失ってしまったものも多いのではないだろうか。それは一言でいうと、心の豊かさだ。

 私は2000年前のナザレやガリラヤ地方の情景を懐かしむ。また日本でいうと、江戸時代の武士や町人たちの生きざまに惹かれる。(もちろんその時代にはその時代なりの苦悩があったであろうが。)

 昔を今に帰すことはできないし、現代の科学技術がもたらした恩恵を捨てて、原始時代に帰ろうとも思わない。しかし、ここで立ち止まって、失いつつあるものを再認識し、本来の人間らしい生き方に立ち帰ることが人類には絶対必要だと思う。もしそうしなければ早晩この文明は破局を迎え、滅亡するだろう。

 そのことに関して先に、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を通して、そのような兆候が現れていることを指摘したが、さらに日本国内で起こったいわゆる水俣病事件を通して、近代化によって人々の心が如何に蝕まれたか、いや人間だけではなく、自然が破壊されてしまったかを指摘したい。

 題材は「100分で名著:「苦海浄土」を読み解く」から引用した。コメンテーター名を記号で記したのは、あくまでも私個人のとらえ方である一方、さまざまな見方を紹介するためだ。 

 番組そのものに興味がある方はユーチューブなどで上記番組名を検索してご覧になっていただきたい。

 

<100分で名著:「苦海浄土」を読み解くより>・・・

 敗戦後目覚ましい高度成長を遂げた日本、豊かさの代償として公害問題が各地で起こりました。大気汚染や工場排水で自然が汚れ、人体に深刻な影響を与えていたのです。

 中でも甚大な被害をもたらした水俣病、その水俣病と向き合い真実の姿を世の中に知らしめたのが「苦界浄土」です。作者の石牟礼道子さんは水俣に住む一介の主婦でありながら患者たちの魂の声を伝えようとしました。

 

I:「苦界浄土;我が水俣病」は、1969年に出版されまして、広く社会に水俣病を知らしめる作品になったわけですね。今年は水俣病公式確認から60年という年ですので、そんな節目に深く読み解いてまいりましょう。指南役のさんです。よろしくお願いします。

さんが「苦界浄土」を読まれたきっかけは何だったんですか?

W:たまたま古本屋で見つけたんですが、「もしこの本を読み通してしまったら自分の人生が変わってしまう」と感じたことを今でもはっきりと覚えています。

I:震災後に改めて読んだということですけれども。

W:我々が東日本大震災で直面したことは「命」と「生きる意味」という問題だったと思うんですね。この二つをめぐってこの本が書かれているということが、その時になってやっと分かったという感じがしましたね。

I:では基本情報を見ていきましょう。

苦界浄土;わが水俣病

作者は石牟礼道子(いしむれみちこ)

第一部が1969年に発表され、その後第3部「天の魚」/1974年を先に出しまして,次に第2部「神々の村」/2006年と、およそ40年かけて書かれた大作です。

 

 W:この本は何となく告発文学のようにとらえられています。しかしよく読んでみると決してそれでは終わらない、むしろこの物語の一番大事なところはそこにないと思います。

S:タイトルやなりたちを見たりすると、ルポルタージュと言いますかね、でもメインのところはそうじゃない・・・

W:やはりこの物語の主人公は言葉を失なった人たちだということが、とても大事なことだと思うんですね。水俣病というのは人間から喋る機能を著しく奪う病なんですね。

そういう人の、言葉にならない思いっていうのを石牟礼道子という人が掬い上げて書き上げたというところに、独自の意味があるんだろうと思います。

 

<苦界浄土が生まれた背景>

 熊本県の最南端不知火(しらぬい)海に臨む水俣市は昔から豊かな海が人々の暮らしを支えて来ました。今から60年前、保健所の医師からある届け出がありました。「手足のしびれや言語障害を症状とする奇病が発生している。」

 原因は化学肥料などを造る「チッソ」の工場が垂れ流していた有毒の有機水銀でした。しかし「チッソ」はその事実を知りながら排水を止めなかったのです。経済成長の名のもと国や県も規制をせず、被害は広がって行きました。

 ひとたび水俣病にかかると段々言葉が不自由になり、自分の苦しみを表すこともできなくなります。初期の患者たちは激しい痙攣や硬直を起こして亡くなっていきました。

 その姿を目にした、地元に住む石牟礼さんは思わずペンをとりました。

 最初に書かれたのは「ゆき女きき書き」という章です。(苦界浄土第3章)

******

 昭和34年5月下旬、まことに遅ればせに水俣病患者を一市民として私が見舞ったのは、坂上ゆき(37号患者、水俣市月の浦)と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。

 真新しい水俣病の特別病棟の階廊下は、かげろうの燃え立つ初夏の光線を透かしているにもかかわらず、まるで生臭いにおいを発している洞穴のようであった。それは人々のあげるあの形容しがたい「おめき声」のせいかもしれなかった。

ゆきは早くに夫を亡くし、同じく連れ合いと死に別れた漁師の茂平と再婚、夫婦(めおと)船で仲良く漁に出ていましたが、ゆきが病にかかると茂平がその世話をしていました。ゆきの体はずっと痙攣(けいれん)し続けており自分で食事をすることも、歩くこともできなかったのです。

 

 嫁に来て3年もたたんうちにこげん奇病になってしもうた。残念か。

 うちは自分の体がだんだん世の中から離れていきよるような気がするとばい。自分の手でものをしっかり握るということができん。世の中から一人引きはがされていきよるごたある。

 うちはさびしうしてどげんさびしかか。あんたにはわかるみゃあ?

 

 海の上はほんによかった。爺ちゃんが艫櫓ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで、今頃はいつもイカ籠やタコつぼやらをあげに行きよった。ぼらもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもも、もぞか(可愛い)とばい。

月から10月にかけてシシ島の沖はなぎでなあ・・・

 

I:ほんとに一部の抜粋ですけど、心を動かされるものがありますね。

S:病の様子だけではなくて、病に罹る前の元気で漁に出ていたころのきらきらした夫婦での生活も描かれていますね。


<水俣病はなぜ発病したのか>

「チッソ」水俣工場の排水に含まれていた有機水銀に魚介類が汚染され、その魚介類を食べた人が脳などの中枢神経が破壊される有機水銀中毒に罹りました。認定患者は2280人、うち死者1879人、認定を求める患者は1万2千人いるが、実際はその10倍だと言われています。未だにその治療法は見つかっていません。

 

S:さっきの抜粋した文章と重ね合わせると、二人で櫓を漕ぐこととかタコやイカを可愛いと感じられたりするほど海と寄り添った暮らしをしていたからこそ、罹ってしまった病なんですね。

W:病に罹った人たちは奇病ですから、そのことでまず差別を受ける。また貧しいからなったんだというほんとうに根も葉もないデマのような噂にも苦しめられざるを得なかったようです。

S:そういう状況の表現として「自分の体が世の中から離れて行くようだ」と仰っていますが、・・・

W:体が離れて行くと言うときに、彼女はとっても強く「自分の魂」を感じている。

S:つまり私たちは日ごろ世の中とくっついているんだという意識を持っているのに、これがあと数ミリで離れてしまうかも知れないという意識があるんですね・・・。

 

<「苦海浄土」の誕生>

 1969年「苦海浄土」でセンセーショナルに文壇に登場した石牟礼道子、詩をたしなむ主婦だった石牟礼さんは水俣病と出会ったことで作家になります。

 50年代からすでに奇病のうわさは町に広まっていました。

 石牟礼さんがうめき声が響く病室を訪ねると、そこで見たのは苦しさのあまり患者が壁をかきむしったその跡でした。その時出会った一人の漁師、その姿を目にした時の衝撃を次のように記しています。

*****

 「安らかに眠って下さい」などという言葉はしばしば生者たちの欺瞞のために使われる。この時この人の死につつあった眼差しはまさに魂魄(こんぱく)この世にとどまり、決して安らかに往生などしきれぬ眼差しであったのである。

 この日はことに私は、自分が人間であることの嫌悪感に耐えがたかった。この人の悲しげな、山羊のような、魚のような瞳と、流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄はこの日から全部私の中に移り住んだ。

 

I:石牟礼道子さんという人は普通の主婦の生活をしていらっしゃったんですよね。

W:それが病を得た人々の姿を見て彼女が書き手になって行く。彼女は自分でなりたくてなったのではなく、ならざるを得なかったと言っています。

I:この「苦界浄土」は聞き書きでなく石牟礼さんの創作もかなり入っていると伺ったんですが。・・・

W:水俣病の患者さんたちは話すことができないわけなんですよね。だけども石牟礼さんに言わせれば我々が聞いている言葉とは違う、心から心へ伝わるような言葉を彼女は引き受けているんだと思います。それは彼女にきわめて深い実感と自覚があるからだと思うんですね。ルポルタージュという純粋な意味での聞き書きではないし、また我々が今日考えるような創作とは違う、とぼくは思っています。

S:ここはとても大事なことだと思うんです。聞いたものを理解して、その場にいなかった人間に通訳として渡す、という行為が「創作」といえば「創作」なのかもしれないけれど、心の部分を伝えるためにぎりぎりの表現をするということですね・・・

W:やはり言葉を奪われた人の口になるっていうことなんだと思います。それは自分の思いを語るのとは違う。相手はほんとうに語りたいことがたくさんあるのに、語ることができなくなったという水俣病の患者さんたちだったわけですよね。その口になるというのが、石牟礼さんの書き手として立っていくときの覚悟なんだと思います。

水俣病というのは別の言い方をすると<沈黙を強いる>病だと思うんですね。我々が今「苦界浄土」という作品を通じて、その沈黙の中にこんなに痛切でたくさんの思いが潜んでいる。

I:そう考えると独特な本ですね。

W:石牟礼さんが「自分は詩のつもりで書いています」と仰っているのを聞いた時、ほんとうに心が震えました。でも何かわかるような気がしたんですね。今までにない問題が現れて来た以上、表現も生まれ変わらなくてはならない、というのが石牟礼さんの持っていた深い認識だったと思います。

S:彼女がここで暮らしていたこと、そこでこんな恐ろしいことが起こってしまったこと、そしてたまたま彼女が詩を嗜んでいたこと、すべてに意味があった・・・

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<ゆき女きき書き>

 病床にあってもゆきは我が庭のような海のことを懐かしがり、再び漁に出ることだけを願い続けます。しかし治る見込みがないことも感じており、こう語るのです。

人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。うちはやっぱりほかのもんに生まれ変わらず人間に生まれ変わってきたがよか。うちはもういっぺん爺ちゃんと舟で海にゆこうごたる。うちが脇櫓ば漕いで爺ちゃんが艫櫓ば漕いで二丁櫓で。・・・漁師の嫁ごになって天草から渡って来たんじゃもん。・・・うちはぼんのうの深かかけん、もう一遍きっと人間に生まれ替わってくる。


W:
ぼんのう(煩悩)と言いますと我々は欲望とか執着とか、捨てなくてはならないもののように理解しているんですけど、石牟礼さんは煩悩は情愛という言葉に置き換えられると仰っています。捨てるんじゃなくて深めることができる。ひらがなにすることで語り手がどのくらいこの世界を愛しているかということも伝わってきますね。

S:逆説的に言うとこの病気がどれだけ苦しいかということも・・・

W:肉体は、もう苦しいなんて言葉で言えないくらい苦しい。だけども彼女の存在の深みではとても豊かな命を生きている・・・

I:そこでこの人は生きていて、命を全うしている・・・

W:むしろ我々に命というものがどういうものかということをまざまざと教えてくれていると思います。

S:なんかほんとうに心に突き刺さりますね。

*****

<坂本きよ子さんという20代の患者さんとそのお母さんの話>

 きよ子は手も足もよじれて来て、手足が縄のようによじれてわが身を縛っておりましたが、見るのも辛うしてそれがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散りますころに、わたしがちょっと留守をしておりましたら縁側から転げ落ちて地面にほうっとりましたです。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で桜の花びらば拾おうとしとりましたです。曲がった指で地面に、にじりつけてひじから血出して「おかしゃん、ば」ちゅうて花びらば指すとですもんね。花もあなたかわいそうに地面ににじりつけられて。

 何のうらみも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった1枚の花びらば拾うのが望みでした。

 それであなたにお願いですが、文ば「チッソ」の方々に書いてくださいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に花びらば1枚、きよ子の代わりに拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に。

 
W:
とても象徴的な言葉なんですが、石牟礼道子さんという人がなぜ文章を書き続けているのかということがとても鮮明に描かれていると思うんですね。「苦界浄土」というのはとっても悲しいんですけど、それだけでは終わらない美しさがやはりそこにある。・・・

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<近代の闇>

 1960年代、高度成長を果たした日本は大量消費時代に突入。人々が豊かな暮らしを手に入れ始めていたころ、各地で深刻な公害問題が起こっていました。そのさなかに刊行された「苦界浄土」は社会に大きな衝撃を与えました。それは作者石牟礼道子さんによる我々日本人への鋭い問いかけでもあったのです。

W:水俣病という病は近代という時代が生み出したものだと言っていいと思うんですね。石牟礼さんたちが暮らしていたのは、言わば古代的な自然と共に生きている世界であって、近代というのは人間中心の、人間が作った社会であって、その二つの世界がぶつかり合った、そういうところに生まれたのが水俣病だったと思います。

 

 S:では水俣がもともとどのような場所だったのか見て行きましょう。

石牟礼さんは天草で生まれ 水俣で育ちました。幼いころから親しんだ水俣のかつての

姿を「椿の海の記」で次のように描写しています。

 

 春の花々があらかた散り敷いてしまうと大地の深いにおいがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿は朝明けの靄(もや)が立つ。朝日がそのような靄をこうこうと染め上げながら昇りだすと光の奥からやさしい海が現れる。大崎ヶ鼻(うさぎがばな)という岬の磯に向かって私は降りていた。

 

 楽園のようなこの場所には近代とは全く異なる暮らしが根付いていました。水俣湾を包む不知火海は魚介類の宝庫であり、村人たちはずっと海の恵みとともにありました。

*****

 あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただでわが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこに行けばあろうかい。

 

S:病気の描写に対して逆にこっちは光の部分なんで、とても幸せなというか、・・・

I:素晴らしい場所だったんだなあというのが分かりますよね。

水俣というのはこの不知火海に面したところにあります。不知火海は九州本土と天草に囲まれた内海で、大変豊かな漁場だったんですね。

W:お魚も大変よくとれる場所なんですけれども、その分だけお米とか野菜などがあまり簡単に手に入らないわけですね。そうしますと漁民の人たちは自分で捕った魚をたくさん食べる、作品の中では一升の一升皿に入れたお魚を食べる、そういう人たちが水俣病に罹って行ったとありますね。

S:天の恵みであったお魚が逆に汚染されて行くという・・・

W:一番海を愛した人たちが、海によって傷つけられた。その海というのは自分たちの愛した海ではなくて、近代が冒した海ですよね。

 

I:ではその水俣が近代化の中でどう変わって行ったのでしょうか。

 水俣のシンボル、「チッソ」水俣工場、明治末期に工場ができて以来会社の発展と共に水俣市も成長して行きました。戦後の「チッソ」の主力製品は塩化ビニールやプラスチックに使用する化学原料、これらは冷蔵庫や洗濯機の部品にも使われていました。経済成長と共に生産量も増加し、工場からは膨大な量の排水が流されるようになりました。

 1959年熊本大学医学部は水俣病の原因として有機水銀説を発表。その時すでに「チッソ」は原因を突き止めていました。しかし、操業を止めることはありませんでした。国が「チッソ」の排水が原因と発表したのはそれから9年後のこと。長い間、謝罪もなく放置された患者やその家族の中にはこう語る者もいました。

*****

 銭は一銭もいらん。その代わり会社のえらか衆の、上から順々に水銀母液ば飲んでもらう。上から順々に42人死んでもらう。奥さん方にも飲んでもらう、胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人水俣病になってもらう。あと、百人くらい潜在患者になってもらう。それでよか」

・・・もはやそれは死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである。

 

S:ほんとうに怒りの凝縮された言葉ですよね。

W:言葉にならない叫びですよね。

S:さっき、「姉さん、魚は天のくれらすもんでごわす。要るだけ魚とってその日暮らす、こんな幸せな暮らしあります?」って言ってた水俣の人たちがここまでになる、それだけ大事なものが、それだけ傷ついたということの裏返しでもありますね。

I:そもそも会社としても原因がわかっていたという風にありましたけれども、会社は排水を止めることができなかったんでしょうか?

W:「チッソ」という会社は水俣市という小さな町の中で大変大きな影響力を持っていたんですね。それは経済的だけでなく、様々な影響力を持っていた。また暮らしている人にとっても「チッソ」という会社は誇りだった。地元で暮らしている人たちも「チッソ」で食べている、「チッソ」によって生きているということなんです。

S:「チッソ」というのは肥料を作る会社のイメージが少しあるんですが、実はプラスチックの原料を作っていた・・・

W:そうなんですね。

S:我々の世代は、夢のプラスチックとか言って、プラスチックはすべてに優る、なんかプラスチック製品ってかっこよく見えたんですね、子供心に。

I:そうなんですか。

S:ぼくらが小学校に入るころには、プラスチックのない世の中は考えられなくなってくるわけで・・・ほんとうにプラスチックこそが近代の象徴で・・・

W:やはり自分たちが何をしているのかということを知らないで、我々はその成果だけを手に入れようとしたんだと思うんです。

W:宇井純(1932-2006)という人が「公害に第三者は存在しない」という言い方をしています。どういう事かというと、一方で我々もプラスチックを使っているわけですよね。水俣病を客観的にみると、我々も知らないうちにそれに加担しているわけですね。・・・

 

<近代的知性とは>

W:当時の「チッソ」という会社はですね、大学を首席で卒業したという証明書がなければ入れなかったくらい、ものすごく優秀な人たちが勤めていた会社なんですね。ぼくはこれから考えてみたいのは、近代的な知性が独り歩きするとき、とっても危ないということなんだと思うんです。

S:ぼくは進歩も近代化も完全否定はしない。それは必要だからであり、みんなが幸せになるためだと思うんですけど、どこかで進化のための進化、なんか命題が変わってしまい、<プラスチックを作る>ということが目標になる。そういうことが起きるという自覚が、現代社会に今もあるかどうか分からないけれども・・・

W:幸せとは何かということを考える前に、プラスチックを増産してお金を儲けるということが第一目標になって来るんですね。幸せを求めていたはずなんですけど、ほんとうの意味での「幸せ」すら求めなくなる。

もっと言えば、「幸せ」とは何かをよく考えないまま、我々は「幸せ」だと言われていることに向かって走り出した。これが近代という時代じゃなかったかなと思うんですね。

 

<近代という人格>

W:石牟礼さんは、「近代産業の所業はどのような「人格」としてとらえなければならないか」と仰っていますが、・・・

I:実体のないものを「人格」、人であるという・・・

W:今日の我々の表現でいうと、「バケモノ」みたいなもの、人間の欲望ということだと思うんですが。これは大変見えにくいですよね。例えば国家であったり、巨大産業であったり、会社であったり・・・

 

I:ではその「近代という人格」によって押しつぶされようとしたものは何だったのか。ごらんいただきましょう。

*****

 杉原彦治の次女、ゆり、41号患者、無残に美しく生まれついた少女のことを、ジャーナリズムはかつて、ミルクのみ人形と名付けた。現代医学は彼女の緩慢な死、あるいはその生の様を規定しかねて、植物的な生き方ともいう。

 ゆりはもう抜け殻じゃと、魂はもう残っとらん人間じゃと新聞記者さんの書いとらすげな。大学の先生の見立てじゃろかいな。そんなら父ちゃん、ゆりが吐きよる息は何の息じゃろか。草の吐きよる息じゃろうか。うちは不思議でよーくゆりば嗅いでみる。やっぱりゆりの匂いのするもね。ゆりの汗じゃの息の匂いのするもね。身体ばきれいに拭いてやったときには、赤子のときとはまた違う、肌のふくいくしたよかにおいがするもね。娘っ子のにおいじゃとうちは思うがな。思うて悪かろうか。ゆりが魂のなかはずはなか。そげんした話は聞いたこともなか。木や草と同じになって生きとるならば、その木や草にあるほどの魂ならば、ゆりにも宿っておりそうなもんじゃ。なあ、父ちゃん。


S:いつの時代もあるマスコミの無神経さみたいなものと、それがお母さんの心ををえぐってしまうことも含めていろいろなことがこの中に入っているような気がします。

 

W:ジャーナリズム、もしくは現代医学というものは目に見えるものしか見えていない。お母さんがここでほんとうに目を離さないのは、娘の魂はどこに行ったんだという問題なんですね。ここでは「娘の魂の匂い」という言葉すら使っているわけですけれども、・・・

 

I:実際に産んでお世話をしているお母さん、我が子の存在を匂いや汗で感じているというのが、すごく迫って来ますね。

 

W:その匂いや汗っていうのもお母さんにとっては魂の現れなんです。生きている魂の現れとしてお母さんに受け止められているんですね。

 

 水俣病の訴訟、もしくは水俣病事件というのは、患者の人たちにとっては、ほんとうに今もですけれども、魂の問題なんです。

 

いわゆる現代医学とジャーナリズムは確かにそれを捉えにくい。けれども、魂の問題、命の問題と言い代えてもいいんですが、その問題を国が尊厳をもって受け止めてくれていないというこれは大きな「異議申し立て」なんだと思います。いくらお金をもらっても駄目なんです。

 

I:そしてゆりちゃんは41号患者というふうに呼ばれていたんですね。

 

 <番号で呼ばれる患者たち>

 

W;そうですね。ぼくはこれは決して見過ごしてはならないことだと思います。人を番号で呼ぶというのは、アウシュビッツがそうだったんですね。ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という本を開くと、「収容所に入れられた人たちは番号で呼ばれた、そして名前を奪われた。」という話が最初に出て来ますね。人を番号で呼ぶというときには、我々は人間がかけがいのない存在だということを忘れているんです。

 

S:この本はそのことをわざと投げかけてきていますよね。

 

W:番号にするというのは人間を量的な存在として考えるということですね。ですけれども我々の命と言うのは徹底的に質的なものですね。そして質的なものというのはかけがいのないただ一つのものということです。石牟礼道子さんの世界では、ほんとうは人間の命と言うものは、番号なんかで呼ぶことのできない何ものかであって、近代的知性というものはそれすら番号で呼ぼうとする。

 

I:石牟礼さんご自身はその近代の闇にどう立ち向かおうとしていたんですか?

 

W:石牟礼さんを頻繁にお訪ねして、ある時「苦界浄土」をどんなお気持ちで書かれたんですかとお聞きしたら「戦いだ」、「一人で戦うつもりで書きました。今も戦っているつもりでいます。」と仰っていましたね。

 

近代という「バケモノ」に我々が立ち向かおうと思ったときに、我々は最初は個人で立ち向かわねばならない。一人立つというときに何か計り知れない力がある。 

 

I:現代はすごく人とつながりますし、集まったり群れたりということが簡単にできますけれども、個人で立ち向かうという厳しさというのを聞きますと、・・・

 

S:自分が正しいと信じて独りでやっていたら誰かがわかってくれるということかな?

 

I:石牟礼さんの闘い続けているその強さと、そして今もなおその問題が続いているということを我々は忘れてはいけませんよね。

 

W:「水俣病は終わらない」ということを言った人がいます。我々はそこから今も大きな問いを突き付けられていると思います。

 

 

 

I:今日は<近代の闇>ということで読み解いてきました。公害に第三者はいない、近代化の恩恵を私たちも十分解っていて、このことは自分たちの物語でもあるんだなと感じ始めたところです。

 

Sさんいかがですか?

 

S:ぼくは「チッソ」という企業が、水銀を大丈夫だと思って流し続けた時代と、わかっていてそれでも止まれなかった時期の問題と、そこには結構大きな差があって、少なくとも自分たちは止まる勇気とか、スピードを落とす勇気とか、時には逆行に見えることをする勇気みたいなのがないと、いけないということを学びました。

 


   
コメント

それでも人生にイエスと言う(続き)

2018年02月19日 07時58分29秒 | 紹介します

  ヴィクトール・フランクル「夜と霧」/強制収容所におけるある心理学者の体験」をどう読むかの続き

運命と向き合って生きる>

それは彼がアウシュビッツ収容所に連れて来られた時のことでした。

 持ち物はすべて出せ!ナチスの看守の声に彼は上着を抱きしめました。彼が隠し持っていたのは精神医学の論文、出版されれば処女作になるはずでした。彼にとっては自分が生きた証でした。上着の裏に原稿を縫い付けてまで、守りたいものでした。しかし結局大切な原稿は服もろとも没収、処分されてしまったのです。それでも彼は絶望しませんでした。過酷な収容所生活の中で紙の切れ端を手に入れ、わずかな時間を見つけては原稿の復元を試みました。何としてでも論文を仕上げ世に問いたい。収容所で彼の心を支えたのはこの原稿の存在でした。 

M:彼は収容所生活の中で高熱を出すんですね。彼の誕生日に囚人の友達がくれたちょっとした紙の切れ端に、彼は高熱にうなされながら原稿の復旧作業に取り組むんです。自分の仕事に対する執念ですね。

彼は自分が何かの作品を作り上げたり、あるいは仕事を通して実現して行く価値のことを創造価値と言っています。

T:具体的にはどういうことに対しての創造価値ですか?

M:例えば芸術作品を作るとか、彼のように著作を書くとかはもちろん創造価値ですね。しかし彼は大事なのは仕事の大小ではないと言っています。ある時彼の講演を聞いたある若者が、「先生、先生はいいですよ。多くの人に役に立っています。けれども私は洋服屋の店員です。毎日決まった仕事をただ、して行くだけ、こんな自分の人生に意味や価値があると言えるんでしょうか?」と問いかけました。

 彼は、それは関係ない。芸術だとか、論文を書くと言うことだけではない、人が人の喜びを作っていくそこに創造価値があると言っています。

S:そうすると、芸術家が彫刻を作る;そのこと自体が創造価値なのか、その彫刻を見て癒される人がいるんだと言うことなのか、その両方なのか。

M:この彫刻を見て誰かが喜んでくれると言う思いを持ちながら作品を作って行く、そのプロセスにおいて実現されるのが創造価値だと言っていいと思います。

T:Sさんにとっての創造価値とは?

