Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記210406(続き8)翻訳 マイノング 5.5 高次元の対象 ~6こころの表現と対象への意図 7価値と感情

2021-04-06 17:38:00 | 絵画と哲学

 

朝日記210406(続き8)翻訳 マイノング 5.5 高次元の対象 ~6こころの表現と対象への意図 7価値と感情

 

5.5 高次元の対象

5.6 事実と真

6. こころの表現と対象への意図 -Meinongの意味理論

7. 価値と感情

7.1 Meinongの初期理論 ―価値主体・主観主義

7.2 Meinongの後期理論 -価値オブジェクティブ主義

~~~~本文 ~~~

5.5 高次元の対象

 Objects of Higher Order

ある対象を考えるときに、それは他の対象の上に成り立っている。

基礎となる対象をinferiusとよび、下位にあるものである、そしてそれはその上に築かれる対象に先立つものである、つまり、inferiusは上位対象に関しては低位のものである。

 

そのようなa superius(;上位性のもの )は、したがって、さらにan object of higher order ;高次元の対象によって作られるであろう(1899, §§2–7)。

より高次元の対象は基礎となる対象を想定している;諸君はsuperius(;上位)がinferiora(;下位)を付随させるということができる。

 

四つのナットがひとつの平面を形成する場合、ひとは “床に四つのナットがある“という、しかし ひとはまた、そこにナットがつくる四角形があるともいう、つまり、ナットが四角形を形成する。

ナットは基礎対象であり、inferioraである、そして形成される高次元の対象;superiusがナットの四角形である(1910, §§4, 6)。

他の例はつぎの文字絵“:–)”もしくは三つの点と丸い線を円形で囲った合成体によって与えられる、これは スマイルの顔餌をつくる。

Meinongはいわゆる存在論的原子論者であり、より下位の次元の対象があると考える―もともと高次元の対象としてはならない次元の対象を考えるのであった。

 

このような本質的に単純な対象はinfima (1921a, Sect. 2B: 105)と呼んだ。

高次元対象はinfimaの基礎のうえにあるにも関わらず、それらといっしょにまとめられることはない;superioraの物性はinferioraの物性を従属させるのである。

Infimaは要素的表現描写のこころの行為によって表現されることができ、一方、高次元対象は、representations(;表現描写)によって表現されることができる(これは表現描写が生みだすのである、前節 4.3.3をみよ)、および 他のこころの行為によっても生み出される。

 

Meinongの後期での研究では、高次元対象は複雑なもので(境界線ケースとしての集合体)、関係および威厳と願望、つまりobjectives(;オブジェクティブ)であるが上述したような対象である(1917, §11)。

高次元対象はいずれも仕様として構成要素を含み、これにそれらを結合した関係を含むのである。

高次元対象のすべてがmereological partsをもつわけではない。

Objective(;オブジェクティブ) ”丸い四角は存在しない“は、その構成”丸い四角“が存在しない対象であっても、being (subsists)(;実在(下位的存在))を所有する。

Meinongの存在するものの例によれば、高次元のreal objects(;現実)の対象もまた存在してよい(ある経験やある家)、しかし石の数とその形状相似性については、存在する家での石のあいだでは存在しない;それらは単にsubsist(;下位存在)であり、ideal character(;理念的性質)のものである(1899, §6; 1978: 252)。

 

Meinongの高次元の対象概念は、Christian von Ehrenfels’ Gestalt theory (Ehrenfels 1890)

(;Ehrenfelsのゲシュタルト理論)に強い影響をうけている。

Meinongの高次元対象とEhrenfelsのゲシュタルト理論との間にはある相違はあるものの、顕著な類似性がある(1891; 1899; cf. Smith 1994, Chapt. 8)。

 

5.6 事実と真

 Facts and Truth

Objectives(;オブジェクティブ)は理念的なものであり、現実の対象ではない。

オブジェクティブは 実在性もしくは非実在性を所有するが、それらは全く存在することはできない。

他のすべての(可能な)理念的対象のように、それらは単に下位的存在であることができる。

Subsists(;下位的存在)するobjective(;オブジェクティブ)は、factual(;事実的)とよぶことができる—それはa fact [Tatsache](;ひとつの事実)である。

