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応援されることの原理

2013-04-29 19:38:09 | 無題
<h1>前回の記事で、箱から抜け出す方法について考えていたのに、

応援されるにはということに考えが至った。</h1>


そのつづき。


イラストレーターの友達を思い出した。

その人は毎日アップもしていなければ、

むしろあまりアップをしないし、

プロでもないのだけれど、

応援したくなるところがある。

それについて考える。


前回出し答えは、

応援という株でいえば出資にあたることを受けるには、

進展のある結果を出していかないと、

毎日イラストをアップするだけではあきられるよう

―将来の有望性があやぶまれる

ようであると結果を出した。


しかし、毎日イラストをアップもしていなければ、

むしろ、もうイラストレーターなどのアート系の道は断念して、

事務や経理の道を目指そうかなぁと考えていることを表明した人のことを思い出した。


それでも、なぜかイラストは描き続けてほしいと思うし、

私が仕事を触れる立ち場になれればなぁと思わされるほどだ。

もちろんその人には仕事があって、

私には仕事がなかったら、すごく悔しくて、

素直に応援できない気持ちになるのだろうけど。



その人は在学中も課題を期日までにやってこないような人だった。

なれん、

期日をすぎたけれど一気に出した作品はどれもそこそこクオリティがあった。

先生は毎回期日をすぎていたけれど、

いつも声をかけて気にして、期待しているようだった。

卒業後もFacebookでたまにアップされるなにかつくったものに、

いいね!やコメントを必ずつけるほど、

先生は気にしていてお気に入りだった。

先生にも何百人もの生徒と、在校生がいるのに。

その人はイラストがうまかった。

デザイン科ではあるけれど、

単純線で描いたキャラクターから、

リアルよりの絵まで描けた。


それで、前回出したファインアートの人だけれど、

その人はあまりうまくはなかった。

色使いも万人受け刷るようなものではないし、

他の作品もアンダーグラウンドな感じで、

できは理解できる人にはいいかもしれないけど、

あまりうまい作品とは言えなかった。

そういうアンダーグラウンドな作品でも世間がいいと騒ぐものは

キャッチーさがあると私には感じるんだけれど、

そういうのが毎回ない。


つまり、

“将来有望そう”

