Yassie Araiのメッセージ

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朝日記131001 自由宿題「目的論を考えることへの自問自答」 と今日の絵です。

2013-10-01 05:59:32 | 絵画と哲学

 

朝日記131001 「目的論を考えることへの自問自答」 と今日の絵です朝日記 

おはようございます。きょうから10月です。 

すっかり涼しくなりまいた。また陽も短くなりましたね。

以下は単なる忘備録でありますので 無視されて結構です。

絵8点ほど集めました。ご覧いただければ幸いです。

~~~~~~

 『「目的論を考える」ことの自問自答 』
                    

                   2013/09/20 a5750

* 「目的論の構造を考える ~カントの「判断力批判」を通じて」
問答の形式で この話題から わたしが何をしたいのか記しました。

 


(問い)なぜ 目的論の構造に着目するか。「価値」からもはいれるのではないか?「自由」、「普遍」からの切り口もあるが?
あなたは なにが知りたいのか。あなたは なにを願望しているのか。あなたは なにをしたいのか。 
*まず、第一義的に自分の年齢からの動機であった。まず、死生観を整理したいというものである。
(問い) なぜ?  
*残された人生の期間をいかに長くとらえても 生まれて現在までの期間よりも短い。 だから?  自分のこれまでの人生で 知識の得ようとしたことや、自分が行ったものから 知ったことこと。 そして それらから なにを知ったかを 知りたい。
 (問い)それがどういう意味が?
*それを集約するという活動は 意識の集中度をたかめ 充実感を獲得するとおもう。

 (問い) 充実感が大切なのか? それであったら 他にもいくらでも 候補があるではないか?  
そうだ、現に いま私が、絵を描くことは意識を集中してくれて 時間を経つのを忘れるほどである。また あと快い疲労感とつぎの制作への高揚がある。
 
 (問い)充実のつぎに高揚がでてきたが?  
*そうだ、何かに向かう意識は基本的には 自分の内なる要求があるからであろう。 この要求は かなり意識の集中を要する意志をともなうものであると感じている。つまり 「しごと」workなのであろう。

(問い)workしてもなんら収入にむすびつかないが?  
*人間のよろこびは さまざまであるが やはり 興味interest や好奇心curoisity を見出し得え それに意識 つまり思考と行動が 向けられることであると思う。 この対象はさまざまで ひとによって 違うし自分でも そのときどきで随分ちがうとおもう。
 (問い) 気まぐれか?
*そうかもしれない。しかい そうでもないところも大きい。 歳月を経ても変わらぬinterestはあるとおもう。 
具体的な対象や分野が違っても そうなのか? 
*変わらない。 対象や分野が変わったように そとから見えるだけだとおもう。
(問い) こじつけか? 
*そうかもしれない。 interestの対象が これまで経験した個別のものから 繋がったものに対象化していく。そういう 内側の意識(精神)中の「化学プラント」のようなものがあって そこでプロセスしていくようなイメージである。 個別だけでも巨大であるとみることもできる。 たとえば絵を描くという世界も 意識のなかに 基本は自然界から景観が入ってくるが そのひとつひとつをすべて取扱いすることは不可能であるし、そういう「監視カメラ」的なことはこの場合、意味ない。

 (問い)それでは どうするか?  
*やはり 意識のなかでのプロセスから できあがった ‘知識’という共通化したデータのかたまりがあるとおもう。もうひとつ ある対象から知識を獲得する技巧(判断力)あるは‘知恵’がある。このふたつ。知識には 学問がそうであるように分類的に個別から系統へとまとまって巨大である。ものを観察して 分析して 知識の中に位置づけることは 科学が代表する学術研究である。 物理学、化学、生命科学など 巨大な知識のピラミッドが現に形成されている。

 (問い)では、知恵はどうか?  
*そうだ。 知識獲得の方法、知識の応用の方法は、それぞれの学術分野に大切にされていく。 
 (問い)それで おしまいか?  
*いや、建築士や大工さんをおもえばよい。かれらは 家をたてるために 材料の知識をつかうが 目的は 施主の希望用件を叶えて 期日までに 機能と品質、好みなどを まとめ上げて実現することである。 これ自身は 知識ではなく 技巧である。 つまり、科学という知識追及の活動と工学という目的達成の技巧が 共存しあう必然性がある。

 (問い)だからどうなのだ?
*ひとりの人間のなかに 材料の知識に対して 部材として加工して、設計とおりに建築物をつくりあげるのは知恵(技巧)であるが、 知識と知恵を獲得して 使える状 態になっているのが技術(テクノロジー)である。 

 (問い)そのようなひとを科学技術者とよばれているが?
*そうだ。 現代の技術の対象は 巨大であるから、もはやひとりの知識と知恵では 覆いきれない。 したがって (知識と知恵)の機能をある程度分類して それらの人がプロジェクトとして編成され 目的を遂行していく。

 (問い)そうであるが、それでも 原発の問題をはじめ 当初考えた目的とは違う結果がでるのは なぜか? 
*それにはふたつある。 対象の構築物の容器の厚さや強度とか許容設計値の公の制定にすでに社会が背負う確率的なリスクを含んでいる。 そして全体の構築物を実現することの経済性、安全性、性能などの目的要因(変数)の選定そのものにも やはり社会が背負う確率的なリスクが つきまとう。 つまり 目的と価値は当然、(リスク)として表裏をなしている。
タテマエは 進歩への自由(as you like)と自己責任であるが そのあたりが曖昧でるとおもう。
 (問い)これに対して あなたがいう (知識と知恵)は どう機能していくのか? 哲学次元で 実践的な意味はどう持ち得るのか?
*私が意味しているのは  科学技術と組織(経営)主体との接点を考ええるとき、意思決定において人間倫理(・道徳)意識の内なる反省的作動および外なる規範的作動能力のそれぞれが、目標を設定する運営組織とそれに作動する実務組織の間が、ただしくシステム機能しているかという設問である。 具体的には もし、対象となるシステムの目的記述(変数)のなかに 社会的な正義や人間倫理の自発的作動(Spontaneity)を込めるとするなら、どのような倫理的発想メカニズムが投影しうるか(しているか)のパラダイム探求のための研究となろう。


 (問い)それで? 
*「システム思考での目的論理の構造と社会倫理について」という研究テーマを設定したいとおもっている。 倫理ということで 認識哲学的な主観と客観の領域にも足を踏み入れることになるが、この研究自体が科学的行動規範をもつので、超越的な領域での存在論的な評価までは立ち入らない。 しかし「目的」と「価値」が対象になるので 判断力批判としての認識哲学が思考の領域に入るとする。したがって つぎのふたつであろう;
1.自然系目的論
目的実践的実現をおこなう判断力と認識能力(主として悟性~感性の連合を仮定)、
および 
2.倫理(・道徳)系目的論
目的の倫理(・道徳)的な実現をおこなう判断力と認識能力(主として感性~理性の連合を仮定)

 (問い) 1と2とふたつともカバーするつもりか?
* いや、1については システム論研究の中心であるから敢えて、 触らない。 2の「目的の倫理(・道徳)」に焦点をおきたい。
以上


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