Nonfactual objectives (nonfacts, [Untatsachen])(;非事実的なオブジェクティブ)はsubsist(;下位的存在)しない、そして、それらはobjects beyond being(;実在を超えた対象)である。

 

subjective sense(;主体・主観的意味)での“True”(;真)は、関係的な術語であり、それはsubsistent objectives(;下位的存在性のオブジェクティブ)にのみ帰属させることができるが、それらはthoughts (judgements or assumptions)(;思考(判断または仮定))が把握する限りの範囲のおいてである。

Thoughts(;思考)がsubsistent objectives (facts)(;下位的存在オブジェクティブ(事実))を表現している限りにおいて、ひとは類推的に、truth(;真)をthoughts(;思考)に帰属させることができる。

 

objective sense(;オブジェクティブ的意味)での“Truth”(;真)は、しかしながらsubsistent objective(;下位的存在のオブジェクティブ), つまりa fact(事実)を単純に意味している。

かくして、Meinongの真理論はborderline case of a correspondence theory(;対応理論の境界線ケース)」である;それはidentity theory of truth(;真の同定理論)である(1915, §7; 1910, §13)。

Possibility(;可能性)に対するprobability(;確率性)との関係はtruth(;.真)へのfactuality)(;事実性)の関係に対応する。

Possibility(;可能性)は“objective probability”(;オブジェクティブ的な確率性)であり、そしてabsolute(;絶対的)である、ここでのprobability(;確率性)はsubjective(;主体・主観的)であり、且つrelative(;相対的)の道筋である。

今日、“objective probability”(;オブジェクティブ的確率)と呼んでいるのはMeinongが“possibility”(;可能性)と呼んでいる意味であり(“degrees of possibility”(;可能性の度合い)ともよばれている)

 

  1.  こころの表現と対象への意図 -Meinongの意味理論

Expressing Mind and Intending Objects — Meinong’s Theory of Meaning

 

Meinongは言語の哲学を全般にわたって展開したわけではない;言語はむしろ部分的のものであり、彼の対象-理論での役割りは末梢的でもある。

1910年, §4: 28 [27]に、次の見解でまとめている;“あることばはそれが経験を表現するものであるかぎり何かを意味する、したがって、表現された対象はthe meaning [Bedeutung](;その意味)である。

 

このことは言語的項目すべてに一般化される:だれかが、もし、”黄金の山は存在しない“と判断すれば、彼女はjudgement and its presupposed representations(;判断と事前想定した表現描写)を言明している、そして彼女は黄金の山が存在しないというのはobjective(;オブジェクティブ)を意味しており、さらに他のすべての事前想定した、たとえば黄金の何かおよび山のようなものすべてをobjecta(;オブジェクタ)として意味することになる。

 

うえのことばで “means” と “meaning”についてはふたつの使い分けがある:(1)meaningはsigns(;記号)とexperiences (acts)(;経験的行為)との間の関係、つまり経験を言明する関係である;そして(2) meaningはsigns(;記号)とobjects(;対象)との間の関係である、それらは対応する心理的内容によってより確かに、つまり経験の対象を言明する関係によって表明されるのである。

 

Martinak 1901によれば, Meinongはsigns(;記号)は誰かにobjects(;対象)のexistence(;存在)(通常、他の対象であるが)を知らしめるobjects(;対象)

であると言明する。

A は記号であり、これは誰かに  Bというepistemic ground(;認識的帰着)へのepistemic ground(;認識論的基盤)を構成するための記号である。

もし、諸君がAの表明からB の表明を推測することができるなら、そのときA は諸君のためのB の記号 となり、そしてB のthe being(;実在性) は記号 Aのmeaning(;意味している)である。

Sign(;記号)とmeaning(;意味している)はわれわれの通常sense(;感覚)としては、広い範囲のケースをカバーする、自然にして、“real” signs(;“現実”の記号)は、たとえば 雷嵐のための暗い雲や悲しみの涙、そしてたとえば言葉の集合がこころの行為を表明するような人工的な,“final”  sign(;”最終”記号)を上げることができよう。

 

