Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記240901 Le chatbot 長靴をはいた猫のこと

2024-09-01 10:28:02 | 自分史

朝日記240901 Le chatbot 長靴をはいた猫のこと

七年まえに投稿した以下の朝日記に、三十件ちかくのコメント交流があるのがわかり、その中味の新鮮なることに驚いています。

朝日記170605 フレー数理技術と私の夏の午後そして今日の絵

数学をつかって技術や経営の実践を支援していくという部門が、多分、そのままであるはずはありませんが、「末裔」の技術者たちが経営の中核に入っているということらしい。後輩たちへのエールの朝日記でした。

以下はそのなかからひとつ

1.科学と宗教の鉄の道 (文明評論家)

とそれと筆者のコメント

2.Le chatbot 長靴をはいた猫のことを

おおくりします。

 

 

1.科学と宗教の鉄の道 (文明評論家)
2024-08-21 18:12:30
一神教はユダヤ教をその祖とし、キリスト教、イスラム教が汎民族性によってその勢力を拡大させたが、その一神教の純粋性をもっとも保持し続けたのは後にできたイスラム教であった。今の科学技術文明の母体となったキリスト教は多神教的要素を取り入れ例えばルネサンスなどにより古代地中海世界の哲学なども触媒となり宗教から科学が独立するまでになった。一方でキリスト教圏内でも科学と宗教をむしろ融合しようとする働きにより、帝国主義がうまれた。宗教から正当化された植民地戦争は科学技術の壮大な実験場となり、この好循環により科学と宗教を融合させようというのである。その影響により非キリスト教圏で起きたのが日本の明治維新という現象である。この日本全土を均質化した市場原理社会する近代資本主義のスタートとされる明治維新は欧米などの一神教国が始めた帝国主義的な植民地拡張競争に危機感を覚えたサムライたちが自らの階級を破壊するといった、かなり独創的な革命でフランス革命、ピューリタン革命、ロシア革命、アメリカ独立戦争にはないユニークさというものが”革命”ではなく”維新”と呼んできたのは間違いない。しかしその中身は「革命」いや「大革命」とでもよべるべきものではないだろうか。

 

 
2.Le chatbot長靴をはいた猫のこと (Yasumasa Arai)
2024-09-01 10:06:36
>文明評論家 さんへ
>科学と宗教の鉄の道... への返信

深い啓示的な洞察として読ませていただきました。数学、論理、形而上学、超越論への哲学的論考整理が望まれると思います。(対象ーカテゴリー)、(関数functionー関手fanctor)、(それらの相互の相似構造間の矢印(自然変換))とといった数理構造と信号の論理展開について、数学の「圏論」からの思考パラダイム転換が注目されています。たとえば脳神経系と信号ながれのグラフ・ネットワーク構造などこの筋での現象モデルについての外的情報とそれに対応する内的モデル(意識)との統合的枠組みでのとらえ方が模索されています。つまり人間「意識」の取り込みを如何に論理化できるかです。システム機能論からの延長で、たとえばchatbotなどAIは試行開発期間であるとはいえ、もはや爆発的に一般利用普及過程に入ってきていますね。Googleのchatbot自体がおこなう判断自体の適否の評価判断はやはり生身の人間に直に帰されることには違いないとおもいます。特に第一段階術語論理(first order prediacte of logic)のような量的条件に記述できるものはAI判断は客観的評価内でのfeedbackが効きやすいですが、言語文書記述のようなpredicateつまり第二段階術語論理への論理行為には誤謬を含むということをみとめておかないと悲惨な結果がもたらされることになります。(Goedelの不完全性定理をもふくみます)したがってたとえば圏論からの思考構造とそれによる演算化の応用展開には、ここでたちどまって技術革新論として野放しにせず、結論にいたった前提条件や制約条件の明示について根本論としての専門的公的論議に付すことが必要になります。これは社会的晒し(disposition)として試験期間であることを公的に態度明示すべきことかもしれません。いずれにしても何かむずかしい課題でたとえばchatbotなどからの答えを拝受する社会風習はとどめおくべきとおもいました。ちなみにいま世界的にもっとも信頼の高いスタンフォード哲学百科などで「人工意識」や「意識」の項などをも内容reviewが敵的におこなわれ参考になります。またwikiの英語版なども質が高いと思います。総じて前提として哲学的にmonad論に立ち帰っておくことが前提になっているようです。プラグマティズムの祖であるPeirceにはじまる対象―信号-観察のTriadeの発想がここで生きてきたとみます。デカルトの二元論からスピノザの一元論(qualia)への観念回帰をも含めていますが、哲学系と物理系の学術界は、ここで甲乙の決着をつけたわけではありません。二十世紀の終わりの十年以降、目下一旦休戦して、すくなくとも物理系にも「こころ」について目をそむけることは避けることではたちゆかなくなった、つまり意識と体問題'mind-body problem)、つまり主観への世界との取り組みをみとめて、協力しようというところ(実験)で手打ちをしたとみます。脱線になりますがChatbotって、これは上のle chatbot(長くつを吐いた猫)からきたものとおもい口元をゆるめます。AIのもつ判断誤謬に対する危機感からくるものであるとおもいます。あえて申しますとまずは素朴集合naive set theoryについてのBertland Russelのparadoxからの数学論理解決法からはじまる現代集合論・選択理論は第一術語論理つまり科学技術展開にはそのままみとめたとしても、再度、文章術語論理への形而上系と論理系との関わりに集合論思考との関わりに目を向けることだであろうとおもいます。デカルトのまず「考える」におくその根源はなにか、超越領域-主観への回帰命題としておきます。話の動機が実社会(企業)での数理技術の活躍と今後の期待でしたが、「KPI競合モデル」や「関数接合論」のお話は大変勉強になりました。ありがとうございました。
コメント
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