S:僕は自分で深夜のラジオ放送が自分の使命だと思っているんですけど、時々する想像で一番怖いのは、この放送が流れていなかったらどうしようと言う妄想がありますね。やっぱり伝わっていると言うことに僕は相当な<創造価値>を置いています。

T:番組を見てくれている人がいて初めてね。

S:たとえ同じギャラ頂いたとしてもぼくは嫌です。(笑い)きちんとしゃべれないと思います。

 <心をふるわす経験―体験価値> 

労働に疲れ果て土の床に座り込んでいた彼ら、その時一人の囚人が外から飛び込んで来て言いました。「おい、見てみろ。疲れていようが、寒かろうが。とにかく出てこい。」しぶしぶ外に出た彼らが目にしたものは、あまりにも見事な夕焼けでした。

 私たちは暗く燃え上がる雲に覆われた西の空を眺め、地平線一杯に黒鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思われぬ色合いで絶えずさまざまに幻想的に形を変えていく雲を眺めました。ひとりの囚人が誰に言うのでもなく、つぶやきました。「世界はどうしてこんなに美しいんだ。」自分たちの状況とは関係なく存在する美しい自然、それを見た時彼らはつらい生活を一瞬でも忘れることができたのです。

M:彼は言っています。あなたが経験したことはこの世のどんな力も奪えない。<体験価値>というのはたとえば、大自然に囲まれている時に私たちはものすごい、圧倒的な感動を覚えますね。それからものすごい芸術作品、例えばオーケストラの音楽を聞いて感動に打ち震えているような時に、「人生に意味があるかい」と問われたら、その人は「何を決まっているじゃないか」と答えるに違いありません。

 逆にほんとうに苦しい時に美しさを感じたり、笑いが人の心を和ませます。

S:実際彼がその光景を見ていると言うことの説得力は凄いんですけど、人間はその地獄のような中で見る夕陽をきれいだと思ったりするのは、何故なのか。それが人間だからとしか言いようがないですね。

M:それが人間の人間たる所以なんですね。極限状態の中で、美に感動する。そういう能力が人間特有の力なんだと、彼は考えています。

S:確かになんかこう、自然を前にして、声も出なくなるようなことってありますよね。

M:<体験価値>は実はどの方も体験している価値だと思うんです。自然や芸術だけでなく、彼はこんな体験を「夜と霧」の中で記しています。

早朝、極寒の中で彼らは作業場へ行進して行きます。身を切り裂くような風が薄着の彼らを傷つけます。ほとんど誰もが口をきかない中、彼の隣の男がつぶやきました。

なあ君、もし我々の女房が今我々の姿を見たとしたら、たぶん彼女の収容所はもっといいだろう、彼女が今我々の状態を少しも知らないといいんだが。

それを聞いた時、彼は不思議な体験をしました。

私の目の前には妻の面影が立ったのであった。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし、勇気づけるまなざしを見る。たとえそこにいなくても。彼女のまなざしは今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのだった。

 T:私、正直言ってここに一番感動しました。

M:私が知っている限りでも、女性の方がこの本を読んでこのシーンが一番感動したと言う方が多いです。

S:ただこの時彼は実際に妻に会っているわけじゃないですね。

M:しかも彼は奥様と実際に一緒にいることができた時間はかなり短いんです。けれども、彼はほんの短い時間だったけれども、支えてくれたあなたの愛は私がここで体験したあらゆる苦難よりも、もっともっと大きかった、というふうに語っています。

T:どれだけ愛を感じていたかということですよね。

M:そうですね。しかも奥様はその時すでに亡くなっておられたんですね。けれども後でそのことをふり返って、彼はそのことは問題ではない。あの時私はほんとうに妻と対話をしていたし、それは過去に過ぎ去った思い出かも知れないけれど、「ほんとうに愛した思い出」があれば、それはずっとそこに残り続けるんだと彼は言うんですね。

T:決して、ただの記憶ではない。記憶が記憶以上の力を持っていると言うか。

S:「それは問題ではない」と言う結論に彼がたどり着くまでにどんなに、悲しかったか。しかも彼が見たのは幻じゃないですか。しかし実際にそういう記憶も体験もあるから問題じゃないと言うことなんですか。

M:心から愛したという思い出があれば、単なる思い出であっても人の人生を一生支え続ける力を持っているんですね。

T:軽々しくは言えないことではありますけど、今回の大震災で多くの方が大切な方や家族を失った。そうした人たちにも過去の愛した記憶がきっといつか支えになりますよ、ということがこの本のメッセージの一つかも知れませんね。

M:こういうエピソードがあります。ご高齢の夫妻だったんですけれども、奥様が亡くなった後に、―日本でも残された男性が、うつ病で苦しむ場合がすごく多いんですが、―打ちひしがれたこの方が彼のところに相談に来て、愛し合った妻もいない、こんな時間がカラカラと過ぎて行くだけの、こんな人生に生き続ける意味があるんでしょうか?と彼に聞くんですね。

その時、彼はこう問うたんですね。「もしあなたが先に死んで奥様が残されていたらどうだったんでしょうね。」・・・「おそらく妻も私を失ったことで同じように苦しんでいると思います。」と、その方が言ったんですね。

彼は、そこにあなたの生きている意味があるんです。つまりあなたが今辛い思いを体験している、そのために奥様がその辛い体験をせずに済んだんだということ。そこにあなたの生きる意味があるのですと言ったんですね。

S:たとえば、後追い自殺をしちゃおうかなって思っても、この命があることを一番喜んでいてくれた人が、愛してくれた人だからと思うと。頑張れると言う。

 <人生にどう向き合うか;態度価値>

収容所生活の中で医師の仕事を任されるようになっていた彼はある時チフスにかかっていた若い女性と出会います。この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていました。それにもかかわらず彼女は私と語った時、快活でした。

「私をこんなひどい目に遭わせてくれた運命に対して、私は感謝していますわ。以前の生活で私は甘やかされていましたし、ほんとうに精神的な望みを持ってはいなかったからですの。

あそこにある木はひとりぼっちの私のただ一つのお友達です。この木と良くお話ししますの。

木はあなたに何か返事をしましたか?

しましたって。

では何て木は言ったのですか?

あの木はこう申しましたの。私はここにいる。私はここにいる。私はいるのだ。永遠の生命だ。

T:収容所でもう自分は死ぬんだと言うその間際、自分の運命に感謝する。・・・

M:どんな状況に置かれても人間はある態度をとることができる。この価値は最後まで失われない。これが人生がどんな時にも意味を失わない、最終的な根拠であると彼は言っています。 

  彼は人生に対する態度を変えることによって、その人生を意味あるものに変えることができると言っています。私はですね、死を目前にした状況もそうですけど、今、格差社会と言われますね。どうせこの社会は格差社会で、こんなに開いているんだから仕方がない、こんな家に生まれたんだからというような状況がありますね。確かにどんな容姿に生まれるか、どんな家に生まれるか、これは選べないですね。けれども与えられた状況に対して人間はある態度をとることができるということは、現代の我々、普通に生きている人にも十分に通用する事実だと思うんです。

S:でもそれを絶望している人に対して、<態度価値>というものがありますよ 」と言っても、人の心は動くんでしょうかね。

M:語った直後に人生が変わるということはあり得ないんですね。けれどもそれがどこかで<種>として残り続ける。それがある時、ある状況で、ある場面を迎えた時に、ふっと花開くんだと思うんです。本当に必要な時にその言葉が生きてくると、私は思いますね。

 <苦しみの先にある希望の光>

T:誰しも生きていて苦しみ悩むことがあります。それをどうとらえたらいいのか。

彼が収容所の中で考え続けたこと、それは自分たちを苛む苦しみにはどんな意味があるかということでした。

彼は晩年まで人生の苦難とどう向き合えばいいのかということについて語り続けました。

人間は目的意識を持てば単に愛したり楽しむだけでなく、誰かのために、何かのために苦しむこともできるのです。

K:私が17歳、高校生でちょうど中途半端な時で、たとえば、谷に丸太が架かっていてそれを渡ると大人の世界に行ける、でもなかなか渡れない、そういう逡巡している時に、この本をちらっと読んでそこから、「目からうろこ」と言うんでしょうか、悩むと言うことは決してネガティブなことではないと、それは非常に大きな発想の転換になりましたね。

T:苦悩と言うのを彼はどう見ていたのか。

強制収容所でフランクルは苦しみについて、思索を深めて行きました。

多くの収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるかと言う問いでした。生きしのげられないのならこの苦しみには意味がないと言うわけでした。しかし彼の心を苛んでいたのはこれとは逆の問いでした。すなわち、彼らを取り巻くこの苦しみや死には意味があるのかという問いです。もしも無意味だとしたら収容所を生きしのぐことなど意味がない。身の回りに溢れる苦しみや死、その意味を考える中で、彼は苦しみや死とどう向き合うかが、最も重要なのだと感ずるようになりました。まっとうに苦しむことはそれだけで、もう何かを成し遂げることだ。苦悩と死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ。

T:人生の中で苦悩と死が充満している中でそれは何だろう?という考えが及ぶということ、これをどういうふうに考えて行ったらいいでしょうか。

K:苦悩と言うのは人間の本性であって、我々はどうしても、まず幸福になりたい、苦悩を避けたいと願うけれども、それは逆の方向に目標を設定していることになる。苦悩と言うのは単なる逸脱状態ではなく、人間の本性がそうなっているんです。

S:子供のころから親に教わって来たことは、苦悩を解消するんだ、解消しつづけて苦悩の無い状態が人間の完全体なんだというふうに、漠然と教わって来たような気がするんですが。・・・

K:それが180度変わるんですね。

S:苦悩はあるもんだと言う。

K:苦悩というと何かを我慢してストイックなイメージがあるんですけど、そうじゃなくて、人間性の一番の最高の価値は苦悩することによって現れて来る。だから、芸術家も、俳優も、あるいは漫才をやる方々も、だいたい私生活で苦悩した人がいい芸や仕事を見せてくれる。

S:ぼく自身は色々くよくよする人だから今の言葉は嬉しいですが、まっとうに苦しむということはどういうことですか。

M:彼は苦労の意味を二つにはっきり分けているんですね。一つは苦悩するがための苦悩、悩むがための悩みです。それと、何かのために悩む、誰かのために悩む、つまり人生の中で何かを引き受けるために悩む悩みですね。

S:どちらかと言うと、僕は最初のほうの苦悩になりかけます。苦悩していないことが怖い、だから悩み続ける・・・それはまっとうじゃない苦悩ということになりますかね。

K:まっとうにと言うのは、まじめにという意味で、夏目漱石の言葉の中に「あなたはまじめですか?」と言う言葉が何度も出て来るんですけれども、まじめと言うのは、具体的な声に、具体的に答えていく、・・・それができなくなった時に、自己意識の罠に引っかかって、苦悩自体が自己目的化するのではないでしょうか。

T:私、悩むなんてまさに自分と向き合う行為だと、ずっと思っていましたけれども。

M:「自分探し」なんてことを言いますね。彼に言わせると、それは本来の苦悩とはちょっと違うんですね。我を忘れて何かを取り組んでいる、誰かのために、何かのために、その時に苦悩で満たされるのであって、くるくる自分のことを考えて「自分探し」をしている間は、ほんとうの自分と言うのは見つからないと思います。

S:自分が悩んでいて、悩み過ぎて、病気の一歩手前までに行ってしまう時に、何も悩んでない人がどこかにいて、それに比べて何で私はこんなに悩みが多いんだろうというようなことがある気がします。

K:どうしても我々は比較をしてなぜあの人は幸福なのに、なぜ私は不幸なのかと言う、それは怨念になったり、ネガティブな感情になりやすいですね。

T:何で私だけと思ったり・・・

K:本当の苦悩はそれを逆転させる可能性がある、つまり自分は今苦悩の中にあるけれども、それをしっかりと受け止めてまっとうに苦しむというところが、最も人間として崇高なことかもしれないと思うと、そこから何か自分が変わって行くと思うんです。

S:なんかちょっと救われますね。苦悩している時、「それこそが今、向上しようとしている時なんです、それはとても人間らしい状況なんです」と言われるととても温かく感じますね。

 <運命は贈り物>

苦しみの中身は人によって違う、そこに大きな意味があるとフランクルは言います。

どんな運命も比類ない、どんな状況も二度と繰り返されない、そしてそれぞれの状況ごとに人間は異なる対応を迫られる。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人がこの苦しみを引き受けることに、二つとない何かを成し遂げるたった一度の可能性があるのだ。誰もがその人だけの苦しみ、そして運命を持っている。運命とは天の賜物、その人だけに与えられた贈り物だと彼は考えていました。

K:運命と言うのはドイツ語で贈ると言う意味があるんですね。おそらく神様からGIFTとして贈られたもの、それが運命なのかな、彼が言うには、人類史始まって以来、二人として同じ人はいない。与えられた運命と言うのはその人だけに与えられたものだから、贈り物というわけですね。

世の中で成功するかしないかを指して、良く我々はそれを運命と置き換えるけれど、彼は運命とはもっと本質的な問題として言っていると思います。

M:多くの人間は成功か、失敗かと言う水平軸の間だけを行き来している、その結果水平的なフラットな人生を生きることになってしまっている、ちょっと喜んだり、悲しんだり、グネグネするような状態ですね。

 それでは生きる意味を感ずると言う厚みが足りないですね。

 彼が現代社会に復活させるべきだと言っているのは、この垂直軸、つまり、絶望の極みにおいて生きる意味を問い詰め始めると言うことなんですね。

 そしてものすごく深い人生の深みに達っしたり、ものすごい高みに昇って行ったりする。この精神性の高みに昇る、垂直軸を取り戻すことが、私たち現代人が生きる意味を日々感じるためには必要ではないかと、彼は提唱しているわけです。

 市場経済と言うのは言わば、横軸だけで生きているわけですね。勝ち組か、負け組かとか?でも、成功したからと言って、それがどれだけ意味があったんだろうかとか、失敗をしたけれども、そこにはすごく意味がある場合もある。意味を問うと言うのは、今の市場経済ではほとんど失われたものです。

そうするとやっぱり悩むことを知らない人も出て来るし、悩みに対して非常に免疫力がない人が多くなる。だからこの深みが人間には必要だとおもいます。

 <むなしさと向き合う>

経済的な豊かさを追求して来た現代社会、そこに豊かさゆえの苦悩が生まれることを彼は指摘しています。

(フランクルの講演より)

 意味の喪失感は今日非常に増えています。とりわけ若者の間に広がっています。それは空虚感を伴うことがよくあります。昔のようにもはや伝統的価値観が何をすべきかを教えてはくれません。今や人々は基本的に何をしたいのかさえも分からなくなっています。

M:何でこんなに空しいんだろうと言うのは苦悩の中の一つではあろうけれども、まっとうな苦悩とはちょっと違うんですね。

K:社会が豊かに便利になったはずなのに、生きる意味が見えにくくなっている。何を信じたらいいのかとかどう行動したらいいのかと言うことが、個々人が決断しなければならない時代です。

 我々は伝統的な価値や宗教的な価値から解放されて、個人が自由になった。そうしてどう行動すべきかを自分で決めなさいと、逆に投げ返されているんですが、結局それを見出そうとしても、自分を見つめれば見つめるほど、自分の中に入り込んで行ってしまう。

M:彼が言っているのは、今の時代にストレスが足りない。そしてプレッシャーが足りない、そして緊張感がないと言っています。

これが現代の大きな問題だと言って、本来こうありたいと言う自分との葛藤で苦しむことがあっていいはずなんですが、「みんな違ってそれでいい」と言う、全部そのままでいいんだよと言う社会になって行く。そうすると緊張感がない社会になって行って、ちょっとストレスを感じると免疫がありませんから、ぽきっと折れてしまう、そういう時代になって行くと言うことを彼は1960年代にすでに言っています。

S:それを凄く感じるのは携帯電話の呼び出しで、出ない奴すごいむかつきません?

昔だったら電話に出たら「わあ、いてくれたんだと言って、喜ぶじゃないですか。電話がなかなかつながらないのが、普通だったから。でも今はつながるのが普通だから、呼び出し音が10回鳴っても出ない奴ってのは、何だよと思うじゃないですか。ぼくの場合はそういう意味でストレスに凄く弱くなっている。

K:今の我々はとにかく欲望を満たすことが幸せで、現代社会は欲望を極大化させる社会、結局見たいものだけを見る、それはテレビの番組もそうですし、ネット上でもそうなるわけですよね。見たいものだけを見ると言うことが非常に閉塞感を作り出している。

しかし、見たくないものに目を背けないことが「悩む」ことにつながる。だから彼はある意味で先見の明があったと思います。

 <過去は宝物になる>

彼は人生を砂時計に譬えて説明しました。

未来は現在を通過して過去になる。歳を取ると多くの人は未来が残り少なくなってしまうと嘆きますが、彼はそれを否定します。苦悩の人生を生き抜いたとき、過去はその人のかけがいのない財産になると、彼は語り続けました。

体験したすべてのこと、愛したすべてのもの、成し遂げたすべてのこと、そして味わったすべての苦しみ、これらはすべて忘れ去ることはできないことです。過去と言うのはすべてのことを永遠にしまってくれる金庫のようなもの、思い出を永遠に保管してくれます。

T:過去と言うのは過ぎ去って行くものだと思っていましたけれども、蓄積をされるものなんですね。

M:多くの方は今、この瞬間が大事だと言われるんですけど、彼のように過去こそ一番大切なものだと言う人はなかなかいないですね。

そして彼は何もせずに失われた時間は永遠に失われてしまうけれども、生き抜かれた時間は、時間の座標軸に永遠に刻まれると言っています。

K:我々はよく、若いから価値があると言いたがるんですけど、それは間違いだと思いますね。歳を取ることは決して恐れることではない。むしろ自分の金庫に忘れがたいものが溜まって行くわけです。

M:現代の私たちがこの本に出会い考えることは、ほんとうに意味が深いと思いますね。

K:ユダヤ人が日々大変な世界の中に入れられて、それでも人生にイエスと言うのは、大変な意味があったと思いますし、それぞれにその人にしかない運命的な状況があります。

3月11日は我々に、何時、何が起きるかわからない、そういう不安の中で我々は生きているけれども、しかし、人生にイエスと言う生き方ができるんだということを、この本は示してくれる。これは我々が3月11日を経たからこそ、この意味をかみしめるべきかなと思います。

それでも人生にイエスと言う・・・これは強制収容所で歌われた歌詞の一節です。彼は晩年までこの言葉を語り続けました。どんな状況でも人生には意味がある。今私たちの心に強く訴えかけて来ます。

 

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それでも人生にイエスと言う。

2018年02月19日 06時28分02秒 | 紹介します。

 

「それでも人生にイエスと言う」

ヴィクトール・フランクル「夜と霧」/強制収容所におけるある心理学者の体験」をどう読むか

 

  アメリカで1000万部を越えるベストセラーとなった「夜と霧」について、興味深い解説を「100分で名著」というテレビ番組で見ました。これはアウシュビッツにおけるユダヤ人強制収容所での、壮絶凄惨な体験を記しています。そこに記されていることは遠い過去の出来事ではなく、私たちが生きて来た20世紀に現実に起こったことです。戦後の平和で豊かな生活を享受している現在の私たちですが、歴史は繰り返します。いろいろな病的兆候が社会には見え始めている今、大いに考えさせられることがありましたので、敢えてここに内容を書き止め編集しなおしてみました。  

 以下は私個人の感想なので、興味のある方は動画を検索したり,NHKのテキストをご覧になっていただきたいと思います。(それで、出演者名はイニシャルに留めて置きます。)

                        
ヴィクトール・フランクル強制収容所の内部

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番組紹介

100分で名著;「夜と霧」/<絶望の中で見つけた希望>

 これはユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルがナチスの強制収容所での壮絶な体験を綴った記録です。東日本大震災の後、ある書店ではこの本を、新刊本を置くコーナーに置いたところ、多くの人が手に取って読み、出版社へはたくさんの声が寄せられました。その一部を紹介します。・・・

・生と死についての普遍的なテーマが書かれているので、私の人生のお守りとして読み続けて行きたいと思っています。

・環境の激変で立ちすくみ、途方にくれていた私を導いてくれました。私には「生きるように」と言ってくれているかのように。・・・

 今回の指南役は心理学者であり、カウンセラーであるMさんです。

<基本情報>

 この本は1946年、終戦間もないオーストラリア・ウィーンでまず出版されました。これまでに20以上の言葉に翻訳されました。日本語に訳されたのはアメリカより早い1956年で、現在までにおよそ100万部が発行されています。

M:これは強制収容所に捕らえられたフランクルが、そこでの人間観察をありのままに記した生々しい本ですね。悲惨な状況が物凄く書かれているんですけれども、そこにかすかに希望が見える、そういった本です。

「夜と霧」の原題は「強制収容所におけるある心理学者の体験」とあります。精神科医ヴィクトール・フランクルは1942年9月強制収容所に入れられました。故郷ウィーンを追われ、チェコ、ポーランド、ドイツと、収容所を転々とさせられた2年半、中でも彼に強烈な記憶を焼き付けたのがあのアウシュビッツ強制収容所です。


収容所に到着すると彼らはすぐに長い列に並ばされました。その先でナチスの将校が人々を二手に分けていました。将校の人差し指のわずかな動きだけで。

 彼の番が来ると将校は少し考えたのち、右に向かうように指示しました。大半の人は左側に行かされました。そこには彼の同僚や友人もいました。彼は古株の囚人に尋ねます。

 私の友人はどこに行ったのだろう?

 そいつは別の側に行ったのかね。

 そうだ。

 そんならそいつはあそこに見えるじゃないか。あそこでお前の友達は天に昇って行ってらあ。

 生死が将校の指先一つで決められました。

 さらにあらゆる財産、所持品は没収、ヴィクトール・フランクルという名前は奪われ119104というただの    番号で呼ばれました。

 人生のすべてを奪われ、彼らを待っていたのは飢えや寒さ、過酷な労働でした。そんな極限的な条件の中で彼は人々の心を見つめて行ったのです。

T:これはほんとうに過酷な2年半ですよね。

S:今のところぼくの置かれている状況とあまりに違って、これに似た経験ですら思い当たらないにもかかわらず、興味があるのは、これが現代の日本人の心を打つということですね。

T:確かに、そこに思いを寄せるには今を生きる私たちにはすごく難しいなあと、実は読む前にちょっと思ったんですけれども、なぜかページをめくる手が止まらないのは何でだろう?と考えた時に、あの震災以降、普通に私たちが生活をしているにもかかわらず、今ある日常生活が続かないということが、ある日突然、実際に起きるんだということをほとんどの人が痛感をして、私自身はそういう思いを持ちながら読み進んでしまったんですよね。

S:これ凄いなと思うのは、ほんとに不条理なひどい目に遭っている人々がいるのに、ある意味でこれは観察対象なんだというふうに切り替えられる強さというか、凄さというか・・・

M:彼は決して観察対象とは思っていないと思うんですね。実際その場で仲間たちが次々に死んで行く。自分自身も死の危険にさらされている。見たくないものを見ざるを得ない。けれども、もし自分の命が助かったら、いつかこのことを本にしよう、そして多くの人に語って行こう、こんな人間の究極の真実を私は体験したんだということを語り継いで行く使命が自分にはあるんだと、彼は思っていたようです。

収容所に入れられた人々の心理状態とはどんなものだったのでしょうか。

彼は人々の心に生じたある現象を次のように記しています。

それは「アパシー」;感情がなくなったのです。

過酷な強制労働の日々、監視役の理不尽な暴力を受けている人を見ても、ただ眺めているだけ。朝、仲間が死んでいても、何の感情も起きない。苦悩する者、病む者、死につつある者、死者、これらすべては数週の収容所生活の後には、当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである。

 やがて彼は生きることを放棄してしまう人々を目にするようになります。点呼の時間になってもベッドから起き上がれなくなってしまう人、食料と交換できる貴重なたばこを吸い尽くしてしまう人。・・・彼らは生き残ることはありませんでした。

T:無感動って極限状態ですよね、まさに。

S:想像ができるかどうかは別にして、ぼくもああなるような気がして・・・

T:Sさんなんかは最もそうならなそうですけど。

S:ぼくはああいう感じになるタイプかなって思いますね。いじめでも虐待でも、受けている人は当然ですが、下手をするとそれに対して声を上げない傍観者の人もそういう状況になるんじゃないかな、それは「防御」だというのが、ぼくの中のイメージです。いじめや虐待に遭っている子供たちを見ても、とても悲しんだり同情したりしてはいられない、それが生き延びる唯一の方法?

T:それは自分を守るため。

S:そういうものなのかなと想像したのですが、・・・

「そして彼らは生き延びられなかった」というのがショックでした。

M;多くの人が生き延びることができなかったわけですね。何がそれを分けたのかというと、自分には未来があるんだと言うことを信じることができた、わずかな人だけが最後まで生き延びることができたんだと彼は言うのです。

T:でもあの環境の中で未来を信じることができたというのはどういうことなんですか?

M:彼があげている例で印象的なのは、クリスマスの日が来たら私たちは解放されるはずだという噂が流れたのですが、実際はクリスマスがやって来たのに解放されなかった。それでクリスマスの翌日に多くの方々がバタバタと命を落として行ったんですね。解放されることはないんだという現実を目の当たりにして、希望を失って多くの方が亡くなって行ったんです。

S:なるほど、そのクリスマスまではという希望がある期間は生き延びる、それがガセネタだったという時には希望を全く失うわけですね。これってすごく難しいのは、信じることがもろ刃の剣というか、未来を信じる人の方が生き残りやすいと言うことと、それを信じ続ける強さと比例してそうならなかった時のショックが大きいような気がするんですが。

M:そうですね。絶対にクリスマスに解放されるんだと思い込んでいた多くの方は亡くなって行った。けれども違う希望を持っていた人たち、自分たちはいつかは解放されるという、未来に可能性を信じることができた人たちだけが生き残って行ったんですね。

T:期限付きでない・・・

 フランクルは絶望的な収容所生活の中で、どんな人が生きることを諦めなかったのかを次のように語っています。

繊細な性質の人々がしばしば頑丈な身体の人よりも収容所生活をよりよく堪え得た。・・・彼の言う繊細な性質の人間とは、どんな人だったのでしょうか?

 辛い労働の後すし詰めの貨物車に入れられ、くたびれ、腹を空かせ、凍える闇の中で、彼が目にしたのは、    「神に祈りを奉げる人々」の姿でした。また、労働の合間のわずかな食事休憩に、一人の男が樽の上に上がって、イタリア・オペラを歌い始めました。

ほんの一時であっても音楽で心を癒している人た、・・・

それが辛い収容所での生活を支える大きな力になっていたことを彼は発見したのです。

T:私、歌って言うものはこういう極限状況の中でまず一番最初に失くなって行くものだと思っていたんですけど、決してそうではなかったんですね。

S:屈強な体の人が生き残りそうなんだけど、そうじゃない。

M:この真っ暗な収容所とは別の世界への通路を持っていた人だけが生き残ることができた。体が頑丈なことよりも心の豊かさ、感受性の豊かさが生きる力になっていたと彼は言っています。

S:歌が何を生産するのかは分からない、信仰が物理的には何かを与えてくれるわけじゃないけれども、大事なことなんでしょうね。

M:そうですね。どん底に落ちているからこそ、何かを見つけ出す力が人間にはあるんだということがこの本では言われているんだと思いますね。これはSさんも同じだと思うんですが、収容所の中でユーモアを言うことによって、励まし合っていたというシーンが何度かあるんですね。

極限状態にある時には笑いこそエネルギーなる

と言うのは人生の真実だと思うんですね。 

 彼はたぶんこの収容所での経験が大きく影響していると思うんですが、自分が亡くなる直前まで家族をひたすら笑わせ続けたんですね。御家族がそう語っています。

 さらに彼は如何に絶望的な状況にあっても人間性を失わなかった人たちがいたことを指摘しています。

強制収容所を経験した人は誰でもバラックの中で、こちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っています。かたやとても人間とは思えないような仕打ちをする人がいる一方で、どんな状況の中でも他人に手を差し伸べる優しさを失わない人がいました。彼は確信しました。<与えられた事態に対してどういう態度をとるかは誰にも奪えない、人間の最後の自由である。>

M:彼が実際に収容所の中で見たのは、死んだ仲間からものを奪って行く人もいたわけですね。けれども同時に、自分自身も息絶え絶えなのに、自分のわずかなパンをほかの人に与えて行く人もいた。つまり

収容所の中で人間は天使と悪魔に分かれて行った

という事実だったんです。

 どんな態度をとるかという、<態度決定の自由>だけはどんな人でも奪えない。これが彼が「夜と霧」の中で一番強調している点の一つなんです。

S:なんかこう、嬉しくもあり、誇らしくもある反面ちょっと責任の強い言葉だなと思います。すごくひどい環境にいたから俺はこんな悪いことをした、こんなひどい局面だったんだから俺がこんなにひどいことをしたとしても、俺のせいじゃない(環境のせいだ)という・・・

M:そうですね。状況がひどくなったら仕方ないじゃないかという、人間誰でもこうなるんだと言うことに対して、彼はノーと言っています。そうではなくてどんな状況であれ、ある態度を自分が選び取ることができる。そのことを収容所で一番人間の精神の真実として知ることができた、そこに希望を見出したというふうに語っています。

 今、貧困化社会、ニート化難民とか言われていますね。そういう人たちはある種、現代の収容所の中に生きているというような状態にあると言ってもいいと思うんです。

 行っても、行ってもどこまでも闇だと言う感覚を持っていると思うんですね。けれども彼は収容所の中にあっても、未来を信じると言っているんですね。いつかは希望の光が人生の方から射してくる。

S:このバランスは難しいですね。希望を持てよ!というのは簡単なことなんだけど、それが根拠のない希望だと死んじゃうと言うのもまたひどい話で、・・・その中でいいあんばいの希望を見つけると言うのは簡単じゃないかもしれない。でも、もしかしてこの本を読んでいるうちに希望が出てくるかもしれませんね。

T:確かに読んでいるうちにすぐ、分かったとはならないかも知れない。でも何年後かに彼の言葉ってこういう意味だったのかと若い人たちが気づいてくれれば・・・

<どんな人生にも意味がある>

4歳のある日彼は「人はいつか必ず死ぬ。だとしたら僕はなぜ生きるんだろう。」という疑問を抱いたと言います。幼い心に抱いた哲学的な問い、その答えを探し続けて彼は精神科医の道を選びました。患者の悩みを聞くうちにやがて彼はあの4歳の時の心の問いが解決の鍵だと思うようになりました。なぜ生きるのかその意味を失った時、人は心を病んでしまう。大切なのは自分が生きる意味を知ることだ。

そして患者が生きる意味を見出すことに治療の中心を置いて来ました。1942年強制収容所に入れられる時、彼はこう自分に言い聞かせたと言います。

お前はこれまで、人生には意味があると語って来た。それはどんな状況でも失われないと言って来たじゃないか。さあ、今度は自分でそれを証明する番だ。こうして彼は収容所の絶望の中でも生きる意味を探し続けて行ったのです。

T:フランクルは収容所に入る前から生きる意味を確立していたというわけなんですね。

M:彼はカウンセラー、精神科医として、意味の欲求が人間の一番根本にあるんだと言う「ロゴセラピー」と言うものをすでに確立していた。その彼が収容所に入れられた。そこで多くの人に向き合って行ったわけです。「生きる意味が見出せません」と言って来た人を救って来た人だからこそ、ここで私のやるべきことがあるんだという使命感に燃えたんじゃないでしょうか。

人生に絶望し、命を絶とうとした仲間を彼は意外な言葉で救いました。実際非常に厳しい収容所の環境の中では絶望してしまう人も多くいました。いつ解放されるとも知れず重労働を課せられる毎日、力尽きてしまう人、生きることを諦めてしまう人が続出する中、ある日、二人の男が悲壮な決意で彼を訪ねてきました。彼らはフランクルに言いました。

 ―もはや人生から何物も期待できない。

 死にたいと訴える二人に対して彼はある言葉をかけます。その言葉で彼らは自殺を思いとどまりました。それはいったいどんな言葉だったのでしょうか。

T:Sさんなら何と言葉をかけますか?

