良い本を電子化して残そう

管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

衣装哲学への道しるべ

2008年10月03日 08時11分03秒 | 衣装哲学(サーター・リザータス)

<衣服哲学の原点>
 ある時、銭湯でくつろいでいるおじさんにこう言った。
 「お風呂に入っている時が、一番解放されますね。」
 ・・「今は、ちょっと注意したぐらいで、殺されてしまう時代だからね、恐ろしいよ。」
 「銭湯ではみんな裸で、偉い人も、そうでない人も、同じだということを、子供のころから教えられるんですね。」
 ・・「それが、このごろ、銭湯に来る人がめっきり少なくなってね・・・・」

 あなたは銭湯に行ったことがありますか?そこでは私たちはみんな裸になります。そして自然に「人間は誰でも本来裸だ」ということを教えられます。
 実はこれが「衣服哲学」というイギリスの偉大な思想家、トーマス・カーライルの主張なのです。
 では、衣服は究極的にどういう意味を持っているのでしょうか?
 カーライルは、時間も空間も人間が身に着けた衣裳:感覚の一つに過ぎないと述べています。また、聖書の中でヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう!」と叫んでいます。
  
 現代生活に追われている忙しいあなた、ちょっと立ち止まって考えてみませんか?

 原文と対照しながら、カーライルの「衣服哲学」を訳出してみました。
なお、全文はアウェア出版社からインターネット出版されていますので下記アドレスをご参照下さい。
  ご連絡ください。
http://www.aware-publishing.com/interview-20090112.html

 * 参考文献
・「衣服哲学」  トーマス・カーライル 著  谷崎隆昭 訳    山口書店
・「サータア・リザータス」トーマス・カーライル著 柳田 泉 訳   春秋社
・ Sartor Resartus by Thomas Carlyle               Mark Zimmerman
・新渡戸稲造全集 第9巻  新渡戸稲造全集編集委員会       教文館
・武士道解題        李 登輝                小学館
・Thomas Carlye The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition. 2001-05.
・The Christian Witness of SADHU SUNDAR SINGH  A Collction of His Writings Edited byT.Dayanandan Francis

<私訳に至る経緯>
 「サーター・リザータス」とか、「衣装哲学」とか言われる本の名前は良く耳にしていたし、人生において読むべき本のひとつとして、常に古本屋などを、漁っては探していた。しかし、インターネット検索してみても、絶版になっており、本そのものを手に入れることはできなかった。
 そんな時、台湾の李登輝前総統が書かれた「武士道解題」の中に、このトーマス・カーライルの「衣服哲学」を日本で学び、それが当時の指導的な日本人の一般教養書のひとつであったことが示唆されていた。
 それがきっかけで、図書館を通じて県内のあるところから、谷崎隆昭先生訳の「衣服哲学」を取り寄せて、貪るように読み始めたのが二〇〇五年の初めごろだったと思う。
 読んでみて、ところどころ衝撃を受けるフレーズも多かったが、確かにその内容は難解と感じた。そこで、原文はどうなっているのだろうと、アメリカのホームページを<Sartor Resartus>で検索してみると、何と、いくつかのホームページで、原文がそのまま紹介されているではないか。しかも、英文学の専門家でもない私にも、原文と対照しながら訳文を読んで行くと、カーライルの言わんとしたことがはっきりと伝わって来るのだ。
 さらに、谷崎先生訳のあとがきに、私の尊敬する新渡戸稲造先生が、この本を何と三十四回も読み返し、亡くなった御子息には遠益(トーマス)とまで、名付けておられたことを知った。
 それで、私は何としてでも、この本を現代の心有る人たちに、紹介したいと願い始めたのである。
 この本を読み進むうち、徐々に分かったことだが、私は現代科学にすっかり洗脳されてしまっていて、<時間>とか<空間>を絶対的なものと思い込んでいたのだ。そして、その反動で人間の存在の価値が限りなくゼロに近いという虚無感に苛まれていたのだった。しかし、カーライルが発見したように、そうではなかったのだ。少なくとも、そうではない価値観があるということをこの本は教えてくれたのである。
 とりあえず、期限付きで借りている谷崎先生訳の本をスキャナーでパソコンに取り込み、次にそれを英語の原文とワープロ上で対照させるという作業を始めた。すると、電子版では何と便利なことができることだろう!マウスを移動させるだけで、脚注を参照したり、原文を即座にコメントとして読むことができるのだ。
 勿論、愛読書として書き込みを入れたり、傍線を引いたりするには、実際にその本を手にすることが欠かせないかも知れない。しかし、この本が今や絶版状態になってしまい、古本屋でも最早入手不可能となれば、現にアメリカでなされているような電子出版があってもいいのではないか。それに電子版には上に述べたような、便利な面もある。
私は私訳を作って発表することにした。それから毎早朝、拙いながらも翻訳を始めると、不思議なことにそれは、私の魂を覚醒させ、自分で言うのもおかしいが、言葉が内側から沸きあがって来るようだった。
 サーター・リザータスとは「仕立て直し」とか言う意味だが、先人の格調高い邦訳に比べ、実に拙いとは言え、 昔に比べて英語により親しんでいる現代人に、より分かりやすく(仕立て直す)なるように努力したつもりである。
 大事なことは、この「衣服哲学」を通して、その一言一句からでも、読者の目が開かれることであり、そのことを何よりもカーライル自身が、そしてカーライルに霊感を与えた方(神)が願っていることであろう。
 まさに、耳のある者は、この「衣服哲学」の福音の声を聞くがよいである。