と感じられる、感じさせるのが大事であって、

毎日アップとかは有益ではないということになる。


毎日アップより、技術が高い人の方が、

その人がプラプラしていても、

周りがもったいないとほおっておかないということだ。

それはよく聞く話だ。


ここでなんでこんな話になったのかという話をする。


前回書いたとおり、

駆け出しの人に対して、駆け出しである私もほぼ無償で、

手を貸して応援したわけだけれど、

私はプロになり、

お金を貰える立ち場になった時、

会社で結果を出し

(アシスタントではなく1人で案件をこなし

クライアントさんにも喜んでいただけたとき)、

1つ進展した私は、

手を貸している相手に料金を払ってくれるよう申し出た。


無料だと思っていたものが、

料金の話が出た時、

驚きながらもそりゃぁそうだよねという反応を両者とも見せた。


私はなんだか申し訳な気持ちになった。

けれど無償で行っていくには限界があるし、

無償だから遠慮している部分があるのではという不安や、

無償であるものに価値はなく、遠慮はしていなくてもまぁこれでいいやと

思っているのではないかという疑心暗鬼があって、

どちらにしてもお互い気持ちにいい状況ではないと思って決断した。

先輩は、無償で仕事を引き受けるのはよくないと説いた。

さらに業界の方にも申し訳なかった。

この仕事が無償で行えるような労力と価値のものという認識を、

少なからず広める手助けをしていることを、

私はよくないことだと思って、

裏切りのような感じさせるのではという恐れもありながら、

意を決して申し出たことであった。


一方は既に自分の商売でお客さまから料金を頂いて暮らしている人だった。

けれど、そうだよねぇ、タダ働きになっちゃうと苦笑いしていて、

私は悲しかった。

申し訳ない気持ちと、今までやってきたことに価値をおいて―役立っていなかったのだと。

私の応援は果たして、

その人にとって糧になるものだったのか、

まったく無意味なものだったのか、

それよりうるさい、わずらわしいものだったのか。

私はわからなくなってしまった。

嬉しそうに打ち合わせをしたり、喜んでいた姿はなんだったのかと。


こう書くと、

ただその人にとって勝手に応援してくれる人で、

応援してくれるならウエルカムだけど、

お金を少しでも払って助けてもらいたいということではなかった

―それについて投資する気はなかったということだ。

その人ははじめるとき、

私のことを応援しているといっていた。

互いに、互いへ投資する気持ちで伸びていけたらと思っていた。

私はその人とうまく関係性を築けなかった。

2人とも伸びたらお互いお金を出し合って―などと考えていた。

けれどそれは必要ないものだったのか。

私の対処法が違えば、人柄が違えば、

こんなことにはならずに済んではないのかと思ってしまう。


前回の記事で書いた、出資してもいいと思う人が、

たとえ私自身は活用しないサービスや商品であったとしても、

犯罪めいたものではければ出資したいと思わされるのは、

ひとえにその人の人柄によるものではないだろうか。

その先に、お金という見返りよりも、

もし失敗しても、

その人から

感謝されたり、おかげでと言われたりして、

一役買えたら、気分いいなぁというのがある。


それかもしれない!

その人なら、大変感謝を示しそうな感じが、

よくよく考えなくてもするのだ。

いやでもむしろよくよく考えると、

一人一人には感謝しないで大勢に向かって、

感謝の意を表明しそうで、

私はフューチャーされないことが予想つく。

それでもいいと思えるのはなんだろうか?

人がそこにたくさんいるからかもしれない。


これはメジャーになっていくにつれて

ファンが増える率が加速していくのと、

同じ原理だ。



いろんな面から見ても、

私の人格の未熟さを思わすにいられなくて、

とても落ち込み、

今、途方にくれている。


その応援したつもりの相手との、

関係修復が、

私には難しそうだ。

箱―人とうまくやる、応援される、には

2013-04-29 18:30:45 | 無題
『箱から出る方法』の本を読んだ。


私のすべてがいけないことだったように思えた。


箱から出れたようだった。


次に、

相手のためになにしたくなったら、

それに従うというのを思い出し、

ではと思ったが、

わからなくなった。


私が相手が喜ぶと思ってしようとすることは、

果たして相手が喜ぶことなのか、

検討がつかないと。


そこで思い出した。


母ーの場合は、

以前よいと言っていたことも、

次はよくないことに逆転していたりするのだ。

箱の本でいうところの、

自分を正当化するために、

周りのものにたいする評価や味方が、

コロコロ変わっているようだった。

本の解説により、

母のそのコロコロと変わる現象に納得がいったのだが、

されど果たして母の真の欲求がわからずにいる。


わからなくもない。

自分の中で矛盾が生じていると観じたことが、

私にもある。

それが表に出たときに、

他人からは一体なにがしたいんだろう?なにを求めているんだろう?

と見えるだろう。


されど、そんなことが解ったからといって、

なにか解決するわけではない。

母とやりとりするのは、

やはり非常に難しいと改めてわかった。

母は箱の中に箱をつくりさらに箱に入りー

その箱は複雑にからみあっているようだった。


母のことは置いておいて、

友達でありクライアントである人―のことについて考えた。


悪いことをしたな。

そう思った。

以前からそう思っていて、

先日メールをした。

直接その話題にはふれず、

お茶にでもという趣旨のメール内容を送った。

このとき私は、

直接的にこの前の件どうですか?と話を振ればよかったと、

やりとりが終わって思った。

お茶いいねといいながら、

今忙しいからこちらから連絡するという返事だった。

もう連絡してきてほしくないほしくないというのが、

以前も薄々感じていたが、

1ヶ月も絶ってから返信のような内容のメールが来たので、

私も時間を置いてから、

気にしないでほしいと気軽な内容にしたつもりだった。


本当のところがつかみかねている。

もう関係を絶ってしまいたいのか、

関係を絶ってしまいたいわずらわしい関係なら、

私も無理につくそうとは思わない。


ここで

ふと、「友達がお客さん」のことを考える。


母も昔、友達から商品をかわされたと文句を言っていた。

しかし最初の頃は、そんな風ではなかったと思う。

それにその商品自体も他の類似品よりいいものだった。

けれど母はいつしか買わされたと憤慨するようになっていった。

友達と疎遠になってからだろうか。


次に、

以前の職場で知り合ったすごい数の人脈のある人を思い出す。

若いのに、何千人もFacebookで友達がいて、

それは見かけだけではなく、

その人がすることをみんな応援してくれるような人だった。

その人の人柄もよく、

一生懸命でいて何回かに一回はそこそこな結果を出すので、

将来を有望視する周りの気持ちが私もよくわかる。

もしその人が事業を立ち上げたら、

私にそのときお金があれば、

いくらかでも出資してもいいかもと思えるほどだ。

私はその人とそんなに話したことはない。

なれど、2、3交わした言葉の中や、

話し掛けてくるときは、

いつも尊敬の念と、頼りにしてのことからだったから、

私は嫌な気分ではなく、むしろ、

その人に対していい気分を抱いているのだろう。

その人は私に対して他の何千人の中で大した思い入れがなくとも、

私はこうして影ながら応援したいという気持ち、

―さらには出資、お金を出してもいいという程の応援の気持ちになるのは、

この違いはなんだろうか?


