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良い本を電子化して残そう

管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

(要約)後世への最大遺物(2)

2008年11月23日 02時41分51秒 | 後世への最大遺物
 それで金儲けのことについては少しも考えてはいけない人が金を儲けようとしますと、その人は非常に穢く見えます。そればかりではなく遺し方が悪いと、ずいぶんと害を与えます。
 それで金を貯める能力を持った人ばかりでなく、金を使う能力を持った人が出て来なければなりません。彼の有名なグルードという人は、生きている間に二千万ドル貯めたのですが、そのために親友四人までを自殺に追い込み、たくさんの会社を倒産させました。ある人が言うには「グルードが千ドルとまとまった金を慈善のために出したことはない」そうです。
 彼は死ぬ時にその金をただ自分の子供に分け与えて死んだだけです。すなわち、グルードは金を貯めることを知って、金を使うことを知らなかった。それで金を遺物としようと思う人には、金を貯める能力とまたその金を使う能力がなくてはなりません。この二つの考えのない人、この二つの考えについて十分に弁えない人が 金を貯めるということは、はなはだ危険なことだと思います。
 さて、では私のように金を貯めることの下手な者、あるいは貯めてもそれを使う能力がない人は、後世への遺物として何を遺そうか?もし金を遺すことができないならば、何を残そうか?それで、金よりも良い遺物は何だろうかと考えて見ますと、事業です。事業とはすなわち金を使うことです。金は労働力を代表するものですから、労働力を使ってこれを事業に変え、事業を遺して逝くことができます。金を儲ける能力のない人でも事業家はたくさんいます。金持ちと事業家は二つの別もののように見えます。商売する人と金を貯める人とは人物が違うように見えます。大阪にいる人はたいそう金を使うことが上手ですが、京都にいる人は金を貯めることが上手です。東京の商人に聞いてみると、金を持っている人には商売はできない。金のない者が金を使って事業をするのだと言います。
 純粋に事業家の成功を考えて見ますと、決して金があったからだけではありません。バンダービルトは非常に金を作ることが上手でしたが、彼は他人の事業を助けただけです。有名なカリフォルニアのスタンフォードは、たいへん金を儲けることが上手でした。しかしながらそのスタンフォードに三人の友人がいました。その友人のことは面白い話ですが、時間がないからお話しませんけれど、金を儲けた人と、金を使う人と、色々います。
 そこで、どういう事業が一番誰にも分かりやすいかと言うと、土木事業です。一つの土木事業を遺すことは、実に我々にとっても楽しいことですし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。
 今日も船に乗って、湖の向こうまで行きました。その南のほうに向かって水門があります。その水門というのは、山の裾をくぐっている一つの隊道です。その隊道を通って、この湖水の水が沼津のほうに流れて、二千石から三千石の田を灌漑していると聞きました。そして昨日ある友人から、その隊道を掘った人の話を聞きました。それは今から六百年も前と言うことですが、誰が掘ったかは良く分からない。ただこれだけの伝説が残っています。
 箱根の近くに百姓の兄弟がいて、互いに語り合って言った。「我々はこのありがたい国に生まれて来て、何か後世に遺して行かなければならない。何か我々にできることをやろうではないか」。兄は言った。「我々のような貧乏人には大事業を遺して逝くことはできない」。すると弟が言った。「この山をくり抜いて湖水の水を取り、水田を興してやれば、それは後世への大なる遺物になるではないか」。兄は「それは非常に面白い考えだ。ではお前は上のほうから掘れ、俺は下のほうから掘ろう。一生涯かかってもこの穴を掘ろうじゃないか」と言って二人して掘り始めた。どういうふうにやったかと言いますと、その頃は測量器械もないから、山の上にしるしを立てて、両方から掘って行ったようです。毎年毎年掘って行って、何十年か後に、下のほうから掘って来た者が、湖水のほうから掘って行った者の一メートル上に行き着いたけれども、御承知の通り水は高い方から低いほうに流れますから滝のように下に向かって流れ落ちて行った。
