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代表的日本人-二宮尊徳-内村鑑三 私訳(1)

2009年08月31日 21時28分20秒 | 代表的日本人/内村鑑三
 内村鑑三著「代表的日本人」の中の「二宮尊徳」を英語原文から私訳しました。
 文章はあくまでも当時の先進国の人たちに、日本と日本人を紹介するために書かれたものです。ですから、日本語に訳しなおしたとは言え、違った感覚でこの文章を読む必要があると思います。いや、私たちの世代は、内村先生の時代とは遠くかけ離れてしまっており、今の日本に生きる者として、あらためて先生が何を訴えようとしていたかを受け取る必要があるのではないかと思います。
 さらに二宮尊徳という一個の偉人がもたらしたもの、それは荒廃しつつある現代社会にどうあったらほんとうの繁栄を再び来たらせることができるか、私たちが立ち帰らなければならない原点を指し示しているのではないでしょうか。
 先に紹介しました「日蓮」と同じように、ワードを使った英語原文との比較対照ができるものを用意しています。ご希望の方は管理人までお申し込み下さい。
 2009年8月31日 文責 大山国男(oyamakuniopy@gmail.com)

静岡県掛川市の二宮金次郎像

二宮尊徳-農夫の聖者-
<一、十九世紀はじめの日本における農業>
 「農業は国家の基盤である」
 我が国のような国においてはほんらいそうであるが、海上交通や商工業が発達しているにもかかわらず、人々の主な(生活の)支えはその土地から来ている。
 自然の肥沃さと、限られた土地だけでは莫大な人口を支えることはできない。つまり四千四百万人という人口を、たったの十五万平方メートルという耕作可能な、国土のわずか二割の土地だけで支えることはできないのである。
 またこれらの土地はその最大限を生産するようにされなければならない。そして人間の才能と勤勉がぎりぎりのところまでその目的のために用いられなければならない。
 この点で日本の農業は世界において最も注目に値するたぐいのものだと我々は考える。
 ひとつひとつの土の塊が思いやりのある取り扱いを受け、そして地から生えるひとつひとつの小さな植物に、ほとんど親の愛に近い配慮と注意が施されるのである。
 我々に不足していた科学的知識を、猛烈に働くことによって補い、結果として、我々は今や千三百万エーカーの耕された土地を所有している。そして、それは市場に(農作物を出荷する)ための農園として、あらゆる精巧さと完璧な設備を備えているのである。
 このような高いレベルの農業は、ひとえに人々の側に並々ならない勤勉さがあってこそ可能である。
 ほんの僅かの怠慢も、それは全く魅力を失ってしまうほどの荒廃を招かざるを得ない。
 (すなわち)かつて耕作された土地が放棄されることほど、我々を落胆させるものはないのである。
 もし原始林のたくましい成長力がなければ、放棄された耕地が荒れ果てていくのを防ぐことはお先真っ暗な絶望となるであろう。
 と言うのも誰も踏み込んだことのない土地の開墾を進んでやろうとする者が十人いたとして、見捨てられた土地の復興に身を奉げようとする者はただの一人もいないからである。
 実際、新大陸と呼ばれる南北アメリカが世界三十ヶ国の国民を招きつつある時に、古代文明発祥の地、バビロンはフクロウとさそりのすみかとなって残っているのである。

 十九世紀の初め、日本農業は非常に嘆かわしい状態にあった。
 二百年もの長い間続いた平和は、あらゆる階級の人々の間に贅沢と浪費とをもたらした。
 多くの地方でその土地からの収入が三分の二に落ち込んでしまった。
 アザミや茨がかつて生産力のあった田畑に入り込んで来た。そして耕作のためにわずかに残った土地は、その田畑に課せられたすべての税金を賄わなければならなかったのである。
 村また村は徹底的に荒れ廃れてしまった。
 正直に働くことはいよいよ重荷になり、人々は不正直な生き方をするようになった。
 すなわち、彼らはこれまではやさしい大地から気前のいい贈り物を見つけようとして来たのに、それをやめてしまった。そして互いにいかさまをしたり、騙し合うことによって、その哀れな生活を支えるのに必要なわずかなものを得ようと探し求めたのである。
 彼らの禍の原因のすべては、道徳的なものであった。そして「自然」は、その卑しい子供たちに報いることを拒み、あらゆる悲惨な出来事をその土地に降りかからせたのである。
 この時、その精神が「自然」の法則と固く結ばれた一人の人が誕生したのである。