私が出資ではなく実際に手を動かすことで、

普通は料金をもらうことをもらわないで応援したことがあった。

その事例を考えると、何か解けるかもしれない。


その人は年下ながら、

目標を見据えていて、

それに向かって実際に動き、その時点ながらの結果を出していた。

つまり、

目標があり、

口だけでなく、実際に行動し、それなりの結果を出していたということだ。


もし、行動しているところまで止まりなら、

その人の将来性がわからなくて、

実際にこちらも手を貸して応援するということはなく、

口だけでがんばれといっていたのではないだろうか。


しかし手を出して応援していたけれど、

その勢いは失速してしまい、

ぐずぐず悩んだり、ぐずぐず行動せずにいるのを観じると、

途端に、無償で応援の手を貸すのがイヤになった。

私もこれはプロとしてやっていることだし、

それに対してあまり役立ってると感じられないのも、

感謝の言葉がないのもイヤと観じた。

将来有望に見えなくなってきたとき、

これからは料金を払ってほしいと申し出ることにした。

気持ちとしては、もうつき合いきれないという感じだ。


ここでふと、これを書いていて、真理を見た。

「それに対してあまり役立ってると感じられない」

株主を思い出した。

出資しているのに、それがあまり役立てられていないと感じるのは、

利益の跳ね返りうんぬんより前の、

無意味なところに、自分の労力を注ぎこんでいるような虚しい気分と同じだ。

それがお金か、はたまた他の力だとしても、

一緒のことだ。


やはり、どんな人柄がよい人でも、

ある程度、結果を出していかなければ、

心理的なところの奥底では、がんばれという気持ちはまだあっても、

実際に行動するまでのところまでにはいかなくなるということ。


例えば、Facebookでコメント1つ付けるのも、いいね!をするのも、

同じくらいの結果をコンスタントに出し続けるよりも、

少しは進展がないと、

その小さな労力も働かせる気が失せてくるという原理だ。



卒業してから、

毎日、ファインアートをつくってアップするということをしている人がいる。

最初は卒業生である大先輩の有名アーティスからもコメントを頂いていたのに、

つづけていくうちにコメントもいいね!も減って、

今は2、3件いいね!やコメントが付くくらいにいたっている。

それも毎回同じ人だ。ファンか好意を抱いているのだろう。

そのことを思い出したのだ。


なれん、もう1人のイラストレーターのことを思い出した。

次の記事で書こう。




母の困ったところー複雑さは人を遠ざける

2013-04-24 17:03:28 | 無題
母の困ったところは、

気分によって、してほしいことが変ることだ。


連絡をしてほしいというときもあれば、

連絡してきてほしくないように癇癪を上げるときもある。


私がプレゼントしたものを、

たいそう大事そうに、嬉しそうにしたり、

私が作ったものがほしいといったりするときもあれば、

なぜか、

それなら送ってくれなくてもいいとか、

突然興味を失ったのか、

いらないと言い出すこともある。


私が怖いのは、

私が心を込めてしたことも、

突然つっぱねられることだ。


そしていつしか私は心なんて込めることはなくなった。


「プロト版を送ってきたのかと思った。売り物みたい。」


そう言ったことがあった。


売ってはいないし、

プロト版ではなく、手作りだ。

そう言うと、ふぅ~ん、へぇ~とその点は興味なさそうに答えた。

私がその作品について少しでもエピソードを話すと、

突然さえぎるように、ああ、はいはいとなって、

私はひどく傷ついた気持ちで、

黙ることにすると脳から口へ命令を送る。


そして、そのとき感じたことは、

・プロト版でもいいのか、ということ。


次にハガキを送る機会があった。

端にサインが入っていてそれだけが印刷で切れてしまった。

「作ったものがほしい」

そう言っていたから、ハガキを送るのにこれがちょうどいいやと思った。


真心込めて作ったものは、

なぜか傷つけられる結果になるので、

そのようなものがちょうどいいと思った。

なにか傷付けられるような対応を取られても、

既に損傷しているものなのだから、

自分の中ではいくぶんか整合性つくと思えた。



手作りしたものの話をするといつも、

「どこかへ、売ろうとしているの?」

と聞かれる。

売れたらいいなぁとは思うけど、

そんな勇気も営業力もないと正直に思っていることを話すと、