 この二人の兄弟は生涯かかって、誰も人が見ていない時に、後世に事業を遺そうという奇特な心から、この大事業を成し遂げました。これは、今日に至っても我々を励ます所業ではありませんか。それによって、今の五ヵ村が、湖水の流れるところですから、旱魃になったことは一度もなく、頼朝の時代(千五百年)から今日に至るまで年々米を収穫して来ました。
 もし私が何もできないならば、私はこの兄弟に真似たいと思います。そのころは火薬もダイナマイトもなかった時代でしたから、あの隊道を掘るのは実に大変なことだったろうと思います。しかしそのことを成し遂げることができたこの兄弟は実に幸せな人間だったと思います。
 大阪の天保山を切り開いて彼の安治川を作った人は日本のために、非常な功績を残した人だと思います。安治川があるために、大阪の木津川の流れを北の方に取りまして、水を速くして、それによって水害を取り除いてしまったばかりでなく、深い港を造成して九州、四国から来る船をことごとくあそこに繋ぐことができるようになったのです。また秀吉の時代に切り開かれた吉野川は、以前は大阪の裏を流れていて、水害でもって人々を悩ましたのですが、堺と住吉の間に開鑿することによって大和川の水害がなくなり、そのおかげで何十ヵ村という村が大阪の後ろに生まれました。これは非常に大きな事業です。
 それから有名な越後の阿賀野川を切り開いたことも実に偉大な事業です。今、新発田の十万石は日本におけるたぶん富の中心だろうと言われています。
 これらの大事業を考えてみます時に、私の心の中には、もし金を後世に遺すことができないならば、私は事業を遺したいという考えが起こって来ます。
 また土木事業ばかりでなく、その他の事業でも、もし我々が心をこめて成そうとする時には、ちょうど金に利息がつくようにだんだん大きくなって、終わりには非常に大きな事業となります。
 このことを考えます時に、私はいつも有名なダビッド・リビングストンのことを思い出さずにはいられません。それで諸君の中で英語のできる方にはスコットランドの教授、ブレーキという人の書いた「Life and Letters of David Livingstone」という本を読まれることをお勧めします。
 私にとって聖書のほかに、私の生涯に大きな刺激を与えた本は二つあります。一つはカーライルの「クロムウェル伝」です。そのことについては後でお話します。それから次にこのブレーキ氏の書いた「ダビッド・リビングストン」という本です。
 それで、ダビッド・リビングストンの生涯はどういうものだったかというと、私は彼を宗教家、あるいは宣教師と見るよりもむしろ大事業家として尊敬せざるを得ません。もし私は金を貯めることができないならば、あるいはまた土木事業を起こすことができないならば、ダビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。
 この人はスコットランドの機屋の子でして若い時から公共事業に関心がありました。彼はどこかに事業を起こしてみたいという願いを持って、始めは中国を目指していましたが、英国の伝道会社がその必要はないと言って許さなかったので、ついにアフリカに入って三十七年間自分の生涯をアフリカのために差し出し、初めのうちは主に伝道をしていましたけれども、アフリカを永遠に救うには伝道よりも、まずアフリカの内地を探検してその地理を明らかにし、これに貿易を開いて勢力を与えなければならない、そうすれば伝道は商売の結果として必ず進んで行くに違いないと考えて、伝道を止めて探険家になったのです。彼はアフリカを三度縦横に横切り、解らなかった湖の場所や、河の方向も定められました。それによって種々の大事業も起こりました。
 しかしリビングストンの事業はそれで終わりませんでした。それがスタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題について、リビングストンの事業が原因となっていないものは何一つありません。コンゴ自由国、すなわち、欧米九ヵ国が同盟して、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に建てるに至ったのも、やはりリビングストンから始まったと言わなければなりません。