幸福、悲しみ、確信のような経験は、笑顔、涙、そして言葉の集合のような、あるobject(;対象)によって表現できよう。

このobject(;対象)(より正確には;対象が対応するようなfact(;事実)であるが)がexpressed act(;表現された行為)(経験、こころの現象))を諸君に知らしめるのであり、したがって、この対象が、meaning(;意味する)としてその背後にあるact(;行為)を持つsign(;記号)としてfunction(;機能化)するのである。

 

もしA がその意味するものとして経験 B を有するという記号であるなら、そして もし対象C が表現された経験Bによって表現されるなら、sign(;記号) A はB のみでなく、さらに、それ自身が意味をもつCとも結合する。

“Grazに雨が来る”というつぶやきはひとつの判断を意味し、そしてそれはその判断の対象を意味する;すなわち、Grazに雨が来るということがobjective(;オブジェクティブ)を意味する。

別の言葉で言えば、諸君のつぶやきは、一方で、Judgement(;判断)を表現していると言える、そしてそのつぶやきは他方で、判断によって表現されたobject(;対象)を表現しているといえる。

 

Meinongはつぎのことを観察した;ある言葉の意味するものは、通常、誰かのための行動上の意味するものであるが、彼はまた、それと対照的に、ある話者が可能的に意味することに対して、ことばのもつ言語論的な意味を述べている。

Meinongは1910以降、以下のような図式でそれを説明している(cf. Simons 1992, 163):;

 

誰かが次の文章でつぶやくとする;“黒い何かがある” および “明るい何かがある”、この二つの異なるものはつぎのふたつの表現によって意味することができる;

(1)意味する対象はさらなる可能な決定のためにclosed (;閉じて)おく;

(2) 意味する対象は、さらなる可能な決定のために open (;開いて)おく。

もし、“黒い何か”が open(;開いた)方式で使われるなら、対象としての黒さとは別の物性をもつことが可能な何かとして考える;それは“明るいなにか”を意味する対象と同定されよう。

 

もし我々が“黒いいなにか” および“明るいなにか”の表現をclosed way(;閉じた方式)を使うなら、これらの表現によって意味される対象は、necessarily distinct(;必然的に別のもの)になる。

一般に、real, existent things(;現実的で、存在性のあるもの)について語るのであるが、それらは、完全に決定された対象としては、際限のなく多い決定をもつものとなる。

我々のこころは視点としては、有限の数のみ扱うので、我々は通常、open(;開いた)方式として対象を考えることになる(1910, §45)。

しかしながら、質問がのこる;それはある対象が、我々にとってclosedかopenかと問われれば、これは我々の意図(意味するもの)に依ることになる。

しかし、何が、開いた態度を開かせるか?

 

後に、1915年、Meinongは指摘する;我々はincomplete objects(;非完全対象)を使うことができる、これは、a square brown thing(;四角い茶色のもの)のような対象で、これを“auxiliary object” [Hilfsgegenstand](;補助対象)としたのである。これによって、より完全に決定される対象を意図(意味)することができることになる。たとえば a square brown thing in the dining room (;食堂にある四角い茶色のもの)で、または、我々が意図している“target objects” [Zielgegenstände](;標的対象)として完全なものにさえ近づけることが可能になる。 

 

あるtarget object(;標的対象)を把握するために、補助対象は、標的対象において“implexive being” [implexives Sein](;インプレックス性)を所有しなければならない。つまり、それは、-より完全対象において-ひとつの方式のなかにinvolved(;包含)されなければならないのである。

ある非完全対象 Aは、より完全な対象Tのなかに implected (;インプレクス)されなければならない。ここでTA が持つ決定のすべてを所有し、またその時にのみA

implected (;インプレクス)となるのである(cf. 1915, §§27, 29;上述 Section 5.2.3 )。

 

a complete object(;完全対象)を目指すためには、意図を明示的にしている完全性へのmoment(;動機)を含ませることが基本である。 

もし、私が‘四角い茶色のもの’という考えによって何か全体が十分に決定されることをねらうなら、私は ‘a determinate square brown thing’(:‘決定している四角い茶色のもの’)を考えることのみを必要とする。ただし、この段階では、その考えが、他のなにかと違うのかを必然的に決定してはいない(1915, §26: 189)。

 