ふぅ~んと答える。


母は編み物や裁縫が得意で、小さい頃は私の服も作ってくれた。

服を作らなくなってからは、さしこを趣味にしていた。

ハンドメイドサークルといってブログやバザーで売っているものと同じくらい、

それ以上にうまくできているし、

好きでしょっちゅう作っているみたいだから、

売ってみたら?とか教室を開いてみたら?とすすめたこともあった。

「いやぁ、私はいい。そんなのいい。」

私はそんなことできないと恐縮なのか逃げるようにいうので、

そっかぁと、もったいなく思ったこともあった。

母はそれなのにもっと小難しく元手のいることで、

お金を得ようとして、うまくいかず、

お金が得られないむしろ損をしたと不満を漏らしていた。




「作ったものを、バザーとかででもいいから売れたらいいなぁ。おもしろいだろうなぁ」

小さい頃私は、何度かそう話したことがある。

ハンドメイドのいろんなものにはまって作っては、

そういうこともしてみたら、楽しそうだなぁといっていた。

母はその度に、

「作ったものを売りたいの?」

と聞き返してきた。

うーんと答えると、ふ~んといって終わるこの会話は、

私と母の会話ではめずらしく着地点のない、

なんの目的かわからない、目的なんてないような、

不思議な感じだった。

なんだろう?と毎回思っていた。

「え?なんで?」

と突っ込んだこともあったが、

母は別にと答えて、それ以上どうやっても聞き出せなかった。



昨日、ひさしぶりに電話して、

ハガキの話をした。

また同じようなやりとりがあった。

すると今回は進展が見られた。


その会話直後は、また不思議な感じで終わったのだが、

会話が進むにつれて、

突然、

「あんた作ったものを売ってやっていこうと思ってるんじゃないでしょうね。」

といつもの甘い考えしてるんじゃないという決めつけがはじまった。


まず、作ったものを売って生活しようとは思っていないし、

そういう生き方自体も簡単だというような甘い考えはもっていない。

2つも自分の根本的な考えに反することで、決めつけられ、

私の人格までも否定しはじめるくだりは、

唖然としていまう。


私は自分が作ったものを、お金をいくらかでも出してもらってくれるという行為自体が、

大変、有意義で、幸福感があることだろうなぁということを思っていた。

純粋に楽しそうだなぁというのがあった。

だから商業的にや工業的にどうこうということはなく、

“自分のつくったものを売り・買い”という点が楽しそうと思っているだけで、

儲けがどうこうというのはなかった。


そのことを以前、その不思議な質問をされたときに、

話しかけたことがあった。

でもすぐにうやむやに遮られ、聞く気ないと態度を取られたので、

話すのをやめた。


それに自分の中の純粋におもしろそうとか、

いつかしてみたらと希望を持っていることに、

ずかずか土足で入ってきて、踏みあらされて、

ただ空想するのさえ許されないようになるのが嫌だった。

それで伝えなくてもいいかと話さずにいたのに。


それなのに、この仕打ち。


決めつけられ、

しかもそれが悪いこととハキとしないことで、

悪いことと決めつけられた挙げ句、

すべてを否定されることを、

あなたは受けたことがあるだろうか?

そしてどう感じるだろうか?


私はまるで、

生きることも許されない、

無能で、

荷物で、

邪魔な人間、

人殺しのような犯罪を犯したヒドい人間のように、

あの考えも、この考えも、

あの行動も、

代替え案で勝手に提出される方法も私には難しく、

八方ふさがりになる感覚だ。


母は、私のすべてを否定したあと、

すぐに代替え案を提示する。

「こうした方がいい」ならまだマシで、

「こうしなさいよ。」と命令口調で言われる。

それは経験済で、難しいことを伝えると、

癇癪を起こし、

「なに言ってるの!?あんたねぇ自分が―」

とマシンガンのごとく人間否定がはじまる。

すみからすみまで、重箱のすみをつつくように、

私に関するすべての記憶を総動員させて、

攻撃できる理由になるものはすべてだし、

こじつけしてでも、

私をやっつけてしまつもりなのか、徹底的にだ。


私はそこで、私をどうしたいのか分からなくなり、途方に暮れる。


言うことをきいてやっても、

私に合っていなくて人生遠回りをした経験から、

ああそうですねといって、

ここまでがんばってきたものを認めてもいない人のいうことを、

聞く必要があるだろうか?