 それから今日の英国、またアメリカ合衆国は偉大な国だと言われますが、それは何から始まったかと考えてみると、少し偏向するかも知れませんが、その理由はイギリスにピューリタンという党派が起こったからだと私は考えます。そしてピューリタン(清教徒)が大事業を遺しつつあるのは、その中に偉大な人物がいたからです。
 オリバー・クロムウェルという人物です。彼の政権はわずか五年で、その事業は彼の死と共にまったく終わってしまったように見えますけれども、そうではありません。彼の事業は今日のイギリスを作りつつあります。それだけではない、英国がクロムウェルの理想を達成するのはまだずっと未来のことだろうと思います。彼は後世に英国を、アメリカ合衆国を遺したのです。アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て南北アメリカを支配するようになったのも彼の遺した偉業と言わなければなりません。

<第二回>
 昨晩は後世へ我々が遺して逝くべきものについて、まず第一に金のことを話し、次に事業のお話をしました。事業をするには神から賜る天才がいるばかりでなく、また社会的地位も必要です。我々は時々、あの人は才能があるのに、なぜ何にもしないでいるのかと言ってその人を責めますけれども、それは酷だと思います。人は地位を得ますとずいぶんつまらない者でも大事業をするものです。ですから、事業を以って人を評することはできません。
 それで私は事業の才能もなし、地位も友だちも社会の賛成もなかったならば、世の中に何も遺すことはできないかというと、まだ残っているものがあると思います。何かと言うと、著述をすることと、学生を教えると言うことです。
 それでこの二つのことをこれから論じたいと思います。まずその第一、著述をすることについてですが、すなわち思想そのものだけを遺して行くには本を書くことによる以外にありません。書物は我々が心に常に抱いている思想を後世に伝える道具です。
 偉大なる思想は、時には今の世の中でただちに実行することができないこともあります。だから、種だけを播いて逝こう、「我々は恨みを抱いて、地下に降らんとすれども、汝ら我が後に来る人々よ、折あらば我が思想を実行せよ」と後世へ言い残すのが書物です。
 二千年前のユダヤの漁夫や世に知られない人々が「新約聖書」という書物を書きました。そうしてその小さい本がついに全世界を改めました。また頼山陽という人は勤皇論を書いた人ですが、彼は日本を復活させるには日本を一つにしなければならない、それには徳川の封建政治をやめて、皇室を尊び王朝の時代に戻さなければならないと言う大思想を持っていました。しかしながら山陽は彼の生きている間にはとてもこのことができないことを知っていました。それで自分の志を「日本外史」に書き残しました。そして特別に王室を保護するように書くのではなく、源平以来の皇室以外の歴史を勤皇の精神を持って書き遺しました。
 今日の王政復古を来たらせた原動力は何だったかと言えば、多くの歴史家が言うとおり、山陽の「日本外史」がその一つでした。彼はその思想を遺して日本を復活させたのです。彼の骨は洛陽東山に葬られていますが、彼のAmbition(願望)は「日本外史」を通して、新しい日本を誕生させたのです。
 イギリスに今から二百年前、痩せこけて背の低い病気がちな一人の学者がいました。いつも貧乏で裏だなのようなところに住んでいました。そのころ、十七世紀中ごろというのは、ヨーロッパでは国家主義が全盛でした。イタリア、イギリス、フランス、ドイツ、みな国家的精神を養わなければならないと言って、社会は挙げて国家と言う全体主義に全思想を傾けていた時です。
 しかし彼は人とは違った一つの大思想を持っていました。個人は国家よりも大切だと言う思想です。この人はジョン・ロックで、その書いた本は「Human Understanding」です。
 この本がフランスに渡って、ルソーが読み、モンテスキューが読み、ミラボーが読みました。そうしてその思想がフランス全国に行き渡って、ついに一七九〇年フランスの大革命が起きて、フランスの二千八百万の国民を動かしました。やがて十九世紀の初めにはヨーロッパ中が動き出しました。それから合衆国が生まれました。またフランス共和国が生まれました。ハンガリーの改革もあり、イタリアの独立もありました。これらはすべてジョン・ロックの思想から影響を受けているのです。彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となったと言えます。