二宮尊徳生家 小田原市二宮尊徳記念館

<二、少年時代>
 尊徳(徳を尊ぶ)と敬称された二宮金次郎(金治郎)は天明七年(一七八七年)に生れた。
 彼の父親は相模の国のある小さな名も知れない村の、非常に貧しい農民だった。 
 しかし隣人の間では慈悲深い心の広い人として知られていた。
 十六歳のとき、尊徳は二人の小さな弟とともに(両親が亡くなって)孤児となった。そして親族会議はこの貧しい家族の解散を決議し、長子である彼は父方の叔父の一人に引き取られることになった。
 そこでは少年は、できるだけ叔父のお荷物にならないように一生懸命努力した。
 彼は自分が一人前の仕事をすることができないことを嘆き、その未熟さのために日中に仕上げることのできなかったところを補うために、夜も非常に遅くまでいつも働きつづけた。
 そうした中で彼に、<自分は読み書きのできない、古人の教えについて「あきめくら」の大人にはなりたくない>という思いが芽生えて来た。
 それで彼は孔子の「大学」を手に入れ、深夜その日の仕事が全部終わった後、古典研究に専念するようになった。
 しかしたちまち叔父は彼がそのように勉学にいそしんでいるのを発見し、激しく彼を叱りつけた。なぜなら、それは叔父にとって何の得にもならない上に、少年自身にとっても何の実用にもならないことであり、そのために貴重な油を浪費していたからである。
 尊徳は叔父の怒りをもっともなことだと考えた。そして自分の油を灯すことのできるまでは勉強を続けることをあきらめることにした。
 その次の春、彼は川の堤防の上の持ち主のないわずかな土地を開墾して、そこに菜種の種をまいた。そして彼の休日のすべてをこの彼自身の作物の栽培に捧げた。
 一年の終わりに、彼はそこから大俵一俵の菜種の種子を得た。それは彼自身の手によって育てられたものであり、正直な労働の褒美として「自然」から直接彼に与えられたものだった。
 彼はその種子を近所の製油所に持って行き、数ガロンの油と取り替えてもらった。そして彼は今度こそ叔父の倉から取り出さなくても自分の勉強を再開することができると思い、その喜びは言いようがないほどであった。
 意気揚々と、彼は夜の勉学に立ち戻った。その時には、心のうちではその忍耐と勤勉とに対し、叔父からの褒め言葉を多少は期待していないではなかった。
 しかしそれは間違っていた。叔父は、彼を養っているからには彼の時間もまた叔父のもので、家の者たち誰にも読書というような何の儲けにもならないことをさせて置くわけにはいかない、と言ったのである。
 尊徳は再び、叔父の言うことはもっともだと考えた。そしてそれからはその命令に従い、一日の激しい畑仕事の済んだ後には、ムシロ織りやぞうり作りに精を出した。
 その時以来彼の勉強は、叔父の家で使う乾草やたきぎを取りに毎日山に行かされる往復の道すがらになされることとなったのである。
 だが、彼の休日は彼のものだった。そして彼はそれを娯楽のために浪費する人ではなかった。
 菜種を育てた時の彼の試みは、一所懸命働くことの価値を彼に教えてくれた。それで彼はその試みを、もっと大きな規模で、もう一度やってみたいと願った。
 彼は村の中に、近頃の洪水で沼地になってしまった場所を見つけた。そこには彼が休日を有益な目的のために用いることのできる素晴らしい機会があったのである。
 彼は沼を干拓し、その底を平らにし、きちんとした小さな水田となるように整えた。
 そしてそこへ少しばかりの苗を植えた。それは農民たちが捨てた余りの苗を拾ったものである。そして一夏の間、彼は用心深い世話をその上に注いだ。
 秋にはその水田は一俵(二ブッシェル)の黄金の実りをもたらした。我々は孤児である少年のその時の喜びをありありと想像することができる。彼は人生で初めてそのつつましい努力に対する報賞として、生活の糧を与えられたのである。
 そして彼がその秋に収穫したその穀物は、その波乱万丈の生涯を開始した資金源となったのである。
 真の「自主独立の人」こそ、彼であった。
 彼は、「自然」は正直な勤労の子に対して忠実だということを学んだ。そしてすべて彼の後年のさまざまな改革は、「自然」はその法則に従う者に豊かに報いるという、この単純な原理に基づいたのである。
 数年後、彼は叔父の家を去った。そして長い間住む人のなかった父親の貧しい家へ帰って行った。彼が村で発見し改良を加えた、あの僅かの捨てられていた土地から、彼自らが収穫したほんの少しの穀物と共にである。
 彼の忍耐と、信仰と勤勉をもってしては、何ものも混沌と荒廃とを秩序と肥沃とに変えようとする彼の試みの前に立ちはだかるものはなかった。
 丘陵の傾斜地、河岸の空地、路傍、湿地、すべてが彼に富と財産とを加えた。そして多くの年を経ずして、彼は少なからぬ資産を所有する人となり、その模範的な節約と勤勉とのお陰で、近隣全体の尊敬するところとなった。
 彼はすべてのことを自分自身のために克服した。そして彼は他の人々が自分たち自身のために、同じように(すべてのことを)克服することを助けるにやぶさかではなかった。