ここでも、

世間のいうところの

「親のいうことはきくもの」

というのが、私と戸惑わせる。


考えないようにしても、

どこかで責める自分がいる。


だからといって、はいそうですねと言うことを聞いたところで、

もう経験済みなのに、

同じ道を通って失敗するなんて、

そんなバカな話ーそれこそ無能な話があるだろうか。



母とは関わらない方がいい。

自分の精神を安定させるにはそれが一番いいと、

結論づけて、

随分連絡を取らないでいた。


すばらしい人達と出合って、

したかった仕事ができるようになり、

辛いことがあっても、

充実した日々をすごせるようになってきて、

私の心に少し余裕が生まれたように思えた。


母に幾分でもなんらかのなにかをしたいと思うようになった。

なんらかのなにか―

母は大変気難しい人で、

人からプレゼントをもらっても、

なんでこんな物よこしたんだ、私のことを~だと思ってる、バカにしてるんじゃないと、

腹を立てているところを、

何度も見てきた。

私は端から見て、

ステキなプレゼントに見えたし、

趣味が合わないのにしょっちゅう送ってきて迷惑とかなら、

そのことをあとでやんわり伝えれば?と言っても、

気が収まらないみたいで、フンッとプレゼントを投げうった。


私はたいそう驚いて、

どういうことなんだろう?と考えても、―母はこうだから?がいろいろ浮かぶ

複雑過ぎて母の本当の気持ちにはなれなかった。

どうしてそう思うのか聞いても答えないのだ。

気に入らないおもちゃを買い与えられた子供のように、

プレゼントを前にふてくされて機嫌をおもいっきり損ねているだけだ。


かといって、

母がお気に入りのなにかをプレゼントされたような風を見せたところを、

私は見たことがないように思う。


どんなものも、どこかしらケチをつけるのだ。

こんな物にお金を使うなら―と言い放つこともある。


大変コワい人だ。


それなのに、自分にはネガティブな話があるときにしか、

人は連絡してこないと不満そうにいう。


ポジティブな話をすると、

ひがむからできない。


母の話を聞こうと話をふっても、

私のことはいいのと言って口を固く閉じる。


もう連絡のしようがないのだ。

母は友達とも遠縁になった。

いつだったかその友達の1人が危篤になった。

みんな声を掛け合って一緒に病室に行ったのに、

母は田舎に帰っていたのに声をかけてもらえなかった。

母は怒って全員と絶好した。

母が唯一大事に思えていた、その危篤の友達はこの世を去った。

落ち込み

2013-04-23 00:20:40 | 無題
落ち込むことがつづいた。

だれか励ましてほしかったけど、

そんな暗い話ができる友達もいず、

ずっとがまんしてきた。


でもあまりにも長く、

落ち込みがつづいた。



落ち込んでいたから、

おかあさんなら励ましてくれるかと思って、

電話を掛けた。


ずっとがまんしていた。

親は私が傷つくことばかりの反応を見せる人だったから。

でも、落ち込む時、

どこかで希望を見いだしていた。


「おかあさんなら励ましてくれるんじゃないか。

◯◯ならできるよ、がんばりんしゃい―みたいな。」

(そんな方言ではないけれど。)


それでも、いや、期待しても裏切られるだけだし、

着信拒否されたこともある。

またされたら二重苦じゃないか。

やめよう。

そう自分に言い聞かせるようにして、やめたきた。


今日はとっても長かった暗い時期に、

落ち込みが重なって、

落ち込んでいたから、

おかあさんなら励ましてくれるかもと思って、

電話を掛けた。



なぜか、

お金の話になった。

あの人(父)からちゃんとお金を払って貰いよと言ったり、

水道代と管理費だけ払って貰っているというと、

管理費は払って貰ってるんだね?と脅すように言う。



教師の暴言

2013-04-21 03:16:44 | 無題
50代の教師が、小学2年生の生徒に暴言を吐いていたニュースを見た。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130419-00000046-sph-soci

この記事に対する読者からのコメントで、

実際のボイスレコーダー音声をニュースで聞いたが、こんなものじゃなかった。

もっとひどかったとあったのでそれも聞いた。

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記事にある内容だけでも、

その様子が想像できて、

ヒドいと感じた。


私も小学1、2年の担任の先生がこんな感じだった。

岩崎っていう年齢も同じくらいのおばさんだった。


なんでだったか思い出せない、

ただ覚えているのは、

親友であり幼馴染みだった同級生の女の子に、

「~ちゃん、~ちゃんは、どう思う?