 それで、もし我々が事業を遺すことができなければ、思想を遺して将来において、事業をなすことができると私は思います。
 ところでここで、みなさんに注意しておかなければならないことがあります。我々の中で誰でも筆を取って雑誌か何かに批評でも載せれば、それで文学者だと思う人がいます。「文学」と言うものは怠け書生の一つのおもちゃであって、誰にでもできる気楽なもののように考えられています。その生涯はどんなものだろうと思っているかと言うと、赤く塗ってある御堂の中に美しい女が机の前に座っていて、向こうから月が上がって来るのを、筆をかざして眺めているというような風景です。これは何かと言うと、紫式部が源氏の間で本をしたためている姿です。これが日本流の文学者です。
 しかし、文学がこんなものならば、後世への遺物ではなく、却って後世への害物だと私は思います。なるほど、源氏物語は美しい言葉を日本に伝えたかも知れません。しかし、「源氏物語」が日本人の士気を鼓舞するために何をしたでしょうか。何もしないばかりでなく、我々を女のような意気地なしにしたのです。あの様な文学は我々の中から根こそぎ絶やしてしまいたい。
 文学はそんなものではありません。文学は我々がこの世界で戦争する時の道具です。今日戦争することができないから、未来において戦争しようと言うのが、文学です。それですから、文学者が机の前に立ちます時には、ルーテルがウォルムスの会議に、パウロがアグリッパ王の前に立った時と同じであり、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨んだ時と同じことです。
 この社会、この国を更に良くしよう、敵である悪魔を平らげようとの目的を持って文学で戦争するのです。ルーテルが部屋で書き物をしていた時、悪魔が出て来たので、インクスタンドを取って悪魔にぶっつけたという話がありますが、これがほんとうの文学だと思います。
 有名なウォルフ将軍 がケベックの町を取るときに、グレイのエレジーを口ずさみながら語った言葉があります。「このケベックを取るよりも、我はむしろこのエレジーを書かん」と。
 このエレジーは過激な文章ではありません。しかしイギリス人の心を、ウォルフ将軍のような心をどれだけ慰め励ましたか知れません。
 このトーマス・グレイという人は有名な文学者で博学、多才な人でした。しかし、彼が何を遺したかというと、たぶん二百か三百ページくらいの本で、しかもその中のエレジーと言う、たった三百行の詩のほかに目立ったものは何もありません。彼の四十八年の生涯はエレジーを書いて終わってしまったのです。
 しかしたぶん英語が話されているかぎり、彼のエレジーは忘れられないでしょう。なぜなら、この詩ほど多くの人を、ことに多くの貧しい人を慰め、世に容れられない人たちを慰め、志を抱いていながらそれを世の中に発表することのできない者たちを慰めたものはありません。彼はこのこのことによって実は大事業を行った人だと思います。
 また有名な説教者ヘンリー・ビーチャー が言った言葉に「私は六、七十年の私の生涯を送るよりも、むしろチャールス・ウェスレーの書いた「Jesus Lover of my soul」の賛美歌を作ったほうが良い」と申しました。彼がウェスレーの熱烈な崇拝者であったにしても、この歌の中に、どれだけの真情、どれだけの趣き、どれだけの希望があるのかを見ます時、あるいはビーチャーの言ったことはほんとうかも知れません。
 このようにもし我々に思想があって、それをただちに実行できないならば、それを書物として後世に遺すことは大事業ではないかと思います。
 こう申しますと、諸君の中にはまたこういう人があるでしょう。すなわち、文学者は特別の才能を持った人で「我々には本を書くなどということはとてもできない、これまで筆を執ったこともないし学問もない。源氏物語を見ても、とてもこういう流暢な文は書けない、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思って、自分は文学者になることはできないと失望する人がいます。
 その失望はどこから来たかと言いますと、文学についての柔弱な考えから起こったのです。すなわち「源氏物語」的な文学思想から起こったのです。しかし、文学と言うものはそんなものではありません。
