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代表的日本人-日蓮-内村鑑三 私訳(1)

2009年06月16日 18時29分58秒 | 代表的日本人/内村鑑三
 内村鑑三先生の代表的日本人の中の日蓮の項を英語から私訳しました。日本が生んだもっともユニークな宗教人 日蓮をあらためて見直してください。
 実際にはワードにより日本語と原文の英語を対照できるように作りましたので、ご希望の方は管理人までメール下さい。折り返し添付ファイルにより英文対照つきの私訳 代表的日本人-日蓮をお送りします。(管理人のメールアドレスはoyamakuniopy@gmail.comです。)

<日蓮上人-仏教僧侶>
Ⅰ.日本における仏教
 宗教は、人間のもっとも主要な関心事である。
 普通に理解されているところでは宗教を持たない人間など考えられない。
 この不可解な人生において、我らの欲望が我らの能力以上に大きく、我らの望むところが、世界が行いまた与えることができる一切をはるかに超えている時に、何かがこれらの不釣合いを取り除く為になされなければならない。-もし我らの行動においてでなければ、少なくとも我らの思想においてである。
 実際、我々は往々にしてある人たちが「彼らは無宗教だ」などと言うのを聞く。
だがそれは、彼らがただ、ある特定の教義に署名せず、彼らの導き手として祭司たちの命令に服することなく、そして彼らの神として何ら木や金の、あるいは精神的な偶像に敬意を払わないということに過ぎない。
 しかしそれにもかかわらず、彼らは宗教を持っているのである。
 彼らの内にある「不可解なるもの」はある方法によって、飼い慣らされているのである。すなわち「黄金礼拝」とか「ウィスキー聖餐」とか、あるいはそのほか彼自身が選んだ催眠法とか鎮静法によって、不甲斐なくされているのである。
 人の宗教は、人生についての彼自身の説明である。そしてその何らかの説明がこの争い多い世界においてうまくやっていくために、絶対に必要なのである。
 それだから、死についてのすべての重要な問題、-それは貧しい者の希望であり、富める者の恐怖なのだが、-それはあらゆる問題中の問題なのである。
 「死」のあるところ、宗教は必ず存在しなければならない。それは我々の弱さの徴であるかも知れないが、しかしそれに加えてまた、我々が高貴な生まれであり、我々の内側には不死が宿っていることの徴でもある。
 死んでも死なない生命、-これこそはすべての人の子たちが追い求めるものであり、宗教心に富むヘブライ人、あるいはインド人に劣らず、それは日本人の憧れでもあった。
 そして我々が「復活」について何も聞かなかった過去二十五世紀の間、我々は自分たちの持っていた善き宗教のおかげで、何らかの形で、中には非常に立派に「死」に処して来たのである。
 この美しい国土を我らの地上の家として、桜は我らの楽しい春を飾り、紅葉は我らの澄み渡った秋を彩り、そして平和な家庭生活を人生における我らの嗣業として、生きていることはただ極めて稀に我らの重荷だったに過ぎず、それだけに死はいっそう我々には悲しいものだった。
 我らが、千代に八千代に生きていたいと願いつつも、死を考えることは二重の苦痛であり、さらに善き国に-それが神道の天上における聖徒の家であれ、仏教の極楽における蓮華の台であれ-我らを導くことができるという信仰によってのみ、それは和らげられたのである。
 我らが死を恐れたのは、卑怯な心からではなく、むしろこの美しい国土に愛着を持っていたからである。
 運命または義務が我らの生まれた、愛する国土より我々を召し出し、去らせようとした時に、宗教が我々には必要だったのである。
 日本民族は自分自身の宗教を持っている。それはおそらく中央アジアの彼らの生れ故郷から携えて来たものだろう。
 その宗教が本来どのような性格のものだったか、それは簡単に説明はできない。
最近それが、聖書の「出エジプト記」にあるイスラエルの「モーセ宗教」への類似性を指摘された。また別に、我々の中にユダヤ民族の伝承にある「失われた十部族」を見出そうという試みが行われたこともある。
 しかし、それが何であったにせよ、それはインドに始まったはるかに一層複雑な、言ってみれば一層洗練された信仰によって取って代わられ、その影が薄くなる時が来たのである。
 我々はヒンヅー教が始めて日本人の間に入って来た時の影響をやすやすと想像することができる。
 その豪華な儀式、高遠な神秘主義、奔放で入り組んだ思索は、この単純な心情の国民に驚異の念を起こさせたに違いない。
 それは無知な人たちの目を満足させ、教養のある人たちの知性を刺激した。
 外来宗教の大規模な輸入に対して若干の愛国的反発があったにもかかわらず、ヒンヅー教は巨大な歩みをもって日本に広がって行った。
 少なくとも一時期、古い信仰はまったく背後に斥けられ、新しい信仰が続く数世紀の間、至上の権力を揮った。
 仏教が日本に伝わったのは二九代欽明天皇の代の十三年、キリスト紀元で言えば五五二年、仏教年代記で言えば、仏滅後千五百一年である。
天王寺の大伽藍は早くも紀元五八七年に、かつてこの国に在位したもっとも賢明なる皇子であって、日本仏教の父である聖徳太子によって、難波(大阪)に建立された。
 次の世紀である七世紀には、活発な改宗運動が全国に見られ、天皇自らこのことに率先した。
 この頃、中国においては唐代の名僧玄奘の指導の下に仏教の大復興が起こった。(彼の冒険的なインド旅行はバルテルミイ・サン・ヒレイルによって、きわめて活き活きと記述されている。)
 そして学者たちは日本から海を渡って、この仏教を発生の地において求めた人の下で学ぼうと、派遣された。
 奈良朝歴代の天皇(七〇八-七六九)はことごとく仏教の強力な支持者だった。 今なおその王朝と同名の旧都を飾る巨大な寺院は、新しい宗教が我が国に伝わって後、速やかに獲得した勢力を証明するものである。
 しかし、新たな宗教的熱心が絶頂に達したのは九世紀の初頭、最澄、空海の二人の仏教僧がそれぞれが選んだ宗派を携えて、中国での研鑽から帰国した時だった。
奈良から京都に遷都した桓武天皇は両者にそれぞれ、寺院を建てるための広大な敷地とそれに伴う資金と特権とを与えた。 
 最澄は、新しい都の北東、すべての災いがやって来る方角と考えられていたところに比叡山延暦寺を建てた。
 空海は、紀伊の国である高野山に、その地位を確立したが、都の南端に彼に与えられた寺領を持っていた。今日京都停車場の真南に見える五重の塔のある東寺は、彼自身が設立したものだった。
 比叡山延暦寺は七八八年(延暦七年)に、高野山金剛峯寺は八一六年(弘仁七年)にその基が据えられ、仏教はここに固くその根を我が国の土に降ろしたと言うことができる。
 いかなる他の信仰もそれと競争することは不可能だった。そしてその創立者らが、その基礎は彼らがその上にそれを建設した山々のように揺るぎないものとして据えられたと考えたとしても不思議ではない。
 こうして九世紀の初頭には、いわゆる「仏教八宗」の確立を我々は見るのである。(それについて不案内な人たちのために、ここにそれらが何であるかを記すと、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗である)。
 空海が亡くなって後の四世紀間、日本に新しい宗派が伝わったこと、または成立したことを我々は聞かない。
 「八宗」は次第にその勢力と感化力を加えたが、最澄の天台宗は他のすべてを先導していた。
 そしてここに他と同じように、宗団が権力を握ると、それとともにあらゆる腐敗がもたらされた。
 まもなく僧侶階級は「帝王の帝王」となった。ある天皇(白川上皇)は「我が意に任せないのは(双六の賽の目と)賀茂川の水の流れと、山法師ばかりだ」という、有名な言葉で僧侶の横暴を嘆かれた。