Meinongは指摘する;かれが示唆していることの決定性や完全性は単にnuclear property(;核的物性)として見ることはできず―それはextra-nuclear character(;付加的核性質)のものでなければならい(上記 Section 5.4.3 をみよ)。

auxiliary objects(;補助的対象)は非完全性でありかつそれらはcomplete target objects(;完全な目標対象)にimplected(;インプレクス)されることができるように、それらは、universals, concepts or types(;普遍、概念や型式)のような抽象的な自然のものと、特徴的な類似性をみせている。

かれの1915 (p. 739–40)付録で、実際、Meinongはそのようなincomplete objects(;非完全対象)は、being(;実在)をともなわないとしてplatonic universals(;プラトン的普遍)としたと自身で解釈した(see also 1978: 368; Section 4.1 above)、そしてさらに付け加えて;“mean [bedeuten](;意味)している部分のことばがauxiliary object(;補助的対象)であり、そしてdesignate [nennen](;表徴する)部分のことばがtarget object(;目標対象)であるとしたのである。” (1915: 741)

このことはFregeの sense/reference distinction(;感覚/参考区分)に類似している;その非完全的な補助的対象の役割はFregeの感覚に酷似しているである、それはmode of presentation(;表現描写性のモード)とdeterminant of its referent(;その参照の決定性)として機能するものである。

補助的対象としての非完全対象についてのMeinongの見解はRussell (1903)のconcepts view of Russell(;概念見解)の記述とも近い類似性をもつものである。

 

  1. 価値と感情

Values and Emotions

7.1 Meinongの初期理論 ―価値主体・主観主義

Meinong’s Initial Theory — Value Subjectivism

Meinongの初期の価値理論はCarl Mengerの主観主義者的な解釈によって影響をうけている。これは経済学での価値は何かついて、それが商品固有ではなく、ひとびとの主観的価値によって決定されるものとしてである。

Menger (1871, Chapt. 3, §1)によれば、価値はindependent real things(;独立した現実的なもの)ではないとした。ここで独立したものとは人間の意識の外に存在するというものを意味している;values(;価値)は ひとびとがかれらの必要性を満足させるextent(;外延)となる何かに帰属させるimportance [Bedeutung](;重要性)であるとした。 

Meinongはこの見解を批判し、修正し、一般化しそして拡張したのである。

彼は経済的価値にのみ関心したのではなく、価値一般、そして彼は価値以上に他の場へ、たとえば、倫理学および芸術的美学へと価値一般理論の適用を試みたのであった。

 

彼の実用哲学での初期のコースではすでに、倫理学を一般価値理論の、そして心理学を価値理論の基礎においたのであった。

Meinongの初期の価値の理論(1894; 1895)は、価値経験が主観主義者のそれと重なるのであるが、Meinongは、説明の筋としてはvalue experiencies(;価値経験)こそが things have values(;モノが価値を所有する)以前に実在するという理論を保持した。これは我々のvalue attitudes [Werthaltungen](;価値態度)に因るものであり、モノが価値自体をもつことに因って我々がモノを価値づけるのではないというものであった。

 

価値態度はvalue-feeling [Wertgefühl](;価値感覚)である、たとえば、その人をあるインチキな状態から救いだすことは正しく、もしくは称賛にあたいするとする感覚である。

 

価値態度そのものは、あるひとの価値感覚についての判断性ではなく、また対象の価値についての判断性でもない。

価値感覚は信じているstates of affairs(;事態)とpresupposes(;先入観)への感情的な応答であり、したがって、intended objects(;意図する対象)についてのjudgements(;判断性)およびrepresentations (ideas)(;表現描写性(理念))であり、これは“psychological presuppositions”(;心理学的先入観)と呼ばれているものである。 

 

感情の対象はそれらの判断性と理念によって、the mind(;こころ)以前に設定されているのである。