 ジョン・バンヤン という人はちっとも学問のない人でした。もしあの人が読んだ本があるならば、バイブルとジョージ・フォックス の書いた「Book of Martyrs」(殉教者についての本)という二冊でした。
 後のほうの本ですが、今ではこのような本を読む忍耐力のある人はいません。私は札幌にいたころそれを読んだことがありますが、十頁くらい読むと後は読む気がしなくなる本です。特にクエーカーの書いた本ですから、間違いだらけです。しかしバンヤンは初めから終わりまでこの本を読みました。そして彼は言いました。  「私はプラトンの本も、またアリストテレスの本も読んだことはない。ただイエス・キリストの恵みにあずかった憐れな罪人だから、自分の思うまま、そのままを書こう」と言って「Pilgrims Progress」(天路歴程)という有名な本を書きました。
 それでイギリス文学の批評家の中で第一番というフランス人テーヌという人が、バンヤンのこの書を評して何と言ったかというと、「たぶん純粋と言う点から英語を論じた時にはこれに勝る文章はあるまい、これはまったく外からの混じりけのない、もっとも純粋な英語だろう。」と言っています。
 このように、かくも有名な本は何かと言うと、無学な人が書いた本です。それでもし我々にジョン・バンヤンの心がけ、すなわち我々が他人から聞いた、つまらない説を伝えるのではなく、自分の作りあげた学説を伝えるのでなく、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということだけを書くならば、世間の人はどれだけ喜んでこれを読むか知れません。
 現代の人が読むだけでなく、後世の人もきっと喜んで読むでしょう。バンヤンはほんとうに「真面目な宗教家」です。心の実験を真面目に表したものが英国第一等の文学です。
 もし我々の中に文学者になりたいと思う気持ちを持つ人がありますなら、バンヤンのような心がけを持たなくてはなりません。彼のような心がけ持ったならば文学者になれない人はいないと思います。
 この前、「基督教青年」という雑誌を出している丹波さんが私のところへ来まして、それをどう考えますかと聞かれたので、実につまらない雑誌だと答えました。どうしてかと言いますと、それは、青年が学者の真似をして、つまらない議論をあちこちから引き抜いて来て、のりでくっつけたような論文を出すからです。もし青年が心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切に遺しておきましょうと申しました。
 私は誰かの名論卓説を聞きたいのではありません。私は、女からは女の言うようなことを、男からは男の言うようなことを聞きたい。青年からは青年の、老人からは老人の思っている通りのことを聞きたいのです。それが文学だと思います。
 ただ我々の心のままをすなおに表してみて下さい。そうすれば、いくら文法が間違っていても、世の中の人は読んでくれます。それこそが我々が後世に遺すものです。
 私の家には高知から来た一人の女中がいます。非常に面白い女中で、いろいろの世話をしてくれますが、ある時はほとんど私の母のように世話をやいてくれます。その女が手紙を書くのをそばで見ていますと、非常に変わった手紙です。仮名で、土佐言葉のまま、長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。
 文学とは、我々の心情に訴えるものです。我々が文学者になれないのは、筆を取ることができないからではなく、漢文が書けないからでもありません。我々の心に鬱勃とした思想がこもっていて、我々が心のままに、ジョン・バンヤンのように綴ることができるならば、それが最高の文学です。
 こうしてもし我々が今の世の中に事業として遺すことができなければ、我々は書物を以って我々の考えを後世に遺して逝くことができます。
 しかしこう申しますと、またこういう問題が出て来ます。我々は金を貯めることができず、また事業をすることもできないならば、みんなが文学者になったら良いのでしょうか?文学者が増えると言うことは、ただ印刷所と製紙会社を喜ばすだけで、あまり社会に益とならないかも知れません。
(つづく)

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