S:凄いと思ったのは、説得されてしまってもおかしくないじゃないですか。そうだなとか、分かる、分かるとか。・・・まあ、私の場合は「寝ろ!」ですかね。(笑い)こういうことを考え出した時には、俺は眠いんだと思うことにしているんですよ。

 二人に対してフランクルが言ったのは、

 「それでも人生はあなたがたからあるものを期待しています。」という言葉でした。

 すぐにはその言葉の意味が分からず戸惑う二人に彼はさらに言いました。

 あなたたちを待っている何かがあるはずです。それが何か考えて下さい。

 すると一人の男があることに思い当たりました。・・・

 待っている。・・・愛してやまない子供が外国で私を待っている。

 科学者だったもう一人の男は、そうだ。科学の研究の仕事をまだ書き終えていない。この仕事が私を待ってい  る。

 彼は二人を待っているものこそが生きる意味なのだと言うことを気づかせました。こうして彼らは自殺を思い止まったのです。

T:人生から何を我々がまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が我々から何を期待しているかが問題なのですというわけですね。視点が変わるんですね。

M:あなたがどんなに人生に絶望していても、人生があなたに絶望することは決してない。何かがあなたを待っている、誰かがあなたを待っている。

 それはどういうことかと言うと、私たちは日々人生を問います。例えば、就職活動がうまく行かないとか・・・、その時にこんな人生一体何の意味があるんだろうと考えます。けれども私たちが人生を問う前に、人生が私たちを問うている、と彼は言うんです。

 私たち人間はたえず人生から問われている存在であると言うことを知って、人生に対する態度を180度ひっくり返す必要があると彼は言っています。

S:でも、我々は人生に求め続けるじゃないですか。こんな人生になってくれと。ぼくが人生に求めるものと、人生がぼくに求めるものがバランスが合わない時はどうしたらいいですか?

M:フランクルはこういうふうに言っています。人生に何かを求める姿勢を続けている間は、人間は永遠に欲求不満になってしまう。絶えず、人間はもっともっとと何かを求めますね。そうするといつも空虚感が支配せざるを得ない。人生を疑う前にまず自分にどんな問いが突き付けられているのか、こちらの方が先だ。誰かのために、世界のために、あなたにできることは何があるんだろうと、何があなたを待っているんだろうと言って、人生に対する見方を変えてみませんかというのが彼の提案だと思うんです。

S:分からないことがあります。ぼくの場合、年齢を重ねて行くうちにこういう世界に入って成功したいと思った。一番最初はバイトをしないで食べて行けたら、おそらく何も悩みがないんだろうと思ったんですけれど。テレビにいっぱい出してもらって同年代の友達よりも少しもらうようになった。だけどこれは永遠じゃないと言うことにまた悩んだりするわけですよ。そうすると、もともとの根本の「人を笑わせたい」というようなことと、とんちんかんなところで悩み始めるんです。ただの不安の塊みたいになって来るんです。もしかして人生に期待していたのは、一杯テレビに出て一杯お金が欲しいとか、そういうことにもしかしたらなっていたかも知れないんだけど。

M:彼はこんなことも言っているんですね。あなたの内側を見つめるのはやめましょう。それを止めて、あなたを待っているものに目を向けなさい。

S:難しいんだよな。得てして合わないものですよね。自分が期待する人生を捨てられないし。我々はもともとそういう価値観で生きているじゃないですか。こういうことをすると、こういういいことがあるんだよと思って、ずーと生きているから。

M:そうですね。

S:それを捨てろと言われても難しい。

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岩手県陸前高田市、今回の震災で1800人が犠牲になった、被害の最も大きかった場所の一つです。地域の拠点病院だった県立高田病院、最上階の4階まで津波が襲い、職員や患者24人の生命が奪われました。現在病院スタッフは仮設の診療所で地域医療の立て直しに取り組んでいます。そのリーダーが院長のIさんです。Iさんは今回の津波で長年連れ添った最愛の奥様を亡くしました。

I:医学部の2年生のころに亡くなった家内と出会ったんですけど、彼女がこの「夜と霧」を勧めてくれて初めて読んで、そこからの付き合いだったんですよ。

 最初に読んだ時の印象は?・・・すごい昔の話なんであまり覚えていないんですが、アウシュビッツの悲惨な体験の話という印象がすごく強くて・・・

 学生時代にはそれほど大きな印象を残さなかったという「夜と霧」、それから30年,Iさんは再びこの本を手に取りました。それは震災から2か月、奥さんの葬儀から間もない時でした。

  その時Iさんはある言葉に目が止まったと言います。

I:<収容所の一日は一週間よりも長い>というところに線が引いてあって、当時の心境もこうだったかなと思います。

 

 

 一日が一週間よりも長く感じる、それは突然の災害に病院を奪われたIさんの心情をそのまま表しているような言葉でした。 

 塞ぐこともあったIさんでしたがその心を救ったのは

自分を待っている人の存在でした。

I:患者さんたちにはずいぶん支えられました。「先生、生きてたの!」とか、泣く人がいたりして、そういう状態でしたからね、自分は一人でないという感じを持ちました。

今、Iさんはフランクルの言葉をかみしめながら患者さんの生きがいを大切にする医療を心がけています。

I:希望といいますか、フランクルの本でいうと生きる意味と言うんですかね、そういう風なものをしっかり持つということはすごく大事なことだろうって思いますけどね。自分が生かされた存在だからこそ、やらなければならないことっていうのかね、そういう風なのを感じながら生きなければならないなあって思えるようになりました。

この本を読んでからまたその思いが強くなったし、何とかやっていけるんじゃないかなと思っていますね。

S:奥様と恋愛が始まって人生の一番楽しい時にこの本を読んで、先生が二度目にどん底で読んで開かれて来た世界があった。何か凄いですね。

S:奥様と恋愛が始まって人生の一番楽しい時にこの本を読んで、先生が二度目にどん底で読んで開かれてきた世界があった。

M:やはりフランクルの言葉が一番入って来るのは、人生に絶望し切っている時だと思うんです。ほんとうに人生に苦しんで、悩んで、悩んで、悩み抜いた末に、ああこのことかと、この言葉が入って来る方はたくさんおられるように思いますね。

<欲望中心から使命中心の生き方へ>

M:彼はどんな人にも、どんな人生にも意味があるんだと言っているんですが、これは言葉を変えて言うと、どんな人にも見えない使命が与えられているということです。それを見つけて果たすことによってはじめて人生が全うされる。自分の天職との出会い、運命の相手との出会い・・これは似たところがあると思うんですね。

私はこういう仕事を絶対したいんだというふうに凝り固まっていたり、私はこういう条件の相手でなければ絶対に妥協しないというような生き方、これを彼は欲望中心の生き方と言っています。そして欲望中心の生き方をしている限りは満たされない。それを生きる意味と使命を見つけ出す生き方に転換しないと、最終的にはほんとうに心の奥底から私は幸せだと思える人生はなかなか手に入らない。

T:私には今小さい子供がいて、生きる意味を考える余裕もなかったんですけども、自分の使命はと考えた時、夫はさておき、子供を育て上げること、そんなとっても一般的なことしか思い浮かばないんですけど、それでも堂々と生きる意味だと思って生きて行っていいんでしょうか?

M:それくらい大きな意味はないんじゃないでしょうかね。私の恩師が百冊の本を書くよりも一人の子供を育て上げることの方がはるかに難しいと言っています。 

晩年彼はアメリカの死刑囚のところへ講演をして回ったんですが、「明日あなたが死刑になるとしても、遅すぎることは決してない。」ということを説いて回ったんですね。人生の意味を見つけると言うことは最後の瞬間まであきらめる必要はないんだと。

S:明日死刑になる人、絶望的な環境にある人、一番説得し難い人にも響いてくる言葉ですね。

 

コメント

座古愛子と中村久子

2017年10月25日 17時58分13秒 | 紹介します


・・・テレビ番組「知ってるつもり」、「中村久子とヘレン・ケラー」

https://www.dailymotion.com/video/x2fsewr

の中で両手足切断の中村久子が座古愛子と出会った時のことが紹介されている。

・・・・そんな昭和5年、久子は雑誌に紹介されていた一人の女性に強く惹きつけられました。彼女の名は「座古愛子」、18歳でリュウマチにかかり、首から下は動かない重度の障害者として30年以上寝たきりでした。しかし女学校の購買部で寝たままの姿で働き、キリスト教の伝道にも身を奉げているのです。

 久子は矢も楯もたまらず愛子のもとを訪れました。・・・初めて対面した久子は座古愛子の輝いた顔と安らかなまなざしに思わず息をのみました。視線があっただけで、二人の目に涙が溢れました。

 魂の交流する世界、それはどんなに尊い数秒間であったろう。 
 しかも久子は愛子がそんな体で誰一人身寄りもないのに感謝の日々を送っていることを知り、衝撃を受けました。自分は今日まで親を恨み、手足のない運命をどれほど呪ったことか。しかし自分よりつらい運命を背負っていながら誰一人恨むどころか感謝の日々を送っている人がいる。
 
激しい驚きの中で久子の心に思ってもいなかった世界が開こうとしていました。・・・

 

 座古愛子は明治11年(1878)12月31日、兵庫県東川崎町(現神戸市中央区)に生まれた。
 
彼女の著作としては
『伏屋の曙』明治 39 年 警醒社
『伏屋の曙 続編』明治 41 年 警醒社
『聖翼の蔭』大正2年 警醒社
『闇より光へ』昭和6年 森書店
 など多数あるが、現在ではほとんど入手できず、彼女のことも忘れ去られようとしている。しかし、中村久子が彼女との一瞬の出会を通して心が一変ししまったことは紛れもない事実だ。
 人間は人生の様々な出会いを通してその生き方が変えられて行く。その出会いは一瞬かも知れないが、実はそこに至るまでの、それぞれの様々な道程があることを知って、私たちは現在を生きる勇気を湧かせられることが多い。ここに二人の生涯を紹介しよう。

 

座古愛子という人

 愛子の祖母・武井みつは信州下諏訪の人で、若くして夫に死別し、忘れがたみの長女を伴って亡き夫の菩提を弔おうと、家屋敷を路銀に代えて西国巡礼の旅に出かけた。美濃の谷組寺で三十三カ所の巡礼を終えたが、悲しい思い出が残る故郷へは帰らず、しるべを頼って兵庫に居付き、のち縁あって播州飾磨(兵庫県姫路市)の人に嫁いだ。
 
三十五歳の時に愛子の母「すゑ」を生んだ。すゑは十八歳で兵庫の「浜伊屋」という旧家の入婿に嫁いだが、この入婿が道楽者で、困り果てたすゑは、長男(愛子の 実兄)を連れて祖母の実家に戻って来た。そこでたまたま兵庫に逗留していた薩摩藩の一家老の男児の乳母に採用され、その収入で祖母と長男を養った。務めも終わった数年後、昔の媒酌人がやって来て、かつての夫が今は真面目になり復縁を望んでいる、という。意を決したすゑは二度と跨ぐまいと思って出た婚家の敷居をもう一度跨いで帰ったものの、夫はまたしても道楽の淵に転落、絶望した彼女は再び長男を連れて実家に舞い戻ることになった。
 が、今度は身重であった。こうして生まれて来たのが愛子である。この生い立ちからして愛子の誕生は皆に祝福されてというわけではなかったようだ。
 
ちょうどそのころ、祖母はキリスト教に入信した。この時のことを愛子は次のように記している。

 ・・・その頃祖母は小さなあきないに出歩いていましたが、お得意様の奥様から、キリストの教えを聞きました。それによれば、「天の下には我らの頼りて救わるべき他の名を、(神は)人に賜いし事なければなり」( 使徒行伝4・12)と聞いて、かつて亡夫の菩提を弔い自分たち親子の将来を念じ、足に豆を作りながら巡礼したその苦行も救いの役には立たないと知らされ失望しました。それならば何によって救われるのだろうかと苦悶しつつあった時に、キリストという門を通らずしては、神の聖前に行けない事を教えられました。そして始めて真の救い主を知って大いなる喜び入れられたとのことです。
 
この奥様の導きによって、八人の受洗者が出来、「兵庫キリスト教会」と改称されたのですが、祖母はその中の一人であったとのことです。
 また、愛子は祖母の信仰を次のようにも書いている。・・・
 「伝道は、伝道者のみの仕事でも、閑人のひまつぶしでもありません。信者よりほとばしり出る噴水です。噴水が、その水源の池より高く上らない様に、私たちはキリスト以上のわざは為し得なくとも、細くとも高く噴きあげて、周囲を潤すのは易しいことです。祖母を導いた方は医師の奥様でした。有閑夫人として生きることもできたかも知れませんが、キリストの救いに感激して、出入の商人をとらえては一言二言、福音を伝えられたのです。祖母もその中の一人として福音を聞く光栄に浴し、世の憂いと苦しみの中で渇き切っていた魂が大いに潤おされたのです。さらにその生命の源へ登るべく示されて、とうとう救いの門に入る事が出来たのです。外に向かって巡礼の旅に出かけなくとも、救いは彼女のすぐ近くにあったのです。しかし巡礼で三十三ヶ所の深山幽谷に分け入ったのも決して無駄ではなく、険阻を辿り谷底へ下る時、御詠歌を唄いながら、ひとえに弥陀の名を呼び奉った事などは、信仰の土台を据えるために深く地を掘り下げた様なものでありましたから、キリストの教えをその上に据えることができたのです。
 
困窮の極みにおいて祖母が救はれたことにより私たち一家三人が救われたのです。日々感謝に充ちて、何事があっても忍ぶ心には、不平不満の影さえも映ることなく、祖母はキリストを愛し、救われた喜びを終生持ち続けるに至ったのです。初めの愛を離れることなく、殊に貧しい人々への愛から、日毎の稼ぎの少しをさき、日曜には必ず仕事を休んで教会の礼拝に集った後は、日頃見ておいた貧しい家を訪問して、愛の言葉に添えて小さい金包を主の名によって与え、聖書の言葉通りに行うのが祖母の唯一の楽しみでした。それによって自分自身の貧しさを忘れることができたのです。 

 ・・・祖母・母・兄、そして愛子という四人の貧しい生活は続いた。愛子の母、すゑは生活費を稼ぐために洗濯、縫い物から代書などの仕事をなりふりかまわずして働いた。中には子供を養子としてもらい受けようと言う人もいたが、彼女は、たとえ乞食をしても子供を手放すことはしないと心に決めていたので、二人の養育を祖母に任せて近くの病院に住み込み看護婦として働いていた。
 
そんな折、祖母は毎日決まった時間になると二人の孫を連れて病院の壁近くに行き、その節穴から母に子供たちを垣間見せたという。
 
ところがある日、思いがけない禍が祖母と愛子を襲った。一夜のうちに、二人の両眼が腫れ上ってしまったのだ。八方手を尽くしたものの、愛子は全快し祖母は盲目となってしまった 。母すゑは病院を辞めて家に戻って働くほかなく、12歳 の兄は農家に年期奉公に出されることになった。
 
「男になった気で」働いていたすゑに、やがて再婚話が持ち上がった。彼女はもう結婚はこりごりと思っていたが、失明した親と幼い子供のことを考え、自分が「突然病気になったならば、一家が枕を並べて、餓死を待つ惨状となるに違いないと思い、その話に応ずることにした。
 その時彼女は33歳。相手は座古久兵衛といい、陽気で男気があり、愛子を生涯可愛がり、母すゑの死後も実子同然に育ててくれた。愛子が終生、「座古」という、この血のつながらない養父の姓を名乗ったのは、そのせいだと思われる。
 久兵衛も再婚で、死別した前妻との間に実子はなかったが、愛子には義理の姉に当たる養女が一人いた。久兵衛は家鴨や鶏などの養鶏を生業としていたようである。母すゑは、祖母と愛子、それに年期奉公があけて戻ってきた愛子の兄を連れての再婚だったので、「親と二人の子供とを連れている私は、よそのお内儀方よりは四倍の働きをせねばならない」と言って、なりふりかまわず働いた。
 しかし後に不遇の娘時代を送らなければならなくなる愛子にとっては、もっとも幸福な時だったようである。この時のことを彼女は次 のように述懐している。 

 ・・・ 子供三人の中で父の一番可愛坊は私でした。母は蔭でよく言いました。「生みの親より育ての親と言うが、父には大恩がある。何か父が立腹して母を怒鳴りつけていなさる時など、少しでも母をかばうような顔付きや言葉を出してはなりません」とよく申し付けられていました。それでどんな時でも母の味方はしませんでした。
 祖母は私に昔話を毎晩聞かして下さいましたが、桃太郎や、猿蟹合戦よりも、聖書の人物伝というべく、旧新約聖書中の信仰深い人たちの伝記をよく話して下さいました。アブラハムが天幕を張りながら遊牧の旅を続けているところでは、「人間の一生はみなこのような人生の旅路を辿っているのだよ。色々な憂いや苦労から逃げることはできないのです。それで讃美歌に

 たのしきくには天にあり 聖者は栄えかがやく・・・とあります。
 永遠の故郷、天国こそ我らに安息を与えられるところです。私が盲目になり、お前が全治したのは有難い事です。私はもう世の中に告別するに間のない者、お前は先の長い身であるから、それがもし盲人になったら、どれ程悲しみが深いでしょう。老いて目を失っては何の役にも立たない、貧しい人を喜ばす事も出来ないが、しかし霊的には為すことがある。全世界の人の為に祈りの御用が出来る。体を持っての昔より、非常に広い。これを思えば感謝せずにはいられません。」とよく申していました。これは負け惜しみでも何でもなく、その通り信じてすべての事にことごとく感謝して、不平な顔は一度も見せた事のない人でした。
 
・・・私がこの病気になり、世をも人をも恨む時に昔の祖母の笑顔の不思議を深く思いめぐらせました。どう考えても分りませんでした。然し自分が祖母の様に救われた時に、始めてその笑顔の出所が分かりました。 

 明治22年4月、愛子12歳のとき、慈愛あふれる祖母は眠るように天に召された。74歳だった。祖母は家中ただ一人のクリスチャンだったが、兵庫教会より牧師と信徒数名が来て告別式がとり行われた。
 同年7月、母すゑは男児を出産した。が、それまでの無理が災いしてか、産後の肥立ちが悪く、一週間後に彼女はこの世を去ってしまった。残された男児は12歳の愛子が必死に育てることになったが、同年秋にこの子も母の後を追うように逝ってしまった。愛子は同じ年に三人の肉親を失ったのだ。その間、愛子の実兄は家を出、義姉も実の親元へ帰ってしまい、父と愛子の二人だけの家庭になっていた。
 
このような事情の下で、新田夜学会(多聞教会の信者が、働く親の子供のために開設していた塾)での勉強も続けることができなくなり、父久兵衛も健康を害し、回復後はもはや自営業はむずかしく、雇い人になって働いたが、貧困はいよいよその深刻さを増して行った。 

愛子がリウマチに冒された経緯

 愛子は母の存命中多少三味線を習っていたこともあって、このような貧困から脱出しようと芸妓になることを考え始めた。そして16歳の時、父を説得して芸妓見習いになろうと、紹介者の婦人と大阪花街の東京楼という大店へ行ったが、一年たったら娼妓になってもらうと言われ、驚いた愛子はその足で十里の道を父の許に逃げ帰った。その後また、今度は岡山近くの芸者置屋兼料理屋で、やはり芸妓見習いとして働くことになった。ところがこの廓では芸妓と娼妓の区別が無く、二枚鑑札で芸妓が娼妓を兼ねるということが判った。「これは大変、そのような者になるなら、あの堂々たるお城の様な東京楼に身を沈めるのと同じだ。あの時、十里の道を九時間で帰ったのは何の為。」と彼女は急いで実家に帰ってしまった。(注:芸妓は三味線や踊りなどで客をもてなす女、娼妓は売春婦のこと)
 そんな危ない橋をたびたび渡っていた愛子 17 歳の頃・・・
 
「その年の六月に手足の関節が腫れて痛むので医師に診てもらうと、風邪の後の熱が籠ってリウマチになったので、充分養生しないと不治の持病になって、生れも付かぬ不具者になってしまう。今のうちに充分養生しなければと注意されました。・・・初めは赤ん坊の頭程に腫れていた膝関節が一週間も経つと全くもと通りに治り、走っても痛くないまでに治ってしまいました。もう大丈夫と思い、医師にお礼を言って引き上げる時に、『治ったとは言え油断してはいけない。未だ病中のつもりで養生をなさい』と言われました。でも全快したのにと思い、丈夫な時と同じように振舞っていました。この油断こそ一生を病床に投げ込む大敵だった事を後になって知りました。一ヶ月もすると病気が再発して、以後身体をほとんど動かすことのできない身体障害者になってしまったのです。」 

 養父は、彼女のために土間の鶏小屋の上に寝台を作ってくれました。骨と皮のように痩せて衰弱した愛子は、この冬は越せまいと医師の診断を受けていたほどでした。 

<このころの愛子の述解>・・・

 「深夜、家族の寝静まった頃に痛い体をソロソロと虫が這うように這い出して、漸く裏の井戸端へ出ました。空澄み渡って遠目に見える鷹取山上の燈火が夜風にチラチラまたたいているさまは何とも言えない淋しさでした。あの火の様に私の命も消えかかっていると思うのですが、一向に涙が出ません。他人の事の様に感じられて心が澄み切っています。不思議な事もあるもので、何故とも判断が付きません。死という間際はかえって怖ろしくなくなるのか知れません。非常に静粛な、荘厳な気持ちでした。
 この潔い心持のままに井戸に飛び込んで死のうと思いながらも、眼の前に見える井戸へは一歩も足が動きません。幸い家族の者にも気づかれず、「今こそ!」と思うのに、私の足は大地に釘付けされたようで、一歩も前へ出る事が出来ませんでした。そうしてまた一歩ずつ後ずさって、床に入ってからは口惜し涙に濡れて、忍び泣きに泣き明かしました。
 「私は何にも悪い事はしていないのに、そして世の中には悪い事をさんざんしておきながら無病息災で健康な人はたくさん居るのに、何故私だけがこんなに苦しむのか、世の人は皆憎らしい。神も仏も在るものか。」と、そんな荒んだ心になっていました。その頃は、女の命と言われる髪の毛も生え際から切ってしまい、外見も男か女かわからない、まるで地獄から引き返して来た幽霊のようでした。」

  ・・・21歳の暮、病に伏して四年が経った十二月末の日も暮れようとしていた時でした。養父母へは気苦労が募るばかり、読む物は古本も古雑誌も、壁の破れ目に貼ってある古新聞紙に至るまで、読み尽して、暗記する程覚え込んでしまい、終夜身の不幸を嘆いて泣き明かし、早く夜が明けて窓辺から黎明の光りが射して来る時の喜びを味わいつつも、その日もまた空しく暮れて行くのを待ちわびるのが私の日課だった頃のこと。
 
私の寝ている床の前面は荒壁で直ぐその後は道路なのですが、湊川の補修工事にカンテラを提げて昼となく夜となく土方が通っていました。その時、突然大声で叱っている声が聞こえて来ました。「奥江さんは、ああいう人だから、何もおっしゃらないが、あれでは困るじゃないか!!!」 誰かが大眼玉を頂戴している様子です。相手が、何と詫び言を言ったのか、小声なので聞こえませんでした。私は思いました。何の失策か知らないが、叱られているのは、土方だろう。叱っているのは現場監督か、それとも事務員か。敬語を使っているから奥江さんというのは、上役の人に違いない。技師?とも思える。ガミガミ叱らなければ人が使えないような浅薄な人ではなく、何もおっしゃらないで多数のあらくれ男の土方を、自分の手足のように使う奥江さんとかいう人は、深みのある人格者だろう。誠に敬慕すべき御方ではある、と感じ入っていました。
 
この出来事から数日の後、私の事から家庭に風波が起り、母は外へ逃げ出し父が追いかけて行った時に、通りがかりの一紳士が仲裁して家の中に入って来られました。争いの原因は、父が「病気の子を労わってやれよ」と常々言っているのに、彼の妻は兎角つれなくする。その為にこの有様、お恥ずかしい次第、と語りました。  
 紳士はそのお子さんを見舞いたいと言って私の枕許に来られ、「お父さん、この子は、息子ですか、娘ですか」と聞かれました。それもそのはず、一時の病気と思っていたのに、どうしても治らず、失望の極みにあって、女の命ともいう髪まで切ってしまい、さらには剃り落して、坊主頭になっていたので、一見男女の見分けが付かなかったのです。
 
その日は両親を諭し、双方を慰めて帰られ、三日目には、夫人同道で見舞に来て下さり、菓子と金包と一枚のカードとをいただきました。金包には赤鉛筆で、「神の恵」とだけ書いて署名はしてありませんでした。カードを手に取って見ると、赤地に福寿草の絵で「今は救いの日なり、コリント後書六ノ二」と書いてありました。さてはこの方はクリスチャンだなと思い、「貴男は信者でありますか」と問うと、先方が驚かれて、「信者と言われるのは、キリスト教を聞いた事でもありますか」と言われるので「ハイ。信者であればお懐かしい。私の祖母は兵庫教会の古い信者で、今此カードが読めましたのも、多聞教会の信者が開いていた新田夜学会(あるクリスチャンが、働く子供達のために開設していた塾)で、私はそこで三年間学ばして頂きました。
 