 天皇は天皇に、貴族は貴族に倣って、それぞれの捧げものとして寺院を建立し、寄進し、またそれらを飾り立てた。そして大京都市とその郊外は、それらの壮大な宗教的建造物、回廊、塔、堂宇、鐘つき堂などにより、かつて我々の間に繁栄した信仰の一大記念碑となっている。
 十二世紀が閉じようとするころ、長く激しい戦争の後、国内の安定的な平和は、宗教思想において新しい活動を起こした。
 鎌倉幕府の将軍、源頼朝は僧侶から世俗的な権力を奪い取ったが、人々の精神的指導者として相応の尊敬を彼らに示した。そしてその結果、学識と徳において多くの尊敬すべき指導者たちが輩出した。
 その後継者である北条氏は、だいたいにおいて忠実な仏教の尊宗者だった。
 彼らはその当時のさまざまな宗派の荘厳華麗ではあるが浅薄な信仰に飽いて、瞑想を重んずる宗派である「禅」を紀元千二百年に中国から輸入させた。そしていくつかの大寺院が京都、鎌倉、越前に建立され、国内に新しい礼拝形式がそれから永く普及するに至ったのである。
 この新しい宗派は上流階級や知識階級にとって特愛の信仰となった。その秘教主義と終わりのない形而上学とはそれまでの旧い宗派の儀礼的立ち振る舞いに対して、強い対照を見せていた。
 禅の高度な主体的知性、あるいはそのほかの宗派の近寄り難さに比して、庶民はまた、ひとつの別な信仰を必要としていた。
 そしてこのような信仰は、源空(法然上人)と呼ばれる一人の僧侶によって備えられた。彼は千二百七年ごろに、その後「浄土宗」(清い国の教え)と呼ばれる宗派を彼らの間に伝えた。
 それは他の何にもまして浄土へ入ることができるのはただ阿弥陀仏の名を呼ぶことによると教えた。それだから一名「念仏宗」とも呼ばれた。
 単純な「南無阿弥陀仏」(永遠の光でいまし給う仏よ、私はあなたに我が身を委ねるの意)が、鈴の音に合わせて唱えられた。そして全員が節をつけて訴えるかのような声で、往々にして踊りを伴って唱えられた。このようにしてこれまでの非常に尊厳だった信仰形式に対し、まったく新しい特徴を与えたのである。
 この一分派が「真宗」だった。ほとんど同時代に範宴(親鸞聖人)という一僧侶によって創始され、国民大衆の上に持つことになった影響力によって、他のすべての宗派を圧倒することになった。
 この宗派の非常に目新しい特徴は、僧侶階級から肉食妻帯禁止の誓いを除去したことだった。それによってかなりの寛大さが彼らに与えられ、自由に人生の普通の喜びに耽ることを差し支えなくしたのである。
 仏教はこのように俗化し、庶民へのそれに近づく道は大いに容易なものとなった。そして今や宣教に何ら、宮廷の権威なしに、人々の間にひとつの勢力となり始めた。-このことは後の時代に非常に大きな結末をもたらした。
 さらに念仏宗にもうひとつの宗派である「時宗」が加わって、日本において顕教派仏教の発展がここに完成した。この三つの宗派は、人々によって、お互いに、ほとんど同時に、採用されることになった。またそれと共にその時代の教養ある社会には、秘教派の禅宗が浸透して行った。
 我が国はそこでさらにもう一つの宗派を持つことになった。最後に言及した宗派を含めて合計十二である。
 であるから、十三世紀は日本仏教において最後のそして最大の形成期だったと言うことができるだろう。
 十三世紀はまさに日本においてのヒンヅー教の変革時代だった。
 その時、我々が見たようなそのような如何なる光も、以来現れなかった。そして今世紀に生きる我々は今もなお、その時、その時代の確信を篭めて語られた言葉に縋りつつあるのである。
 ここに、ほかと同じように、熱心は迷信がはびこり始めると共に消え失せた。そして我々は、非科学的であることを恐れて、臆病な生き物となって、我らの行動をまったく見えるものの上に、人々が我々が今持っているような知識がなくとも誠実だった時代のかすかな木霊の上に、そして我々のように圧倒する思い煩いなしに英雄的だった時代の上に置くのである。

二、誕生と献身
 貞応元年(一二二二年)のある春の日、太陽が波高き水平線の彼方に昇り、地の国々の最東方の前哨点がその最初のばら色の光線を捉えたとき、安房の国最東端の岬に近い小湊(小さな港)村の一漁夫の家に、一人の男児が生まれた。
 父はある政治的理由によって、その地に亡命していた者であり、今は一介の見る影もない貧しい漁夫だった。母もまた卑しくない生まれで、日輪(太陽神)の熱心な崇拝者であり、長い間子供を与えられることを求めていたが、今や彼女の祈りに応えてそれが授けられたのである。
 彼らはその子を善日麿(善い太陽の児)と名づけて、授けて下さった神を恭しく記念した。-それは、この児が後に見るように、この世界に対して自分の使命を決定するに至った時に考慮すべきひとつの事実だった。
 彼の誕生に伴って起きたと伝えられるすべての不思議や奇跡-どのように水晶のような泉が滔々とその漁夫の庭の中に湧き出て「誕生地の穢れを洗い去ったか」とか、どのように常ならぬ大きさの白蓮がまったく季節外れにその傍に花開いて「空中に妙なる香りを放ったか」などなど-今世紀の我々はこれをその時代の敬虔な人達の空想とするのに慣れている。
 しかし、彼の誕生の年月は、ここに特筆する価値がある。後年この若き熱心家の心に、我が国の救済という重大な問題が湧き起こったとき、彼が沈思黙考した一点はここにあったからである。
 その年は釈迦が涅槃の境に入って後二一七一年であり、それは、第一の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」もまた経過して、最後の第三の「末法千年」がまさに到来していた時だった。その時とは、「大いなる教師」によって預言されたように、末世の暗黒を輝かすひとつの光が、かの東方より現れることが期待されていた時だったのである。
 その日は陰暦の二月十六日であって、釈迦の生涯にとってあの大いなる出来事の一日後だった。
 このような一致は、我らの主人公の心には、計りしれないほどの重要性を持つものだった。
 彼が十二歳になった時、信心深い両親の意向によって彼を僧侶にすることが決まった。
 後年彼がなしたことを考えると、我々は彼の特筆すべき幼少時の多くの物語をさもあらんと信ずることができる。そして我々はこの亡命漁夫である親の願いとして、その息子が僧職に身を捧げることが、その子の立身出世の機会として、厳格な社会的差別があったその時代においては、宗教だけが、賎しい身分に生まれた天才が世に出る唯一つの道だったことを不思議には思わない。
 彼の生まれたところから遠くないところに、清澄寺という寺があった。その貫主・道善は学徳その地方に名高い人だった。
 少年善日はそこに伴われ、この慈しみ深い師に預けられた。師はこの少年に特別な楽しみを抱いたように思われる。
 四年の稚児生活を過ぎ、彼は正式に僧侶として、十七歳の時に新たに連長の名をもって得度を受けた。そしてすでにこの貫主は、その若い弟子の異常な才能を観察して、自分の跡を継ぐべき者として彼を指名しようと考え始めていた。
 若者は依然として両親の希望であり、師の誇りだった。しかしその時すべての外側に見えるものの背後で、葛藤は彼の心の中に深まりつつあったのである。そしてそれが遂に彼を生まれ故郷を離れて、国中に光を求めるために追いやったのである。(つづく)


代表的日本人-日蓮-内村鑑三 私訳(2)

2009年06月16日 05時47分13秒 | 代表的日本人/内村鑑三
三 暗黒の中で、そして暗黒よりの脱出
 いくつかの疑問が彼の心の中に解決を迫って来た時、彼は仏教の根本的な知識の中へとまず導きいれられた。
 最もはっきりしているのは、仏教に夥しい宗派が存在することだった。
 彼は自問自答した。「一人の人の生涯と教えに源を持つ仏教が、今日こんなにも多くの宗派と分派に分かれているのは、何故だろうか?