行灯の光で勉学に励む尊徳 小田原市二宮尊徳記念館
 
<三、彼の能力を試験する>
 彼の名声は日々に増し加わり、その真価は小田原候の認めるところとなった。小田原候は彼の領主であり、そして当時徳川将軍の老中として幕府の中で並ぶ者のない勢いを揮っていた。
 このような価値ある家来を片田舎に埋もれさせて置くべきではなかった。しかし、当時の階級差別が極めて強かった時代においては、一介の農民を社会的影響力のあるいかなる地位に登用することも、ただ次のような場合にのみ可能だったのである。すなわち彼が間違いなく並外れた能力を持っていて、社会の建前を崩すそのような抜擢に対して必ずかもしだされるであろう世俗的物議を沈黙させるに十分だということを示すことであった。
 この目的のために選ばれた仕事は、確かに尊徳のような不屈の忍耐を有する者でなければ、誰しも失望せざるを得ないものだった。
 すなわち、小田原侯の領地のうち、下野国に物井、横田、東沼の三つの村があったが、これらの村は数世代にわたる怠慢によって、恐ろしい荒廃に陥っていたのであった。
 三つの村はかつて戸籍数四五〇を数え、年貢米一万俵(二万ブッシェル)を領主に納めていた。
 しかし今では荒れ果てた「自然」が彼らの田畑に侵入し、<狸と狐とはその棲み処を人々と共にする>までになって、人口は以前の三分の一を数えるに過ぎず、貧困に陥った農民から取り立てることができるのは高々二千俵にすぎなかった。
 そして貧困と共に道徳的退廃が進んだ。かつて繁栄した村々は今では博打打ちたちの巣窟となった。
 その復興は何度か試みられたが、村民たち自身が泥棒や怠け者であることが明らかになっては、金銭も権威も何の効果もなかった。
 より血気にはやる領主であれば、この全人口に断乎立ち退きを命じ、もっと道徳的な新しい労働力を輸入して、怠惰な住民によって荒れ果てたまま残されていた田畑を再生し始めていたかも知れない。
 しかしこれらの村々は、役立たずとはいえ、ちょうど小田原侯の考えていた意図に役立ったのである。
 すなわち、これらの村々をもとの裕福と繁栄へと回復させることのできた人は、国の中のすべての荒れ果てた村(それは非常に多くあったが)の回復を委ねられるであろう。そして彼以前のすべての人が失敗したところで成功した人は、それらの村の正当な指導者として人々の前に立たせられるであろう。そして特権階級からの不満を買う恐れなしに、相応な権威を着せられるであろう。
 これがその時、尊徳が主君に引き受けることを説得された仕事であった。
 この農夫は、自分が卑しい生まれであり、そのような非常に公的な性質の仕事にはまったく無能であることを理由に、その名誉を辞退した。-彼は一介の貧しい土を耕す者に過ぎない。彼が一生の間に成就しようと願っていたことは、彼自身の家を再興することだった。しかもそれは自分の才能によってではなく、先祖から受け継いだ財産によってであった。
 三年の長い年月の間、藩侯はその家来に自分の要求を主張してやまなかった。が、その家来は自分自身の茅葺屋根の下で平和な家庭生活を営みたいという態度をかたくなに保ちつづけた。
 しかしながら、彼の尊敬する主君の執拗さにこれ以上抵抗することができなくなった時、尊徳は復興すべき村々の状態を慎重に調査する許可を請うた。
 彼はそこまでの百三十里の道のりを歩いて出かけて行き、数ヶ月間人々の間に留まり、家から家へ彼らを訪問し、注意深くその暮らし方を観察した。また土の質、荒地の範囲、排水、灌漑するためにできることなどについて綿密な研究を行なった。そして、その荒廃した地域の復興はどうすれば可能かについて、彼の完全な見積もりを作るため、あらゆる資料を収集した。
 彼の小田原侯への報告は、はなはだ悲観的なものだった。しかし事態はまったく諦めてしまうべきものではなかった。
 彼はその報告書において言った。「<愛の業>のみが、これらの貧しい人々に平安と豊かさを回復することができる」。
 「金銭を与えるとか、あるいは税金を免除するとかは、彼らの困窮を助ける方法ではない。
 実際のところ、彼らの救済の秘訣のひとつはまったく金銭的な援助を取りやめることにある。
 そのような援助はただ貪欲と怠惰を生じさせ、人々の間に不和を引き起こす源である。
 荒野はそれ自身の資源を以って開拓されなければならない。そして貧困はそれ自体で救済しなければならない。
 我が主君はその疲弊した土地から合理的に期待できる収入でもって満足し、それ以上を期待してはいけない。
 荒れ田一反(反とは約四分の一エーカー)から二俵の米を産出する時、一俵は人々の生計の糧とし、他の一俵は残っている荒野を開拓するための基金とすべきである。
 このようにしてのみ、この我らが実り豊かな「日本」は神代の昔に耕作地として開かれたのである。
 すべてはその時荒野だった。そして外からの何らの援助なしに、彼ら自身の努力により、その土地自体の資源でもって、今日我々が見るような田畑、果樹園、道路、そして町々を作ったのである。
 愛、勤勉、自助努力、-これらの美徳の厳格な励行の中に、これらの村々の希望があるのである。そしてこの日から十年後、我々がまったき真心をもってこの事業に忍耐強く対処するならば、我々はそれらを元の繁栄に返すであろうことを、私はなんら疑わない」と。
 大胆で道理にかなった、費用のかからない計画であることか!誰がこのような計画に同意しない者があるだろうか?
 道徳の力を経済問題の諸改革に於ける主要な要素とするこのような農村復興計画は、これまでほとんど提案されたことはなかった。
 それは「信仰」の経済における応用だった。
 彼には清教徒的血が通っていた。あるいはむしろ、この人は西洋直輸入の「最大幸福哲学」に汚されていなかった純粋の日本人だった。
 彼はまた、彼の言葉を信ずる人々を見出した。彼の良き主君はまずその最初の人だった。
 百年内外のうちに、西洋の「文明」は如何に我々を変化せしめたことであろうか!
 その提案は採用された。そして我らが農夫の道徳家は、十年間、これら村々の実質上の長官となることとなった。
 だが、先祖代々の嗣業を復興しようとの仕事を半ばにして放棄してしまうことはとても悲しかった。
 彼のような熱誠の人にとっては、どんな仕事に対しても全身全霊を捧げてのものでなければ罪と感ぜられた。そして今や彼は公の仕事を引き受けようとする以上、その個人的な利害はまったく無視されるべきであった。
 「万家を救おうとする者は、自分の家を犠牲にすることによってのみ、それができる」と、彼は自身に向かって言った。
 彼は妻に、自分たちの長年の願いを犠牲にすることの同意を得て、その決心をことごとく「先祖の墓前に語り」告げ、家をたたみ、そして<別の世界に赴く人のように>「彼の背後にあるすべての船を焼き払って」、生まれ故郷を去り、藩主と人々に大胆に保証した仕事へと入って行ったのである。
 彼の荒野との戦い、そして人々の心の荒野との戦いについての詳細は、今のところ我々は関わらないでおくことにする。
 術策と政略とは彼にはまったく無縁だった。
 彼の簡単な信仰はこれだった。すなわち「一個の魂の誠は、天地を動かすのに十分強力である」。
 彼は自身に対してはすべての悦楽を否定し、綿で織ったものの外は着ず、(彼が訪ねて行った)家々で決して食事をせず、一日わずか二時間しか眠らず、部下の誰よりも先に畑に行き、すべてが立ち去るまでそこに留まり、そうして彼自身がその貧しい村々に臨んだ、もっとも辛い運命に耐えた。
 彼は、自分自身を裁くと同じ基準で部下を裁いた。すなわち動機が心からのものであるということである。
 彼にとっては、最良の労働者は最も多くの仕事をする者ではなく、最も崇高な動機から働く者である。
 ある男が、最も良く働く労働者としてとか、三人前の仕事をした人とか、最も感じの良い男としてとかなどで、彼に推薦された。
 すべてそのような推薦に対して、農夫である我が長官は長いこと無関心だった。
 しかし、同僚たちからこの感じの良い男に相当な褒賞を与えるように迫られた時、尊徳はその男を自分のもとに呼び寄せ、彼に目の前で他の役人の前でやったと同じやり方でその日一日の労働をやってみるように要求した。
 その男はそうする力の無いことを認め、ただちに見回り役人の眼の前で三人前の労働をした際に彼の抱いていたよこしまな動機を白状した。
 長官は彼自身の体験によって、一人の人間の能力の限度を知っていたので、そのようなどんな報告によっても欺かれることはなかったのである。
 その男は罰せられ、その偽善にはしかるべき訓戒を与えられて畑に追い返された。
 彼の労働者たちのうちもう一人は老人で、ほとんど一人前の仕事はできない者だった。
 彼はいつも切り株のところで働いているのが見られた。-それは骨の折れる仕事で、あまり見栄えのある仕事の類ではなかった。
 その場所で彼は、他人が休んでいる時でも、自分で選んだ分にさも満足そうに、いつも働いていた。
 「切り株掘り」とあだなして人々は、ほんの少しの注意しか彼に払わなかった。
だが、長官の眼は彼の上にあった。
 ある給料日のこと、我が長官のいつもの例のように、それぞれの労働者に対して仕事の実績と割り当てに応じて審判が下された時、最高の名誉と褒賞を受ける者として呼び出されたのはこの「切り株掘り」その人に他ならなかったのである。これは一同の大いなる驚きであり、当人が誰よりも驚いた。
 彼は基本給の外に十五両(約75ドル)を得ることとなった。ひとりの労働者が一日二十銭を稼ぐに過ぎなかった時代に、これは莫大な金額だった。
 「私は、旦那様」老人は叫んだ。「一人前の賃金にも当たらない年寄りでございます。私の仕上げた仕事は、はるかに他の人たちに劣っております。
 旦那様は勘違いをしておいでになるに違いありません。
 心苦しくてこの金はいただくわけにはまいりません」。
 「いや、そうではない」と長官はおごそかに述べた。
 「お前は他の誰もが働きたくないところで働いた。
 お前は人にどう見られようと構わず、ただ我らの村々にほんとうに役に立つということだけを目的とした。
 お前が除いた切り株が邪魔物を片付け、それによって我々の仕事は大いに捗ったのだ。
 もしお前のような者を賞さなければ、ほかのどんなやり方で私は依然として私の前にある仕事を成し遂げて行けるだろうか。
 褒美はお前の正直を賞するための天からの下し物である。
 感謝をもって受け、老いの身に慰めを加えるために用いよ。
 お前のような正直を認めるにまさって私を喜ばせるものはない。」
 老人は子供のように泣いて、「彼の袖は涙に濡れてほとんど絞らなければならないほどだった」。
 全ての村々は感動に湧き上がった。
 神の如き者が彼らの間に現れたのである。隠れたところでなされた徳のある業を表立って報いて下さる方が現れたのである。
 反対は多くあった。しかし彼は「愛の業」によってこれらを取り除いた。
 ある時には、小田原藩侯が彼の同僚として派遣した一人の人を、彼とそのやり方に和解させるために、三年の忍耐と辛抱を必要とした。
(つづく)