紳士は、「成程、そんな訳でしたか。兵庫教会に、お祖母さんの御教友方も、生存して居られるかも知れませんねえ」とおっしゃって、とても喜ばしそうにご帰宅になられました。」
 この紳士こそ数日前愛子が壁越しにその名を聞いた奥江清之助その人でした。奥江は初め内務省土木局の役人でしたが、このころは役人を辞めて、技師として各地で土木工事を指導していた。彼の卓抜した人格の影響力は、彼の許に働く土方労働者たちがみな禁酒を誓うほどだったという。やがてアメリカに移住するが、愛子は奥江を生涯の「霊の父」として敬慕し続けた。
 
3年後、愛子が21歳になった明治33年(1900年)3月、彼女は受洗することになった。近所のカトリック信者一家もこの事を聞いて非常に喜び、兵庫教会からの出席者も含めて8名が愛子の枕元に集った。
 不思議なことに受洗したその翌日から、愛子は文字が書けるようになり、牧師や教会員から諸所の病人に手紙を書くようにと依頼を受けるようになった。彼女は病床にあっても、救われた十字架の愛の教えを書き綴ることを自分に託された使命と受け止めるようになった。
 
手紙を出したうちの一人に18歳の肺を患った看護婦会の娘、「まさ江」がいた。ともに病む身で心が通じ合い、愛子は招かれて、「まさ江」の家に泊まった。「まさ江」が稽古で覚えた三味線で伴奏をして愛子が讃美歌を歌うという楽しい時を過ごしたこともあった。
 
また、26歳の青年が牧師の紹介で愛子を見舞ってくれ、教員であったため女学校の教科書を5年分揃えて来て指導してくれたこともあった。兵庫教会に新しく就任された武田猪平牧師は愛子の文才を認めて、和歌や俳句の手ほどきをしてくれた。こうしてその後、愛子は『伏屋の曙』などを出版したが、以来遠方からの来訪者が増えてきた。
 あるとき、耳の不自由な「英子」という名の婦人が愛子を頼って来訪して来た。対応した養父は彼女にいたく同情して同居を勧めた。愛子には筆談を通しての聖書と信仰談をする役割が与えられた。その頃、愛子は姫路へ伝道旅行に行くことになり、彼女は看護婦を兼ねて同行することになった。こうして彼女は愛子と起居を1年半共にして裁縫で部屋代を賄ったが、33歳の時、愛子の世話で結婚した。結婚式と祝福の宴は、ムシロを囲った愛子の家で、兵庫教会から牧師と役員数名、教会員有志らが両者の家族とともに式に連なった。
 愛子はいつまでも、老いて行く養父の世話ばかりを受けていては済まないと、古着屋から7枚の布団を買い入れて、貸し布団屋を始めた。その仕事は繁盛して、5年後には53枚の布団に膨れ上がり、義母も番頭役をするほどになった。こうして愛子は自分の生活費と家族の面倒を見ることができた。
 
その後、神戸女学院の創始者タルカット女史が愛子を知り、彼女は約二十年間住み込みで働くことになった。
 
それまでの貸布団業で得た収益の半分は養父に贈り、布団は下宿屋へ売り、残りを懐にして彼女は購買部へ移り住んだ。そこで愛子は寝たままで学用品を買いに来る学生たちに対応していた。(「清く平和な別世界で、夢のように歳月が流れた」と愛子は後に述懐している。)
 
そこで多くの人々に出会うことができた。(両手両足を失った中村久子は昭和5年彼女に面会し、生かされているという感謝が湧いて来たと回顧している。)文頭参照
 無教会の内村鑑三は、大正8年(1919)9月1日の日記に「神戸、座古愛子女史の新著述「父}に附すべき序文を書いて「大いなる名誉と感ずる」と書き留めている。どこで、どのような経緯で内村鑑三との接点ができたのだろうか?
 この年12月1日から4日まで神戸イエス・キリスト教会で青木澄十郎司会の下で中田重治の説教が行われたが、愛子は、ここで中田重治にも会っている。
 
やがて女学院の新校舎建設にともない、彼女はそこを去った。
 
その後、愛子は洗髪用洗粉を思いつき、主婦之友社(創業者・石川武美)が「ぬれがらす」と名づけて売り出したり、顔洗粉「ひばり野」を考案したりした。
 
また愛子には発明の才があった。たとえば、教会やその他に人力車で出かけると乗り降りが不便で事故に遭うこともあったので、彼女は車椅子を考案した。「介護車」であるが、これで山登りへも海岸へも出かけることができるようになって、行動半径も広がった。(彼女が出版した『闇より光へ』には愛子が考案した車椅子姿の愛子の写真が掲載されている。)

 昭和6年1月号の『主婦之友』誌上に愛子のことが掲載され、愛子のもとにたくさんの手紙が届いた。
 彼女の著作に『煩悶苦悩』、『伏屋の曙』、『微光』、『闇より光へ』(自叙伝)などがあり、『現代詩体系3』に作品の一部が収録されている。今日、彼女の残した文書を読んでも、その深い霊性と福音理解は驚嘆に値する。事実、明治末期から昭和初期まで、彼女の書を読んで生きる勇気と力を与えられた人は数え切れない。 

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中村久子の生涯(1897~1968)

・・・自叙伝『こころの手足』より

 
 中村久子は明治30年岐阜県高山市に生まれた。3歳に満たないとき、両手両足が突発性脱疸にかかり、両親が手術を躊躇しているうちに左手首がもげ落ち、遂に両手足を切断、以後四肢なき子として筆舌に尽くし難い人生を歩んで行くこととなる。勿論両親の苦しみも大変だった。

<久子の述懐>

 忘れもしない7歳の年、7月も半ば過ぎ、連日の大雨に宮川の水が増して、恐ろしく聞こえる水音に、ともすれば眠りを妨げられそうな、物凄い夜のことでした。
 一緒に寝ていた父は突然私を揺り動かし、『ひさ、とゝ様が乞食になっても、死んでも決して放さないよ』と言いながら、つよく抱きしめました。とゝ様、今夜はどうしたのかしらと子供心にも不思議に思った矢先、父はそのまま夜具の上に倒れました。・・・」
 
父が39歳で逝った後、赤貧の中、久子は病弱な母と祖母に育てられた。幼い久子にとっては人形が唯一の友だった。
 ・・・「紅い椿模様の着物がよく似合う人形の、ふさふさとした豊かな黒髪よりも、鈴のようなつぶらな瞳よりも、何よりもうらやましいものは小さいながらも指の揃った二本の手、二本の足でした。ほんのりと紅をさした指を持つお人形の幸福、―私の幼い憧れは、いつもはかなく寂しいものでした。「あんたはお手々もあんよもあって好いのね。そのお手々、あたしに貸してちょうだいな」無心な人形にこう言いながら頬ずりする私。それを見る度に、顔をそむけて涙をそっと拭く祖母、―それは私が生涯思い出される深刻な祖母の印象となってしまいました。」
 
久子は知的には人並みはずれて優秀な子でしたが、当時はもちろん学校に行くことなど許されるはずもありませんでした。しかし彼女は、石筆や鉛筆を口にくわえて字を祖母から習った。やがて母は生活苦から久子を連れて再び貧しい畳職人と再婚するが、重い障害を負った連れ子である久子はここでも暗く悲しい日々を送らなければならなかった。9歳のときに久子は突如両眼を失明した。四肢なき上に盲目となった久子の世話のために、母は久子のたった一人の愛する弟を、孤児のように岐阜の育児院に送らなければならなくなった。
 ・・・その「前夜、闇夜にまぎれて母は、盲いた私を負って足音も忍びやかに、今宵を限りの愛し子のいる家(このとき弟は叔父の家に居た)の前にそっとたたずんだ。人の世の悲しいさだめさえ知らない無心のわが子の声を、よそながら聞きつつ、うしろ髪引かれる思いで、泣きぬれた顔を襟元深くうずめ、悄然と立ち去った母の心を誰ぞ知ろう。
 『……かゝ様、どこへ行くの?』とぼとぼと力なく歩んでいる母。
 『かゝ様とよい所へ行こうなァ』
  その声は消え入るように寂しい。夜更けの道に、小砂利を踏む母の駒下駄の音さえ何となくもの悲しいひびきを刻んでいた。鬼気迫る寂とした大自然の中に母と子は、妖魔の手ぐる糸に牽かれるかのように、一歩一歩よろめきながら吸い込まれて行った。ゴゴーッ、不気味な音をたてて、高原特有の夜風が樹々の梢を、強くゆるがせては去る。恐怖に襲われて、思わず私は母の肩にしがみついた。
 『ひさ、堪忍してなァ』とかすかに首を振り向けた母の顔から、冷たい涙が私の額に落ちた。ただ、わけもなく悲しくなり、母の背で私は泣き出した。なだめるように低い声で何か言いつつ、とぼとぼ歩み続けている母。
 かゝ様はどこへ行くのだろう。初夏といっても、新緑がようやく萌えだしたばかりの、飛騨高原の夜は肌寒く、冬の名残りが身にしみる。やがて母がたたずんだ所は、直ぐ足元で、ドドドーッ、もの凄い水音が地ひびき立てている激流。町を遠く外れて東南、ここは宮川の上流。じいっと身動きもせず、いつまでも、いつまでも立ちつくしている母。何とはなしに襲いかかるような恐ろしさに、固く小さくふるえている私の身体にも、夜露が冷え冷えと降りて来る。
 『かゝ様、こわいよッ』『・・・・』
 母は身じろぎもしない、放心した人のように。『……』」地獄の底を思わせるような凄い水音は、ひっきりなしに大地をふるわせている。
 『泣かんでなァ……何でもないの、……帰ろうなァ』
かすかな溜め息をついて、よろよろと母は歩きだした。・・・」
 実際、障害児を持った親で、子供を殺して自分も死のうと考えなかったというような人はいるだろうか。
 しかしこの悲母観音(後に久子は母をそう讃えている)は、どん底のなかでこの小さな生命の火を守り育てて行った。半年後、医師の治療のかいもあって、久子は奇跡的に光を取り戻した。それからの彼女は、強い意志と血のにじむような努力で自らの障害を乗り越えて行った。口と両腕(両手ではない)と、ときには脚(足ではない)を使って、自分で食事をすることはもちろん、裁縫(口で運針するために、どうしても唾でぬれてしまうのを克服するのに13年要したという)・編物・炊事・書道等々、当時、女性が身につけなければならないとされた技能や仕事はすべて、自らの独創と努力によってマスターして行った。
 
それにしても、母が再婚した家で、義父や異母兄姉と暮らしていくのは容易なことではなかった。
 
「不具の子を家の子と思われることは恥ずかしい、と、他人に見られることをひどく嫌われて、義父の所では私は二階の一室のみに朝夕を過ごさせられておりました。お便所に行きたくてもすぐには行かれず三時間も五時間も辛抱しなければならないのは、食事の時間が遅くなるのよりも辛い悲しいことでした」。そして経済的にも、将来の見通しのまったくない厄介者に過ぎなかった彼女は、死ぬことばかり考えていた。
「『家では幾人稼いで、幾人遊んでいる』。義父のこの言葉は、いつも母と子の胸をいばらの棘で刺すようにこたえました。
 
『お前さえ無かったら、こんな苦しい思いはしないのに……』と、母は苦しさを抑えかねて、つい口に出すこともありました。「死んだらえゝのに、死にたい」
 ・・・四肢障害者が逆境に生きていくことは決して幸せでもなければ、喜ぶべきことでもない。四六時中、頭の中を去来するものは、死のみでした。祈り求める死には直面せず、求めざる生のみ押し寄せて、そこにさまよわねばならぬとは、目に見えぬ宿業の深さ、悲しさでありましょうか」。
 20歳のとき久子は経済的に自立するために、ある人の世話で見世物小屋の芸人になり、「だるま娘」として出演することになった。そこはいわゆる香具師(やし)といわれる渡世人の世界で、ここで久子は人気芸人になったこともあって、予想外の自由な世界が開かれることになった。
 そしてこういう世界には、彼女を人間として扱うという、堅気の世界にはない良さがあり、彼女はここに22年間暮らすことになった。この時代に彼女は恋もし、結婚もし、子供も産んだ。結婚は四度しているが、最後の中村氏との結婚まで、最初の二回が死別、三度目が夫の放蕩と、必ずしも幸福だったとは言えないかも知れない。(座古愛子に会いに行ったのもこの時代である)。
とは言え四肢なき彼女には、とりわけ男手がどうしても必要であり、結婚は不可欠なことだった。
 
 昭和12年、来日してきたヘレン・ケラー女史と出会った時女史が彼女に触れて私より不幸な人、そして私より偉大な人」と言われたことは知らぬ人はない。
 昭和13年、彼女は縁あって懐かしい祖母の帰依していた浄土真宗に入信した。そして各地での講演の生活が始まった。しかし、既に宗教に触れる前に、苛酷な現実の試練を受けていた彼女にとって、宗教宗派とか入信とかにどれほどの意味があったろう。宗教が彼女を作ったのではない、現実が彼女を新たに創造したのである。
 昭和42年、彼女は神戸女学院と臨済宗祥福寺にて座古愛子の二十三回忌法要を営んでいる。

 昭和43年72歳の生涯を終えた。

 

コメント

カーライルを学ぶことによる弊害について/内村鑑三

2017年05月11日 12時58分03秒 | 紹介します

 以下内村鑑三のカーライル評から意訳しました。文責はすべて私、大山国男にあることをお断りしておきます。

 ・・・私はすでにカーライルを学ぶことで得られる利益を述べた。彼の性格は非常に愛すべき、尊敬すべきものであるとともに、一面非常に恐ろしく避けるべき点がある。つまり、彼から学んで得る利益は極めて多いのだが、またその弊害も多いことを忘れてはならない。

 その多くは、彼の著書「英雄崇拝論」から来ている。すなわち、感情豊かで血の滾りやすい青年がこの書を読み進むと、その訴えがクライマックスに達するころには、無意識のうちに机を叩いて、その内容が画期的であり、意味深長なものであることに感嘆し、腕を組み、目を凝らして、心の底から世を憂える情動が内心からふつふつと湧き上がってくるのを抑えることができなくなるのである。そして未だその書を読み終えていないうちに、早くも彼の心は変わってしまい、その影響力は驚くほどに激しいのである。

 これはとりもなおさず、これを書いた人物の偉大さを物語るものである。私はこれまで古今東西の偉人に親しく接したり、その著述を読んだり、またその業績を見たりして来たが、彼の著述のように、無意識のうちに著者の精神が読者を鼓舞し、何時の間にか己の霊性の一部となってしまうもの、すなわち読者をして、共に怒らせ、共に喜ばせ、共に泣かせ、また共に笑わせるまでに、すなわちあたかも自分の心が弄ばれているような感覚を覚えるほどに、はなはだしく感化をあたえるものは、私の知る限りでは、未だかつてカーライルの著書に勝るものは見たことがない。

 ましてその思想が未熟で、未だ世の波風を味わったことのない、無邪気で天真爛漫な青年が、彼の書によって感化されやすいのは、きわめて当然の事のように思われる。その弊害とは、すなわち不平の気持ちに耐えられなくなることである。彼はこれを読み進むうちに、他人のなすところ凡て否定的になり、自分の気持ちと違い、自分の理想に合わないものは一片の価値もなく感ぜられるようになるのである。

 たとえば、夕暮れ時になって出会う隣人の挙動にすべて不満を覚えたり、学校で見聞きするもの一つとして満足を覚えることができなかったり、世の政治的状態を観察しては、なにもかもが憤懣の種となり、巷に溢れる文学を読んでみてもすべて批判の対象となり、さらに教会に出入りしても、心に平安を得ることがなく、牧師や信徒に対して不平不満の念を抑えることができなくなるのである。

 その結果、彼の気持ちは荒み、心は猛り、物事を観察しても、これをその明るい面から見ることができず、ただその暗黒面から見下して、憤り、批判するようになるのである。

 多くの牧師や伝道者であろうとする人々が、カーライルを学ぶことを好まない所以は、その温かく誠実で大人しい本来の自分の性質を傷つけはすまいかと恐れるからである。

 つまり、カーライルは現在に満足して太平を謳歌することができる人物ではなく、ただ彼の意に叶い、心に満足させることができるのは、過去と外国だけなのである。どんなにその人が尊敬すべき人物であろうと、如何にその事業が高貴なものであろうとも、いやしくも今日、今現在そうである場合には、彼は決してこれを喜ばない。たとえそれが破壊されても、それを惜しむというようなことがないかのように見える。

 それだからロンドン市中に4百万の市民がいたが、親しく交わって心を交わらせた者はたったの23人しかいない。しかもその2,3の友人すら、ややもすれば疎んじて捨ててしまう傾向があったのである。

 彼は実に近世に友を求めず、むしろこれを阻もうとした。ある人が彼の思想を評して、彼の目に映っている世界においては上帝はクロムウェルの時代まで存在していたが、それ以降はその姿を隠してしまったかのようだと述べている。彼からすれば、天下の英雄はクロムウェル時代に終わったとしているからである。

 しかしながら彼の在世当時、英国社会は決して人物が乏しかったわけではない。スコットあり、ウォルゾウスルあり、バイロンあり、ミルあり、グラッドストーンあり、ヂスレリーあり、天下の名士が政府内外に、星のように多く散在していたのである。

 それなのに、カーライルは多くの英雄がミルトンの時代には生存していたが、今はいないと述べている。すなわち眼前の素晴らしいものを見ても、彼はそれらを讃えることができなかったのである。

 たとえば、名宰相ヂスレリーを呼ぶ場合にも彼をディジーと呼んで決してその本名で呼ぶことをしなかった。また、最近亡くなった有名な解剖学者で厚く彼を尊敬していたオーエンに対しても、少しばかり彼を褒め称えて、「まれにみる英才で、私の家を訪ねて来て、語り合うこと,4時間にわたり、非常に愉快だった。」と言っているのみである。

 このように、今現在の美しさを褒め称え、その才能を感じることができないのは、おそらくこれは彼の持って生まれた病と言っても言い過ぎではかろう。

 西洋の諺に言う。「見なかったものは、高価である」と。

 しかし、彼が当時の人物に対して激賞してやまない人がただ一人いた。ゲーテである。エマーソンはこれを訝って彼に問いただした。「あなたのように厳正な宗教観をもち、信念も非常に厚い父母がおり、しかもスコットランドの自然に囲まれて成長したのに、それでもなお、あのゲーテをことさらに褒め称える理由は何ですか」と。

 その通りカーライルの普段の生活を知る者にとっては、彼がゲーテを特愛するのを聞けば、誰でも予想に反して驚くだろう。彼はあらゆる美辞麗句を並べて、ゲーテを褒め称え、あるいは夏の太陽のように、勇ましく昇って勇ましく沈んで行くと言い、ゲーテの一文に接して手の舞足の踏むところを知らないかのようである。 

 さながら天地の神より授けられたかのように喜び、彼に知られていることをして無上の名誉と感じ、ドイツに旅行した時にはウィッテンボルグ(Wittenberg)にルターの墓を弔うよりも、まずゲーテの書斎を訪ねたとのことである。

 彼がゲーテを激賞するようになった動機は、それによって英国人を叱咤しようと願ったからであろう。かつて彼は中国の皇帝を称賛して農事を始めるにあたり自ら鍬を持って儀式を行い、また、労働の実を奉げたということを聞いて、キリスト教国であるイギリスでもこのような美しい慣習は行われなかったと言い、あるいは中国の科挙の制度をもって、それを文明的であるとし、ヨーロッパ諸国においてもそのような例を見ないと主張している。

 しかし、事実を知る我らにとっては、その儀式にしろ、方法にしろ、決して感心するものではないのだが、彼が大いにこれを激賞したのは、つまりは「見たことのないものは高価である」との諺の類ではないだろうか。

 彼は時には暖かい友情を壊してしまうこともあったが、それを惜しむというようなことはさらさらなかった。たとえば、親友エドワード・アービングについては、彼の死後有名な追悼文を作って、英文学中もっともよく追悼の気持ちを述べているものと評せられるけれども、彼らの生前の交友は疎ましかったきらいがあり、その責任はカーライルの側にあったと言わざるを得ない。

 エマーソンとの交友が濃やかで一生変わらなかったのは、私が思うに大西洋を隔てていたからであろう。エマーソンが初めて彼の家を訪ねた時、二人とも意気投合して肝胆相照らし、見るところ昔からの友人のように心の底から談じ合ったにも拘らず、二度目の出会いにおいては、カーライルはあまり喜んではいなかったようで、二人が別れた後、「彼は思いのほか理解し難い人だ」と人には語ったそうである。

 パルマルガゼットの紙上で、救世軍のブース氏と出会った時には、二人は互いに手を握り合って深い交わりを示したにも拘らず、それは初めの時だけで、次の出会いの時には、ぶつかり合い、口論となり、果ては互いに戦おうとして、その前後の変化を示す、一枚の絵を間において彼の欠点を指摘したものであった。

 このように、カーライル自身、遠慮なくその偏りを現す時には、自分の最愛の妻といえども、その愛が深くあることはできなかったようである。別の言い方ですれば、カーライルの家庭が暖かくなかったのは、その妻の性質が温和でなかったことによるのであるが、たとえば、ある一例を挙げれば、夫妻が揃って旅行した折、カーライルがある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。彼はそれが冷たいので不平を洩らしたところ、妻が熱く熱している炭を持って来てその茶碗に投げ入れ、これで暖まるでしょうと言ったことがあったとのことである。

 果たしてこの妻の性質はカーライルを怒らせたであろうが、あるいはカーライルの気性が荒く、妻の偏った癖を醸成したのかも知れず、簡単に結論は出ない。とにかく彼の家庭は春の海が波穏やかでそよ風が吹き、和気あいあいとしたものではなかったようである。

 しかしながら、彼はその妻が世を去って後、二年間は言うに言われぬほどの深刻な苦痛を覚え、ほとんど食べることもせず、妻の死を悲しみ、「一瞬でも良い、もう一度会いたいものだ。」と嘆いたという。

 これを見れば、彼は決して冷酷な、愛を理解しない無情の人ではなく、その心の奥底には燃えるような熱情が潜んでいたけれども、不幸にも彼の多くの性格のために抑圧され、遂に円満にその暖かい気持ちを表すことができなかったのであろう。

 このように不平不満の気性は彼の一生を貫いていた。それゆえに彼から学ぼうと思う者はその不平不満の気持ちを減じて読まなければならないのであるが、しかしながら私は彼を弁護してこう言わなければならない。彼は実に人生社会のあらゆる方面において、不平を持ち、慰めを持たなかったけれども、今日の凡庸な政治家や軽薄な文学者たちが抱くところの不平不満と同列に扱うべきではない。

 彼は何ゆえに不平を持ったのだろうか。43年間の長い間世に入れられず、いたずらに自身の生活が不遇であったために、心は塞ぎ、気持ちは広がらず、世の中の偉人たちも彼を認めず、季節は空しく廻り 実力・手腕を発揮する機会に恵まれないのを嘆き、わずかに世を罵り、人を嘲ってその心の煩悶を紛らわそうとしたのに違いない。いや、もし彼にとってそのように、自ら不平の念を禁ぜざるを得なかった者でなかったならば、その雄大な思想と誠実な品性を養うことはできなかったであろう。彼は自分が世に用いられないために、不平不満を訴えるにはあまりに人物が大きかった。

 彼の不平は人生を理解することができなかったことに原因がある。彼はバルンス伝において、バルンスが生計の道に窮して衣食住を支えることができなかったために、ついに首を垂れて諂いを貴族に呈したことを責め、人間の最も悲惨なのは死をおいてほかはない。それでもしその死を覚悟してこのことに従えば、何ら苦痛が彼を煩わすことはない。しかしながら彼はそのような醜態を現すことになったのは死を恐れたためだと論じている。

 言葉は非常に立派だけれども、そのような人生観でよくその心を高き峯の上に置き、綽綽として余裕を持ち、従容として緊張することのないのは難しいことではない。ジョンソンは義務という一つの念願を重んじて、波風荒い人生の戦に勝利することができた。ヒュームは人生を遊びの舞台と見、罪悪を犯さない限りにおいては、窮屈な一生を送るよりは面白おかしく世を終わるのが人間の本望であると思った。

 カーライルの場合、人生の解釈に満足できず、ただただ奮闘激戦してそれと戦って勝利しようと心に決め、まるで人生というものは自分の仇であって、その胸倉をつかんで争い「相手が自分を殺すか、そうでなければ自分が相手を殺そうと、善悪互いに真剣勝負をするもののように考え、自分はあくまでも正義に味方して義務を全うすることを願ったかのようである。

 このため彼はその全生涯において限りなく苦痛が止むことなく、その立ち振る舞いはいつも堅苦しく、不平が絶えることなかったのはこのあたりから来たもので、和気あいあいとして幸福な一生を送ることができなかったのはそのためであろう。

 しかし、まじめな人間がまじめな生涯を送るにあたり、たとえ、暗澹たる妖雲がその一生を覆ってしまったとしても、また天よりの光を赫々と仰ぎ見ないでいる者は少ない。彼はかつてその生まれた地、ニスの川辺においてエマーソンに書き送った手紙の中で言っている。「私の心の中は私の頭の上の天候のようだ。黒雲が覆って一転の光明がないような時に際して、また雲間を通して天からの光が差してくることがある。」彼はいつも英国の国民の生活をナイアガラの滝の上流に竿さす船にたとえ、遂には押し流されて滅亡してしまうと警告したが、一方ではまたイギリスは神の国であると言って自らを慰めている。

 泥の土の下には固い岩がある。雲霧の上には太陽がある。不平の極みにはまた幸と希望がないというわけではない。彼は希望のない不平家ではない。光明を仰ぎ見ることのできない厭世家ではない。ヂーン・スタンレーは彼の死後ウェストミンスター寺院での説教において、このように指摘した。

 彼が80歳を越えたころ、もはや友人と手紙の往復をすることもできずに、ただ退屈に無聊を感じていたころ、ある夕方一人寂しそうに窓のあたりに座って黄昏を眺め、塒に帰る鳥の声も悲しげだったのできっと物のあわれを感じたのであろう、鉛筆でその時の感慨を「神は愚かな私をも此処まで導いて来て下さったのだから、ここで私を捨て去ることはないであろう。またこれからも導いて下さるだろうと記している

 彼が這般の光を仰ぎ見て、麗しい感慨を起こしたのはただ一度だけだったと考えてはいけない。彼のように正義に憧れ、労働を尊び貧しい人々の友となって、主義と共に立ち上がり、主義と共に倒れ、雄大な霊魂を持ち、たとえ一時は暗澹たるこの世界を悲観して憤り、不平不満やるかたない時があったにしても、その行くべき道を走り尽したならば、遂に天地を喜びとともに、仰ぎ見て光明を仰ぐに至ったことは、少しも疑うべきではない。まさに彼はこの光明を仰ぎ見ながら不平に満ちたこの世を去ったのだった。

 最近私の手元に届いた外字新聞によれば、カーライルの末妹ジェン・カーライルの死を報じていた。彼女はスコットランドの農夫であるハンニングという人に嫁いで、その後夫妻でカナダに移住した人で、もとより教養無い農夫の妻であり、歳も80歳を越えていた。しかし、新聞はその老女の死を大々的に世界に伝えて、読者もまた注目してその知らせを読む理由を考えれば、未だカーライルの影響が世界に及んでいることを察するに十分である。

 ある記者が生前の彼女を訪ねて、兄のトーマス・カーライルの日常を尋ねたところ、彼女まず答えて、世の中の人はカーライルの名の発音を間違えていると指摘し、スコットランドの方言によれば、カルルライルであって、rを3つ連ねて発音すべきであると言い、続いてフルウドのカーライル伝を批評し、これは彼の一面を著したに過ぎず、大いにその真相を誤っていると言い、この書によれば、チュム(カーライル)は厳正一辺倒の人に見えるけれども、内面的には愛情細やかな人で、あたかも婦人のような性格だった。敵に向ってはその勢い当たるべからずで、空恐ろしい人だったが、友人や家族の者に対しては至って優しい人だったと述べている。カーライルは常にその弟や妹のことを心配し、彼が逆境に在って非常に困難な時でも、弟ジョンの教育費を支出し、それからあのハンニングが貧乏で、彼が死んだときには一銭の貯金も無かったけれども、ジェンが生活に苦しむようなことがないように、安らかにその一生を全うせしめたのは実はカーライルの遺産を分配したからであった。