 仏教は一つ以上あるものなのだろうか?
 自分の周囲に見ることは何を意味しているのだろうか?すなわち、一つの派は他のすべての派の悪口を言い、それぞれが自分こそ仏のほんとうの心を心としていると主張している。
 海水の味はどこでも同じなのだから、仏の教えに二つあるなどと言うことはあり得ない。
 ああ、この宗派がそれぞれに分かれていることについての説明はいったい何処にあるのだろうか?そしてこれらのさまざまな宗派の内で、どれが仏の道であり、我が歩むべき道だろうか?
 これが彼の抱いた最初にして最大の疑問だった。まったく当然の疑問だったと我らは信ずる。
 私もまた似たような疑問を仏教やその他もろもろの宗教について抱く。そして我々は我らの主人公に、その戦いにおいてまったく同情することができるのである。
 彼の貫主も、ほかの誰も、彼をこの疑問から解き放ってはくれなかった。自然彼は一人祈りに打ち込むことになった。
 ある日、彼が特に尊び、信仰する虚空菩薩のお堂で、祈りを終えて帰って来た時、彼の内心の重荷は耐え難くなり、口から大量の血を吐いてその場に倒れてしまった。
 仲間の僧たちは彼を助け起こし、しばらくして彼は意識を取り戻した。
 この事件があった場所は今でも記念されていて、葉にいくらかの赤みを帯びる竹の葉はその時に吐いた血が飛んで染まったものと言い伝えられている。
 しかしながら、ある晩、この若き僧侶の目が涅槃経(仏陀が涅槃に入る直前に書いたとされる教え)に注がれていた時、次の言葉が彼の注目を惹いて、その迷える心からの言い表しがたい解放となった。
 それは「依法不依人」(法に依りて人に依らず)の一句だった。
 それは、人は人間の意見に信頼すべきではなく、どんなに説得力に富み、立派に聞こえても、信頼すべきなのはただ、「偉大な師」によって遺された経典だけであって、彼はすべての問題をそれによって、ただそれによってのみ決定すべきであるということだった。
 彼の心は今や平安に満たされた。
 彼はここに拠って立つべきものを見出した。これまでは全てのことが彼の足下に沈んで行く砂のようだったのである。
 誰が、このような日本人僧侶の記事を読んで、四百年の昔、エルフルトの僧院における似たような場合を思い起こさない者がいるだろうか?多くの疑問(意識を喪失するほどの)の後、若いドイツの修道僧が彼の休息を一冊のラテン語訳聖書の中の、彼の目を捉えた一句の中に見出し、その時以来、それを信仰と生命との己が砦として固守したそのことをである。
 しかしこの仏教僧侶の場合には、権威ある経典が何であるかの問題は、キリスト教徒であるルターの場合のように、それほど簡単なことではなかった。
 このドイツ人には信頼するただ一冊の聖書が在ったのに対して、この日本人には数十の、時には度々矛盾する経典があり、その中から最高の権威を持つ正典を選択しなければならなかったのである。
 これはしかしながら、いわゆる「高等批評学」がまったく知られず、何故、何のために(これを書いたか)を問うことなく、ただ古人の記録に単純な信頼を置いた時代においては、比較的容易な仕事だった。
 我らの主人公にとっては、経典の一つ(無量義経)が大乗、小乗におけるすべての経典の年代順を示していることを見出したことで十分だった。
 そこに示された順序は、釈迦の最初の公的説教を含んでいると想像されている華厳経から始まり、彼の伝道の最初の十二年を含む阿含経、第二の十六年間の教説を含む方等経、第三の十四年間の般若経、彼の生涯の最後の八年間の妙法蓮華経、すなわち法華経である。
 この順序からの当然の結論は、最後に記された経典が釈迦の全生涯の教説の精髄を含んでいるということだった。
 あるいは日蓮の言葉で言えば、その中に「万物の原理、永遠の真理、仏陀の本源の状態の隠された重要性とその悟りの美徳」があったのである。
 ここからその妙法蓮華経という美しい名が来ている。
 ここで仏教経典の正確な順序について、あるいはそれぞれの経典の比較による価値について批判的な検討に立ち入ることは、我々の目的ではない。
 日蓮がこのようにも重視した経典は、釈迦の死後五百年という後代の産物であり、右に上げた種々の経典の順序を示している無量義経は明らかにこの新しい経典に対して信頼性と至高の権威を与えるために書かれたものであることは、今日においてはまったく議論のないところだと私は考える。
 しかし、それがたとえ何であれ、我々は、我らの主人公がそれらをここに示された順序において受け入れ、そして法華経の中に仏教信仰の標準を発見し、その多くの不一致をことごとく包括する、明らかで単純な説明を見出したということを知るだけでこと足りるのである。
 彼がこの結論に到達したとき、彼の内なる歓喜と感謝は溢れる涙となってほとばしり出た。
 彼はついに自分自身にこう言った。「私は父と母を捨てて、この素晴らしい信仰に身を捧げて来た。どうしてありきたりの僧たちの伝統的な教えに固執して、如来の金言を求めずにおれようか?」
 この聖なる大望が彼の中に沸き起こったのは、彼が二十歳の時だった。
田舎の寺に隠遁していることはもはやできなくなった。
 管主と仲間の僧たちに別れを告げ、彼は大胆に世の中へ乗り出した。真理を遠く、広く求めるためである。
 彼が最初に目指した地は鎌倉だった。時の将軍の都である。
 一人の田舎僧が都にいた。-一人のルターがローマにいた。-奇怪な現象が彼の目にふれ、奇妙な教義が彼の耳に聞こえて来た。
 その寺の造りの壮大さと僧階級の華やかさで、町はまったく虚偽に降参していた。
 禅宗は上流階級を、浄土宗は下層階級を導いていたが、前者は無益な思弁の泥沼の中に、そして後者は阿弥陀仏を妄信する錯乱状態の中にあって、仏陀のほんとうの教えは何処にも見出されなかったのである。
 それだけではなく、彼はお釈迦様の像が子供のおもちゃとして与えられ、伝説的存在に過ぎない阿弥陀仏が、彼らが仏教徒の礼拝と呼ぶものにおいて至上の位置を与えられているのを見た。
 僧の衣をまとった人々が、彼らの公然とした恥をその誇りとしていた。
彼らは教えた。救いはただ阿弥陀仏の名を唱える中にあるのであって、徳を積み規律を守る行為の中にはない。そうして「南無阿弥陀仏」のやかましい唱名の中にあって、もっとも甚だしい種類の放縦が民衆の間に流行していた。
 五年間の鎌倉での滞在の間に、彼はこの世がすでに「末法」の世であること、経典の中で如来によって預言されたように、光の新しい時代を来たらせる、新しい信仰が必要であること、そしてその好機であることを確信させるに足るものを見た。
つい最近、大阿上人という、世間から尊崇されていた僧が、彼に従う弟子たち一同に恐怖を与える死に方をした。
 彼の体は「縮まって子供のように小さくなり」皮膚の色は「黒く墨を塗ったように」変わった、-これは彼が地獄に落ちたことの間違いない徴であり、そして彼が説いた信仰が悪魔的なものだったことの証拠である。
 次いでまた空中に現れたこれらの奇怪な現象は何を意味するのだろうか?
