
高瀬神社/富山県南砺市(Takase Jinja,Nanto-shi,Toyama,Japan)
☆越中国一宮
2018年5月10日(木)、富山県南砺市にある高瀬神社(たかせじんじゃ)に参拝。平地の林の中にある大きな神社。雨が降る。大きな駐車場。立派な参集殿。大門川にかかる一ノ宮橋。白い第1大鳥居。右に社号標。左に由緒碑、自然石の大燈篭。鳥居をくぐり砂利参道。右に綺麗な休憩所+トイレ。左に藤井秀直翁之像。境内はスギ、イチョウ、シュロ、モミジ、マツ、サクラ、ツツジなどの巨木の林。参道をゆく。ツツジ咲く。右に大きな手水舎。左に大きな社務所。白い第2鳥居。その前右に「祈り」のブロンズ像、赤い鳥居3基の高瀬稲荷神社、茶筅塚、更に右に宝物殿あり。左に神馬像。第2鳥居をくぐり赤い欄干の小さな橋を渡る。正面に灰黒屋根の荘厳な社殿。社殿内賽銭箱の右に「なでうさぎ」。社殿右に屋根のある土俵。社殿左に「さざれ石」、白い鳥居のある功霊殿(こうれいでん)。駐車場の隅に、故陸軍歩兵軍曹山田清平之碑および戦没者を供養するための碑あり。
獅子狛犬は第2鳥居前に居た。阿吽像の配置は正常。奉納は昭和47年11月(1972年)。胸板厚くガッチリした体型。耳は水平、タテガミは豊かでウズを巻き下へ流れ、尾は大きくウズを巻きうねりながら直立。
。------------ネットによると-----------
☆所在地
〒932-0252 富山県南砺市高瀬291
☆祭神
〇主祭神
・大国主命(大己貴命:おおなむちのみこと)
〇配神
・天活玉命( あめのいくたまのみこと )
・五十猛命(いそたけるのみこと)
☆由緒
御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。
越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。
また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時の盛大さを偲ぶことが出来ます。
戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。
大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。
☆地名の由来
・南砺市:古来砺波郡の南部を指すから。
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☆越中国一宮
2018年5月10日(木)、富山県南砺市にある高瀬神社(たかせじんじゃ)に参拝。平地の林の中にある大きな神社。雨が降る。大きな駐車場。立派な参集殿。大門川にかかる一ノ宮橋。白い第1大鳥居。右に社号標。左に由緒碑、自然石の大燈篭。鳥居をくぐり砂利参道。右に綺麗な休憩所+トイレ。左に藤井秀直翁之像。境内はスギ、イチョウ、シュロ、モミジ、マツ、サクラ、ツツジなどの巨木の林。参道をゆく。ツツジ咲く。右に大きな手水舎。左に大きな社務所。白い第2鳥居。その前右に「祈り」のブロンズ像、赤い鳥居3基の高瀬稲荷神社、茶筅塚、更に右に宝物殿あり。左に神馬像。第2鳥居をくぐり赤い欄干の小さな橋を渡る。正面に灰黒屋根の荘厳な社殿。社殿内賽銭箱の右に「なでうさぎ」。社殿右に屋根のある土俵。社殿左に「さざれ石」、白い鳥居のある功霊殿(こうれいでん)。駐車場の隅に、故陸軍歩兵軍曹山田清平之碑および戦没者を供養するための碑あり。
獅子狛犬は第2鳥居前に居た。阿吽像の配置は正常。奉納は昭和47年11月(1972年)。胸板厚くガッチリした体型。耳は水平、タテガミは豊かでウズを巻き下へ流れ、尾は大きくウズを巻きうねりながら直立。
。------------ネットによると-----------
☆所在地
〒932-0252 富山県南砺市高瀬291
☆祭神
〇主祭神
・大国主命(大己貴命:おおなむちのみこと)
〇配神
・天活玉命( あめのいくたまのみこと )
・五十猛命(いそたけるのみこと)
☆由緒
御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。
越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。
また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時の盛大さを偲ぶことが出来ます。
戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。
大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。
☆地名の由来
・南砺市:古来砺波郡の南部を指すから。
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