代表的日本人-二宮尊徳-内村鑑三 私訳(2)

2009年08月31日 09時01分47秒 | 代表的日本人/内村鑑三
 また、村民の一人は手に負えない怠け者で、彼の計画のすべてに対する猛烈な反対者だった。
 その男の家は崩れ落ちるばかりの状態だったが、彼の窮乏は新しいやりかたの弱点の確かなしるしだと、彼は自分の隣人たちに広言していた。
 ある時、たまたま長官の家の者がその男の家の便所に入った。それは長い間、手を加えていなかったので、はなはだしく腐っており、ちょっと触れただけで倒れてしまった。
 その男の憤りは止まるところを知らなかった。
 棍棒を持って出て来て、一打ちあるいは二打ちその過ちを詫びる男を打ちすえた末に、長官の家に辿り着くまで追いかけた。
 そこで彼は長官の家の門前に立って、彼の周りに集まってきたたくさんの群衆にこれ聞こえよがしに、自分の被った過酷な災難と、この地方に平和と秩序を与えられない長官の無能力とを並べ立てた。
 尊徳は男を彼の前に来させ、できるだけ柔和な態度で彼の召使の過ちの許しを請い、そして続けて言った。-
 「それほど便所が倒れそうになっていたからには、おそらく住まいも完全な状態ではあるまい。」
 「私は貧乏人ですから」とその男は不愛想に答えた。「住まいを修復することができないのです。」
 「そうか」、が尊徳先生の柔和な答えだった。
 「それならお前のためにそれを修繕するように、我々が人をやってはどうか?
 お前はそれを承知してくれるか?」
 驚きにとらわれると共に、すでに羞恥の念が圧倒して来ていたその男はこう答えた。
 「そのようなたいへんご親切な申し出に私が反対することができましょうか?
あまりにもったいないおめぐみでございます。」
 彼は直ちに、古い家を取り壊して、新しい家を建てる敷地の手配をするために帰された。
 翌日長官の部下たちが新築の用材一切を整えて現れ、何週間かの内に近所隣中で、もっとも素晴らしい体裁の家のひとつが出来上がった。
 便所も誰が触っても大丈夫なように、修繕された。
 村民の最悪の者がこのようにして降伏したのである。
 以来この男ほど長官に忠実だった者はいなかった。
 後になって彼がその時経験したまざまざとした恥ずかしさを物語る時は、涙がいつもほとばしり出るのであった。

餌を運ぶ親のなさけの羽音には 目をあかぬ子も口をあくなり 二宮尊徳(穴沢道夫氏製作)