<翻訳に当たって留意したこと>
 現代の日本語には外来語が溢れているばかりでなく、かなりの程度で英語に親しんでいる人が多いことはあきらかです。そこで、こういう哲学的文章においては、より直訳的に翻訳することで理解しやすくなるのではと思われます。したがって、文学的文章とは異なり、主語の次にはなるべく、早めに述語を持って来るようにしました。また、その他の語句も原文で述べられている順番が、著者の思考過程であるとの前提の上で、不自然にならない程度に配置を変えてあります。

<第二巻を訳し終えて>
 二〇〇六年五月七日、第二巻を訳し終えた。トイフェルスドレックの生い立ちから始まるそれはますます、私の魂を高揚せしめ、永遠の否定から永遠の肯定に至って、ほんとうの人生を発見する行程をまざまざと見せつけられた。
 まさに、人生の挫折を通して永遠の否定を経験しない人間は、生かされていることを自覚しない動物となんら変わらない。動物が本能のままに生きる時、自然の摂理がバランスを保ち、自然界を制御している。人類はそのバランスさえ技術の力で制御できると思い込んでいるが、現代社会はどうすることもできないほど、末期的な症状を呈し、政治も宗教も何の力も発揮できていないのが現状ではないだろうか?
 さて、この巻の結論は、九章にもあるように、「汝の最も近くにある、汝の義務を果たせ」と言うことであろう。時間的にも空間的に限られたひとりひとりの人間が、真に生きると言うことの意味がここにあると私は思う。
 あなたにとって、今、なすべきことは何か?

<第三巻を訳しつつ思うこと>
 校正は不十分だが、第三巻の十一章までを訳し終えた。「衣服哲学」の結論に近づきつつあると信じている。しかしあまりにも難解なカーライルの思想に私はついて行けるのだろうか?すなわち人間の衣裳として、神が創られた最も根源的なものは、時間と空間だと彼は結論づけている。そしてさらに、それらを越えた次元に神を認めることが出来るのが人間であるとも、彼は言っている。
 アインシュタインは時間と空間を一体のものとみなし、また、物質は目に見えないエネルギーに還元できると科学的に結論づけている。
 しかし、そのような結論も、第三巻の八章にあるように、大海を知らない、小川に生息するハヤという魚が認識しているように、限られた小さな結論であり、更に大いなる経綸が、神の世界にはあると、彼は言うのだろうか?
 ここに、西洋における哲学の限界があるのではないだろうか?
 アインシュタインがインドの詩人;タゴールとの対話の中で、「では、月は我々が見上げるから存在しているのだろうか?」と疑問を呈しているところがある。読者はどう思われるだろうか?
 この翻訳作業と並行して、インドの聖者スンダル・シングの「主の膝下において」を私訳して来た。これは別項に紹介しているが、多くの喩え話を用いて、東洋的、直感的に真理を説いている。人間の思索によらず、主の膝下にぬかずき、より大いなる者(神)に聞くことによって開かれる世界がさらにあるのではないだろうか?
 しかし、私にとって「衣服哲学」は哲学書ではなく、あくまで宗教書である。そして、現代人に対する「福音書」である。それならば、本当の意味でそれを体現したナザレのイエス・キリストの膝下に我々が謙虚な心でぬかずき、また聞いたことを生きようとしなければ、開眼されない世界があるのではないだろうか?・・・