「西の空に赤と白の雲がはっきりと三筋ほど立ちのぼった。そしてその内白い二筋の雲はやがて消えてしまい、赤雲が、<火の柱が天の頂を突き刺すように>残った。
 すべてそれに続いて激しい地震が起き、たくさんの寺院が倒壊した。そして人間も動物も、彼らの救済のために造られたはずの建物の瓦礫の下敷きになって呻いた。
 「すべてはこの国に真の経典が説かれず、誤ちが教えられ、信じこまれているためである。
 我こそはこの国に真の信仰を復興する使命を天から授かっている者ではないか?
このような思いを抱いて、連長は鎌倉を後にした。「都は真理を広めるには良いが、それを学ぶところではない」と賢明な評を下しつつ。
 少しの間両親を訪ねて後、彼はさらなる知識の探求へと出発した。
 比叡山は天皇の都から一切の悪気を払うために、京都から鬼門(悪魔の門)の方角に聳えていて、過去千年の間、日本における仏教研究の主な宝庫だった。
 海抜二千五百フィート、亭々とした杉の木立に囲まれ、鏡のように穏やかな琵琶湖の雄大な景観を眼下に、釈迦の道が探求され、黙想され、そして伝えられていた。
 その盛んな時代には、全山が騒々しい植民地の体を装っていたに違いない。それは三千の強力な乞食たちの軍隊を匿い、民衆の脅威であり、代々の天皇たちの脅威となっていたのである。
 源空(法然)はここで学んだ。そして山中において教えられるさまざまな教派とはまったく反対の顕教派仏教の一宗を開いた。後になってそれを極めて広く人々に採用されるものとした。
 彼の弟子であって、真宗の開祖である範宴(親鸞)もまたここの学僧だった。信仰の奥義に達することによって国民的名声を得た他の多くの人々もまたそうだった。
 こうして今や我が蓮長は、純粋な仏教を日本に伝えようとの大望を抱いて、安房の国の彼の生れ落ちた茅葺の家屋から四百里を歩いて、同じ山に啓示の光を求めてやって来たのである。
 新しい研究の機会がこの地で提供された。蓮長は手に触れることができる限りの書物を貪るように読破し吸収した。
 しかし彼の専門は法華経だった。-それは彼の経だった。-その貴重な写本と注解書をこの山中で手にすることができた。
 実は叡山を中心とする天台宗は、この教典を重んじていたのである。
 同宗の「六十巻」と称せられるものは、この一書についての六十巻の注解書だった。
 同宗の中国人の開祖である天台(天台大師)はそれについて三十巻(法華玄義、法華文句、摩詞止観、各十巻。これらを天台の三大部と言う。)を著した。
そして彼の弟子の一人である妙楽(六代目の弟子)は師の注釈になお注解を必要とすることを見出して、最初の三十巻について更に三十巻を著したほど、それは驚嘆すべき書だった。
 そのうちの十巻(法華玄義)はこの経典の題号となっている六個の文字の各々をそれぞれに論じたものである!
 我々には特に異常なものとは見えないこの書の意味が古人には非常に深遠に思われた。
 -十年間の長い歳月、蓮長は叡山に籠って、これらの複雑な問題を掘り下げて深く考えた。
 我々はただ彼の到達した結論を示すことができる。
 彼は今や完全に、法華経は他の一切の経典に勝って優れているという彼の抱いていた見解に、確信を抱いた。
 すなわち法華経はその純粋なまま叡山の開祖である最澄によって日本に紹介され、彼の後に出たもろもろの僧たちによってそこにかなりの汚染が招来されたということである。
 たびたび京都に、そして一度は奈良及び高野山に更なる確信を固めるためにその探求を深めた。
 そしてこれ以上疑うことができなかったその時、彼は法華経のためにその生涯を捧げようと心に決めたのである。
 一度彼はその目で日本国のすべての主神たちが、彼の守護を約束するためにやって来るのを見た。
 そして彼らが空中に消え失せるや、天来の合唱が天上から聞こえて来た。それはこう言った。「この人、世間に行じて、よく衆生の闇を滅ぼす」と。
 しかしながら彼は似たような啓示と迫りを受けた、ただ一人の神秘家ではなかった。
 彼は今や三十二歳だった。友なく、名声なく、さらには独立独歩の不屈な人間だった。
 彼には真宗の範宴(親鸞)のように、それによって自分の主張を述べるべき先祖代々の血統はなかった。
 彼は一介の漁夫の子であり、彼自らが自称したように、「海辺の賤しい階級の人間」だった。
 また彼の研鑽して来た学問も、最澄や空海その他優れた学者たちのように、外国の地で習得されたのではなかった。-それは当時も、今日と変わらずその道の秘密を解く鍵を持つ者として日本人に認められるために、もっとも肝心な事柄だった。
どのような種類の後ろ盾も彼にはまったく無かった;他のほとんどの開祖たちが受けたような皇室の庇護などとんでもないことである。
 彼はただ一人、あらゆる勢力に対抗して、当時の有力なさまざまな宗派の人々とはまったく違う見解を持って空手で始めたのである。
 彼は我々が知る限りでは、日本の仏教史の中で唯一の例である。彼は倣うべき何らの先例もなく、一つの「経」とひとつの「法」とのために、生命を投げ出して立ち上がったのである。
 彼の生涯で興味のある点は、彼が主張し宣伝した教義的見解よりも、むしろそれを主張した勇敢な方法である。
 真の意味においての宗教的迫害は、日本においては日蓮から始まったのである。

四、宣言
 「預言者は自分の故郷においてのほかは、敬われないことはない」。
 しかも預言者はその公生涯を自分の故郷から始めるのが常なのは痛ましい事実である。
 彼はこの世にあっては戻るべき家もないのに、その故郷からの引力を感じ、そして必ずそこでどのような待遇を受けるかにかかわらず、鹿が谷川の水を慕い喘ぐように、ただ排斥され、石で打たれて追放されるためにその地に赴くのである。
 蓮長の歩むべき道はそれ以外にはなかった。
 小湊の彼の貧しい家では、彼は両親が息子の帰郷を熱心に待ちつつあるのを見出した。