 ある時、村人の間に不満が広がり、どんな<愛の業>もこれを鎮めることができないことがあった。
 我が長官はすべてこのようなことに対して自分自身が責められるべきだと考えた。
 「天がこのようにして私の誠の足りないのを罰し給うのだ」と、彼は自らに言った。
 ある日彼は突然人々の間から見えなくなった。それで彼らは、どこに行ってしまわれたのだろうかと不安になった。
 何日か後に、彼は遠方の寺に行っていたことが分かった。そこで祈り瞑想するためと言うより、実はおもに民を導くために彼自身がさらに多くの誠を着せられるようにと、さんしち21日の間断食するためだった。
 村人たちは、彼にすみやかに戻られるようにと懇願した。というのは、彼の不在は人々の間の無政府状態を意味したからである。彼らは今こそ、彼無くしてはやって行くことができないことを悟ったのだった。
 寺での断食の期間が終わり、それから彼は少しの食事を摂って体力をつけた。そして実に「三週間の断食のあと、村までの二十里を、村人が後悔していると聞いて、彼は心喜ばせながら、徒歩で帰って行ったと言う。
 まさしく、この人は鉄でできた体を持っていたに違いない。
 こうして数年間の倦むことのない勤勉と、節約と、それに何にもまして<愛の業>とによって、荒廃の面影は消え失せ、農地には耐えられる程度の生産力が戻り始めた。
 長官は他の地方から入植者を招き、彼らをそこで生まれた住民たち以上に思いやりをもって待遇した。「というのも」、と彼は言った。「よそから来た人は、より多くのやさしさを我が子以上に必要とするのである。」
 彼にとってある地域が完全に復興したということは、ただその土地が再び肥沃になったということを意味するのではなく、十年の飢饉に備えるに十分な食料があるということであった。
 その点で、彼は「九年分の蓄えがない国は危険に瀕しており、三年分の蓄えがない国はまったく国ではない」と言った、ある中国人賢者の言葉に文字通り従ったのである。
 すなわち、我らが農夫の聖者の見るところによれば、今日の国々中で最も誇り高ぶっている国(アメリカ?)は「まったく国ではない」のである。
 -しかし飢饉はこれら食料の備蓄が完了する前に始まった。
 一八三三年は、東北地方一帯にとって大いなる困難の年であった。
 尊徳は、夏に茄子を食べてみてその年の凶作を予言した。
 それはまるで秋茄子のような味がして、<太陽がすでに一年の光を射しつくした>明らかな徴だったと、彼は言った。
 彼は直ちに人々に一戸当たり一段の稗の種を蒔くように命令を発し、その年の米の不足分を供給しようとした。
 そしてこれが実行された。次の年、食糧難が近隣の地方いたるところを見舞った時、尊徳の管轄下にある三つの村はただの一軒も欠乏に苦しまなかったのである。
 「誠を尽くして生きる道は、前もって来るべきことを知ることができるのである。」
 我らが長官は預言者でもあった。
 約束した十年の終わりには、藩の治世下で、かつて最も貧しかったところが、全国で最も秩序整然とした、最も十分な蓄えのある、そして自然の肥沃さから言う限り、最も生産的な地方となったのである。
 単にその村々が昔の繁栄の日々のように米一万俵の収入を毎年生産するようになっただけではなく、今では長年の食糧難に備えるために十分な穀物で満ちたいくつかの倉庫を持つようになった。そして、我々が喜んで付け加えたいことは、長官自身が自分のために、数千金を残し、後年それを慈善のために自由に用いるに至ったということである。
 彼の名声は今や遠くまで広まった。そして全国の諸侯は使者を遣わして、その領内の荒れ果てた村々の復興のために、彼の教示を求めた。
 以前には決して誠実さだけでこのように顕著な成果が得られたことはなかった。
とても単純で、非常に安上がりに、人はただ「天」と共にあって、これだけのことを成就することができるのである。
 当時の怠惰な村社会に対して、尊徳が最初に公的に達成したものの、道徳的感動は途方もなく大きかった。