 このように彼はダンテと同じように、義においては厳しく強かったけれども、情においては暖かく、かつ脆い人だった。詩人シルレルは言ったものだ。「勇敢な人は他に人がいないところでなければほんとうにその勇を現わすことができない。というのは他人に対しては往々にして情に負けてしまうことが多いからである」と。

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ヘレンケラーと中村久子

2017年05月10日 17時14分40秒 | 紹介します

「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 
 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 ヨハネ 

中村久子とヘレンケラー(「知ってるつもり」よりのナレーション)

http://www.dailymotion.com/video/x2fsewr

私自身の悲しい経験を通して人類の苦しみや破れた夢、そして希望の無限さをより深く理解できるようになりました。

人々が彼女に見たもの、それは命の輝きでした。

「私は暗闇の中をさまよいながらも、霊の領域からささやきかける励ましを聞く。私は見えない紐で太陽や星につながり魂の中に永遠の炎を感じる。私は沈黙と暗闇の中に閉ざされつつも光を見ている。」

 そのヘレンケラーが偉大な人と讃えた中村久子。両手両足のない体で彼女が生き抜いた想像を絶する苦難の人生、そしてその果てに彼女が見たものは何だったのか。ヘレンケラーが心の目で見抜いた中村久子の人生、そこにも、20世紀の奇跡が秘められていたのです。

 両手両足のない体で苦難の人生を生き抜いた中村久子、その不幸の始まりとは

 岐阜県飛騨高山、運命の子中村久子は明治30年この世に産声をあげました。畳職人だった父、釜鳴栄太郎32歳、母あや26歳結婚11年目にしての初めての子に両親の可愛がりようも一入でした。そんな一家に異変が起きたのは久子1歳のこと。泣き叫ぶ久子の左足が紫色に変色。あやは久子を背負って病院へ急ぎました。診断の結果思いもよらない病名が告げられました。「特発性脱疽」(手足の血管が血栓で塞がれ血液が流れにくくなり、末梢組織が壊死する)、肉がそげ骨が腐る難病です。手足を切断しなければ命も危ない。医師の宣告に両親は動転しました。何とか、切断せずに治せないものか。手術に踏み切れないまま数か月たったある日、母あやは炉端に落ちている包帯を何気なく拾って気を失いました。久子の左手が腐って落ちていたのです。ほどなく久子は両手足をそれぞれ肘と膝から切断せねばなりませんでした。一命は取留めたものの久子は傷口の痛みに昼夜の別なく泣き続け、近所に気兼ねした母あやは雪の夜中でも久子をおぶい、泣き止むまで外をさ迷い歩く毎日でした。

 両手、両足のない子供がいる。そのうわさを聞きつけて見世物にしようと久子を買いに来る心無い興行師たちを父栄太郎は烈火のごとく怒り追い返しました。それ以来父は久子を片時も話さず、食事や下の世話をすべて引き受け次第に心労を重ねていきます。

 ある夜、久子に添い寝していた栄太郎は突然跳ね起きると、こう叫びました。「久子、たとえ親子で餓死しようとお前を誰にも渡さないよ」そのまま倒れ込んだ父はすでに物言わぬ人でした。37歳急性脳膜炎での突然の最期でした。

 茫然自失となった母あやは久子を背負うと、橋の上で激流を見つめたまま立ち尽くしていました。

 「かか様、怖いよう。早くお家へ帰ろう」泣きじゃくる久子の声にあやはハッと我に返りました。安住の地を死に見つけようとしたあやでしたが、果たせませんでした。

 明治37年、生活に困った母あやは7歳の久子を連れてやはり子連れの畳職人と再婚します。連れ子が障害者、ただでさえ肩身が狭い母あやはことあるごとに久子を強く𠮟りつけました。

 そんなある日のこと、母あやは久子に着物のほどきものを言いつけました。母が放り出した着物を前に久子は戸惑うばかり、固い止め糸は歯で噛みきれるものではありません。

 その当時のことを晩年の久子が語ったテープがありました。

 ハサミを持つことのできない手足、いろいろ考えてできないために母に謝りました。「どうぞ堪忍して下さい。ようほどきません。」謝りましたが、母は許しません。私は母を恨みました。

一つの止め糸を切るのに何日考えただろうか。・・・ある日久子はハサミを口にくわえることに気がつきました。・・・そして(糸の切れる音)

 一人でほどきものができる。自分の力の発見に久子の頬を涙がつたっていました。

 しかし義理の父は久子を他人に見られまいと二階に閉じ込めてしまいます。手無し足なしに何ができるもんか。そんな久子の友達は人形だけでした。

私の大事なお人形におべべを着せてあげる。

 針と糸を前に久子の格闘が始まります。針に糸をどう通すのか?糸の結び球をどうやって結ぶのか?一針一針が四苦八苦の連続でした。・・・こうして数か月後ついに人形の着物が縫い上がりました。

 大喜びの久子はこれを近所の幼友達に贈りました。ところがこともあろうにその子の親が人形を取り上げ川の中に投げ捨ててしまいます。「こんな汚いものをもらってはいかん。」口を使って縫ったことで着物が唾液にまみれていたのです。

 久子が唾液で濡れない着物を縫えるようになるにはそれから10年の歳月が必要でした。

 時代は日露戦争を経て日本は近代国家の仲間入りを果たし、山合いの飛騨高山にも資本主義の波が伝わって来ました。年頃の娘が当時花形の製紙工場で働き現金を稼ぎ出すと、義理の父親の言葉もますます荒くなります。厄介者、食いつぶし

 そんな中で、母あやの言いつけもバケツの水汲みから掃除洗濯と厳しさを増しました。

 ある日母あやは久子の前に山のような麻糸を放り出しました。

 糸をつなぎ合わせる麻糸つなぎは当時盛んだった内職です。

 これでお金を稼ぐことができたら肩身の狭さもどれだけ救われることか。

 しかし針金のように固い麻糸は裁縫糸と違い、口の中で結ぶことは何日経ってもできません。久子の口はいつしか血が滲んでいましたが、母あやは途中で投げ出すことを許しません。何度も何度も失敗を繰り返し、自暴自棄を重ねながらも久子は麻糸と格闘を続けました。・・・それから何日かたったある日、久子の口から出て来た二本の麻糸がしっかり結ばれていました。あまりの不思議さに久子は体が震え、言い知れぬ感動に涙が込みあげて来ました。・・・久子15歳のこと。

とは言え、麻糸つなぎの手間賃など知れたもの、

 久子のこれまでの治療費は借金となって膨らむばかり。母あやは久子にこう言いました。もうこれしか方法がない。こうして久子は借金を返すため200円(今の百万円で)見世物小屋に売られてしまったのです。この時の地元紙の記事が残っています。

 こうして大正5年19歳の久子は母を恨みつつ故郷高山を後にしました。とうとう見世物に堕ちて行くのか。

 祭りから祭りへ、旅の一座として全国をわたりあるくようになった久子の芸名はこともあろうに「ダルマ娘」披露する芸と言っても手足のない体でする裁縫や切り紙細工、リンゴの皮むきなど、自分で習い覚えた生活のすべを見せるしかありません。・・・これは彼女が筆を口にくわえて書いた君が代の色紙、見た人が感激して保存していたものです。しかしその間、興業の請負元に幾度騙されたことでしょう。小屋主からは客入りが悪いと罵倒され、酒の入った客からは「そんなの芸じゃないぞ」という野次。久子の小さな自尊心はずたずたになりました。しかも水汲みや洗濯など身の回りのことは一切自分でやらなければなりません。たとえどんなにつらくても久子にはもはや帰る場所はありませんでした。西へ東へと旅するうちに歳月は過ぎて行きました。

 故郷を出て4年久子のもとに一通の手紙が届きました。それを読む久子の顔からみるみる血の気が引いて行きました。母あやの死の知らせだったのです。あやはまだ46歳でした。

 茫然としてどれくらいたったでしょう。ふと久子の脳裏を稲妻のように貫くものがありました。

 もしかしたら私を一番愛してくれたのは母かも知れない。若くして夫に先立たれ、手足のない私と借金を抱えた母。その上自分が死んだ後までも私に生き抜くことを教えなければならなかったに違いない。そんな母の心を知らずにどれだけ恨んだことか。 

 この時久子22歳。母の計り知れぬ思いに始めて触れ、涙がとめどなく溢れていました。

 その年の秋、まるで亡き母の思いがそうさせたかのように、久子に思いがけないことが続きました。

 一つは雑誌の懸賞作品に応募した久子の手記が当選したのです。自らの半生を語ったこの手記は大きな反響を呼び彼女の存在が世に知られるようになりました。しかも手記に感動した雑誌社の社長から義足が贈られたのです。2本の足で大地に立つのを久子はどれほど夢見て来たことか。自分の力で歩く喜びを久子はこの義足によって晩年まで味わい続けることができたのです。

 そしてもう一つ、念願の年季明けを機に結婚することになったのです。相手は同じ座員の一人中谷雄三、久子より3つ上の実直な男でした。興業の世界では売れる芸人の逃さないための形だけの結婚も多かったのですが、 中谷が久子の面倒を見るうちに二人の間に愛が芽生えていました。

 さらに久子は母となる日を迎えます。私のような女にも神仏は人並みに女としての喜びを与えてくれた。

 しかし、久子の幸せは突終わりを告げたのです。結婚、そして出産、ようやく人並みの幸せを手に入れたかのように見えた中村久子。しかし、彼女の幸せは長くは続きませんでした。・・・大正12年夫が腸結核で急死したのです。久子の結婚生活はわずか3年で終わりを告げました。幼い子供抱えて生活に行き詰った久子は悲しみにくれる間もなく一座と共に旅してまわらなければなりませんでした。興業の世界に生きる限り男手はどうしても必要でした。久子は再婚せねば生きられない定めだったのです。生活のための再婚。死んだ母と同じ轍を踏まねばならないとは。

 人に勧められるままに再婚した久子はやがて二人目の子供をもうけますが、再婚相手ともまたも死別、なぜ私ばかりがこんな目に合うのだろう。こうまでして人は生きなければならないのか。

 自らの運命を呪う久子の胸には言い知れぬ絶望感だけが広がっていました。

 そんな昭和5年久子は雑誌に紹介されていた一人の女性に強く惹きつけられました。彼女の名は「座古愛子」、18歳でリュウマチにかかり、首から下は動かない重度の障害者として30年以上寝たきりでした。しかし女学校の購買部で寝たままの姿で働き、キリスト教の伝道にも身を奉げているのです。

 久子は矢も楯もたまらず愛子のもとを訪れました。・・・初めて対面した久子は座古愛子の輝いた顔と安らかなまなざしに思わず息をのみました。初対面にも関わらす視線があっただけで、二人の目に涙が溢れました。

 魂の交流する世界、それはどんなに尊い数秒間であったろう。

 しかも久子は愛子がそんな体で誰一人身寄りもないのに感謝の日々を送っていることを知り、衝撃を受けました。自分は今日まで親を恨み手足のない運命をどれほど呪ったことか。しかし自分よりつらい運命を背負っていながら誰一人恨むどころか感謝の日々を送っている人がいる。

 激しい驚きの中で久子の心に思ってもいなかった世界が開こうとしていました。

 昭和8年36歳の久子は一座で働いている若い衆の一人、中村敏雄と結婚。二人の子供たちも成長し、ようやく安らいだ家庭生活を手に入れました。今の私は子供からこんなにも幸せを受けている。それに比べて私が母に与えたものは悲しみと苦しさだけだった。

 母を恨み続けた久子の大きな変わりようでした。

 

 ここに久子さんが使った道具が残っているんですよ。このお人形さん、これは小さなものですけれども、ほんとうに涎もつかないで着物が仕上げられるようになっていますね。 これは鏝でしょう。噛んだ跡だね このへらがね、ここに歯を当てていたんでしょうね。

 石井さんどうですか。

 私はこの久子さんのお母さんの気持ちが少しだけわかるんですけども。私の子供も生まれてすぐに目も、耳も手も足も駄目だと言われて、実際にずっと寝たきりで自分の意思を伝えることも難しい子供だったんですけども、そういう子供が生まれてしまってやっぱり一番最初に考えるのは、この子が生きて行けるわけないんだからこの子と一緒に今ここで死んでしまおうと言うことなんですよ。でもいや、そうじゃないんだと気がついたときに、次に考えるのは、じゃあどうやってこの子と生きて行こうということなんですね。ちょっとでも人間て甘える気持ちとか、どこかに逃げられる場所があると逃げてしまいますから、お母様はわざと厳しくされてらして、最後までそれは敢えて言わないでいたんだなと思ったら、お母様もすごい方だなと思いました。

 

 昭和12年中村久子は一人の思いがけない女性と対面することになりました。その女性とは奇跡の人ヘレンケラーです。この歳57歳になったヘレンケラーは障害者を勇気づけるために日本へやって来ました。実はこの前年長年人生を共にしてきた恩師サリバンが70歳でこの世を去り、ヘレンは悲しみにくれていました。そのサリバンが生前ぜひとも行ってみたいと願っていたのが、日本だったのです。4月17日、ヘレンと久子の出会いの日です。この日久子はヘレンのために縫い上げた人形を携えていました。そして久子の肩を抱いたヘレンがそっと肩から下をなでおろした瞬間、ヘレンの表情がハッと変わり、下半身が義足と分かった時ヘレンはいきなり久子を抱き寄せました。「私より不幸な人、そして偉大な人」・・・ヘレンも久子も涙で頬を濡らし、すすり泣きが会場を包んでいました。

「(ヘレンケラー)女史に接して思いましたことは人間は体で生きるものでないということ、はっきり私は教えられたのでございます。私はただ自分の心を見ることのできる人間になりたいと思いました。」

 ヘレンとの出会いが久子にとって大きな転機となりました。見世物として身をさらすのはもう終わりにしよう、久子は長かった芸人生活を抜け出し、求めに応じて全国を講演してまわることになりました。

 ところがそのことが久子に思わぬ心の壁となって立ちはだかったのです。その壁とは己の慢心、思い上がりでした。今までの苦労を大勢の前で自慢げに話し、人生に不可能なしと言い放つ、そんな自分の思い上がった姿に耐えられなくなったのです。

 結局何でもこなして来た自分自身にとってそれで何が見つかったか。それは彼女の喜ぶべき地震ではあったんだが、請われるまま人に語って行く中で、その自信は慢心以外の何物でもなかったといういことは彼女の精神的な行き詰まりになった。

 そんなある時久子は一冊の本と出会います。親鸞の「歎異抄」です。人は知恵や能力努力だけでは救われない。その無力さを知り自然のあるがままの姿で仏の手に身を委ねた時、初めて人は救われる。

 読み終えた時、久子は己の慢心の正体に気づきハッとしました。今まで逃げ場もなく絶体絶命の中で生き抜いて来た自信、この自信こそ、慢心の正体であり、自分の目を曇らせていたのだ。

 そして次の瞬間久子は愕然としました。ここまで自分を育て教えてくれたのは両手両足の無いこの体なのだ。

 そう気がつくと今まで自分を育ててくれた、あの見世物小屋が宝に思え、自分に厳しく当たった人たちこそ自分を磨いてくれたと、深い感謝の気持ちがとめどなく湧いて来ました。そして久子はあれほど忌み嫌って来た見世物小屋へ帰って行く決心をしました。これが自分に与えられた境遇であり、業の尽きるまで芸人でいよう。目の前に開けた新たな世界を久子はこう記しています。あらゆる苦しみ、悲しみと取っ組み切った私にも今ようやく苦難の夜が明け輝かしい朝が訪れた。私は今明るい喜びに浸りながら苦あればこそまた滋味豊かな人生を静かに省みつつ味わっている。人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない。

 ここに至って久子は体の不自由な人を励ます全国行脚を再開、かつてのように高みから語るのではなく、感謝の気持ちを胸に秘め、自然体で語る久子の姿がありました。

 戦争を挟んで一家はあい変わらずの貧しさでしたが、久子は言い知れぬ喜びを感じていました。孫ができ、娘はそばにいて、そして優しい夫がいつも背負っていてくれる。長い道のりを経てようやくたどり着いた安らいだ境地を久子はこう語っています。

 人間の命というものの強さ、尊さというものが命にはあるものだといつも思うのでございます。

 昭和四〇年六七歳になった久子は故郷高山にこの悲母観音像を建立しました。自分を今日まで生かしてくれた母、その母への感謝の気持ちを久子は形に残して置きたかったのです。その後、肩の荷を降ろしたかのように病の床に伏した久子は次女の富子に最後に一つだけ無理を聞いてくれるように頼みました。

 あなたにこんな辛い頼みをして申し訳なかった。ごめんねと母は言ったんですね。

 久子の最後の頼み、それは死んだ後、自らの体を医学に役立てるために献体して欲しいというものでした。

 私自身は何にも親孝行してあげられなかったので、すべての親孝行が母の解剖をきちんとしてもらうように計らうことが最後の親孝行だと思ったんです。

 それから間もない三月一九日中村久子は両手両足のない体をさらに奉げ尽くして、七〇年の天寿を安らかに全うしました。

 そして全世界に感動を与えた奇跡の人ヘレンケラーも同じこの年八七歳の生涯を閉じました。ヘレンケラーはワシントンのこの教会であのサリバン先生と共に眠っています。

 ヘレンケラーと中村久子、二つの輝ける命が二〇世紀に投げかけた光とはいったい何だったのでしょう。

 

 さあ、美穂ちゃんどうですか、何か参考になりましたか。

 いやあ、お金とかでは幸せにはなれないんだなと思って、やっぱり「自分と向き合う」と二人仰っていましたけど、内側に何かを見つけないと幸せって見つけられないのかなというふうにちょこっと感じました。

 田中君。

 こういう人生を見ると一生懸命生きなければ命というものは使えないな、ただ生きているだけと、やっぱり命を全うすることは絶対違うなというふうにすごい感じますね。ですから今この自殺が増えているじゃないですか。その選択はやっぱり間違いだなというふうに思いますね。

 そうだね。

 石井さんどうでしたか。

 あの私の子供のことをテレビの番組で放送した時に、ある方から自分の子供を見世物にするのかっていうお叱りの手紙をいただいたんですね。でもその時に私は見世物結構じゃないと思ったんですよ。見せなかったら知ってもらえないんだからとにかくみんなに見せて、こんなに頑張って生きている子がいるんだよって知ってもらいたかったんですよ。そこから人の理解とかいろんなことに広がって行くんだろうからそういうふうにしてみたい、それがたぶん、子供と私に課せられた役割なんだなと思ったんですね。

 だから多分ヘレンケラーさんも、中村久子さんもとっても重要な役目をもってこの世に生まれてらしたんだなと改めて感じました。

 大空さん

 まだ間に合うかなって。・・・・

 どうしてもそう思っちゃうよね

 ああいうほんとうの映画のように・・・まだなれるかな、間に合うかな・・・

 はい、ありがとうございました。

 牧ちゃんも何か

 あの人間は体で生きているものではないということが何か引っかかっていて、これから自分の魂の中に確固たる命に対する意識とか、一つ一つ積み上げて行けるかな、・・・これから頑張らなくちゃいけないなという気がしました。

 さあ、それじゃこちらご覧いただいてお別れいたします。

 繁栄の二〇世紀私たちの目は外へ外へと向けられ、内なる自分を見つめることが少なくなってきたように思います。しかしヘレンケラーと中村久子は常に内なる自分を見つめ続ける道を歩み続けました。それは誰の人生も自らの命と対話し続けることの大切さを私たちに教えてくれているようです。晩年の中村久子さんの声が残っています。

 自分を知るということ、世の中に何が難しいと言いましても自分を知ることくらい難しいものはございません。私はただ自分の心を見ることのできる人間になりたいと思いました。

 そしてヘレンケラーも私たちに同じメッセージを残しています。

 もっと自分自身を見つめて下さい。・・・・ヘレンケラー

 中村久子の自伝「こころの手足」を読んで・・・・・・・・・・・・・・
 数ページ読むたびに感動の涙が流れて来てなかなか先に進めなかったが、ようやく読み終えた。まことに人の偉大さはその人が何を成し遂げたかではなく、何を目指し、どう生きたかであり、それは人の評価ではなく、神の目からのみ評価されるものだとつくづく感じている。
 しかし、往々にして私たちは人をその業績や、到達した地位などで評価してしまう。その方が分かりやすいし、みんなが共感するからだ。だが、マークトーエンが「ヘレン・ケラーは1000年後においても有名であり続けるだろう」と言ったように、この中村久子のすさまじい生きざまも、歴史を越えて輝いているのを感ずる。
 だから、評価することなどやめてしまおう。自分に与えられた人生を悔いのないものとして全うしたい。「すべてのことは神ながらにあれ!」と祈り、願う。
  ヘレン・ケラーは、晩年気が狂ったとも言われるスウェーデンボルグを信奉し、中村久子は浄土真宗を開いた親鸞を、そして座古愛子(別のブログで詳しく掲載予定)はクリスチャンだった。
 私は「人間世界に完全なものなどない。」と思う。

 

 

 

 

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賀川豊彦の生涯

2017年04月01日 17時06分19秒 | 紹介します
賀川豊彦を社会運動家ととらえる人も多い。しかし、彼は真の信仰者であり、神から託された使命を全うした人である。世の中には彼が成し遂げたものをもって彼を評価する人が多いが、彼が望んだこと、願ったことを理解し、今生きている者として彼の成し遂げられなかったことを少しでも実現しようとすることが最も大事なことだと最近私は気がついた。それで、彼の生涯を綴ったこの本を紹介したい。
 