 そして彼の受けたすべての試練の中で最初にして最大の試練は、両親の<彼が少年時代に養育された寺の管主に任ぜられるのを見たい>という自然な望みに対して異議を申し立てることだった。
 彼は今やその名を日蓮と改めた。日―蓮とは彼を生まれ出させてくれた日輪(太陽)と、彼がこれから世界に伝えるべき経典とを意味するものだった。
 建長五年(一二五三年)四月二十八日、ばら色の太陽が東の水平線上に半ば現れたとき、日蓮はぼうぼうとした太平洋を臨む断崖の一角に立っていた。そして前面の海と背後の山に向かって、そしてそれらを通して全宇宙に向かって、彼は彼自身が定めた祈祷の言葉を繰り返した。
 それは他のすべてのものを沈黙させるための祈祷であり、彼の弟子たちを地の果てまで導くため、そしていつの世においても彼らの合言葉となるための祈祷だった。まさにそれは仏教の真髄、人間と大宇宙の本質を体現したものだった。
 これこそすなわち、「南-無-妙-法-蓮-華-経」、Namah Saddharmapundarikaya Sutraya,、「私はかしこんで妙法蓮華経に信頼する」との意味である。
 朝に大自然に向かって彼は語りかけた。午後には彼はその地の人々にこのことを語りかけるべきだった。
 彼の名声はすでに近隣全体に広がっていた。
 鎌倉、比叡山、奈良において、十五年の歳月を研究に費やした彼には、郷里の人々に語るべき新しいものが、深遠でまた啓発されるものがあるに違いない。
 こうして彼らはやって来た。老いも若きも、男も女も、ある者は真言宗の「ハラハリタヤ」を、ある者は浄土宗の「南無阿弥陀仏」を唱えながら。
 堂内が一杯になり、「香の煙があたりに漂い始めた時」、日蓮は「出堂の合図を打たせ」て、高座に現れた。
 まさに男盛りに達し、その顔には不眠の修行による傷跡を刻み、熱血漢の眼光、預言者の威風を帯びた一人の人-この人こそ、全会衆が注目する的だった。彼が口を開くのを彼らは息を殺して見守った。彼は彼の経典―法華経-を取り上げ、第六の巻の一部を読み、「顔色を和らげ、梵音静かに語り始めた」-
 「多くの年月を私はすべての経典に亘って研究し、そしてそれらの教派がそれ自身について言わんとしていることのすべてを聞き、また読んで来た。
 それらの中の一つには次のように語られている。すなわち仏陀が涅槃に入ってから後の五百年の間は多くの人たちが自分からは何の努力もせず、そして次に続く五百年間は不断の努力と瞑想によって成仏することができる。
 これが正法千年である。
 それから経典を読み続ける五百年が来、そして寺院を建造し続ける五百年が来る。
 これが像法千年である。
 それから純粋な教えが隠されてしまう五百年間が始まる。そこでは如来の教えは尽き果ててしまい、すべて、人々への悟りの道は失われてしまう。
 これが末法の始めであり、それは一万年続くのである。
 今ははこの最後千年紀に入って二百年である。
 そして釈迦の直接の教えから遠く隔たっている我らにとって、仏教の悟りの境地に入るためには備えられた道は唯一つしかない。その道こそ、「妙-法-蓮-華-経」の五字である。
 そうであるのに、浄土宗はこの尊い経文を閉じてしまえと呼びかけ、もはやこれに耳を傾けさせまいとする。真言宗は法華経は彼らの経典である大日経の草履取りにも足らないとこれを罵倒する。
 このような者は、法華経の第二の比喩の項で、誉むべきお方が説いておられる、仏教の種を絶やす者たちであり、その最期は必ず終りのない地獄に落ちること明らかである。
 聞く耳のある者、見る目のある者は悟れ、そして偽りから真実を弁別せよ!
浄土宗は地獄への道であり、禅宗は悪魔の一族の教えであり、真言宗は国を滅ぼす異端であり、律宗は国賊である。
 これらは、私自身の言葉ではなく、経典の中に私はそれらを見定めた。
 雲の上高く啼いているホトトギスの声を聞け!
 それは時を知っていて、あなた方に田植えをするようにと警告している。
 であるから今こそ(苗を)植えよ、そして収穫の時期が来たときに後悔するな!
 今こそ法華経を植えつける時である。そして私はその末の世に遣わされた崇むべき御方からの使いである」。
 彼は語り終わった。そして憤慨するわめき声が激怒した聴衆から起こった。
 ある者は言った。彼は気が狂っているのだから許してやるべきだと。他の者は、彼の暴言はまさに極刑に値すると息巻いた。
 法談に出席した地頭は、この冒涜者が一歩足を聖なる境内から踏み出せば、これを殺そうと願った。
 しかし、老いた管主は慈愛深い人だった。
 この弟子はいつか悔いて昔の正統な信仰に復帰し、迷える夢から覚めるかもしれない。
 黄昏時、彼は二人の弟子に命じて、地頭の襲撃を受けることのない安全な道を通って、日蓮をその地方から連れ出させた。


五、単独 世に抗す
 故郷において拒まれ、彼は一路鎌倉へ向かった。そこは国の首府であり、「法を広めるには最高の場所」であった。
 そこの誰にも所有されていない、今でも松葉ヶ谷(松の葉の谷)と呼ばれているところに、彼は小さな草葺の家を建てた。
 ここに彼はその法華経と共に、立てこもった。-一人の独立した人としてー彼の周囲の過ちを克服し始めるために。
 大いなる日蓮宗はその起源をこの草葺の家に持ったのである。
 身延山、池上、その他各地の広く壮大な寺院建築、それとともに全国五千以上の寺と,そこで礼拝する二百万の信徒たち-これらすべてはその起源をこの草葺の家とこの一人の人に持ったのである。
 偉大な事業は常にこのようにして生まれた。
 一個の不屈な魂と、それに対立する世界-その中に全ての永続的な偉大さへの展望が横たわっている。
 二十世紀はこの人から多くを学ぶだろう、彼の教義でなくば、その信仰と勇気をである。
 キリスト教自体は日本においてこのような起源を持っているだろうか?
 ミッションスクールと伝道のための教会、金銭における庇護、人的援助は、-ああ偉大なる日蓮よ!彼はこれらを何一つ持たず、彼はただ身ひとつで始めたのだ!