<第三巻を訳し終えて>
 現在、柳田泉先生訳のものと照合しながら、校正しつつあるが、一応第三巻を訳し終えた。ここに、カーライルに衣服哲学を通して、何が開かれたかが書かれてあるはずだが、果たして彼は最終的な結論に達したのだろうか?
 一般的には第二巻の永遠の否定から永遠の肯定に至るトイフェルスドレックの告白がクライマックスとして受け止められている。私の知る限りでは、どの訳本にも三巻からこの衣服哲学の結論を引き出しているものはない。
 カーライルは、人間にまつわりついている究極的なものとして、時間と空間を挙げている。そして、それらから開放されるところに、衣服哲学の目標があるわけだが、例として、クェーカー派の祖、ジョージフォックスが、この世的な栄達を捨てて、永遠の世界の求道者たらんとして、自分に皮で作った衣服を作り、森に入り、瞑想によって、魂が天に到達せんことを願ったと言うことを揚げている。しかし、それはやがて擦り切れてしまった。そしてすべての人が彼のように、衣服を投げ捨てて、隠者のように生きることは不可能である。
 では、時や空間から独立して生きる生き方はどんな生き方なのだろうか。彼はここで、しゃれ者とそれに対照して貧乏奴隷を揚げている。しゃれ者とは言うまでもなく、衣服によってこの世界に生きている人々のことである。また貧乏奴隷とは、そのようなものを捨てて、簡素な生活に甘んじている人たちのことである。
 これからの世界はそのどちらが覇者となって行くのであろうか?その相克の中に歴史は綴られるのであろうか?
 しかし、ヒトラーやムッソリーニなどの超人的指導者の出現が、カーライルの英雄崇拝論に影響されたとする見方は皮相ではないだろうか?確かに現代は、民主主義の時代であり、平凡な民衆とそれに少し秀でた人たちが世の中を導くに十分だと考えている人たちもいないではない。だがそのような人たちは、人間存在の根本的な疑問や、矛盾を解消せしめる回答を持っているわけではない。そして、現代人の魂は過去のどの時代にもまして渇いていることは間違いない。凡人にはその答えを人々に示すことはできない。
 プラトンは「哲学とは死の予行演習である」と言った。人間だけが死を予感し、死について考える動物である。カーライルはここで、死は物質的な人間の肉体の崩壊ではあっても、人間を人間たらしめている魂の消失ではなく、魂は神の前に永遠に存在すると主張している。
 しかして、神とは何か、魂とは何かと言う問題になって来ると、これは宗教の問題であり、信仰の問題である。しかも信仰と言っても、理性的なロゴスの世界でなく、直観と全一的な生き方の問題である。そしてアダムが楽園において知恵の実を食べたことから、人間の堕落が始まったように、限られた存在に過ぎない人間と、その頭脳からは、最終的な結論は決して引き出せないであろう。
 愛する友よ、ここで、思索することを休もうではないか。少数ではあるが、世々の賢人たちは少なからず、これらの真理を直観し、その置かれた境涯において、それぞれの人生を全うしたのである。
 トイフェルスドレックは再びやって来る。まるでキリストの再臨のように、とカーライルは予告している。
 衣服哲学は常に時代とともに、新しく認識され、人間存在の根本を問う書として存続するであろう。
 ・・・・・・・・・・・・・・
 まことに申し訳ないのであるが、ここまで書いて来て、私自身も衣服哲学の結論に到達できないどころか、いよいよ判らなくなって来つつある。
 日本という文明社会を離れて、南米パラグアイのしかも片田舎であるイグアスというところに、住み始めた。日々ドラマチックな人生を送らされている。そのドラマは世界史という神のドラマの超・極微小な一環であり、地球が今後どのようになって行くかに関わっていると思う。私もトイフェルスドレックのように、壮大なドラマを見つつ、「始まったな!」と感嘆し、その意外な展開を眺めつつ、この世を去ることになるだろう。
 しかし、はっきりしていることは、真実はやがて明らかになり、目覚める者たちが立ち上がり、世界は聖意のままに完成するだろうと言うことだ。そのことに希望を置き、私も筆を置くことにする。
 二○○七年十月二十二日(月) 