Errors(;誤謬)は価値態度の心理学的な先入観であるjudgements(;判断)においてのみ起きうるのである(たとえば、その人は忌まわしい状態にある)そして彼自身がもつ(manifest and latent(;明示的にして潜在的))な価値態度にまつわるmisjudgements誤謬判断によって起きるのである。 

 

Meinong(1894; 1895)が考えたのは、absolute(;絶対的)にして、impersonal(;非人称的)な価値は実在しないこと、したがって価値は価値感覚を所有することが可能であるsubject(;主観・主体)の概念なくして定義しえないとしたのである。

価値を所有する対象とその対象を所有する主体・主観との間の特別な関係であるとみた(1894: 71–2)。

Meinongは彼自身、この段階で価値主体主義であると考えていたにも関わらず、彼はすでにある種のnon-subjective(;非主体・非主観的)、称してintersubjective(;間主体的)およびdispositional(;配備的)な、条件を価値の定義に含ませていたのであった。

価値は概念的には価値感覚で決定されるが、価値は単にassemblage of value-feelings(;価値感覚の集合体)として特性化されないと考えたのであった。

 

価値判断[Werturteil]とは、すなわち、なにかあるものが価値をもつ、持たないという判断であり、これは実際のvalue feeling(;価値感覚)をはるか越えているのであり、したがってその真の価値についての決定は第一義的にcognition(;認識)の案件であり、emotion(;感情)の案件ではないのである(1895, §4)。

価値判断のことばでの表現は、ひとの実際的な価値感覚でもなく、ひとが実際に好き嫌いについてのことばのうえでの判断ではない。 

 

それは、つぎの判断を表現する;件の物が好き嫌いを起こす能力を有するのであるがそれは適正なcircumstances(;状況)のもとで、正常なdisposition(;配備)をともなった適正にoriented(;位置づけ)られたsubject(;主体・主観)によっておこされるjudgement(;判断)の表現なのである(1894: 25; 1895: 328)。

価値はつねにpersonal(;人称的)もしくはinterpersonal(;非人称的な)価値であり、すなわち、個人に対してもしくは個人の集合体に対してのものである。

 

道徳的価値を論ずる場合に、Meinongはそれらを個人の主体:主観には置かず、集合的な主体:主観に付している、つまり“surrounding totality” [umgebende Gesamtheit](;周囲としての全体性)であり、ここでは件の個人たちはそれに帰属する―究極には人類全体へとつなけたのであった-(1894: 168ff, 205, 216–7)、もしくは、the representative of social interests (;社会的関心の表現描写)として、より個人的な形式においてであった(1894: 187)。

 

価値の構成的性質(および価値感覚、それぞれ)については、それ自身として非定義的であり、非分析的である、それは、価値が効用、幸福、喜び、生物学的必要もしくは価格によってはとても導出できないからである(1894, §§2–4; 1923, I, §§2–5)。

対象の価値の物性は物理的や心理的な物性とは異なり、固有的、基本的な物性ではない、それは高次元の物性であり、そして対象の外側に至っていて、或るものがその対象と対象の埋もれた物性に依存しているようなものである。

 

Meinongは、倫理的関係主義および認識主義であって、道徳的価値の表現性は経験的事実であることを強調したのであった(1894: 170)、そして倫理は、一般的に価値理論と同じく、経験的科学であるとしたのであった(1894: 225)。

 

ある種の自然的な誤りへ犠牲を出してしまった叱責に対しては、Meinongは、第一に、からは知的、認識的なサイドと感情的サイドとの混同をしないこと、第二に、ある事実は意図的(感情的および知的な)態度でこれは個人もしくは共同体のメンバーの態度によって構成されたものであること、そしてそれ故に valuative(;価値を重んじる)特性とnormative(;規範的な)力に帰するものとした。

 

Meinongは感覚に価値をおき、願望には価値の基礎としなかった、そしてかれはかれの感情主義にたいしてEhrenfelsのvoluntarism(;意思主義)を、より合意主義、願望ベースの価値理論として批判的に対比させたのであった。

モノは我々がモノを価値あるとするが故に価値をもつ、そして我々は、それらが我々のために価値をもつ故に願望する(1894: 15, 25; 1895: 341,ここでは彼はEhrenfelsは近くに来ているCf. Fabian & Simons 1986: 57–75; Schuhmann 2001, Reicher 2009.)