一年間、彼はもう一度、研究と瞑想の中に沈潜した。
 こうしている間に彼は最初の弟子を得た。後の日昭である。彼は日本における仏教の状態について日蓮と同じ見解を持っていることに心惹かれて、はるばる比叡山からやって来たのである。
 日蓮の喜びは一入だった。なぜなら彼は今こそ公衆の前に現れて、そしてそこでこの国に彼の教えの絶えることを怖れることなく、命を投げ出すことができるのだから。
 このようにして彼は一二五四年の春、この国において前代未聞のあることを始めた。-辻説法(路傍における説教)である。
 彼はそのまま、彼をののしり馬鹿にする首都の聴衆の真っ只中において、最初に故郷の人々に宣言したことを繰り返した。
 彼のような地位にある者が道端で道を説くのはふさわしくないとの反論に対して、彼の断固とした答えは、戦いの最中には立って食事をするのは適切であるとのことだった。
 国の支配者が崇めている信仰を悪く言うべきでないとの非難に対して、彼のはっきりした答えはこうであった。「聖職者は仏の使いであって、世間と人々への恐れは彼の天職にそぐわない」。
 他の礼拝の形式がすべて間違っているはずはないというもっともな疑問に対して、彼の単純な説明はこうだった。「足場はただ塔が出来上がるまでの用をなすものである」。
 六年の間、時を得るも得ざるも、こうして彼はその行状と人柄が公の注目を惹き始めるまで説教し続けた。
 彼の弟子となった者たちの中には、高位高官の者も少なくなかった。中には将軍家に属する者さえあった。それで適当な時期に阻止しなければ、全市が彼の感化に浮かれ上がってしまうのではないかという恐れがあった。
 当時においては建長寺の道隆禅師,光明寺の良忠上人、極楽寺の良観、大仏殿の別当隆観など、大きな勢力を持った高位の僧たちがいた。彼らは首都において立ち上がりつつある新興宗教の抑圧を共に評議した。
 しかし日蓮の大胆不敵さは、すべて彼らの一致協力の努力を凌いでいた。
 このところ国を襲った多くの災害を捉えて、彼は「立正安国論」という、我が国に平和と正義をもたらすにはどうあったら良いかについての論文を作った。(これは現代においてもこの種のもっとも注目すべき著作と見なされている。)
 その中で彼は当時の我が国が被りつつあったすべての災害を列挙し、それが人々の間に教えられている、誤った教義の故であるとの手掛かりを示した。
 このことを彼は幅広く経典からの引証によって証明した。
 それから救われる道は、彼の見解によれば、すべての経典の中の最高の経典である法華経を国民がこぞって受け入れることにあるとし、そしてこのような恵みを拒否すれば、その結果は必ず内乱(自界反逆の難)と外国からの侵略が起こらねばならないことを指摘した。
 これまで決してこれ以上に痛烈な言葉が我が国の高僧たちに対して向けられたことはなかった。
 それは全文が戦いの雄たけびであり、最も断固とした宣戦の布告だった。もし徹底的に戦い通せば、彼の宗派か、あるいは他のすべての宗派が根絶されるか、ただ一つしかあり得なかった。
 それは狂気と区別できない熱心だった。それで北条時頼(我が国におけるもっとも賢明な支配者の一人)は、この狂信者を首都から立ち退かせることによってそれを鎮圧することを決定した。
 しかしながら、この政略家は自分が処理しつつある人物がどのような人物かを知らなかったのである。
 それは死を覚悟している魂だった。すでに自分と同じような他の魂を持っている真摯さを内に秘めて、後になってふんだんに証明されるように、あらゆる試練に出会うことを覚悟している人以外の何者でもなかった。
 何ものもこのような人を威嚇することはできなかった。そして「仏敵に対する戦い」(折伏)は不退転の勇気をもって遂行された。そして遂に力ずくでこの小さな教団は解散させられ、その指導者ははるか離れた地に流刑されることになった。(つづく)


代表的日本人-日蓮-内村鑑三 私訳(3)

2009年06月16日 05時46分45秒 | 代表的日本人/内村鑑三
六.剣難と流摘
 「立正安国論」の発表の後の十五年間、彼の人生は、彼の棲む世界の、権力と権威に対する絶え間ない戦いだった。
 彼は最初伊豆に追放された。そこに彼は三年の間留まった。そしてその流刑の最中に改宗者を作った。
 鎌倉に帰ると彼は弟子達から「折伏」をやめて専ら彼らを教え導くことに専念して欲しいと懇願された。それに対して彼の決然とした答えはこうであった。「今、末法の時代の初めにおいては、その誤謬から来る害毒が非常に強い。論争による攻撃(折伏)はその病状の重大局面においては治療薬として必要であり、傍目にはそう見えないかもしれないが、恵でさえある。」
 彼はただちに以前の態度を再び取り始めた-救い難い僧侶である。-今現在彼自身の身に迫る破滅を何ら顧みずに。
 ある夕方、数人の弟子達と伝道旅行をしている途中で彼は剣を手にした一隊の人々に襲われた。
 この襲撃隊の指揮者こそ、四年前,彼がその教えを宣言したとき、このふてぶてしい革命家を除こうと決意したあの地頭に他ならなかった。
 三人の彼の弟子たちが師の生命を助けようとして殺された。一人は僧侶であり、二人は平信徒であった。
 このようにして彼の教えは日本において最初の殉教者を出した。そして今日、彼の教えを奉ずる何百万の人々に尊い記憶となって残っている。
 日蓮は額に一つの傷を受けてその場を逃れた。この傷こそ、彼の法華経に対する忠信の印だった。
 しかしながら、真の危機は一二七一年の秋にやって来た。
彼の生命はこれまでのところは助けられていた。というのは当時の法律が僧侶階級の極刑を禁じていたからである。そして今や彼の傍若無人な振る舞いは耐え難かったけれども、彼の坊主頭と僧衣が厳格な法の執行に対して強い防御となっていたのである。
 しかし何ものも、国に現存する宗教とそれに伴う国家や聖職者たちの権威に対する彼のののしりの攻撃を阻むことができなかった時、北条氏は特別の事態における非常手段として、彼を死刑執行人の手に渡すことを決意した。
 いわゆる「竜の口の法難」は、日本宗教史上最も有名な出来事である。
その歴史的真実性が最近疑問とされたが、しかしその「法難」は後世の信仰によって、この事件に付け加えられた様々な奇跡を除けば、疑う余地はないように思われる。
 通俗的な説明は次のようである。
 処刑人が最後の太刀を振り上げたまさにその時、日蓮が処刑人が最後の太刀を振り上げたまさにその時、日蓮が臨刑欲寿終(りんぎょうよくじゅしう) 念彼観音力(ねんぴかんのんりき)刀刃段々壊(とうじんだんだんえ)(刑場での生命が終わろうとして、観音の力を念ずれば、刀の刃は粉々に砕けるだろう)との彼の経典を復唱すると、突然天から一陣の風が吹き降りて来た。
 そして彼の周りにいた全ての人々がまったくうろたえ果てているのに対して、刃は三つに折れ、処刑人の手はしびれて、もはや二の太刀を振り上げることができなかった。
 間もなく、鎌倉から赦免の礼状を持って使者が全速力で馬を走らせて到着した。 そして法華経を奉ずるこの人は救われたのである。
 -しかし我々はこの事件を奇跡の助けを求めなくとも、説明することができる。
聖職にある者の生命を絶つことへの迷信的な恐怖は、その時代においてはまったく自然なことである。
 そして彼がこの威厳に満ちた僧侶の、祈祷を捧げつつある態度の中に最後の一太刀を受けようと覚悟している落ち着いたさまを見たとき、この哀れな処刑人が、もし自分がこの罪のない人の血を流す下手人になったならば、どのような天罰がくだるだろうかと怖れ慄いていたであろうことは、我々には容易に想像できる。