 <四、個人的援助>
 彼のそのほかの国に対する公的な業績について語る前に、彼の悩める同胞に捧げることを求められた親切な力添えのいくつかをここで私に物語らせていただきたい。
 彼自身はまったく自主自立の人だった。彼はどんな場合にも、勤勉と誠実とが独立心と自尊心を育てることを知っていた。
 「宇宙は次から次へと進化する、そして我々の周囲のすべてのものの成長は一刻も止まることはない。
 もし人がこの永遠に止まることのない成長の法則に従い、それと共に働くならば、貧困は求めても得ることはできないであろう。
 ある時、貧困に打ちひしがれている農民の一団に向かって彼は言った。彼らは領主の悪政に対して不平を訴え、まさに先祖伝来のふるさとを去ろうとしていたその時に、尊徳のもとへ彼の導きと教えとを聞くために来たのだった。
 「お前たち一人一人に手鎌一丁ずつさしあげよう」と、彼は言葉を続けた。「お前たちがもし私のやり方を取り入れ、それに従うならば、お前たちの荒れ果てた田畑を楽園とし、すべての負債を返し、自分たちの土地の外に幸運を探し求めることなく、もう一度豊かさの中に喜び楽しむことができる」。
 人々はその通りにして、この聖人の手から「手鎌一丁づつ」を受け取り、その忠告したように熱心に仕事にいそしみ、数年にして彼らが失ったすべてのもの、いなそれ以上のものを取り戻したのだった。
 またある時、村民にまったく声望を失ってしまったある村長が、尊徳のもとに彼の智恵を求めてやって来た。
 この聖人の答えは、想像され得る最も単純なものだった。
 (こうなったのは)「自己への愛があなたの中に強いからである」と、彼は言った。
 利己主義は動物的本能から来る。そして利己的な人間は動物のようなものである。あなたは自分自身を、そしてあなたのすべてを彼らに捧げることによってのみ、あなたの民に声望を得ることができる。」
 「どうしたら私はそうすることができますか」とその村長は尋ねた。
 「あなたの土地、あなたの家、あなたの衣服、あなたの一切のものを売り払いなさい。そしてそれによって得た金銭はことごとくこれを村の基金に寄付し、あなた自身をまったく村民への奉仕のために捧げなさい。」これが尊徳の答えだった。
 普通の人にはこのような厳格な手続きをやすやすと実行することはできない。 
 村長はその決心ができるまでに数日の猶予を願い出た。
 その犠牲は彼にとっては全体としてあまりにも多すぎると、彼が言うのを聞いて、尊徳は言った。「おそらくあなたは家族の窮乏を心配しているのだろう。考えて見よ。あなたが自分の役目を果たすのであれば、私はあなたの助言者として、どうやって自分の役割を果たすかということが分からないのですか?」
 その男は帰って行って、教えられた通りに実行した。 
 彼の声望と評判は直ちに戻って来た。
 一時の窮乏は、彼の尊敬する指導者が自分の蓄えから供給してくれた。だが、すぐに全村がこの指導者を支えるようになり、そして短い期間のうちに、彼は以前にもまして富める者となったのである。
 藤沢という地区のある米穀商は、凶作の年に高値で穀物を販売して莫大な資産を作った。しかし、その後彼の家庭を見舞った、続けざまの不幸によってほとんど破産状態になってしまった。
 彼の親戚の一人は、尊徳の親しい知人だったので、失われた資産を回復する手段を考え出そうと、この聖人の智恵を求めた。
 尊徳はいつも個人的利害を問題とする人の相談に与ることには、あまり気が進まなかったが、長い間の執拗な懇請の後、ようやく彼らの要求に応じることになった。
 その男についての彼の<道徳的見立て>は、その災難のただ一つの原因をたちまち明らかにした。
 「その方法とは、今あなたに残っているすべての財産を慈善のために施すことにある」と、尊徳は言った。「そして素手でもって新しく始めることである」
 彼の眼には、不正な手段で得た財産は、まったく財産ではなかった。
 それはただ我々が直接に自然から、我々自身がその正しい法則に従うことによって受けた時のみ我々のものとなるのである。
 その男が資産を失ったのは、それがもともと彼のものでなかったからである。そして男の残しておいたものもまた「清くないもの」であって、それだからまた何事もそれによってなされるべきではなかったのである。
 貪欲は、長く苦しい苦闘を通らずには、このような根本的改革に屈服させることはできない。
 しかしこの「道徳の医者」の評判は、その「処方」を疑うには余りにも大きかった。そうして彼の助言の結果は、その男の友人、親戚一同の驚嘆に、そして(言ってみれば)驚愕になったのである。
 その男は残してあった七百両(三五〇〇ドル)すべてを、地区の人々に分け与えた。そして彼自身は回漕業を始めた。これは彼が少年時代から身に着けていた唯一の裸一貫でできる仕事だったのである。
 その男にとっても、また大概のその地の人々にとっても、そのような決断が及ぼす道徳的効果を、我々はたやすく想像することができる。
 すなわち、その貪欲によって引き起こされたすべての苦痛はたちまち取り去られ、彼の不幸を喜んだ人たちが彼を助けようとしてやって来た。そして彼はほんの短い期間、櫂を握ったに過ぎなかったのである。
 今回はすべての街の人々の善意と共に、幸運は彼に微笑みかけはじめた。そして彼の後半生はそのはじめ以上に繁栄したということである。
 ただ残念なことに、歳とともに、貪欲がもう一度彼に戻って来て、その晩年は極貧の中で過ごしたと聞く。
 孔子のある書に「幸福と不幸とは自分からやって来るのではない、ただ人々がそれらを招くのである」と言っているではないか?
 我らが師は、近づくのにやさしい人ではなかった。
 どんな階級の来訪者でも、いつも門前で「私は勤めに急きたてられております」と言う例の東洋流の弁解をもって追い払われた。
 ただ最もしつこい者だけが、彼に聞いてもらうことができた。
 尋ね求める者の忍耐が続かなければ、この教師はこう言うのだった。「彼を助けるべき私の時は、未だ来ていない」と。
 かつて我々は、ある仏僧が遠い道のりを檀家の人たちを安んずるために教えを請おうと歩いてやって来たが、そっけなく拒否されたことを聞かされている。だが、彼は忍耐の人であってその衣を師の家の前の土の上に敷いて、三日三晩、苦行と忍耐によって師が彼の言うことを聞いてくれることを信じて座りつづけていた。
 ところが尊徳は、一人の乞食坊主が犬のように門の近くに座っていると聞いて、烈火のごとく怒った。そしてその僧侶に向かい、直ちに立ち去って「民の霊魂のために祈祷と断食する」ように命じた。
 このような待遇が、尊徳がその僧侶を信頼をもって受け入れる前にいくたびか繰り返された。この人こそ、後年、彼の金力と智恵と友情との自由な享受者となった人である。
 彼の友情を得るのにはいつも非常に高くついた。しかし、ひとたびそれが得られた時には、何ものもこれにまさって貴重で、長続きするものはなかった。
 彼は自分自身を偽っている誠意のない人間には何もすることができなかった。
 宇宙とその法則は、そのような人間に敵対していたので、彼の中の、あるいはどんな人の中の力も、彼を窮乏と堕落から救い出すことはできなかった。
 その人を先ず「天地の理」と和解させ、それから何なりと絶対に必要な人的援助をするのが、彼のいつものやりかただった。
 「もしキュウリを植えたならキュウリ以外の何かを収穫しようとは思わない。
 人は蒔いたものを、また収穫しなければならない」
 誠実だけが窮乏を幸福に替えることができる。小手先の業や策略は何の役にも立たない」。
 「一個の魂は宇宙の中ではごくごく小さなものに過ぎないが、その誠実は天地を動かすことができるのである」。
 「義務はその結果に関わりなく義務である」。
 このような、そしてそれに似た多くの教訓によって、彼は指導と救いを求めて来た、もがき苦しみつつある多くの魂を助け出したのである。
 こうして彼は自然と人間との間の仲介者として立った。その道徳的歪みによって、自然が惜しみなく授けていた権利を失っていた彼らを、「自然」に引き戻したのだった。
 このような我々自身の骨肉である同胞が与える福音に比べて、近ごろ我々の土壌に洪水となって押し寄せて来た西洋のすべての智恵は何であろうか!

 <五、大きな公共事業>
 彼の信念がひとたび下野国の三つの荒れ果てた村の復興において素晴らしい結果として現われ、その名声がそれによって間違いなく確立すると、彼は全国各地の領主たちから絶え間なく、その仕事を中断されるようになった。
 彼はそのような割り込みに対していつもの無愛想な訪問者接待法で、自分自身を守ったが、彼の「信仰のテスト」に耐え抜いた者も、少なくはなかった。そしてこれらの人々は彼の賢明な助言と実際的な援助とによってあらゆる利益を受けたのである。
 彼の一生を通じ、広大な土地を領する約十人の領主たちが、貧窮に陥った領土の改良を彼の尽力に仰ぎ、そして同じように利益を受けた村々の数は数えきれなかった。
 彼の人生の終わり近くには、彼の国家への功績は彼が中央政府に登用されるほど計り知れないものとなった。しかし、彼の使命の素朴な性格は、自分と同じ階級の貧しい労働者たちの中にあって最もよく顕われたと言える。
 驚くべきはしかしながら、最も卑しい生れで、素朴な教養しか持たない一人の田舎者が、高い位の人々と交わる時にはまさに貴人のように振舞うことができたことである。
 当然のことながら、彼の藩主小田原侯が彼から最も多くのものを得た。
 同名の城下町に連なる広大な領地は、彼の監督の下に置かれた。そして多くの荒れ果てた、かつては田畑であった土地が、彼の倦むことのない勤労と、決してくじけることのない<愛の業>によって復興されたのである。
 一八三六年の大飢饉は、彼の同胞への最も目覚しい貢献を証しした。
 何千人という人々がまさに餓死の瀬戸際に瀕していた時、彼は当時江戸に住んでいた藩侯からそれらの人々を早急に救い出すように依頼された。
 尊徳は急いで小田原に向かった。当時はまる二日の道のりだった。そしてその地の役人たちに向かって、飢えつつある人々をただちに救うために、城の穀倉を開く鍵を手渡してくれるように求めた。
 「殿様の書かれた許可状を我々が得るまではできない」というのが、彼らのむしろ人を馬鹿にしたような返事だった。
 「よろしい、それならば」と、尊徳は応えた。
 「しかし、各々方、これから殿様の書状が到着するまでの間に、さらに多くの飢えた人たちが餓死することは分かっています。私たちは彼らの忠実な保護者として、彼らが今しているように、食事を断って、この役所にとどまり、使いの者が帰って来るまで断食しているべきだと信じます。
 このようにして我々は我らの民が被っている苦しみの幾分かを学ぶことができるでしょう。
 四日間の断食はこれらの役人には考えるにも恐ろしいことだった。
 鍵はすぐさま尊徳に渡され、救助はただちに効果を現した。
 願わくば、どんな時代、どんなところであっても、すべて、民を保護する者たちは、我が道徳先生の申し出を心に留めて欲しい。
 すなわち、飢餓が人々の戸口近くに迫っているのに、官僚主義はその苦しんでいる人たちに救いをもたらすことができる前に、無用の形式を通らなければならないのである。
(つづく)
 