 賀川豊彦の生涯
 兵庫県神戸区兵庫島上町にある「賀川回漕店」はたいそう繁盛していた。店主の賀川純一は商売上手で、郷里徳島県の産物「阿波藍(染物の原料)の輸送で財産を築き上げ、裕福な暮らしをしていた。
 しかしながら、彼は自分の家族のことはあまり顧みない男であり、正妻みちと別居し、芸者の萱生かめとの間に端一と栄という二人の子どもをもうけていた。
 やがて一八八八(明治二一)年七月十日、かめとの間にまた男の子が生まれた。純一は、ことのほか喜び、日頃信心している大麻比古神社の豊受大神から名前をもらい、豊彦と名付けた。
 「この子は将来出世するよ。五穀豊穣をつかさどる神様から名前を頂戴したからな」。純一は、かめにそう言った。後になってこれは、全く別の意味で実現した。
 豊彦はすくすくと育ち、四歳になった。家のすぐ近くが海岸だったので、彼はよく砂浜で遊んだ。遊び友達はたくさんいたが、なぜか少し経つと、彼らは意味ありげに目配せし合ったり、変な目で見るようになった。どうしてだろう? 彼は首をかしげた。
そんなある日、彼は男の子たちを相手に砂浜で相撲をとっていた。彼はなかなか力があって、相手を片端から負かしてしまった。
「この子は小さいくせに強いなあ。これはかなわん」。彼らは口々にそう言って引き揚げようとした。その時、負けた一人が、服についた砂を両手で払い落としながら、憎々しげにこう言った。「へん。偉そうにしていたって、お前は妾(めかけ)の子じゃないか」
 すると、仲間たちは急に白々しい表情になった。「こいつは力があっても、少しもいばれないのさ。やあい! 妾の子!」。彼らは思い切りはやし立てると、行ってしまった。
(だからみんなは自分のことを変な目で見るんだな。)ようやく豊彦は納得できた。あの優しい母は父の本当の妻ではなくて、遊び相手だったのである。これは彼を打ちのめした。
 そのうち、弟の義敬が生まれると、彼は少し慰められた。この弟が大好きで、終始背中におぶっては、どこへでも出掛けていった。彼は相変わらず近所の男の子たちと暴れ回ったが、その日も棒切れを振り回してチャンバラごっこをしていた。そこへ、熊吉という番頭が青い顔をして迎えに来た。
 「坊ちゃん、早くおうちにお帰りなさいな」。その様子がただごとでないので、急いで帰ってみると、父の純一が息もたえだえになって死を迎えようとしていたのである。豊彦が取りすがると、父はかすかに目を開けた。
 「お前の将来が心配だ。こんな父親を持って、かわいそうにな」。そして、苦しげに息をつくと、純一はそのまま息絶えた。かめの嘆きは大きく、彼女は幾日も泣き暮らし、日に日に痩せ衰えていった。
 年が明けて一八九三年一月二日。かめは下の弟、益慶を産んで間もなく、熱を出して重体となり、一七日の夕方、夫の後を追うようにして世を去った。賀川家の子どもたちは、天涯孤独の身となったのである。
 三十歳になる兄の端一は、父の店を継ぐことになり、幼い二人の弟は乳母のお駒に引き取られた。そして豊彦と姉の栄は徳島に住む正妻みちの所に身を寄せることになり、兄弟五人はばらばらになったのであった。
 この時から、豊彦のつらい日々が始まった。正妻のみちは妾の子である二人を憎み、気に入らないことがあると殴りつけたりした。
 「ああ、なんて不運なことだろう。妾が産んだ子の始末までしなくてはならないなんてさ」。みちは毎日こう言って嘆いた。
その年の四月。豊彦は堀江南小学校に入学した。しかし、ここでも彼は悲しい思いをしなくてはならなかった。
 「やあい妾の子。知ってるぞ。お前のお母さんは本当のお母さんじゃないんだろう?」。級友たちはこう言ってはやし立て、彼を仲間外れにした。豊彦は、いつも一人で吉野川の岸辺に行き、ザリガニやタニシとたわむれて過ごしたが、そのような時、いつもその頬は涙にぬれているのであった。
 そのうち、もっとつらいことが起きた。たった一人、用務員の娘ふじえだけは彼に優しくしてくれたのだが、たまたまその日、彼が傘を持って外に飛び出した瞬間、彼女とぶつかり、その日以来、ふじえは姿を見せなくなったのである。そして間もなく、彼女が肺結核で死んだといううわさが流れ、級友たちは、それが豊彦のせいだと一斉に非難をあびせた。その時、徳島に来た兄の端一から慰められたが、これは彼にとって一生消えぬ心の傷となった。
 兄の端一の勧めによって豊彦は、中学校の試験を受けることになった。そして優秀な成績でパスし、中学生となる。学費は、端一が負担してくれることになった。最初は寄宿舎に入り、2年後に片山塾に移った。ここは英語教師の片山正吉というクリスチャンが開いたもので、落ちついた雰囲気の中で、豊彦は熱心に勉強に励んだ。
 そのうち、友人の一人が近くの教会でアメリカ人宣教師C・A・ローガン博士が週一回英語でキリスト教の話をすることを教えてくれた。英語の勉強がしたい一心で教会の門をくぐった豊彦は、ローガン博士の柔和に輝いた顔と優しい響きを持つ言葉に心が癒やされていくのを覚えた。
 同じ頃、やはり宣教師として日本に来ていたH・W・マヤス博士は、自宅を開放して聖書の講義を始めたので、豊彦はこちらにも通うことになった。マヤス博士は、寂しそうな暗い目をしたこの少年を心に留め、困ったことがあったら相談に来るように言葉をかけた。
 そのうち、賀川家にさらなる悲劇が起きた。「賀川回漕店」を継いだ兄の端一は父親ゆずりの遊び好きの性質がたたって、商売に身が入らなくなり、芸者と遊び、家に帰らなくなった。商売は使用人に任せきりで、新しい事業を始めてひともうけしようと手を伸ばしたのが失敗。莫大な借金を抱えたまま破産したのである。そして豊彦への仕送りも跡絶えたので、彼は学費が払えなくなってしまった。こうして一九〇三(明治三六年四月、ついに「賀川回漕店」は倒産し、家族は離散した。
 それは小雨の降る寒い日であった。豊彦は、寄宿舎を出、叔父の森六兵衛の家に息子の勉強をみるという条件で住み込むことになった。荷物をすっかり入れると、彼は傘もささずに泣きながらマヤス博士の所に飛んで行った。
 博士は、彼の肩を抱いて庭に連れ出した。「さあ、見てご覧なさい」。博士は豊彦を青々とした芝生の上に立たせ、涙に濡れた顔を太陽の方に向けさせた。
 「涙を乾かして太陽を仰ぐのです。泣いている目には太陽も泣いて見え、微笑む目には太陽も笑って見えるのですよ」
この時から、豊彦はマヤス博士の聖書講座に欠かさず出席するようになった。そして、博士は彼の学費その他生活上の援助をしてくれることになったのであった。
 「私の書籍に入って読みたい本があったら読みなさい」。博士はそう言って、彼に力をつけさせるために洋書を貸してくれた。豊彦はわずかの間に英語をこなし、やすやすと英文と書物を読破できるようになったのである。
そんなある日のことであった。彼は級友の一人と話をしながら散歩をしていた。級友は彼の今までの人生の話を聞くとこう言った。「そんなに次々と恐ろしい不幸が降りかかるのは、君の先祖が犯した業のせいだよ」。そして、彼のもとを離れていってしまった。
 (そんな業を背負って生まれてきたのなら、この自分の人生には何の意味があるというのだろう。)彼の目に、淀んだ水に浮かぶ泡が映った。そして突然激しい喪失感を覚えた。発作的に川に飛び込もうと身構えた――その時だった。その肩に温かな手が触れた。
 「こんな所でどうしたの?」。驚いて振り返ると、よくマヤス博士の教会で見かける森茂という青年が立っていた。彼は将来材木商を営むために、材木屋に奉公に行っており、大きな荷物を背負っていた。
 「自分は生まれてこないほうがよかったんです。こんな自分なんか・・・」。思わず自暴自棄になってそう言うと、森茂は彼の手をしっかり握って、一緒に歩き出した。
 「神様はお見捨てにならないよ」。彼は言った。「われわれ人間なんて明日の命も分からない存在なのに、それでも神様はお守りになる。明日焼かれる雑草さえ養われるのだから」
 「こんなに遅く帰るんですか?」。そう尋ねると、彼は微笑した。「この近くに、ちょっと面倒を見てあげている人がいるもんでね」
 それから、森茂は彼の肩を叩くと言った。「自分のような者は何も言ってあげられないけど、どんな時にも神様は君のことをお守りになるということだけは忘れないでね」。そして歩み去った。
森茂の言葉は、豊彦の心に大きな変化を与えた。何の意味もないと思われていた自分の命が、神の前に尊いものとされていたのだ。
 一九〇四(明治三七年二月二一日。豊彦は徳島キリスト教会でマヤス博士から洗礼を受けた。この年の十二月九日。身を持ちくずした兄の端一が韓国で死んだという知らせが届いた。
 一九〇五(明治三八)年、豊彦は明治学院高等学部神学科に入学。ここの「ハリス館」に寄宿した。明治学院は美しい森となだらかな丘を持つ静かな環境の中にあり、彼は落ち着いて勉強することができた。またこの大学の図書館にはあらゆる本がそろっており、彼は片端から読みこなしていった。
 二年生の夏休みに徳島に帰った彼は、マヤス博士からあの森茂が誰も嫌がって面倒を見ないハンセン病患者の世話をしていることを聞き、心を打たれた。そして、この時から彼は、ただ机の上で勉強するだけでなく、全身全霊をもってキリストの愛を実践したいという激しい欲求に突き動かされるようになった。
 学校が始まってから、級友たちは、彼が時々姿を消すのを不審に思った。親友の中山昌樹がこっそりと後をつけたところ、彼は東の谷にぼろ小屋を建てて住んでいる「物乞い」の家族の世話をしていたのである。この頃から、彼は自分の身なりにかまわなくなり、破れた木綿のかすりによれよれの袴をはいてどこへでも出掛けていった。
 そんなある日のこと、どこからともなく異様な臭気が漂ってきたので「ハリス館」の者たちは騒ぎ始めた。そして、それが賀川の部屋から流れてくることに気付き、彼の留守の間に皆で踏み込んだ。すると、どうだろう。木製の本棚の後ろに置かれた木箱の中に汚らしい犬がいるではないか。痩せてあばら骨が見え、皮膚病にかかって毛は抜け、耳の後ろからうみが流れ出している。そこへ賀川が帰ってきた。片手には牛乳瓶が握られている。
 「おい、どうした。いいもの買ってきたよ」。彼は、犬の頭を優しくなでてやり、手のひらのくぼみに牛乳を入れて飲ませてやった。くってかかろうとしていた級友たちは何も言えなくなり、黙って引き揚げていった。
 それから二、三日後。誰かが犬を捨ててきてしまった。帰ってきた賀川は、ミカン箱ごと犬がいなくなっているので、気が狂ったように犬の名を呼びながら飛び出していった。そのうち、彼が勉強もそっちのけで犬を捜してさまよい歩くのを見て、級友たちは心配になってきた。
 その日は雨が降る寒い日だった。「こんな日に出掛けたら、風邪をひいてしまうぞ」。皆で引き止めたが、彼はその手を払いのけて出掛けてしまった。そこへ二、三人の上級生が来た。そして、何を騒いでいるのかと聞くので、中山昌樹が一部始終を話した。
 「こんな雨の中を。あいつ、いやな咳をしていたから、どこか悪いぞ」。上級生の一人がこう言うと、皆で彼を捜せと号令をかけた。そして全員で歩き回った末、ようやく雑木林の所で全身濡れねずみになっている賀川を見つけた。その時、3年上の上級生が言った。
 「すぐ帰れ。こんな雨の中を歩いていたら、体を壊しちまうぞ」「ほっといてください。あの犬のことが気になって、夜も眠れないんです」
 「よし、分かった」と、彼は大声で言った。「われわれがその犬を捜す。だから、お前は帰るんだ」
 この上級生こそ、後に明治学院大学の学長となり、教育界に大きな貢献をした都留仙次であった。彼はすぐに全員を率いて雨の中を歩き出した。結局、この犬はもう死んでおり、東の谷の人々の手によって埋められたことが分かった。
賀川を感傷的と笑う者もいたが、この事件は、弱者の痛みに対して深い感受性を示す彼の特質をよく表すものであった。
 一九〇七(明治四〇)年。賀川は明治学院高等学部を卒業。神戸神学校に入学することになった。しかし、開校を前にして、突然彼は吐血し倒れた。心配したマヤス博士は、彼を神戸衛生病院に入院させた。しかし、思わしくないので明石の湊病院に転院。約四カ月にわたる療養の末、いくらか回復の兆しが見えてきた。その後、彼は蒲郡に行き、駅から少し南東に下った漁村のある家を借りて療養生活をすることになった。
 こうした日々の中で、賀川は初めて筆を取って心に浮かぶ思いを書きつづっていった。そしてそれは『鳩の真似』という自伝風小説に結晶した。彼はそれを、明治学院の先輩で当時すでに名を成していた島崎藤村に見てもらおうと彼の自宅を訪れ、預けて帰ってきた。しかし、藤村は「これはあなたが出世なさるまで大切にしまっておおきなさい」という手紙を添えて送り返してきたのであった。
 その後も病魔に苦しめられながら、賀川はひたすら祈り、道を求めるうちに、死と隣り合わせたはかない自分の命を、日本で一番貧しく、一番惨めな人々にささげようと決心し、巨大なスラムのある葺合新川に住むことにした。
 一九〇九(明治四二)年一二月二四日。賀川は布団や衣類の入った行李、本、書棚を載せた荷車を引っ張って葺合新川のスラムに引っ越してきた。
車は一番人口の多い北本町六丁目の大通りを西に曲がり、十軒続きの長屋の二軒目のぼろぼろの家の前に止まった。彼が借りた部屋は、表が三畳、奥が二畳に仕切られていた。殺人があったらしく、壁には血が飛び散った跡が残っている。誰も借り手のない部屋なので、大家は月二円の家賃にまけてくれた。荷物を入れ、古道具屋から一枚一円二十銭の畳を三枚買ってきて入れると、何とか住居らしくなった。彼は新しい生活を前に、ひざまずいて神の導きを祈った。
 二日目の夕方、人相の良くない男が三人、肩で風を切って入ってきた。「ごめんやす。しばらくここに置いてくれへんか? 居る所がないよってなあ」。彼らは稲木、林、丸山と名乗った。賀川は快く三人を狭い家に入れ、同居させてやった。そのうちに、外でガヤガヤと人が騒ぐ声がするので見ると、新しく引っ越してきた彼に興味を持って、その辺りの人々が押しかけてきたのだった。彼らは珍しそうに窓から中をのぞき込んだ。
 皆髪はバサバサ。体は垢で黒光りし、冬というのによれよれの着物を着ていた。その中に、おかっぱ頭や坊主頭が混じっているのを見て、賀川は微笑した。手招きすると、彼らは鼻をすすりながら入り口までやってきた。ちょうどその時、マヤス博士からおもちゃの入った大きな行李が二つ送られてきた。
 「こっちへおいで。いいものがあるよ」。そう言って行李のふたを開けた途端に、わっと子どもたちが押し寄せてきた。「おもちゃおくれよう!」。彼らは下駄も脱がずに上がってきて、手づかみでおもちゃを奪い合った。
「あっ、だめだめ! けんかしないよ」。賀川は叫んだ。しかし、彼らは引っ張り合いをして、とうとうおもちゃをめちゃくちゃにしてしまった。それから、車がとれた汽車だの両手のとれた人形、引き裂かれた絵本などをしっかり抱えて帰っていった。「そうか。ここの子どもたちはおもちゃを買ってもらったことがないから飢えていたんだ」と、彼はつぶやいた。
 一二月二七日の夜のことである、稲木が園田というやくざをつれてやってきた。園田は餅屋に払うお金がないから五円貸せと言ってすごんだ。
 「私だってないんだよ」と賀川が言うと、いきなり彼は火の入ったしちりんを畳の上に投げつけ、刃物で障子をめちゃくちゃにした。「お前の顔にも傷つけたろか」。そう言って詰め寄ってきたので、とうとう我慢できずに賀川は家を飛び出し、海岸に行った。
 「神様、スラムに来たばかりで、もう自分は恐怖を覚え、心が弱っております。どうかこの新川の人々を愛する力をください」。賀川は、砂浜にひれ伏して祈った。すると不思議なことに、彼の中から力が湧き出してきて、自分を脅す男が少しも怖くなくなってきた。
 彼が家に引き返すと、園田はまだあぐらをかいて座っていたが、疲れたようにぼんやりと台所の方を見つめていた。賀川は家に上がると、ひっくり返されたしちりんに火を起こし始めた。「ああ、ちょうどいい。一緒にご飯を食べていらっしゃいよ」。賀川はそう言ってご飯を炊き、ありったけのおかずを出すと、彼と一緒に食べ始めた。
 「ところで、わいは金を借りに来たんや」。ご飯を食べてしまうと、また園田はすごんだ。賀川はため息をつき、たんすを開けると、全財産である二〇円をそっくり彼に与えた。「恩にきまっせ」と、園田は金をわしづかみにしてふところに入れると出て行った。賀川は荒らされた障子をはめ直すと、くたくたとテーブルの前に崩れ折れた。
 「おじちゃん・・・」。その時、戸口で叫ぶ声がするので出てみると、おかっぱ頭の女の子が鼻をすすりながら人懐こい笑いを見せていた。「おもちゃおおきに。いつもこれで遊んでいるんや」。そして、両手のとれた人形を見せた。「そう。いい子だね。名前は?」「花枝」
 すると後ろから、真っ黒な顔をした男の子がのぞいた。彼は全部車のとれた汽車を大切そうに抱えていた。熊蔵という名前だという。彼らの目は澄みきって、キラキラ輝いていた。(この暗闇のスラム街にも光があった。それはこの子どもたちの目に宿っている)。彼らを見送りながら、賀川はつぶやいた。
 すっかり仲良しになった花枝と熊蔵は、賀川にまつわりついて離れなくなった。そのうちに虎市というやくざの子どもも彼になつき、甚公、やぶさんといった仲間を連れてきた。彼らは、賀川がどこへ行くにも付いてきた。
 (そうだ。子どもたちのために日曜学校を始めようじゃないか)と、彼は考えた。(子どもの純真な心に神の愛を刻みつければ、将来何かの助けになるだろうから)
 そのうち、関西学院神学部の友人たちがボランティアとして来てくれることになったので、賀川は二軒おいた隣の家を借りて日曜学校を始めることにした。
 いよいよその日。鼻をたらした子、すすけた黒い顔をした子などが押し寄せてきた。中には下駄を脱がずにそのまま上がってしまう子もいた。また、ほとんどの子が乱暴に下駄を脱ぎ捨て、自分のものも他人のものもごっちゃにしてしまうので、整理するのにひと苦労だった。
 そして、話を聞いている最中にも大声でしゃべったり、けんかをしたり――で、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。やっと彼らを帰してしまうと、賀川たちはぐったりしてしまった。
 「まるで戦場みたいだな」と彼が言うと、「でも、こんなスラムに初めて日曜学校ができたなんて素晴らしいじゃありませんか」と、ボランティアたちは励ましてくれるのだった。賀川は、ここで始めようとする社会事業に「イエス団」という名前を付けた。
 続いて教会が始まると、あちこちから人々が集まってきた。賀川は、教養もなく、道徳的にもレベルの低いこれらの人々にどうやったら分かりやすく神の愛を伝えられるかと考えてきたが、良い例を思いついた。
 「神様の愛を例えるなら、赤ん坊のおむつを替える母親みたいなものです」。そう語ると、彼らはゲラゲラ笑い出した。
 「赤ん坊はね、おむつが汚れても自分で替えることができないから泣いて知らせます。そうすると、母親は夜中でもすぐに起きてそれを取り替え、自分の胸に抱いて眠らせます。ひたすらわが子を愛し、全てをささげるこの母の姿こそ、神様の愛そのものなのです」
 「へーえ、そんなものかね」。一番前で豆をポリポリ食べていた男が感心したように言った。
 そんなある日のこと。稲木が一人の車夫を連れてやってきた。「先生、こいつの家の赤ん坊がゆうべ死んだんだと。ところが葬式代が一文もないそうや。何とかしてやってくれ」
 一緒に車夫の家に行ってみると、布団の中にまるで猿の子のようなものが死んで寝かされていた。両眼はつぶれ、頬の肉は落ち、両手は枯葉のようにひからびている。
 「実は先生、五円でこの子をもろうてきましてな」と、車夫の妻が話をした。お金に困ったので、死ぬばかりになっている子を五円で引き取り、おかゆばかりをやっているうちに死んでしまったという。実はこのような「もらい子殺し」というのが貧しい人々の間で流行していたのである。
 賀川は涙をこぼして、たらい回しにされた赤ん坊を引き取り、「おいべろう」と呼ばれている死体処理人に火葬してもらったのであった。
 そこへ、また花枝と熊蔵が呼びに来た。「猫のおばあちゃんが泣いとるから来て」。彼らに手を引っ張られるようにして行ってみると、八〇歳を超える老婆が、ペタンと土間に座って泣いていた。そして、その周りには一三匹ほどの野良猫がすり寄ったり、頭をこすりつけたりしている。
 「おばあちゃん。テンティを連れてきたよ」。花枝がいたわるように言った。
 「先生・・・世の中、不公平だんなあ」。老婆は、泣きながら身の上話をした。彼女は以前に身寄りのない子を引き取り、自分はくず拾いをしながら育て上げた。しかし、女の子は成人するとだんだん老婆をばかにしてつらく当たるようになり、やがて結婚して子どもができると、家を追い出してしまったのだという。
 老婆は、幽霊が出るといううわさの家を安く借りて住み、怖いので猫を飼うようになった。そのうち生きることに絶望して自殺しようと首に縄をかけたが、途中で縄が切れて死ねなかったというのである。
 「確かに、不公平だと思えることが世の中にはたくさんあります。でもね、おばあさん」。賀川は、老婆のしわくちゃな手を取った。「本当言って、世の中は公平です。われわれが憎んでも、愛と許しをもって報いてくださる方がいるんですよ」
 そして、彼はイエス・キリストの話をこの老婆に聞かせたのだった。それからこの老婆は日曜ごとに教会に来るようになり、一三匹の猫も日曜学校の子どもにもらわれていった。
 その年の五月。「イエス団」の教会から少し離れた日暮通り四丁目にあるボタン工場から説教を頼まれて通ううちに、大道芸人の息子でその工場で働く職工の武内勝、芳夫兄弟が話を聞いて教会に来るようになった。そして、勝はそのうち洗礼を受けてクリスチャンとなり、後に賀川の片腕として「イエス団」を支える働きをするようになる。
 「新川は先生が来られてから、えろうよくなりました」と、くず拾いの男が言った。「殺人も減ったし、子どもたちも先生になつき、人の心が穏やかになりましたわ」。賀川の胸は熱くなった。そして、この愛する新川の人たちの生活を潤したいと、一膳飯屋「天国屋」を開くことにした。この時、中村栄次郎という人が協力を申し出たので、彼に一任したところ、この男は大変上手に店を回転させ、「天国屋」は大繁盛であった。
 しかしこの時、植木屋の辰という人がこの繁盛ぶりを妬み、中村が用いられたことに腹を立て、酒をあおって店に乗り込んできた。そしてテーブルを倒し、鍋を床に叩きつけ、二、三〇人分の皿や茶わんを粉々にした。それから、教会の台所の板を割って中に入り込み、斧で障子、棚、そして会堂のイスなどを叩き壊し、駆けつけた巡査に逮捕されたのだった。
 中村は疲労から体調を崩して暇を取り、その後「天国屋」は赤字続きの末、ついに閉店せざるを得なくなったのである。この事業は失敗であった。
 この頃、賀川は芝はるという女性と親しくなった。彼女は「福音印刷」の神戸工場で働く芝房吉の娘で、女工としてここで働いていた。賀川がこの会社の依頼でここに説教に来たとき、はるはその話に感動し、以来二人はいろいろな話をするようになった。そして、最低生活をする人々に奉仕がしたいという思いが同じであることを知ったのである。
 その年のクリスマス。賀川は生活困窮者のために食事会を催し、教会堂に入り切らないほどの人々を招いた。このために近くの教会の青年たちが応援に駆けつけ、芝はるも印刷会社を休んで手伝いに来た。彼女は教会の婦人会の人々に交じって食事作りを手伝い、来た人たちに赤飯をよそってあげたり、お茶を注いであげたりと、まめまめしく働いた。
 「おや? おみつさんはどうしたろう?」。突然賀川はそう言った。おみつというのは半身不随で寝たきりになっている女性で、人々が交代で面倒をみていた。賀川はクリスマスの祝会に彼女を招いてあげようと考えていたのだった。
「おみつさんなら、にわとり小屋に寝ておったよ」。この時、日曜学校に来ている子どもたちが教えてくれた。「垂れ流しになってしもたんやと。そいで、誰も面倒みる者がおらへんので、にわとり小屋に捨ててしもたらしいよ」
 どうせ彼女はもうじき死ぬから―と人々は止めたが、賀川はにわとり小屋に駆けつけ、すさまじい臭気を漂わせている彼女を背負って自分の家に連れて行った。
 するとはるは、早速教会から皆で作った吸いもの、かまぼこや煮物などのごちそうを運んできた。それから彼女の便の始末や着物の洗濯まで引き受け、自分の寝間着を持ってきて彼女に着せてあげるのだった。不思議にもこの時からおみつは「大腸カタル」が治ってしまい、普通の便をするようになった。
 この日を境に、賀川と芝はるは急速に親しくなり、一九一三(大正二)年五月二七日、「神戸日本キリスト教会」で結婚式を挙げた。司会はマヤス博士。司式は青木澄十郎牧師であった。東京や徳島からも多くの祝電が寄せられた。
 二人は、この新川で日本最初のセツルメント事業を始めようと計画した。この地域を救うためには、日本からまずスラムというものがなくならなくてはならない。そこから始めるには、伝道のほかに教育、人事相談、職業紹介、無料宿泊、簡易食堂などの事業を行うためのそれ相当の知識が必要であることを二人は同時に痛感した。
 それには専門知識を基礎から学ばなければならなかった。賀川は米国に留学することにし、はるも横浜の共立女子神学校に入学を決意した。彼の渡航に際してマヤス博士とローガン博士はそれぞれ百円ずつ献金してくれた。留守の間、武内勝が「イエス団」を守ってくれることになり、賀川は安心して全てを彼に一任した。
 また、この頃、昔さんざん彼を虐待した義母のみちが彼を頼って神戸に出て来ていた。そしてなんと、彼女は乏しいへそくりの中から百円を渡してくれたのだった。
 「体に気いつけてな」。彼女はポツンと言った。そしてこれが、彼女が口にする初めての優しい言葉であった。
 一九一七(大正六)年五月四日。賀川は米国のプリンストン大学でBD(神学士)の資格を取得して帰国。横浜埠頭には妻のはるが出迎えた。留守の間、「イエス団」の事業は武内勝たちが中心になって変わりなく守られていたが、はるの報告の中には幾つかの悲しい出来事があった。
 義母のみちが赤痢で死んだこと。献身的に教会で奉仕してくれた武内勝の母が過労で死んだこと。そして、勝と結婚の約束をしていたはるの妹ふみが、結婚に反対する武内の叔母のために虐待を受け、心身を患った末、急性尿毒症で死んだこと―などであった。二人は涙を流しつつ、彼らの冥福を祈るのだった。
 新川の長屋に帰ってくると、賀川を驚かせたのは住人の顔ぶれがガラリと変わっていることだった。あの懐かしい日曜学校の子どもたちはどうしたろう? 彼は路地から路地を回って彼らの姿を捜し求めた。
 「花枝はね、料理屋に売られていったそうでっせ。それから熊蔵と寅市はスリになって暴力団のやつらと生活しているそうな」
前からいるくず拾いの男がそう教えてくれた。賀川は目の前が真っ暗になった。「花枝はな、何度も何度もここに来て、もう会えなくなるから先生に一目会って別れが言いたいと泣いとったで」
 (おお神様! あの子どもたちをもう一度この手に返してください!)血を吐くような思いで彼は祈った。しかし、二度と彼らは戻ってこないような気がした。
 日曜学校にまた新しい子どもたちが来るようになったが、彼らを見ているうちに目の悪い子が多いことに賀川は気付いた。長屋では洗面器も手拭いも共同で使っているために、トラホームが家族全員にうつってしまうことが多かった。
 「汚い手で目をこすってはいけないよ」。賀川はこう言いつつ、町の医者から分けてもらった目薬を子どもたちの目にさして回った。
 七月になると、はるが共立女子神学校での学業を終えて戻ってきた。彼女は目薬を入れた小さなバケツを持って路地から路地を回り、目薬をさして回った。子どもたちはすっかりはるになつき、彼女にまつわりついて、どこに行くのもついて行った。
 賀川は、「イエス団」の事務所である2階の一室をこのために開放し、「イエス団友愛救済所」と大きく書いた看板を出した。  
 実業家の福井捨一が経費を負担してくれ、西宮の姫野医師が午後だけ診療に来てくれることになった。
 八月。はるは眼病を患い手術を受けたが、片方の目は失明に近い状態になってしまった。そして同じ時期に、はるの父親、芝房吉が亡くなるという知らせが届き、二人は打ちのめされた。
 しかし、同時に喜ばしいニュースがもたらされたのである。名古屋医大専門学校出身の馬島僴(まじま・かん)という医師が訪ねて来て、賀川夫妻と親しく語り合った。そして、彼らの窮状を知ると、一家をあげてこのスラムに移り住むことになったのである。
 馬島医師は、誠意を込めて人々の診療を行い、相談に乗ったりしたので、間もなく新川の人々は彼を慕い、何でも話すようになった。
 この頃から、賀川は最下層の人々が生きていくために労働問題と取り組み始めていた。米国で初めて労働者たちのデモ行進を目にしたとき、労働組合の理想が心の中にひらめいたのであった。
 彼は働く青年を集めて自治工場の建設に乗り出し、日暮通六丁目の工場を買い取り、モーターを設置してから彼らを大阪の歯ブラシ工場に見習いに行かせた。
 しかし、新川の青年たちは仕事を覚える気がなく、やり方も粗雑で、できた製品はひどいものだった。そのうち、彼らは部品を盗み出したり、金庫の金に手を付けたりし始め、結局工場を閉鎖せざるを得なくなった。
 一九一八(大正七)年七月二三日。富山県の漁夫・沖仲士の婦女五〇人余りが港に押しかけ、米の積み出しを阻止。その後、約三百人の人々が町の米屋を襲い、米を安く売ってくれるよう訴えた。これが「米騒動」の始まりだった。第一次大戦の影響で貨幣の価値が変わり、米の値段は日増しに上がっていた。
 八月一二日。新川の労働者たちも米屋を襲う。店をめちゃくちゃにし、放火した末に米を持ち去った。賀川は悲劇を未然に防ぐため、兵庫県庁に行き、清野知事に町中の酒屋を閉店させ、一週間の禁酒令を出してほしいと頼んだが、相手にされなかった。
果たして、暴徒化した彼らは酒屋を襲い、店中の酒を飲み干した末、棒や角材を振り回して大暴れした。ついに軍隊の出動となり、五百人ほどの警官隊が新川にやってきた。
 そして、必死で抵抗する人々を逮捕し、全身血まみれのその身柄を連行して行った。この事件は、やがて日本に忍び寄る不吉な影の前触れであった。
 「米騒動」は全国的規模に発展し、労働者を目覚めさせ、意識を高めることになった。この時から日本社会の中に社会主義思想が生まれてくる。
 一方、兵庫県の清野知事は、「米騒動」の深刻さを感じるにつけ、賀川豊彦の社会を見通す洞察力に感服し、あらためて彼を呼んで言った。「あなたはキリスト教に根差した博愛心と、日本社会を向上させようとする理想を持っておられる。あなたこそ労働問題に取り組むのにふさわしい人物と思います」
 そして、失業問題を解決するために、県営の職業紹介所を作りたいので主事としてふさわしい人物を紹介してほしいと依頼した。そこで賀川は、日暮里のスラムで働いている遊佐敏彦を紹介した。
 彼は、米国から帰った賀川を東京中に点在するスラムに案内し、必要な知識を教えてくれた人だった。遊佐は賀川の頼みを聞くと、日暮里を引き揚げて神戸に移ってきた。そして間もなく「兵庫県救済協会生田川口入所」が開設されたのだった。
 一方賀川は、米国から帰国した直後に「友愛会神戸連合会」から招かれ、「鉄と筋肉」と題して講演を行い、労働者の結束を呼び掛けた。反響は思いのほか大きく、一九一九(大正八)年四月にこの組合は「友愛会関西連合組合」と改称され、賀川は推されて理事長となった。そして鈴木文治らと手を握り、大阪に消費組合「共益社」を作った。
 一九二〇(大正九)年三月一五日。株式の大暴落があり、銀行の破たん、貿易会社の倒産が相次ぎ、不況が全国を覆った。新川の木賃宿は失業者で身動きできないほどで、新聞は毎日のように心中事件や自殺を報じ、犯罪も増加した。
 そんな時、川崎造船所の職工、青柿善一郎が同士を集めて購買組合を作ることを計画した。これを知った賀川は彼らと話し合い、労働組合運動と消費組合運動を同時に興していくことを決意。そしてその年の十月、「神戸購買組合」ができたのであった。
 ところで、労働運動が各地で高まりを見せるに従って、普通選挙の獲得ということが叫ばれるようになった。人々は自分も国民の一人として自らの意思で政治家を選ばなくてはならないという意識に目覚めたのであった。
 これに先立ち、大阪において、尾崎行雄、今井嘉幸(よしゆき)、そして賀川豊彦は馬に乗ってデモ隊の先頭に立ち、賀川が作った「普選の歌」を歌いながら行進した。一方、関東にも同じように政治運動を起こした一派がおり、彼らは暴力で要求を通して政治を変えようとしていた。
 十月二日。大阪天王寺の公会堂で「総同盟神戸連合会(旧友愛会神戸連合会)」八周年記念大会が開かれると、関東のグループも合流して討論会が開かれた。荒畑寒村の一派は赤旗を振り、大杉栄の一派は黒旗を振った。
 「暴力はある程度必要である!」。関東側を代表し、麻生久が叫んだ。「労働者は長い間搾取され圧迫されてきた。それにもかかわらず、政府が何もしてくれないなら、われわれはここで暴力を用いてでも政治を変えていかなくてはならない」
 彼らは一斉に拍手した。そして、関西側の意見を求めてきたので、賀川は言った。「確かに労働者たちはひどい扱いを受けてきました。私は彼らの苦しみをよく知っています。だから労働組合を作ったのです。しかし、いかなる場合にも暴力を用いてはなりません。剣を取る者は剣で滅びるというキリストの教えは、歴史始まって以来の真理です。暴力を用いたなら、目的を達成できないばかりか、その目的をも見誤ります」
 これに対し、関東側はやじを浴びせた。「無抵抗主義などに用はないぞ!」「引っ込め、ヤソ坊主!」
 その晩は、「共益社」の二階で皆一緒に寝ることになった。眠れずに寝返りを打っていた賀川は、自分の隣の大杉栄も目を開けていることを知った。二人は小声で話を始めた。そして、彼らの理想は労働者を目覚めさせ、生活を向上させるという点では同じであるが、たった一つの点で折り合えないことが分かった。
 「社会の改革は流血を避けていては永久に成し遂げることはできないのです」。大杉が言えば、賀川は彼に問い掛けた。「ではあなたは、目的のためにはいかなる手段を用いてもいいとお考えですか? その目的に絶大な信頼を置いているうちはいいかもしれない。でも、それに絶望したときはどうしますか?」
 すると、大杉はむっくりと起き上がり、正面から賀川を見た。「恐ろしい言葉だな。確かにそうです。目的に対して全てをささげられなくなったときは、死があるのみです」
 賀川が購買組合を作るために奔走していた頃、「改造」という雑誌の編集長、横関愛造と大阪毎日新聞の記者、村島帰之が賀川の事業に共鳴し、彼の自伝を「改造」に連載したらどうかと話し合っていた。
早速申し入れたところ、賀川は大切にしまっておいた原稿を取り出して彼らに見せた。「これは自伝風の小説ですが、私の人生そのものです」
 それは以前、あの島崎藤村が「出世するまで大切にしまっておきなさい」と言ったものだった。長い間眠っていた作品が、突然用いられる時が来たのである。
 『鳩の真似』は『死線を越えて』とタイトルを変え、一九二〇(大正九)年一月号から連載が始まった。すると、著名な作家やジャーナリストたちから「文章がまずい」「思想の寄せ集めにすぎない」といった手厳しい批判が浴びせられた。
 しかし、それを上回る反響があったので、その年の十月、単行本として出版されることになった。すると驚くべきことに、初版が出るやたちまち五千部を売り尽くし、一二月には八版を重ねた。
 「この小説は、青年たちの心に希望の火をともし、暗い社会の中にあって貧しさと戦いつつ苦闘している学生の心を奮い立たせた」。各新聞はこぞって激賞し、賀川の名は一躍有名になった。
 こうした時、川崎造船所と三菱造船所の労働者たちが、過酷な労働条件と苦しい生活に耐えかねて労働組合を作り、団体交渉権の確保を会社に求めた。しかし、会社側は応じないばかりか、交渉役の従業員を全て解雇した。
 そこでついに川崎造船一万三千人、三菱造船一万二千人の職工は、同時にストライキに入った。一九二一年七月十日。二万六千人を超える労働者たちは「死ぬまで戦え!」「労働者最後の一戦」と書いたプラカードを立て、町を練り歩いた。彼らのために何度も会社と交渉を行ってきた賀川はこの日、先頭に立って歩いたが、決して暴力を用いないようにと彼らを諭した。
 ところが、米騒動でこりた町の人々は、この大規模なデモ行進を見て、また店を壊されたり、放火されたりしてはかなわないと警官の出動を依頼した。
 そして、ついに街角で警官隊と労働者は衝突し、流血の惨事となってしまったのである。多数の人々が逮捕され、賀川自身も投獄された。しかし、その間にも『死線を越えて』は売れ続け、ついに日本最高の記録を出した。
 間もなく賀川は釈放。改造社の山本実彦社長は多額の印税を払ってくれたので、賀川は川崎・三菱の労働闘争の後始末のために三万五千円、警官と衝突し投獄されている労働者の家族に毎月百円ずつ送金、鉱山労働組合費用に五千円、そして残った一万五千円をそっくり使って「イエス団友愛救済所」の確立のため、財団法人を組織したのであった。
 一九二一年十月五日に日本キリスト教会の教職員会が京都で開かれると、奈良の旅館、菊水楼に十数名のクリスチャンが集まった。この時、賀川はキリストの贖罪愛を土台とする新しいキリスト教の運動を起こす必要性を感じて呼び掛けた。
 「今こそ私たちは、十字架で罪を贖ってくださったキリストの愛を胸に、共に祈り、手を携えて伝道と社会事業に奉仕していこうではありませんか」
 「イエスの友会」はこうして生まれた。そして、この団体は後に、災害に苦しむ多くの人に対し、涙ぐましい働きをするのである。
 またこの年に、賀川はもう一つ記念すべき事業を起こした。労働者以上に搾取され、貧困にあえぐ農民を救済すべく「農民組合」を設立したことである。
 彼は杉山元治郎に連絡をとった。この人は福島県で農村伝道をしていたが、社会運動をやりたいと考え、大阪に出て来た。そして、新川のスラムに賀川を訪ね、親しく語り合ってから、時が来たら一緒に事業を起こそうと約束を交わしたのだった。
 二人は十分に計画を練り上げた。一九二一年八月。大阪北区絹笠町の大江ビルの一室に法学博士、小川滋二郎を中心として社会事業家数名が集まったので、杉山が出席して事業内容を発表。ちょうど村島帰之が新聞記者として出席しており、彼は大阪毎日新聞にこの記事を大きく掲げた。
 反響は大きく、一九二二年四月九日、神戸下山手のYMCAで「農民組合創立大会」が開かれた。この年の末に、長男、純基(すみもと)を授かる。
 ところで、かつて賀川と激論を交わしたあの社会主義者、大杉栄は、新川をたびたび訪ね、次第に賀川と親しくなっていった。ある日、彼は長女の魔子(まこ)を連れて遊びに来て、ファーブルの『昆虫記』を借りて帰った。
 その時、なぜか賀川は嫌な予感を覚えたので忠告した。「大杉さん、軍部は社会主義者の弾圧を始めたから、どうか気を付けなさいよ」
 大杉は笑って、大きな手を差し出した。
 一九二三(大正一二)年九月一日。突然関東地方を強い地震が襲った。賀川は救助に先立ち、被害状況の調査をするため山城丸で神戸を出航した。
 はるは九カ月になる純基をおぶって「イエス団」の人々と共に荷車を引いて下町から山の手を回り、衣類の寄付を募った。三日午後八時半横浜に上陸すると、震災の後の現地は惨たんたるありさまだった。
 幾万もの避難民が行き交い、辺り一面焼け野原と化していた。彼はひとたび神戸に引き返すと、各地の教会を講演して回り、四〇の会場で七五〇〇円の献金を集めた。それから、イエス団から一二個、YMCAから二九個の救援物資を持って再び被災地に行った。
 死者・行方不明者約一四万三千人、負傷者約十万三千人といわれるこの災害で、東京の本所が最も被害がひどかった。崩れた家屋に死体は累々と横たわり、足の踏み場もない中で、孤児たちは泣く力もなくあちこちにうずくまっていた。
 「この世の地獄だ」。賀川は放心したようにつぶやいた。しかし、それから間もなく、彼は本当の地獄をその目で見なくてはならなかった。朝鮮人が井戸に毒を入れたとか町に放火したというようなデマが広がり、これは無知な大衆を巻き込んで大きな騒動となっていったのである。
 「朝鮮人を殺せ!」。暴徒と化した人々は叫んだ。そのうち、憲兵が朝鮮人をひとまとめにして連行していくのを見たという人がいて、こう話した。「憲兵がさ、井戸に毒を入れたろうと言ってやつらをそりゃひどい目に遭わせていたよ」
 間もなく、新聞には朝鮮人が俵に詰められて竹やりで突き刺されている姿だの、後手に縛られて体に火を押し付けられている姿などのイラストが掲げられた。賀川がバラック建ての官舎の前を通りかかると、辺り一面が血の海だった。昨夜ここで朝鮮人が殺されたのだという。
 「神様、日本人が血に飢えた狼のように凶暴になっていきます。どうか私たちを救ってください」。彼は涙と共に祈るのだった。
 九月一六日。夕刊に目を通した人々は、あっと声を上げた。「大杉栄殺さる!」という見出しで、社会主義者の彼が憲兵によって家族もろとも虐殺されたという記事が出ていた。
 「大杉さん・・・。だから、あの時忠告したのに」。賀川は溢れ出す涙と共につぶやいた。
 キリスト教は嫌いだが、賀川の理想には共感できると言った大杉。目的とするものに裏切られた場合は死あるのみだと言った彼は、その主義のために剣をもって闘い、剣によって滅ぼされてしまったのだった。
 十月十八日。賀川は本所区松倉町二丁目に救援センターを設けた。そして、米国から送られた五つのテントを張り、活動を開始したのである。この時「イエスの友会」の会員たちが来てくれ、神戸からも応援隊が駆けつけた。
 そのうち菊池千歳という女性が「イエスの友会」の事務や会計、炊事の手伝いをしてくれることになり、また「キリスト教婦人矯風会」の渡辺照子も奉仕にやって来た。彼女は寒風吹きすさぶ夜中に、浅草公園に寝ている人々に着物をかけて回ったのである。
 一一月一日。賀川のところに一人の大工がやって来た。田中源太郎という名で、賀川の事業に感動し、ぜひ手伝いたいと申し入れた。彼は大切に持っていた二〇円のへそくりを残らずささげ、翌日から炊事場を建て、机や椅子をこしらえるなどして働き出した。
 やがて、ここにバラックができると、神戸からあの馬島僴(まじま・かん)医師が仲間を連れてやって来て、無料診療を始めた。やがて事業の幅も広がり、伝道、社会事業、組合事業、法律相談、職業紹介などの部門に分かれ、救急医療、妊婦保護、児童健康相談、ミルク配給、児童クラブ、勉強会、無料入浴などの活動も同時に行われた。そして、この事業所は「本所キリスト教産業青年会」と名付けられた。
 そんなある日のこと。内務省の生江孝之という役人がやって来た。彼はバラックに溢れる人々と不眠不休で働くボランティアを見て驚き、一体どうやってこの人たちに食べさせているのかと尋ねた。そこで賀川は答えた。
 「どんなに大勢の人々がいても、神様は養ってくださいます。私たちは、今まで不思議な方法で助けられてきました。今後も足りない食物を分け合い、最後のお米の一粒まで分け合っていきます」
 生江は感服し切ったように頭を下げ、帰って行った。
 五重の塔の下、ベンチの下、観音堂の下には、野宿している人が八百人もいた。賀川は浅草寺を訪ね、「気の毒な被災者のために公園内にテントを張らせてもらえませんか」と尋ねると、住職は快く承諾してくれ、以後二人は親しい友人となったのである。
一九二四(大正一三)年に入ると、賀川は眼病をはじめさまざまな病気に煩わされ、上北沢に家を借りて療養を余儀なくされる。
しかし、彼はその年の十一月から八カ月にわたり、世界一周の旅に出た。そして、ヨーロッパもアジアも戦争という暗い闇に脅かされていることを知った。
 一九二五年七月三〇日。御殿場の東山荘で開かれた「イエスの友会」修養会で賀川は「百万の霊を神に捧ぐ」と書かれた横断幕を背にして、今こそキリストの贖罪愛を実践すべきときが来たと語り、「神の国運動」の開始を宣言したのだった。
その一つの試みが一九二七(昭和二)年二月に開校となった「農民福音学校」であった。賀川はここで農村の青年たちに福音を伝え、人格教育を行うと同時に立体農業――山林を生かして農作物を生産する方法を教えた。
 この農業法は、やがて多くの農家を救うことになる。またこの年、吉田源治郎や馬淵康彦らが大阪に「四貫島セツルメント」を作ったので、「神戸イエス団友愛救済所」「本所キリスト教産業青年会」と共に賀川のセツルメント事業は三本の柱を地中に埋めることになった。
 「キリストの贖罪愛を全身で実践しているクリスチャンが日本にいる」。世界の人々は彼の働きを知ると、こう言って驚嘆したという。米国においては「賀川豊彦を支える会」というのができ、会員の一人ヘレン・タッピングは以後、彼を援助し、最も親しい友人の一人となった。
 一九三一(昭和六)年九月一八日。満州柳条溝(りゅうじょうこう)付近で満州鉄道が爆破されるという事件が起きた。一一月に入ると、日本軍は中国人が暴動を起こしたという理由のもとに、一斉に錦州を攻撃し始めた。出征兵士は殺意に目をギラギラさせて戦地に向かい、やがて日本に生々しい情報が流れてきた。
 「貨車に家畜みたいに中国人が詰め込まれて運ばれてきたが、扉が開いたときには下の者は押し潰されて、半分は盲目になっていたと。軍隊はやつらを追い立て、橋の工事をやらせたそうだ」
 「何も食べさせずに牛や馬のようにこき使って働かせた末に、動けなくなった者をひとまとめにしてガソリンをかけて焼き殺したと」
 賀川は両手で耳をふさぎ、床にひれ伏して日本の罪を赦(ゆる)してくださいと祈った。
 そんなある日のこと。立派な軍服を着た2人の軍人が訪ねてきた。最初賀川は、憲兵が自分を捕らえに来たのかと思った。
 「先生、われわれをお忘れですか?」。思わず、賀川の顔が輝いた。それは日曜学校で彼にまつわりついていたあの鼻たれの熊蔵と虎市だったではないか。
 「先生! 自分たちは軍隊に入ったのです」。熊蔵が誇らしげに言うと、虎市も続けた。「先生! 満州で大暴れしてきましたよ。やつらをこの銃剣で突き刺し、切り捨てて、日本の軍隊の力を見せつけてやりました」
 賀川は、くたくたと彼らの前に膝をついた。「先生、どうしてよくやったと褒めてくださらないのですか」「久しぶりに休暇をもらったから、報告に伺ったのです。では、先生ごきげんよう」
 そして、二人は敬礼をすると立ち去ろうとした。「ちょっと待て!」。賀川は、泣きながら駆け寄り、2人の軍服の裾をつかんだ。
 「熊蔵! 虎市! 私は君たちに人殺しをせよと教えたことがあるか。何の抵抗もしないよその国の人たちの血を流させるために君たちの面倒を見たのか」
 すると彼らは驚いたように顔を見合わせた。「なぜそんなことを言われるんですか。自分たちは日本を世界一の強国にするために昼も夜も戦っているんです」
 そして、彼らはもう一度敬礼すると、永久に賀川の前から姿を消した。
 一九三二(昭和七)年三月。日本軍によって満州国が建てられると、いよいよ国内には軍国主義の色彩が濃くなってきた。賀川は一九二二年創刊の雑誌『雲の柱』に毎号のように世に警告する文章を書いた。
「軍備において世界第一の国となるよりは、教育を重視し、徹底した民主主義に生きるべきである」「たとえ日本が世界一の強国となろうとも少しも誇れることではない。日本が本当に世界に誇れる国となるにはただ一つ、敵をも赦し、罪人を救うキリストの愛によって平和を守り抜くことである」
 たちまち、賀川は日本中から批判や中傷の言葉を浴びせかけられた。「国賊! 非国民!」。しかし、このような中にあって賀川は、貧しい人たちが最低限の医療を受けられるために「医療組合」を立ち上げたのであった。
 そんな時、三陸地方に激しい地震があり、多くの死者が出た。続いて津波が押し寄せ、大惨事となる。賀川は、直ちに「イエスの友会」のメンバーを集め、被災地に救援隊を送り出すとともに、自らは連日大きな荷車を引いて東京各地を歩き、衣類や食料の寄付を募った。
 それから一カ月もたたないうちに、今度は関西で風水害があった。賀川は災害地の人々を救助するために大阪、東京間を何度も往復した。この時の「四貫島(しかんじま)セツルメント」の働きは素晴らしいものであった。東京からも「イエスの友会」のメンバーが駆けつけて救援に当たった。
 関西の風水害の後始末も十分にできないうちに、今度は東北地方で飢饉が起こった。賀川は「日本キリスト教連盟」の総会に提案して、飢餓の農家と親類になって子どもを一年か二年引き取って世話をする「親類運動」というのを始めた。この素晴らしいアイデアで、多くの農民が救われたのであった。
 彼は連日農家を訪れ、飢餓の家庭の子どもをクリスチャンの家庭に預けたり、捨て子を施設に入れたりと息つく暇もなく働きかけた。
 そんなある日のこと。東北地方のある町を通りかかったとき、一軒のうらぶれた酒場からどきつい化粧をした女が出てきて彼の袖を引いた。
 「ちょっと寄っていらっしゃいよ」。そう言って中に誘い込もうとした。「急いでいるもんでね」。そう言ってその手を振り放した瞬間、賀川の目は相手の顔に吸い寄せられた。どこかで見た顔だ。この目、この口もと。
 「花枝ちゃん!」。彼は叫んだ。「あんた、新川にいた花枝ちゃんじゃない?」。相手もしばらく彼を見つめていた。――とたちまちその目が涙でいっぱいになった。しかし、それもつかの間で、その目にはずるそうな表情が浮かんだ。「知らないねえ。そんな新川なんて所聞いたこともないよ」
 そして中に入ろうとした。賀川は必死でその袖をつかんで引きとめた。そして、ふところから財布を出すと、ありったけの金を彼女に握らせた。それから急いで連絡先を書いた紙をその手に押しつけた。
 「おい、そんな所で何をしている」。その時、やくざ風の男が中から出てきた。「この旦那からお金をもらったのさ」。そう言うと、彼女は男と一緒に中に入っていった。しかし、その時、賀川は見た。そむけた彼女の痩せた頬に、涙が一筋伝うのを。
 彼の目の前に、手のとれた人形を抱いて笑いかける、おかっぱ頭の女の子の姿が浮かび上がった。花枝ちゃん・・・。彼はその名を呼び、号泣した。この子もまた、彼のふところから奪い去られたのだった。
 一九三七(昭和一二)年十月。盧溝橋事件が起こり、それは日華事変となって拡大していった。ついに日本国内は軍国主義一色に塗りつぶされてしまった。自由主義思想を持つことは一切禁じられ、少しでもこのような主義を持つ者がいれば、直ちに逮捕され、投獄された。
 やがて日本軍は中国へ侵攻し、陸軍部隊は歴史に汚点を残すような残虐行為の数々を行った。南京大虐殺は世界中を震え上がらせた。日本軍がこの地で行ったことは、あらゆる時代にあらゆる国でなされた蛮行に勝るとも劣らない恐ろしいものであった。
 一九四〇(昭和一五年八月二五日。賀川は松沢教会の礼拝で、日本国民は平和と無抵抗主義に徹すべきことを会衆に訴えた。
 「キリスト者の生活は、ハンセン病患者のうみをすすり、人の嫌がることを引き受けることです。また、自分を打つ者には頬を向け、相手が満足するまで打たせることです・・・」
 礼拝が終わると、彼と小川清澄牧師は憲兵に捕らえられ、「渋谷憲兵分隊」に連行された。そしてその夜、賀川は厳しい取り調べを受けた。
 「今問題にしたいのはこれだよ」。係官は、彼の前に一九四〇年版のカレンダーを投げ出した。それはヘレン・タッピングが編集し、米国でよく読まれている『カガワ・カレンダー』であり、四一年版の印刷途中で憲兵隊によって押収されたのだった。
 「中国の同胞へという中で、こう書かれている。日本の罪を許してください・・・心ある者は日本の罪を嘆いています・・・。こりゃ一体何だ!」
 賀川は黙したまま、自分のためには何一つ言い開きをしなかった。その後、刑法九五条に問われ、巣鴨拘置所に移される。外務大臣の松岡洋右は驚き、司法大臣風見章に迫った。「賀川さんをすぐに出せ。それができないなら、自分が代わりに刑務所に入る」
 これは大きなニュースとなり、間もなく賀川と小川牧師は釈放された。
 一九四一(昭和一六)年一二月八日。突然ラジオは、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃したニュースを伝えた。いよいよ太平洋戦争の始まりである。日本国内は異様な熱気に包まれ、右翼団体が力を伸ばしてきた。
 「むすび会」や「みくに会」は賀川豊彦の平和主義を嘲笑し、攻撃を加えた。ある評論家は彼のことを反戦主義の売国奴と非難し続けた。
 「賀川を殺せ! 彼の唱える隣人愛は国を売るもので、国体の本義に反するものである」。街頭にはこのようなビラが貼られていた。軍部当局の彼に対する監視は一層厳しくなり、彼の著作や小説の出版を引き受けてくれる所はどこもなくなった。
 本土の空襲はますます激しさを増し、東京には次々と爆弾が投下された。彼が長年にわたり力を注いできた「イエス団」の施設も「本所キリスト教産業青年会」も「四貫島セツルメント」も、そしてわが子のように大切に育ててきた「江東消費組合」ほか幾つかの生活協同組合もことごとく焼け、多くの人が死んだ。
 賀川は家にとじこもり、ひたすら祈りつつ、やがて来るであろう神の裁きをじっと待っていた。
 一九四五(昭和二〇)年八月一五日。賀川の予想通り日本は敗戦。そして、戦争が終わった。見渡す限りの焼け野原の中で、国民は心のよりどころをなくしていた。
 八月二六日。賀川は東久邇宮稔彦王首相の招きを受け、首相官邸を訪問した。首相は彼に重要な相談をもちかけた。
 「今や日本の道徳は地に落ち、人心はすさみ、誰もこれを救う力がありません。外国人への敵対心と憎しみを取り除かないとポツダム宣言の発表ができないのです。世界平和を目指して諸外国と日本を結ぶために活動する資格のある者は、あなたをおいて他にないように思われます。そこで人心を新たにするために、内閣に参与制度を作ることにしました。ぜひあなたも参与になってください。そして、どうしたらいいか、意見を聞かせてください」
 賀川は承諾して官邸を出た。それから、日本基督教団に出向き、教団としてどう行動するか話し合うことにした。その時、教団主事の木俣敏(きまた・びん)がこう提案した。
 「早急に国民に呼び掛けて、キリスト教徒もそうでない者も1つになって、過去における生き方、考え方を反省し、ざんげをする運動を起こしたらどうでしょうか」。賀川はこの考えに賛成し、教団の役員もこぞって賛成の意を示した。
 「ざんげ運動ですって?」。東久邇宮首相は驚いた顔をした。
 「そうです。まだ戦争が始まらない頃、ある有名な議員の方が来られて、日本の軍隊は世界最強だと言われました。私はその時、日本があたかも聖書で語られている放蕩(ほうとう)息子のような気がしたのです」
 「日本ほど恵まれた国はありません。豊かな作物、温順な気候、他国の侵略を受けにくい地形。それなのに、いつの間にか日本は平和に慣れきって、ぜいたくになり、富める者は貧しい者を搾取し、資本家と結びついて一大工業国となりました。しかも軍備を誇り、何の抵抗もしない他国を侵略し、残虐行為を繰り返した」
 「私はこの放蕩息子がいつか行き詰まり、破滅しないわけはないと思いました。果たして、日本は敗戦によって打ち砕かれました。今日本がなすべきことは、放蕩息子が本心に立ち返り、父に許しを求めてそのもとに帰ったように、国民が1つとなり、今までの生き方、考え方を反省し、ざんげをして新しく出直す以外にありません」
 首相はうなずき、手を差し伸べた。
 「ラジオを通してあらゆる人にざんげを呼び掛けましょう。老いも若きも、男も女も、職業のいかんを問わず、こぞって過去の思い上がりを改め、平和国家に生きる民としての一歩を始めるように」
 その日のうちに通達が出された。この時、米国の宣教師たちが援助を申し出てきたので、賀川はこの「国民総ざんげ運動」を基にして協力してもらうことができた。
 その後、彼は請われて「敗戦国の賀川ではなく、世界の良心としての賀川」の資格でマッカーサー元帥に宛てて手紙をしたためることになった。そして、この手紙が元帥の心を動かし、日米間の対立を和らげたのであった。
 米国からは外米、重油、薬品などの物資が送られてきて、日本国民の生活が支えられた。こうして、ようやく日本に平和がやってきたのである。
 賀川の事業施設も全て復興し、新たな働き人を得て、さらに力強く前進していった。彼はその後、多くの教会や学校を回って講演を続けたが、一九六〇(昭和三五)年四月二三日。その使命を全うして天国へと凱旋(がいせん)した。七二歳の生涯であった。
コメント