 同じような恐怖が、この先例のない処刑を決意した執権(時宗)自身にも襲ったに違いない。彼は直ちに死刑に代えて流刑の判決文を携えた使者を送った。
 難を逃れたのは、まさに危機一髪の間だったろう。しかしそれはまったく自然のなりゆきだった。
 死刑にとって代わった流刑は、過酷なものだった。
 彼は今回佐渡に流された。それは日本海の孤島であり、全国でその当時においては最も近づきがたい地方であり、極悪の重罪人を好んで追放したところだった。
彼がこの島で五年の流刑の後にも生きながらえたのは、ひとつの奇跡である。
 ある過酷な冬などは、法華経を心の糧とする以外にほとんど食べるものもなく過ぎ越した。
 それは、肉体を越えて心の、暴力を越えて精神の、新たなる征服だった。
 流刑の終わり近くにおいては、彼は更にもう一つの国を彼の精神的領域に加えた。
 その時以来、佐渡および人口が緻密だった越後はこの宗旨に対して熱狂的に忠誠であり続けたのである。
 彼の不屈の勇気と忍耐は、今や鎌倉幕府の恐怖と崇敬とを呼び起こした。そしてこのことは急速に迫りつつあるモンゴルからの侵略が、彼の預言した外冦(他国から侵略される国難)において成就したことによって、彼に鎌倉への帰還の許可を与えるに至らしめた。(一二七四年)
 そこに到着した直後、彼は国中に彼の教義を自由に広める特許状を得た。
 精神は遂に勝利を収めた。そして七世紀の間それは国民の中の一つの勢力だったのである。

 七、晩年
 この人は今や五二歳だった。そして彼の生涯の大半はこの世に対する不眠不休の戦いに費やされて来た。
 彼は今や彼の同胞たちに語るに自由だった。しかし、その発効のための認可の与えられ方は、まったく彼を満足させなかった。
 北条氏を動かして彼に自由を与えさせたのは、恐怖だった。それに反して彼が目的としていたのは、執権とその国民が自ら進んで法華経を受け入れることだった。
彼は今や「インド人の師」に倣って山中に隠棲することを考え始めた。そこで静かな瞑想と弟子を育てることを以って生涯を終わるためである。
 我々は、ここに彼の偉大さがあり、彼の宗門が長く続いたことの主な原因があると信ずる。
 この世が彼を受け入れ始めた時、彼はこの世を去ったのである。
 ここにひとつの躓きの機会が、彼以下の魂にはあった。
 しかし、彼の弟子たちにとっては、この宗旨禁制の撤廃は、旧い諸宗派に固執する者たちに対する公然とした戦闘の始まりだった。
 寺から寺が「言葉による攻撃によって掻き乱され打ち倒された」と言う。
 我々はこれらの熱狂的信者たちのやり方がどんなものかを知っている。
 それぞれが手に太鼓を持って、そして全員が一斉に彼らの祈祷(題目)を繰り返し唱える。-「南無―妙―法―蓮―華―経」―その五つの音節に合わせて太鼓を五つ叩くのである。
 彼らの二十人は我らの耳をつんざくばかりの音を立てる。そして我々は彼らの数百人が、新たな元気と熱情に燃えて、家から家へ、寺から寺へと鎌倉の町を行きめぐり、新しい信仰へと直ちに降伏することを呼びかけて歩き回ったその結果を、容易に想像することができる。
 創始者の熱誠、その火のような情熱、不寛容さは、今日においても彼の信徒たちにおいてはっきりと見ることができる。-それはもともと非攻撃的であり厭世的な仏教においては、好戦的な熱心のただひとつの場合である。
 我らが主人公の晩年は、平和だった。
 彼は富士山の西の方、身延山に彼自身の棲家を定めた。そこは南方に素晴らしい眺めの大洋があり、そして崇高な山々が周囲に、また背後に控えていた。彼は全国至るところからの彼の崇拝者たちの敬意を受けた。
 ここで、彼は彼の預言が一二八一年の蒙古大襲来によって、文字通り実現したのを見た。このことが彼の名声と影響力を著しく増大させたことは言うまでもない。
 この大事件の翌年、彼は在家の一弟子、(池上宗仲)の客として池上(東京の大森駅に近いところ)を訪れ、そこで一二八二年の十月十三日に没した。
 彼の最後の望みは、天皇の都である京都に彼の教えを説き、遂には天皇陛下にお聞きいただくと言うことだった。そして彼は当時十四歳の少年だった日像にこのことを託した。
 彼の臨終の床での一つの光景は、我々の注目を必要とする。
 人々は彼の「いまはのきわ」の慰めになろうかと思って仏陀の像を彼のところに持って来た。しかし彼は直ちに手振りでそれを取り除かせ、明らかに面白くない様子だった。
 次に彼らは「南無妙法蓮華経」の題目が雄渾な漢字で書かれた掛け物(曼荼羅)を彼の前に広げた。
 彼はそのほうにゆっくりと体を向け、それに向かって合掌し最後の息を引き取った。
 彼は経典崇拝者だったが、偶像崇拝者ではなかったのである。

八、性格の評価
 我らが述べたこの主人公以上に、我が国の歴史において謎に満ちた性格の持ち主は現れなかった。
 彼の敵にとって彼は、冒涜者、偽善者、自己中心主義者、ヤクザの親分、というような者だった。
 多くの本が書かれた。その中には彼がどんなにでたらめな人間であるかを証明するために、非常にまことしやかに書かれたものもある。
 彼はまた、仏教がその敵に攻撃される時の格好の攻撃目標だった。
彼は彼自身の宗派以外の同じ仏教徒たちからも、その宗教の受ける一切の非難を担うスケープゴートとされた。
 誰一人として日本においてこれ以上非難中傷を積み重ねられた人物はいない。
そしてキリスト教がこの国に姿を現した時、それもまたこのことに組して、さらに多くの石つぶてがこの方面からも彼に向かって投げつけられたのである。
 かつてある有名な牧師の一人が、その全注意をその方向に向けていたことを私は知っている。
 実のところ、日本のキリスト者たちにとっては、この人に賞賛の辞を呈することは、イスカリオテのユダに好意ある言葉を語るほどに、不敬虔のように響くのである。
 しかし私としては、もし必要であれば、この人のために名誉を賭けよう。
 彼の教義のほとんどは、今日の批評学の試験に耐えられないことを私は認める。
彼の論争の仕方は上品ではない。そして彼の全体の調子は正気ではない。
 彼は確かにバランスを欠いた性格だった。あまりにもただ一つの方向にだけ尖鋭だった。
 しかし、彼からその知識的誤謬、遺伝的な激しい気質、そして彼の時代と環境がその上に印した多くのものを剥ぎ取って見よ!そうすれば諸君は骨の髄まで真実な一個の霊魂、人間の内で最も正直な人、日本人の内の最も勇敢な人物を持つのである。
 偽善者は二十五年間、そしてそれ以上にその偽善を保持し続けることはできない。
 また決してその人は、彼のためにいつでも生命を投げ出そうとする何千人もの彼に従う人々を持つことはできない。
 「いつわりの人間が宗教を発見したと言うのだろうか?」とカーライルは叫んでいる。
 「不誠実な人間はレンガの家を建てることもできないではないか!」と。
 私は私の周りを眺めて、彼の死後七百年たった今日、四千人の僧侶と八千の教師を擁する五千の寺院と、この人の定めた方式に則って礼拝しつつある百五十万~二百万の信徒たちを見る。そうして私は、これらすべては恥知らずのペテン師の仕事だと告げられるのである。
 私の人間性に対する信仰は、このようなことを信ずるには余りにも強すぎる。
 もし偽りがこの地上においてこのように永続的なものであるとすれば、他のどのような手段によって、我々は正直を虚偽と区別すべきだろうか?