穀物蔵を開けさせる尊徳 小田原市二宮尊徳記念館

代表的日本人-二宮尊徳-内村鑑三 私訳(3)

2009年08月31日 09時01分19秒 | 代表的日本人/内村鑑三
 彼が、「終わりそうもない飢饉をやわらげる方法」としてその有名な説話を述べたのはこの機会だった。
 彼の主な聞き手は、藩主によってその地方官庁の長官として任命されていたその家老だった。
 私はここにその説話のいくつかの断片を掲げる。何故ならこれはそれを述べた人の特徴をよく表しているからである。

 「国に飢饉があって、穀物蔵は空の状態で、人々に食べるものが何もないのは、領主その人以外に誰の責任だろうか!
 彼は天からその民を委ねられているのではないだろうか、そして彼らを悪から遠ざけ、善へと導いて、彼らが平安の中に生きることができるようにするのが、その使命ではないだろうか?
 彼に期待されているこの職分のために、彼は豊かに支払いを受け、家族を養い、彼らは安泰なのである。
 しかし今、人々は飢えに陥っており、それが自分の責任だと思わないとは、各々方、私はこれほど嘆かわしいことを天の下に知らない。
 この時、彼が何らかの救済の方法をこうじることに成功すればよろしい、しかしもしそうでなければ、家老たるものは天にその罪を詫び、そして彼自ら断食して死ぬべきである!
 次には郡奉行、その次には代官が彼に続き、そしてそれから村役人たちが、同じように食を断ち、死ぬべきである。なぜなら彼らもまた義務を怠ることによって人々の上に死と苦しみをもたらしたからである。
 このような犠牲の、飢えた人々に及ぼす道徳的な影響は、すぐにも明らかになるであろう。
 彼らは今やお互いに言うであろう、「家老や役人たちが、彼ら自身は何一つ実際には責められるべきではないのに、我々の上に降りかかっている災害の責任をとっている。
 飢餓は我々の上にある、我々自身が節約しなかったこと、贅沢、そして豊かな時に浪費したからである。
 我々は我々の尊敬する役人たちの嘆かわしい最期について責任がある。そして我々が今飢えて死ぬべきなのはまったく当然のことだ。」
 こうして飢餓の恐れは去り、それと共に死の恐れもまた去って行く。
 彼らの心は今や平安である。
 恐れが立ち去るや、豊かな食料の供給は彼らの手の届くところにある。
 富める者たちはその持ち物を貧しい人たちと分かち合い、あるいは山に登って葉や根を食料とするであろう。
 一年の飢饉は国のすべての米やキビ、アワなどを使い果たすことはできない。そして丘や山々はその青物を供給するのである。
 国民が飢餓に瀕するのは人々の心に怖れが支配的になって、彼らから食物を求めようとする気力を奪ってしまうからであり、それが死の原因となるのである。
 空砲が臆病な鳥を落とすように、人間が食糧難の時代に飢饉の音に驚き、死ぬようなものである。
 これゆえに、人々の指導者がまず自発的に飢え死にするがよい。そうして飢餓の怖れは人々の心から消え去り、彼らはすべて勇気を奮い起こされ、救われるだろう。
 目的としている結果に気付くまでに、奉行や代官たちの犠牲を待つ必要があるとは、私は思わない。
 この目的のためには家老ただ一人の犠牲で十分であると私は信ずる。
 これが、各々方、飢えている人々を安んずるために何も与えるものが残っていない時に、彼らを救うひとつの道である。」
 説話は終わった。
 家老は恥ずかしさと狼狽の中で、長い沈黙の後こう言った「あなたの議論に異を唱えることはできないと言わざるを得ない」。
 もちろん、この皮肉を込めたたとえ話は、まじめに語られてはいるが、実行に移されるためのものではなかった。
 彼の救済策は他の全ての仕事が特徴づけているように、同じ単純さでもってその効果を表した。すなわち、敏速に、熱意と、苦しんでいる人への極めて強い同情心をもって、さらに<自然>とその有益な法則に対する信頼をもってなされたのである。
 穀物と金銭が、苦しんでいる農民たちに、五年以内に農作物によって分割して払い戻されるように貸し与えられた。そしてこのようにして助けられた素朴な農民たちと、信じて援助を提供した側の栄光のためにも述べられるべきは、その約束は忠実に、また喜んで守られ、四万三九〇人のそのようにして助けられた被害者のうち一人も、取り決め期間までに、負債を払えない者はなかったということである。
 <自然>と組んでいる者は、急がない。また現在のためだけに働こうとはしない。
 言ってみれば、彼は<自然>の流れの中に身を置いて、それを助け、高め、それによって自分自身が助けられ、前進させられるのである。
 宇宙を背後にして、その働きの大きさは彼を驚かすことはない。
 「すべてのことには<自然>のなりゆきがある。」尊徳はよく言っていた。「我々は<自然>の道を追い求め、それに我々自身を合わせるべきである。
 こうすることによって、山々は平らにされ、海の水は排かれ、そして地そのものが我らの目的に役立つように作られるのである。
 かつて彼は利根川下流の大きな沼(手賀沼と印旛沼)の水を引くための何らかの可能な計画を立案して報告するように、幕府から命ぜられたことがある。
 もし完成すれば、そのような事業は計り知れないほどの公の利益をもたらす一石三鳥の目的を達したであろう。すなわちそれは、浅瀬と悪臭の漂う沼地から何千町歩の肥えた土地を回復したであろう、また洪水の時には氾濫する水を排水してこれらの地域の年ごとの災害を未然に防止したであろう、さらに利根川と江戸湾との間に新しい短距離の水路を提供したであろう。
 開鑿されるべき距離は、沼地と湾との間の10マイル、沼地の二つの主要部分の間の5マイル、合わせて15マイルの、泥土、高台、砂地を掘り割るのである。
 試みは一度以上行われていたが、ただ絶望のうちに放棄されていた。そしてその事業は、それを完成させる、日本の「レセップス」のような達人を今なお、待ち望みつつあるのである。