「ヘレン・ケラー輝ける魂」より

2016年12月16日 17時17分23秒 | 紹介します

「ヘレン・ケラー 輝ける魂」の日本語字幕より

 

タイム誌はヘレン・ケラーを20世紀の重要人物の一人に選定しました。彼女は目と耳が不自由ながら様々な困難に打ち勝ち、世界中の障害者のために尽力したのです。

大勢の人が彼女の影響を受けています。たとえば、マークトゥエンは彼女を歴史上の偉人に並ぶ人物だと評しました。

確かにヘレン・ケラーは偉大な人物です。障害者という概念を変えたのです。彼女は自らの言動で人々に気づかせました。たとえ目と耳が不自由でも人間はみな一緒だと。彼女は人間の共通性に人々の目を向けさせ、人間の新しい在り方を示しました。

彼女は光り輝き、思いやりに満ちていました。周りの人やものすべてに興味を持ち活力にあふれていました。

一方、ヘレン・ケラーのイメージは様々です。同情の目で見る人や、聖人として記憶している人もいます。しかしいずれも彼女には不本意でしょう。彼女は一人の人間として見られるように戦ったのですから。

ヘレン・ケラーの一般的なイメージは偉大な人道主義者、水を指文字で学んだ少女として記憶している人も多いことでしょう。映画「奇跡の人」の有名なシーンを思い出す人も多いでしょう。

しかし彼女の豊かな精神を知る人々は少数です。彼女の人となりは信仰によって形成されました。理想を追い求め、社会運動家や著述家としても活動し、実に多面的な人物でした。

彼女は今もなお人々に影響を与え続けています。

ヘレン・ケラーは1880年 アラバマ州出身です。生まれた時には障害はありませんでした。父アーサーは南軍の大尉を経て新聞の編集者や連邦保安官をしていました。米国聖公会会員のケイトは機知にとんだ上品な女性でした。

ヘレン・ケラーは早熟で利口な子供でしたが、生後19か月の時に、病魔に冒されました。ウィルス性脳炎か髄膜炎だったのか、その結果、視力と聴力が完全に奪われたのです。

闇と静寂に包まれたヘレンはその時のことを「本能だけが頼りの獣のようだ」「私は無の世界の住人だった。そこには過去も現在もない、感情や理性的思考の微塵もない、昼も夜もない、存在するのは空白だけでした。」と記しています。

一方、ヘレンは驚くほど勘の鋭い子供でした。周りに自分の意思を伝えようと、60もの合図を考案しました。

「行って」は手を押す、「行かないで」は手を引く、などなど。

しかし、癇癪を起して暴れまわることもあり、教育は難しいと家族は考えました。そんな折、C・ディケンズの記事がケラー夫人の目にとまります。

パーキンス盲学校でL・ブリッジマンという名の盲聾者の教育に成功したというのです。ケラー夫妻はパーキンスを推薦していたA・G・ベル博士に相談。パーキンス盲学校は半盲のアン・サリバンをヘレンの教育係として選びました。

アンは快活で面倒見がよく、努力家で頑固でもありました。ボストンの孤児院で培ったこれらの資質が前途多難の彼女の助けとなります。アンは事前にL・ブリッジマンの例を研究し、指文字を学びました。(指文字は中世のベネディクト修道士が考案したと言われています。)

6か月の訓練の後、アンは人生が変わる出会いをします。1887年3月3日アンがケラー家に到着。この日はヘレンにとって「魂の誕生日」となります。アンはヘレンの癇癪にも動じませんでした。

「ここに来たことは後悔していない。ヘレンのやる気をくじかずに教育することが私の課題だ。」と彼女は記しています。

アンはヘレンの手にものを握らせその名前を手の平に綴りました。最初ヘレンには意味不明でした。2つの行為の関連性が解からなかったのです。言葉を持たないヘレンは、彼女に起きた出来事を体系的に考えることができませんでした。

目も耳も不自由な人と向き合うのは非常に困難です。1か月以上が立ち、アンはついにヘレンと心を通わせます。アンはヘレンの手に井戸水をかけ、「W―A―T-E―R」と綴りました。実際のものと指文字の関連性を示したのです。

「冷たい水が手に流れ、先生の指先に全神経を集中させた。すると不思議な感動と新しい意識がわき起こった

まるで忘れていたことを思い出したように、言葉の神秘が私に開かれたのだ。すべてのものに名前がありそこから新たな考えが浮かんできた」とヘレンは後にこの時のことを回顧しています。 

言葉に出会った日、ヘレンは30の単語の綴りを覚えました。学びたくて仕方がなかったのです。彼女の中で、アンは先生と同義語になりました。

「心地いい興奮が体を通り抜け、心の中に閉ざされていた甘く不思議なものが歌い始めた。先生が私の闇に光を照らしてくれたおかげで、人生の喜びと美しさに目覚めたのだ。

「今朝のヘレンはキラキラと輝いていた。ものの名前を聞いては喜びのキスをしてくれる。」ヘレンは特別な子だ。夢にも思わない成功が待っているだろう」とアン・サリバンは後に書き記しています。

アンの献身的な指導の下、ヘレンは驚くべき学習能力を発揮、規律と指文字を学びながら、創造力を育む遊びも楽しみました。孤立から解放され、苛立ちが収まったヘレンは素直で明るい少女に生まれ変わりました。

学ぶ意欲は旺盛でした。二人は森を歩きながら互いの手のひらにあらゆる単語を綴り合いました。その姿は手でつながれた結合双生児のようでした。二人は言葉という絆で結ばれたのです。

その後、アンが母校に送ったヘレンの報告書が出版され、二人は一躍有名になりました。アンは「奇跡の人」、ヘレンは「国の宝」と呼ばれ、世界の扉が二人に開かれたのです。

パーキンス盲学校はヘレンを生徒として招き、ベル博士は彼女の授業料のため教育基金を設立、スウェーデンボルグ信奉者のH・W・ユングはパーキンスに多額の募金をしました。

偶然にもスウェーデンボルグはヘレンの人生に多大な影響を与えた哲学者です。数か月後、ボストンの通りでユング氏は募金活動中のアンとヘレンに出会います。

祖父は彼らにこう言われました。「私たちがパーキンスに通えるのはあなたのおかげです」と。ヘレンは祖父の上着に指をはわせました。必死に意思を伝えようとする彼女の姿を見て、祖父は涙を流しました。

ヘレンは読書や自然を愛しました。自然は触角と嗅覚を刺激し、読書は世界とつながる術でした。ヘレンは読書を通じ神や宗教について考え始めます。

なぜ神は時に私たちに試練を与えるのか?霊とは?天国はどこ?神の創造主とは?魂とは?