 人間の内でもっとも怖れを知らない人。彼の勇気は、まったくもって彼がこの地に遣わされた仏陀の特別の使者だという確信に基づくものだった。
 彼自身は何者でもない。-「海辺のひとりの賎民」である。-しかし法華経を持ち運ぶ器としては、彼の人格は天上地上、あらゆる重要性を持つものだった。
 「私は無価値な者だ、ひとりの平凡な僧侶にしかすぎない」と彼はかつて時の権力者にこう語った。「だが、法華経の宣伝者として、私は釈迦牟尼の特別の使いである。そうして梵天のようなインド神も私の右に仕え、帝釈天も私の左に仕える。太陽は私を道案内し、そして月は私の後に従う、そうして地上のすべての神々がことごとくその頭を垂れて私を敬うだろう」と。
 彼自身の命は彼にとっては取るに足らないものだった。しかし日本の国民がこのような法を担う人である彼を迫害するのは、彼には言葉に表せないほどに嘆かわしいことだった。
 もし彼が狂っていたというならば、彼の狂気は高貴な狂気だった。それはあのもっとも高貴な形の自尊心と区別することができないものだった。すなわち自分が成就するために送られて来た使命の価値によって、自身の価値を知るという自尊心である。
 日蓮だけが聖なる歴史において、自分自身にたいしてこのような評価を持ったのではなかった。
 であるから、聖なる経典の中の、特に彼自身の経典である法華経は、長い年月に及ぶ過酷な迫害の間、彼の不断の慰めの源だったのである。
 彼の特愛の弟子である日朗に向かって、彼がその主人の島流しにされるために船出しようとした際に、師の小船に追い迫ろうとして、怒った船頭に痛ましく腕を折られたとき、次のような慰めの言葉をかけた。「知るがよい、鞭と流罪は末法の世の説教者に必要な付随物である。
 二千年前に法華経の中の警告の章に書かれていることが、お前と私の間に臨んだのだ。
 だから喜べ、法華経が勝利する時は近い。
 彼の弟子たちに当てた流刑中の書簡は、広くさまざな経典からの引証で一杯である。
 その中の一つで彼は書いている。「涅槃経に<重きを軽きに転化する>と言う教義がある。
 我々が今生においてこの重い苦しみを受けるならば、それと共に、来世においては、軽きが保証されるのである。
 ・・・提婆菩薩は外道に殺され、獅子尊者は首を刎ねられた。そして仏陀蜜多はさまざまな誘惑と対面した。そしてそれらは正法の時代であり、仏陀自身の国においてすらそうであった。
 それならばこの地の果てにおいて、しかも末法の世の初めにおいては如何ばかりだろう?」
 キリスト教の聖書がルーテルにとって何よりも尊い書物であったように、法華経はこの人にとっては何よりも尊いものだった。
 「もし私が法華経のために死ぬことができれば、私は本望だ!」とは、多くの危機に臨んでの彼の言葉だった。
 ある意味で我々のルーテルがそうであったように、彼は狂信的経典崇拝者だったかも知れない。しかし、書物はあらゆる種類の偶像や権力よりも、より尊い崇拝の対象である。そして一書のために死ぬことのできる人は、英雄の名で呼ばれる大概の人々よりも更に高貴な英雄である。
 日蓮を罵倒する現代キリスト教徒よ!彼の聖書は埃に覆われていないだろうか?あるいはそれが日毎に口ずさまれ、その霊感が熱く擁護されつつあるだろうか?そしてその生命と霊魂を賭けて、自分が遣わされた国民に、それが受け入れられるために十五年もの間、剣難と流摘に耐えられるだろうか?
 日蓮こそは、他のすべての書に勝って人類の諸問題を良い方向に導いて来たあの書、(聖書)を自分のものとする者たちによって石打たれるべき最後の人であらねばならない。
 日蓮の私生活は想像され得るもっとも簡素なものだった。
 鎌倉に草葺の家を構えてから後の三十年、富んだ俗世間の人々が彼の弟子であり、安楽に気儘に過ごすことは望みに任せたときに、我々は彼が身延山において同じような草葺の家に住んでいるのを見出すのである。
 いわゆる仏敵には極めて仮借なかった彼は、貧しい者、悩める者に接する時には、もっとも柔和な人だった。
 彼の弟子たちへ宛てた手紙には、極めて穏やかな気分が息づいていて、彼の記念すべき「立正安国論」の熱烈な火とは大きな対照をなしている。
 弟子たちがあれほどまでに彼を思慕したのも不思議ではない。
 実際、日蓮の生涯は常に、多妻主義を除いたマホメットを私に思い起こさせる。
同じ強烈な人格、同じ病的なまでの熱狂、しかしそれにも拘らず、目的に対する同じ誠実さ、豊かな内なる憐れみの情と柔和さは互いにまったく似ている。
 ただ私はこの日本人が法華経に信頼したのは、かのアラビア人がコーランに信頼したに勝っていた点において、より偉大だったと信ずる。
 日蓮には外的な権力は必要ではなかった。なぜなら彼は信じ込むことのできる、かくも偉大なる書があったからである。
 それだけが、如何なる人間的な介在なしで、十分な力だった。そしてその価値を確立するのに何らの権力も必要ではなかった。
 マホメットを偽善の罪から無罪放免とした「歴史」は、日蓮の正当な評価のために、より多くのことをすべきだった。
 それであるから、彼の十三世紀的衣裳、彼の批評学的知識からの誤謬、彼の内に宿っていたかも知れない僅かな精神異常の気味(すべての偉大なる人間に宿っているように、と私は想像する)を剥ぎ取れば、そこには一個の注目すべき人物、世界中の彼のような人物で、もっとも偉大なる人の一人が我々の前に立っているのである。
 これ以上に独立的な人を、私は我が国の人物の間に考えることはできない。
 実に彼はその独創性と独立心とによって、仏教を日本の宗教としたのである。
 彼の宗派のみ純粋に日本的である。一方で他のすべてはその起源をインドに、あるいは中国に、あるいは朝鮮に持っている。
 彼の大望もまた、彼の時代の全世界を包容するものだった。
 彼は語っている。彼の時までは仏教はインドから東方に向かって進んで来た。そして彼の時からは日本からインドへ、その更に改められた形での仏教が西方に向かって進むのであると。
 彼はそれだから、受動的、受容的な日本人の間にあって一つの例外だった。-疑いなく、非常に御しやすい人間ではなかった。なぜなら彼は彼自身の意志を持っていたからである。
 しかしこのような人のみが、一人国家の脊椎骨である。一方において多くの他のことが御愛想で、謙遜ぶって、寛容に、あるいは請い願うことによって成される時に、それらは国家の恥以外の何ものでもない。それらはただただ彼らの生まれ故郷への<変節者の報告書>における改宗者の数を膨らませるだけなのである。
 争闘性を差し引いた日蓮こそは、我らの理想的な宗教家である。