 尊徳のこの巨大な企てに対する報告は、むしろ(役人たちにとっては)不可解であった。しかし、多くのそのような規模の企てが挫折した急所を突いたものだった。
 「できる、しかしできないかも知れない」とその報告書は述べている。
 「もし自然な、そして可能なコースが取られ従われるならば、できる。しかし人間の性質として一般的にそのようなコースに従うことを非常に嫌うからできない。
 私はそこを通って堤防を掘られることになっている地方の道徳的退廃を知っている。そしてその仕事にとりかかる前に絶対に必要なこととして、<愛の業>によって、まずそれが正されなければならない。
 このような人々に費やされた金は、彼らに悪影響を及ぼすばかりか、それによって成就される実際の仕事の量に対しては言うに及ばない。
 しかし調査の対象となっている事業の性格は、資金をもってしても、権威をもってしても、少ししか期待することができないものである。
 ただ強い感謝の心に駆り立てられ、一致団結した人々だけがそれを成し遂げることができる。
 幕府はそれだから彼らに<愛の業>を施し、その寡婦を慰め、孤児をかくまい、現在の道徳的に退廃した人々を徳の高い人々にするようにせよ。
 こうして彼らの誠を呼び覚ませば、山を崩し、岩を砕くのも、思いのままであろう。
 この方法は遠回りのように見えるかも知れない、しかし実は最も短く、最も効果的な方法なのである。
 植物の根はその花と実のもとをことごとく包含しているではないか?
 道徳が第一であって、事業は二の次である。事業を道徳の前に置くことはできない。
 今日の大多数の読者のみなさんは、このようなあまりにも空想的な計画を斥けたその政府に、同情を寄せられるかも知れない。しかし、パナマ運河スキャンダルを目撃して、あの大事業の失敗した主な原因は道徳的なものであって、財政的なものでなかったことを理解し損ねる者が誰かいるだろうか?
 コロンとパナマをまったくの盗賊の巣窟とした黄金は、(今では)ガラクタのように、そこに埋もれている。そしてまったくの実際的な目的である、二つの大洋は、その地峡から最初のシャベルの泥が取り除かれた時と同じように、互いに遠く隔たっているのである。
 (今日アメリカの金によって、我らの予言に反してそれは完成された。マモニズム(拝金主義)は偉大なり!)
 あの偉大なフランスの事業家(レセップス)に、すこしでも日本人であるこの農夫の道徳的先見があったならばどうだっただろうか。そして六億の金をその事業すべてに浪費する代わりに、その一部分を<愛の業>によって人間の魂に投資したならばどうだっただろうか。-そうすれば、一方の不名誉な失敗、(パナマ運河)が他方の輝かしい成功(スエズ運河)を覆うことなく、二つの運河はレセップスの白髪に冠されただろうことを誰が疑うだろうか?
 金銭は多くのことをすることができる。しかし徳はそれよりも多くのことをすることができるのである。そして彼の運河建設計画を立てる時に道徳面を計算に入れる者は、結局のところ最も非実際的な人では決してないのである。
 尊徳のその生涯における実際の地理的業績はそれほど大きくはなかった。しかし厳格な階級差別の時代において、彼の社会的地位の人間としては、注目すべきものだった。
 全ての彼の偉業の内でもっとも注目に値すべきなのは、現在のいわき、相馬地方復興だった。-それぞれ二三〇のみすぼらしい村ではなく、今では全国で最も裕福な、また最も栄えている地方の一つである。
 どんな大規模な事業においても、彼が努めた方法はまったく単純だった。
 彼はまず、その全精力をひとつの典型的な村-普通その地方の最も貧しい村-に集中し、そしてそれに全面的に勤勉努力を打ち込むことによって彼のやりかたに回心させるのだった。
 これが通常、全部の仕事のうちもっとも困難な部分であった。
 その最初に救われた一つの村を、彼は全ての地域の回心を起こさせるための基地とした。
 彼は常に伝道的精神のようなものを、その回心した農民の中に注ぎ込んだ。彼らは自分たち自身が師に助けられたように、彼らの近隣の村々を助けるように求められた。
 衝撃的な実例をその目に提示され、そして新たな感激と共に、惜しげなく提供された援助によって、すべての地域に同じ方法が導入され、改革は単純な伝播の法則によって効果を発揮したのである。
 「ひとつの村を救う方法はすべての国を救うことができる。原理はまったく同じだ。」と彼はいつもその尋ねる人たちに言うのだった。
 我々は自分自身を一心にこの一片の仕事に打ち込み適合させよう;その模範が全国を時が来たるべき時に役立つだろう。」と彼はいつか日光地区の荒れ果てた村々を再興する計画を立てようとしていたとき、その弟子たちに述べた。
 この人は自分が宇宙の永遠の法則を所有していることを意識していた。そしてどんな仕事も彼にとって試みるにに難しすぎるものはなかったし、彼の心魂を傾けての献身を要求するにはやさし過ぎるものもなかった。
 当然ながら彼はその生涯をいよいよ閉じる時まで激しい活動の人だった。
彼はまた、遠い将来のためにも計画を立てて働いたので、彼の諸々の働きとその影響は今なお我々とともに生きている。
 彼自身が再建した多くの喜びに満ちた村々は、彼の智恵とその計画の永続性とを証ししている。同時に国内各地に散在して、この人の名と教えとによって結ばれた農民の団体があり、意気消沈した労働者らに彼が伝えた精神を不朽なものとしている。

<尊徳の作った歌>
音もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくり返しつつ
山々のつゆあつまりし谷川の 流れ尽きせぬ音ぞ楽しき

<推薦します>
子供の伝記全集・29
二宮金次郎
松山市造 著
株式会社 ポプラ社