ヘレンはこれらの疑問に対する答えを求め、霊的探究と読書に夢中になりました。「私の考えを書き記せば文字が私の魂の体となる。」霊的探究を続ける中ヘレンは不思議な体験をします。

ヘレンが12歳の時の出来事です。自宅の書斎で歴史書を読んでいました。その時、霊魂がアテネに行くという「体外離脱」を経験したのです。その時、彼女は悟りました。触角が目の代わりであり、霊魂は時と場所との制約を受けないと。

「この驚くべき悟りに私の心は燃立った。霊魂に空間は関係ない。私の霊魂は確かに実在し、それは場所や肉体の制約を受けない。私の霊魂は何千キロも彼方の場所を訪れその景色を見たのである。」

「この新しい意識において神を感じた。万物の創造主である神は、霊魂として宇宙に存在するのだった。」

ヘレンはこの不思議な霊的体験により、さらなる疑問を抱きます。その多くは聖書に関することでした。

「神の真意とは」「神とは誰なのか?」聖書の挿話はギリシャやローマの神話のようで、私が思い描く光り輝く柔和な神の姿はそこにない。思い描く神は存在するのか?ヘレンの信仰が揺らぎます。

ヘレンは後に神の摂理を確信します。13歳の時ベル博士の紹介で元スイス領事のジョン・ヒッツに出会います。ヒッツは聴力が弱く聴覚障害者に関する情報を雑誌で発表していました。また、哲学者スウェーデンボルグの信奉者でもありました。ヒッツは13歳のヘレンに出会い彼女の恩師となりました。

ヘレンはヒッツの事を父親のように慕い私の魂の育ての父と呼びました。ヒッツはヘレンにスウェーデンボルグの「天界と地獄」の点字本を贈ります。この革命的な神学書は19世紀の米国でベストセラーとなった本で、当時の有名な説教師H/Wピーチャーは言っています。「スウェーデンボルグこそ真の教育だ」と。

ヘレンの人生は言葉に出会って変わり「天界と地獄」を読んだ後、再び変わります。スウェーデンボルグの言葉はヘレンの心に深く響きました。

「私の不完全な体の中にも霊体が存在することを確信しました。数年の闇の後、肉眼の内にある霊眼がこの世より完全で満ち足りた世界に開かれるだろう。私は賢者が記した壮大な思想を読み解こうと試みた。」

スウェーデンボルグは18世紀の科学者、政治家、哲学者です。57歳の時突然霊界が見えるようになり、その後27年間にわたり霊的体験や来世観について記録しています。これらの膨大な量の記録は神学書へと姿を変えます。そのテーマは広範囲に及びました。「死後の世界」、「霊と天使」、「愛の本質」、「神と聖書」、「天界と地獄」、「人生の目的と意義」などです。彼は霊的体験に基づく大量の神学書を出版し、その代表作が「天国と地獄」です。

彼によると天使と悪魔は存在します。しかし、性別のない存在ではなく、来世の人間の姿だと言うのです。スウェーデンボルグが見た天界は、あらゆる信仰の人々に開かれていました。正しい教義に従い周囲を愛せば誰でも天界に入れると彼は考えていました。彼の言う天界の神はあらゆる宗教を超越して万人を迎え入れてくれるのです。

彼の本からは神の万人を包む愛のイメージが湧き出て来ます。ヘレンは希望を抱きます。神は慈悲深く来世では障害から解放されると。

スウェーデンボルグは奉仕の精神も説いていました。また他界した知人を見ています。天界に行った者もいれば地獄に行った者もいます。地獄に行った者は自己中心的で思いやりがなかったそうです。天界に行けたのは他者の利益のために献身的な人生を送った者でした。

スウェーデンボルグはこうも言っています。「喜びにしがみついても時と共に消滅する、だが、他者と分かち合う喜びは成長し強くなる」と。

奉仕と分かち合いの精神はヘレンの重要な理念でした。その痕跡は彼女の歩んだ人生に刻まれています。

スウェーデンボルグによると天界は「役立ちの王国」で、崇高な考えを抱くたびに天界に行き、奉仕が喜びになるとそこにとどまるのだそうです。

ヘレンだけでなく世界各国の偉大な人達がスウェーデンボルグの影響を受けています。ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー、イエイツ・・・禅学者の鈴木大拙は彼を「北の仏陀」と呼びました。

ヒッツはスウェーデンボルグを通し、ヘレンに精神性や哲学を説き、彼女の人生に大きな影響を与えます。二人は出会った瞬間に生涯の友となりました。ヒッツはヘレンが興味を持ちそうな本を彼女のために点訳しました。そのほとんどがスウェーデンボルグの著書で、手紙で彼女に送りました。

「親愛なるヘレン、スウェーデンボルグの「神の愛と知恵」を点訳しました。彼は説いています。神は不可分であり、それは神の像である人間に現れていると。哲学を学ぶ者には外せない書です。」親愛なるジョン・ヒッツより

ヒッツは毎年夏の6週間をヘレンと過ごし、人生、宗教、魂、スウェーデンボルグについて語り合いました。

ヘレンはスウェーデンボルグの本を点字で読みふけりました。「私は霊界の様々な秘密を知る、内的感覚が見えざるものを見せてくれる。ここにある信仰に深く共鳴した。言葉と肉体とは別であり、私が全体として描く世界も断片的な世界とは別物なのだ。」

スウェーデンボルグは説く。「肉体の中に霊体が存在し」それは完全な感覚を備え、肉体より重要だ」と。肉体の中に霊体が存在するという考えにヘレンは共感します。体は不完全でも魂は完全だと信じていたからです。そして霊界と自然界に関するスウェーデンボルグの概念から自分の障害に固執しなくなりました。

外界からの雑音が少ない彼女は内なる世界に注意を向けます。

「天に輝く星を見ることはできないが、同等に明るい星が私の魂の中で輝いている。私にとって魂は本質的なもの、私は万物と同じもので、できていると思う。私にとって魂は約束の国、そこは永遠の若さ、希望、無限の可能性がある。」

アンは宗教に興味を示しませんでしたが、ヘレンの傾倒に干渉はせず、ヒッツとも親しくなりました。3人は貴重な時間を共に過ごしました。ヒッツとヘレンの話題は様々でした。「死後の世界」や「聖書」について、話し合いました。もっとも語り合ったのは「奉仕」についてです。スウェーデンボルグいわく、天界は「役立ちの王国」だと。

ヘレンは16歳の時にスウェーデンボルグ派を称し彼の著書を生涯読み続けました。スウェーデンボルグの言葉は私の沈黙の中の声、真理を思い出すたびに力と喜びを得る。彼の言葉が私に天界からの真理を届け、私の魂に千の翼を与えてくれた。

やがて、ヘレン・ケラーは芯の強い美しい女性へと成長し、多くの友人に恵まれました。話し方の習得を切望していた彼女はこの不可能に近い難題に挑みます。そして不明瞭な発声ながらも彼女は成功します。

「うまく発声できなくて、大きな失望を味わった。でも、外界と私をつないでくれるこの手段を手放すことはしたくない。」

ヘレンは自身の深い霊的信仰から力を得て数々の落胆や壁に耐えました。彼女は熱心に神を信じていました。その信仰は彼女に希望と慰めを与えました。

彼女は人生に意味を見出そうとしました。障害者は無力だと思っていたからです。

ヘレンはニューヨークのろう学校へ進学後、著述家になるため、大学の学位取得を切望しました。彼女が目指したのは名門ラドクリフ大学。入試に合格したヘレンは1900年にラドクリフ大学に入学。アンが毎日7時間かけ、講義や課題の内容をヘレンの手に綴りました。しかし、ラドクリフでの学校生活はヘレンの顔を曇らせました。どんなに努力しても周りに溶け込めませんでした。

「大学生活は退屈だ。点字本が少ないため、アンに単語を手に綴ってもらう。講義中はノートが取れず、家に帰り覚えていることを点字で書き留める。余計な時間がかかる。記憶の糸を辿り手に綴られた内容を思い出す。

ヘレンは在学中に女性誌に自伝を寄稿します。それは編集者J・メーシーの助力で後に「奇跡の人」として出版されます。

「奇跡の人」は成功を収め、ヘレンは著述業によりアンとの生計を立てようと考えます。アンはヘレンを全面的に支えました。

1904年ヘレン・ケラーはラドクリフを卒業した初の盲ろう女性となりました。その上4か国語を習得し首席で卒業したのです。

「それが正しいことであれば成し遂げられないことはない。そう思うと強くなれる。私の障害が神罰や事故だと思ったことはない。神に感謝します。障害のおかげで魂と仕事、そして神を見つけたのです。」

ヘレンの前向きで善意溢れる性格に多くの人が惹かれました。マークトゥエンもその一人です。人間は目や耳で考えるのではない、考える能力は五感では測れない。彼は私を有能な人間として扱い、口ではなく、心に笑みを浮かべていました。

ヘレンは二度求婚されましたが、残念ながら、障害者に結婚は向かないと言って、家族の反対にあいます。

ヘレンはこの時の苦悩を善への力に転換します。私は夫も子も持てない運命だ。愛される経験ができて幸せだが、この運命に甘んじよう。

神は私に創造への衝動を与えて下さった。心の底から溢れて来るこの衝動を恵まれない人々への奉仕や困難な課題に向けよう。

障害は自立的な思考や社会生活の妨げなのでは?とヘレンは葛藤していました。「私の脳は考える訓練を受けている。それが他の人との違いだ。視力の有無ではない。」

ヘレンは社会運動家となり、社会主義、婦人参政権、人種差別について記事を執筆、様々なキャンペーンも行います。失明予防の啓蒙にはとりわけ熱心でした。

聖書から真理を学び取り、神のゆるぎない力を信じ、それに従って生き、善行を行うこと。これらが、人間が古い殻を破り自身の世界を再構築する方法だ。ヘレンは信仰を拠り所に人生の試練に立ち向かいます。

よき理解者を失った悲しみからヘレンを救ったのは、彼女の宗教的信念でした。彼女はそう固く信じ愛する人の死を乗り越えました。

私は闇の中心部を覗き見たがその抗い難い力には屈しない。私は計り知れない苦悩に耐えて来た。でもスウェーデンボルグは説く。我々には「選択」の機会があると。そして「選択」は「創造」だと。私は人生を選びその対極にある無を拒絶する。人生において乗り越えるべき壁がなければ報われる喜びは得られない。

ヘレン・ケラーの言葉への愛は絶大で、彼女にとっては探求と貢献の術でした。彼女は言葉に励まされ世に多くの名著を残しました。ヘレンは読むことも書くことも好きでした。まだ幼いころに言葉の力に気づき、言葉が彼女を国際舞台に押し上げました。「点字本やタイプライターの存在は障害を忘れさせてくれる。私の魂と心は自由だ」

ヘレンはその文才を生かし自身の信仰を公表します。1927年に「私の宗教」を出版、スウェーデンボルグへの信仰を表した内容でした。

スウェーデンボルグは私の闇に光を照らした。目や耳を閉ざした世界にスウェーデンボルグの思想を紹介できたらこの上ない喜びだ。もし私に宗教がなかったらそれは心のない体を愛するようなものだ。」

「私の宗教」は翻訳され世界中で好評を博しました。しかし、ヘレンはその構成に不満でした。R・シルバーマン博士が構成を編集しなおし1994年に「光の中へ」として再出版されました。

ヘレンの信仰を理解することで、彼女の人生が見えてきます。障害を乗り越える助けとなり献身的な人生を送る手引きとなったのです。

ヘレンはスウェーデンボルグから様々な影響を受けています。霊界では障害から解放されると信じ、後に奉仕活動にも力を入れ始めます。

ヘレンは生涯を通じて7冊の本を出版、詩、政治の論評、論文なども発表しました。驚くべきことに彼女が紡いだ言葉の数々は美しい文体でした。(私たちは忘れてはなりません。ヘレンはいかなる文も聞いたことがありません。彼女の言語は無音なのです。)ヘレンの文体は視覚に訴えるものでした。ニューヨークを訪れた時、こう記しています。

「私が認識できなかったことは山ほどあるだろう。でも想像は世界の果てまで飛んでいける。ハドソン川はきらりと輝く刀身のよう、マンハッタンの島は七色の水面に浮かぶ宝石のようだ。」

 ヘレンの視覚的な表現力に批評家や科学者は当惑するばかりでした。スウェーデンボルグの「対応」(コレスポンデンス)という概念が彼女の想像力の源だとヘレンは語っています。「世界は二つあることを知った。物差しで測ることができる世界と心と直感で感じることができる世界だ。」

自然界と霊界が対応しているというのが、スウェーデンボルグの「対応」という概念です。「対応」の概念が否定されたら私は迷子のコウモリとなるだろう。「対応」はあらゆる現象に通じている。電光石火の閃きは、稲妻やすい星に対応している。真理は私の思考に鮮明さを与えてくれる。その鮮明さの正体を知り目に光が差す感覚を想像できる。それは言葉の集まりではなく、実際的な感覚である。

ヘレンは「対応」の概念からある考えに行き着きます。アンが手に「水」と綴ったのは啓示だったと。スウェーデンボルグによると、水は真理と対応します。幼いヘレンの手に流れた水は彼女にとって真理を表していたのです。その真理が彼女に学ぶ意欲を目覚めさせました。

今日の医師や科学者はヘレンの優れた言語能力や想像力に注目しています。盲聾者の意識が形成される過程を理解し彼らに役立てるためです。ヘレンは自分の内なる力を信じていました。彼女は豊かな想像力によって言語を一次体験に変換していました。想像力が耳と目の代わりとなり盲聾者に様々な世界を見せているのです。

私が興味を惹かれるのはヘレンがどんな世界を見ていたかです。ヘレンが自身の精神生活や思想について綴った著書は彼女の最大の遺産かもしれません。

まだ新しい分野ですが、ヘレンの認知発達を研究することで、認知科学や意識研究に新しい道が開けるでしょう。

ヘレンは生涯執筆をつづけました。しかし、自身とアンを養う十分な収入にはならず、他の収入源を模索しました。二人は全国を回り5年間講演活動を行いました。無声映画への出演も決めましたが興行成績は芳しくありませんでした。1919年戦後のインフレで生活はますます困窮。二人は3年間演芸ショーの巡業に参加しましましたが、友人らは反対、しかしヘレンは旅や冒険での新しい出会いが大好きでした。「人生は恐れを知らぬ冒険か、無のどちらかだ。」

そこではアンが二人の歩みを語りました。「私はヘレンが6歳8か月の時に初めて会いました。彼女は生後9か月以来目と耳と口が不自由でした。ヘレンが話し方を覚えた経緯や苦労も語りました。彼女の手をこのように私の顔に当て口で話すことを示しました。私が話すと彼女は振動を感じました。そして私の手に綴りました。私も自分の口で話したいと。不可能に思えましたが、しばらく試行錯誤を繰り返しました。そして手をこの位置に置くと彼女が言葉の振動を感じられることが分かりました。7回目のレッスンの後、彼女は一語ずつ話せるようになりました。私は・・・もう言葉が・・・不自由ではない!」

生身のヘレンを目の当たりにした人々は彼女の温かく、愉快な人柄を知ります。ある記者は彼女の印象をこう語っています。ヘレン・ケラーほど私を魅了した女性はいない。彼女は沈黙の牢獄に独り閉じ込められている。

なのに、無数の表情が彼女の顔に浮かぶ。誰かがそばを通りかかると顔を上げ笑顔を向ける。足音の振動を感じているのだ。音楽が流れると合わせて拍子を取る。顔にはいつも笑顔がある。・・・W・クレッシー

ヘレンは私生活では瞑想にふけり、社会的には奉仕活動に奔走しました。常に貧しい人や障害者の事を考え世間の認識を広めようとしました。とりわけ人道的活動に熱心でした。

長年の経済的困窮の後1924年自分の役割を見出し米国盲人協会に職を得ます。彼女は使命を持って生まれて来たと信じました。それは世界に幸せを広めることでした。彼女の奉仕の精神のゆえんです。世界の幸せが自分の幸せにつながると知っていました。

ヘレンは44年にわたり米国盲人協会で働きながらスウェーデンボルグの教えを広めます。奉仕の精神は人道の至高だと。この世で極めて大事な愛、それは善意と英知の結集であり、善行を推進する奉仕により愛は表面化するのだと。

ヘレンは視覚障害者に多くの貢献をしました。新しい法律の制定はその一つです。彼女は持ち前のカリスマ性を発揮し、法律の制定を実現しました。1930年当時は4~5種類の点字コードが存在し、それを統一するように働きかけたのです。

そして忘れてはなりません。彼女がいなければ録音図書は実現しませんでした。私を含め大勢の視覚障害者がその恩恵を受けています。

協会の一員となりヘレンの奉仕活動の範囲は今まで以上に広がりました。米国盲人協会と米政府に代わり世界中に招かれました。アンも障害者を助けるという使命を果たせました。二人は障害者に対する無知や偏見を取り除こうと努めました。彼女の訪問国は通算39か国です。

彼女は障害者の社会参加を訴え人々の認識を変えました。日本訪問はヘレンとアンの共通の夢でした。1936年、健康が衰え始めたアンはヘレンに日本訪問を強く勧めました。アンは臨終の際ヘレンに願いを託しました。

「日本を訪れ目の不自由な人々に光をもたらすように」と。

ポリー・トンプソンが通訳を引き継ぎますが、ヘレンはアンの死に心の整理がつきませんでした。そんな折アンの霊が訪ねて来たと言います。

「私は自分の使命を思い出した。天界の先生から励まされたような気がしたのだ。前方と背後に神の存在を感じ、何も恐れる必要はない。」

1937年戦争が迫る中、ヘレンは悲しみをこらえ、使命感を持って訪日、大歓迎を受けました。ヘレンは訪問国の政策や慣行に多くの影響を与えました。その最たる例が日本です。彼女は日本を訪れこう訴えました。障害者の機会の平等を尊重しリハビリや教育の施設を整備すべきだと。

ヘレンは恵まれない人々の代弁者として40年もの間、世界中を旅し続けました。特に力を入れたのはあらゆる障害者の擁護です。「人生の困難や冒険に立ち向かう時、旗を揚げよう。追随者たちのために。」

ヘレンは世界中の人格者から称賛と敬愛を寄せられます。アラバマ出身の目と耳が不自由な少女は成長し歴代の米大統領とも対面しました。1964年ヘレンは米国で文民最高の名誉である自由勲章を受章しました。この偉大な女性の姿を一目見ようと彼女の行く先々で人だかりができました。ヘレンの存在そのものが人類にとって最高の贈り物です。彼女の活力と明るさ、そして神秘的なオーラに多くの人々が驚き、圧倒されました。彼女の存在は多くの涙を誘いました。脈打つ共感により仲間と揺るぎない絆で結ばれました。

舞踏家M・グレアムのダンス・スタジオを訪ねた時、ヘレンは床と空気中の振動から音楽と踊りを感じ取りました。「ヘレンはドラムに触らずともその強い振動を感じている。」グレアムはヘレンを不屈の闘志と呼びました。

バイオリン奏者J・ハイフェッツはヘレンの音楽に対する愛と鑑賞眼に驚きました。

哲学者のJ・ヒューストンは8歳の時にヘレンに会い、人生が変わったと言います。「なぜ、そんなに幸せなの?」と彼が聞くと、彼女は笑いながらこう答えました。「毎日を人生最後の日と思って暮らし、人生は喜びに満ちているから」と。

彼女は残された感覚を使って豊かな感受性を育んだのです。大きな心を持ち、存在そのものが輝いていました。

ヘレンを通じ誰もが生の喜びを感じます。彼女ほど心が美しく、知的で誠実な人は知りません。

恩師ヒッツの手引きによりヘレンは高い共感能力を開花させます。人々が彼女に神秘を感じたのはその共感能力のためです。外界を閉ざしていたからではありません。視覚と聴覚を持つ人が抱く心象を想像しなさいとヒッツ氏は教えてくれた。そうすれば彼らと同調でき外界をもっと享受できるようになる。彼らの人生を知ると同時に彼らにも私の人生を理解してもらうのだ。

ヘレンのいわば神秘性は、彼女の霊的洞察力や宇宙に対する深い理解、そして共感能力に起因しています。彼女は人生のあらゆる場面で神の存在を感じていました。「見えざるものを見せてくれる内的感覚は霊界と結びついている。触覚で得た体験を見極め、浄化のため私の心に提示する。この感覚は私に神を見させてくれる。そして地球とあの世、現在と永遠、神と人間の闇をつないでくれるのだ。」

ヘレンは高い共感能力の持ち主でした。人や鳥、触れたものや感じたリズム、何にでも同調しました。彼女に直覚力があったかは不明ですが、いつも人の心に寄り添おうとしていました。

障害者の立場は想像しにくいものです。ヘレンはどんな逆境にあっても、社会貢献や夢の実現は可能だと証明しました。精神的、社会的、身体的な理由で、誰もが何らかの壁にぶつかります。しかしヘレンは重度の障害をものともしませんでした。私たちはそんな彼女の姿に感銘を受け、自分の壁に立ち向かうのです。ヘレンは光明への導き手でした。唯一無二の偉大な女性です。ヘレンは世界中を感化し続けました。

現代の著名人も影響を受けています。E・ヴァイエンマイヤーもその一人です。2001年5月25日、彼は世界最高峰のエベレスト登頂に成功した史上初の全盲クライマーとなりました。そして34歳の時に世界七大最高峰を制覇しました。達成者が一〇〇人もいない偉業です。

「ヘレンは大事なことを教えてくれました。生まれ持ったものを嘆くのではなく、それを最大限に生かすべきだ」と。

私はヘレンの影響で職業を決めました。彼女は障害にも負けす豊かな才能を開花させました。

一九九五年には聴覚障害を持つ初めてのミス・アメリカが誕生しました。「ヘレン・ケラーは私のローカルモデルです。目と耳が不自由な彼女は私よりも障害を抱えていましたが、多くの功績を残しました。」

彼女は言いました。「問題と対峙しなさい。でも、決してそれに支配されてはならない。その問題から忍耐と思いやりを学ぶのです。自分や他の人の人生にどんな奇跡を引き起こすか分からない」と。

私はたった一人の人間だ、それでも一人の人間である。全てはできないが、何かはできる。出来ることをできないとは言わない。

ヘレンのこの格言から優劣で人生を考えるのをやめました。誰もが長所と短所を持っているのです。持っていないものを気にしていても仕方がありません。あるものでベストを尽くすのみです。それが人生を一変させ世界を動かすことさえあります。

彼は奉仕活動も行っています。世界中を旅しながら「国境なき点字」活動を広め視覚障害児に登山やリーダーシップを教えています。

「ヘレンは重要な遺産を残してくれました。彼女の不屈の精神は私たちを鼓舞し国際社会が抱える様々な問題の解決に向かわせます。世界の課題は山積みで、誰もが暗中模索の心境でしょう。しかし我々は今こそ立ち上がらねばなりません。ヘレンのような先駆者となり周りを勇気づけるのです。

晩年ヘレン・ケラーは牧師のC・ブリーストナルと親交を深めます。彼はスウェーデンボルグ派の牧師でした。

彼女が聖餐式を受けた時に実際に使用された道具一式です。死期を感じたヘレンは、その信仰により死を正面から受け入れました。

「死を恐れる理由が分からない。この世の生は死より残酷だ。生は別離や離反を生むが、死は永遠の生であり、再会と和解を生む。スウェーデンボルグが死の恐怖を取り除いてくれる。私は信じている。内なる目が来世で開かれた時、意識だけを持って自分の心の国で生きるのだと

ヘレンは何度か脳卒中を起こし、1968年に88歳で他界。彼女はブリーストナル牧師に葬儀を依頼していました。しかし、親族の意向によりワシントン大聖堂で行われます。式は主任司祭が執り行いました。ヘレンの亡骸はアンとポリーと共に聖堂に安置されています。ヘレンの輝ける偉大な魂は世界中の人々の心に刻まれています。

マーク・トウェインは予言しました。彼女は1000年後も変わらず有名であり続けるだろう。と

彼女は完全な人間であり、偉大な人道主義者、著述家、社会運動家でもありました。

「信仰は壊れた世界を光の中へと導いてくれる」彼女の深い信仰が人々の心を動かしました。ヘレン・ケラーの人生と功績は、代々語り継がれていくでしょう。

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