<トーマス・カーライルについて>
 トーマス・カーライル(1795-1881)は、石工ジェームズ・カーライルの子として、スコットランドに生まれた。父のジェームズは、腕が確かで、剛毅な、しかも喧嘩好きな人物だった。しかも信心深く、読書の嗜みもあり、機知も備えていたようだ。
 カーライルの「奔放な流れるような文章」や「主としてユーモラスな効果を得るために」誇張された「箙のような言葉」などはそれを源流としていると思われる。
 彼は牧師となるため、エジンバラ大学に学んだが、そのあまりの懐疑の深さからか、教会信仰を捨てざるを得なかった。そしてその後、しばらく数学の教師をしたこともあり、一時は法律を勉強して弁護士になろうとしたこともある。そのためにドイツ語を学んだが、それがドイツ文学に彼の眼を開くきっかけとなったのである。
 殊に、ゲーテや当時の超越論的な哲学に深く影響され、二十三歳の時、遂に自分の天職は著作活動にあることを悟るに至った。
 三一歳になって、彼はジェーン・ペェリ・ウェリッシュと結婚し、その後、クレインプトックにある彼女の小さな所有地に引きこもって、読書と思索と著述の六年間を過ごしたのである。彼の妻は機知に富んだ教養ある婦人で、熱心に彼を励まし、その仕事をあと押しした。
 その後ロンドンに出てきたが、著作上の必要から、一度ならずフランスやドイツを訪問したほかは、生涯をそこで過ごした。
 三五歳の時に本書「サーター・リザータス」をフレーザー誌に発表した。四二歳の時には「フランス大革命史」、六三歳の時には、実に七年間かけて「フレデリック大王伝」が公刊されたのである。
 また彼が四五歳の時に講演した「英雄、および英雄崇拝」は、後に出版され、カーライルの代表作の一つとなったことはよく知られている。
 彼の哲学は、冷静な哲学者の秩序整然たる著作ではなく、苦悶、懊悩を極めた魂から絞り出された絶叫の連続というものに近い。
 彼は、神こそが力と正義の根源であって人間を支配していると信じていたし、理性よりも、神秘的な啓示に真理の光を求めた。彼にとっては、精神と意思が知力よりも遥かに重大なものであったのである。
 彼はまた、過去を不滅のものとし、「真の過去は去りはしない、過去における価値あるものは一つとして去りはしない、人間の実現させたいかなる真理、いかなる善も未だかつて死にはせぬ、否死ぬことが出来ない」と述べている。
 このため、彼は、偉人の影響というものに注目した。英雄巨人達の世界に対する支配は霊的支配であり、つまり人格化された力 (FORTH) であった。
 更に、彼には一種不可思議な先見の力があった。彼の眼光は詩人のそれに等しく、科学者の散文的なそれよりも遥かに深かった。それゆえに、彼は当時の功利主義に対して徹底的に挑戦したのである。
 歴史家としてのカーライルには、過去を読むにあくまでも現在の光をもってし、その強烈な想像と、絶大な描写力とは、自身で親しくその危機を踏んで来た人に見るような激情と熱をこめて、彼をしてあたかも、その伝道者のようであった。
 実際、その心理的洞察が一つの啓示として彼に真理を示している場合が少なくない。彼は自分の感情を抑えることなく、代弁者らしい熱烈な口調で歴史的事実を描写するのである。
 彼の最大の功績は、過去の人物に対して驚くべき、強い現実性を与えて、彼らの挙動をあたかも眼前に見るように生き生きと表現していることである。
 フランス大革命の歴史を彼より公正、賢明に書いた人はあろう、しかし、その憤怒、勇ましさ、果敢さ、厭わしさを描いた点でカーライル以上に出た人は一人もない。
 これは偉大な文体であり、時に雄弁に高潮し、他人のいくつもの文章よりも遥かに啓示の力に富むほんの少しの章句を生み出す。そして、それが歴史的に正しいにせよ、正しくないにせよ、どれも忘れがたい印象を残すのである。  
 その上、彼の暴風のような激烈な精神がその歴史的著作に一種の叙事詩のごとき振動を与え、いつまでも動いているように見え、いかにも現実らしい渦紋と味わいを持って描かれているのを我々は見る。
 カーライルは歴史家としては孤立不群である。彼を模倣することは出来ず、追随することも許されない。疑いもなく、彼の魂は、古来歴史にゆだねられた最も偉大なものの一つであった。
「サータア・リザータス」/ 柳田泉訳の中のカーライルの紹介文より抜粋。その他に、The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition. 2001-05.より、補った。

補足:カーライルについて更に有名なののは内村鑑三が「後世への最大遺物」の中で数十年を費やして著した「フランス大革命史」の原稿を女中の不注意から一瞬にして焼かれてしまった時、再び筆を取って書き直したということである。どんなに我々がやりそこなっても、不運な目に遭っても、その時に力を回復して、その事業を諦めてはいけない、勇気を奮い起こして再びそれに取り掛からなければならないということを彼は行動によって示したのである。このことによって彼は後世に非常な遺物を残してくれたのであると、内村鑑三はカーライルを絶賛している。
参照:「後世への最大遺物」/内村鑑三