 

7.2 Meinongの後期理論 -価値オブジェクティブ主義

Meinong’s Later Theory — Value Objectivism

Meinong (1912; 1917; 1923)は、彼の後期になって、value objectivist(;価値オブジェクティブ主義者)になり、theory of objects価値理論は彼のepistemology認識論とphilosophical psychology哲学的心理学と一緒に価値の理論へと入っていく。

 

彼は、価値の構成としてもはや、value experiences価値経験を考えなかった。

価値経験は単に価値をsubject主体・主観に受け入れさせるものとした。 

それらは 彼ら自身の(“emotional presentation”;感情的表現描写)の表現機能を与える、そしてそれらは価値を獲得する方法のひとつであるとしたのである。それは丁度、sensations in perception(;感知での感動)に類似している。 

 

さらに、ひとつのvalue experience価値経験もしくはvalue attitude価値態度は、対応するvalue judgement価値判断からは区別されるべきものであるとした。

感覚の質の主体・主観性にかかわらず、ひとは個人的な色彩や個人的な困難について語ることを好まないとMeinongは語る。

 

同様の筋で、各価値はある個人の価値でなければならないというケースはないとしたのである、なぜならそれは価値経験の仲介を通してののみ我々に届くからである(1923, Chapt. IV, §7: 152)。

 

Perception(;感知)はsensations,(;感動)を基礎にした個人的な判断を含むものである。つまりperceptive representations [Wahrnehmungsvorstellungen](;感知的な表現描写)である。

 

Meinongはもはや価値主体・主観主義者でも相対主義者でもなかった。

彼はobjective valuesオブジェクティブ価値にかんする現実主義者となった、彼はvalue experiences価値経験は主観的、個人的価値を表現するばかりでなく、objective, absolute, impersonal valuesオブジェクティブ、絶対的、非人称的価値を表現することができるという信念にたった:“対象は主体・主観がそれに興味があるというだけの価値だけではなく、それがこの興味をさらに利するという新しい感覚での価値をもつ”。 (1912, Sect. IV: 12) 

 

それでも、まだMeinongは個人の価値の仮定を捨ててはいない。

個人の対象への価値は感情的な意義であり、そこでは主体・主観がその対象を課するために配備されている(1923, Chapt. IV, §6: 144–5, §7: 162)もしくは、別の言葉でいえば、その対処は主体・主観においてのしかるべき価値経験を興すべき対象適性がある(1917, §13: 151 [132], 156 [136])というものである。

 

非人称的な価値は、これに対して、価値態度には基づいていない;それらの価値は態度とは独立である、しかし、それらにsubjective characterization主観的特性化を与えることができる(これはa definition定義ではない)。

もっとも一般的な感覚において対象はdescribable記述的なものであるが、しかし定義的ではないが、この対象をobject of experience経験の対象に仕上げることができるなにかとするのである。

Values(;価値)はvalue experiences(;.価値経験)のobject(;s対象)となるdispositional property(;配備的な物性)によって記述されることができる。

 

しかしながら、value experiences(;価値経験)はa dispositional value property(;配備的価値物性)を理解する方法であるばかりではなく;value experiences(;価値経験)は、actual value property(;実際の価値物性)を理解する方法でもある、ここでの実際の価値物性とはunderlying foundation(;隠れた基礎)であり、またはbasis of the disposition(;配備の基礎)である。

dispositional properties(;配備物性) にかんするMeinongの理論(1919)によれば、disposition(;配備)はそのactual quality(;基礎として実際上の品質)を所有するものである。

actual feature(;実際的様相)こそはdisposition(;配備)のfoundation(;基礎)であり、これが主体・主観でのvalue experiences(;価値経験)を創出するのであるが、この様相は純粋にobjectively(;オブジェクティブ的)に決定されるのである、つまり、いかなる主体・主観をも参照としないものである。

 

Meinongによれば、objective values(:オブジェクティブ価値)は実在するとした、それを翻訳すると(1) 価値経験を生産するためのdispositions(;配備)として そして (2) このdisposition(;配備)の基礎としてである(1923, Chapt. IV, §7: 151)。

genuine objects of emotions(;感情の真正の対象)は、“dignitatives”(;尊厳)とよび;たとえばgood(;善)およびbeautiful(:美)である。

 

Ought [Sollen](;義務感)とexpediency [Zweckmäßigkeit](;対応感)はdesideratives(;願望性)とよばれるparadigms(;範疇)であり、対象としてはgenuine objects of desires(;願望の真正な対象)である(1917, §11)。

 

Objectives(オブジェクティブ)のように、思考の真正の対象は、dignitatives(;威厳的)であり、そしてdesideratives(;願望的)であるがそれらはsubsist(;付加存)できるか、あるいはできない[3、そしてそれらはideal objects(;理念的対象)であり、そしてsomething mental(;こころのなに)をsomething physical(;物理的ななにか)に還元することはできない。

value properties(;価値物性)はnatural properties(;自然物性)へ還元しえないので、それらはある意味で分析不能なものである。

 

たとえば、Goodness(;善なること)は pleasure(;よろこび)としては定義できないし、そしてmoral value judgements(;道徳的価値判断)は、道徳的行為についての心理学的ましくは社会学的な報告へ還元されることにはなりえない。

さらに、尊厳および願望は複雑な本質を持つのである、なぜならthe presuppose certain things and states of affairs(;先入しているたしかなモノおよび状況事態のもの)であるからである。

 

人はたとえば、ある建物が現前にうつくしく表現されているときに、aesthetic emotion(;芸術的美の感情)をもつ。

その建物が表現された美はgenuine, proper object [Eigengegenstand](;真正で、適正な対象)である— the dignitative (;尊厳的なもの)— the aesthetic emotion,(;芸術美的感情)のものである。一方その建物そのものは件の感情にたいしてのpresupposed, appropriated [angeeignete Gegenstand](;予め考えられたものであり、適正なもの)である。

 

 

Dignitatives and desiderative(;尊厳性と願望性)は、そこでは高次元の対象である(1917: 107–8 [95–6]) — それらは superiora である(上述 5.5をみよ;  ought(;ねばならない)はより高次元の対象を実在させるという見解に対抗するものであ;、Weber 2004: 31–3をみよ)

人は、まさに四つのナットをナットの四角形とみるように、またはふたつの点とひとつの円弧をもつ円がスマイルとみて、事前資金の協力を道徳的善であると共通理解をさせるようなものである。

 

value properties(;価値物性)を獲得することはa Gestalt(;ゲシュタルト)を掴むこととして翻訳できる。これはEhrenfelsや他のゲシュタルト学派が同意するものであろう。 

次のように言えるかもしれない;good-Gestalten(;よきゲシュタルト)(道徳的によい、芸術美学的によい、など)というものが実在すると。

 

“value perception”(;価値認知)とsensory perception(;感性認知)の間の主たる相違は、前者はsense impressions(;感覚的印象)の代わりに(またはそれに加えて)emotional impressions(;感情的印象)が含まれるのであると。

Meinongは考える;impersonal values(;非人称的な価値)の非定義性は、色彩や音声のようなものでは適用されないが、しかし、むしろ旋律や形式では当てはまる[Gestalt]” (1923, Chapt. IV, §7: 161)。

Meinongは、dignitatives(;威厳的なもの)とdesideratives(;願望的なもの)は非人称的な自然性でありこれらを“dignities” (;威厳)および “desiderata”(;願望)とそれぞれ呼んだのである(1917, §15)。

Axiological (and deontological) knowledge(;公理的(そして道徳律的)知識)は可能なものである、なぜなら威厳性(および願望性)を表現する感覚はただしさの判断をなしうるからである。

 

ある感覚は正しいと判断されるのは、次の場合である;corresponding judgement(;対応する判断)がpresupposed object(;先入対象)への威厳性にattributing(;帰属)するということが判断される場合である(1917, §12)。

MeinongはBrentanoの“love with the character of rightness”(;正しさのキャラクターをもつ愛)や“correct love”(;正しい愛)への近親性をもっていた。それは、判断の証拠への“evidence-analogue”(;証拠類似)として理解できたからであったが、しかしMeinongはthe evidence of judgements(;判断の証拠)それのみがjustification(;判断性)を可能にし、そして、感覚と願望のための証拠類似性はしたがって、要求されないと強調したのであった。

 

Values(;価値)がideal things(;理念的なモノ)としてうけ取られなければならないように、Meinongはaxiological(;公理的)な(そして、同様に、deontological(;倫理学的))な知識は a priori(;直観的)であると考えたのである (1917, §12)。

彼は確信している、それは“法則としてただしい結論に導くものがあると同じように正しい願望を発言に導く法則がある”ということについてであった(1917: 128)。

1912年に彼のvalue(;価値)について、自然学的で、“際立って心理的”な位置に立脚することは、受け入れ難く、誤ったpsychologism(;心理主義)に陥るということをすでに、自戒して認めていたのである( 1917: 168 [146]もみよ)。

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 朝日記210406 (続き 7)翻... | トップ | Asanikki210429 Ongaku-kagi... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

絵画と哲学」カテゴリの最新記事