こんなのはいけないことだよね?」

って促して、

その大親友が、

泣きそうになりながら、

最初は首を小さく振っていたのに、

顔がくちゃくちゃになって、

泣きながら小さくうなずいたことだった。


私はそれを見て、ヒドい!と思った。

なぜ、私にじゃなく、

そんな友達に嫌な思いをさせるのかと。


あとでその子は、

さっきのは違う、そんなこと思ってないからねって、

言ってきたのが印象的だった。

私はわかっていたし、

友達を信じていたし、

うなずいたときの表情からも、

本心とは違うっていうのが分かったから、

裏切られたとか、

友達もそう思ってるんだとか、

思わなかった。


ただ冷静に、

なんて残酷な先生なんだと思った。


幼馴染みに聞く前に、

他のクラスメートにも同意を求める言い方をしていた。

迷惑してるよね?といった言い方だった。

このニュースの教員と一緒。

そして、その子が満足いく答えをすると、

でもそれでもさらにダメ押しに獲物を探すようなそぶりをみせたあと、

いい獲物をみつけたかのように、

その幼馴染みに聞いたんだ。


あの光景は本当にえげつなかった。

私はそんなに怒られる方じゃなかったけど、

他のクラスメートが怒られている様子を日常的に見て、

気持ち悪いなと思っていた。


夏休みにはイギリスへ行ったおみやげで、

クラスメート全員に現地のポストカードを送ってきて、

帰ってきたら、クラスメート全員にこっそり、

チョコレートを1コずつくれた。


内心自慢かよと思っていたが、

チョコレートはおいしくて、

みんなはこっそり食べるので盛り上がった。


みんなが笑ってすごしたけど、

やっぱりあれは異常だったと思うのが、

放課後に―2年の最後の日だったかもしれない

いつも手が掛かってふらふらしちゃう、

いつも怒ってる対称の長身で手足がひょろひょろっと長い男の子を

羽交い締めにして、

ぶちゅ~っとキスマークがつくほど、キスしたことだ。


超気持ち悪かった。

その子も、

いつもはまた先生に怒られちゃった~って感じで、

怒られてもその後はケラッとして、

怒られている割りには、

先生のことを憎んだり、嫌っているような素振りをみせない、

明るい子だったのに、

そのときばかりは、

泣きそうなような、

とてもイヤそうな、

誰か助けてくれー!というイヤそうな目をしていた。

いつもみんなを笑わせたりする子だったから、

周りはゲラゲラ笑っていたけど、

私は、えー!えー!えー!と思っていた。


こんなの異常だよ、

やめるよう止め…でも、みんな笑ってるし、

その子もはっきりと、やめろ!と言わないでいるし、

(たぶんみんなが笑ってギャグになっているから、

それでいいかという気持ちもあって複雑な顔だったんだと今は思う。)

止めるにしても、先生ががっちりハグというか床に押さえ込んでいるし、

どうしよう…。


そう思っている内に、

んーっっちゅという、気持ち悪い音がなり、

最高に気持ち悪い瞬間は終わっていた。


いやじゃなかったのか、

その後も思い出すと気になったけど、

本人に聞けるはずもなく。


その教員は、普段は怒ると平手打ちをした。

チョークまみれでしわしわのごわごわした手で。


理不尽なことで怒られているところも何度も目にした。

その言い回しがこのニュースの教員とそっくりだ。



言い回しや口調が似ているといえば、

最近、近所のお母さんがそうだ。


すごくヒステリックで、

言い回しもえげつない。

うるさい!と叫んでいる、あなた一番うるさいよと思ってしまう程だ。

そして母親で、女性で、女の子もいるのに、

デスメタルのような声色のだみ声にして、

“おまえが言ったんだろ”

“あんたが、~だからでしょ~?”

といった言葉。


よくコレで旦那は結婚したなと最近は毎回思ってしまう。

それくらいどんどんエスカレートしていって日常茶飯事になっている。

よくコレで離婚しないなとか、愛想つかさないなとかも思う。

でも、どうやら旦那さんはしょっちゅう家にいないよう?

いたとしても、旦那さんの神経も疑っちゃうよ。


一番かわいそうなのが、

4人か5人いる兄弟の中で、唯一の女の子。

小学生か、もう中学生になったかもしれないけど、

一番上のお兄ちゃんは、

超お気に入りみたいで、

高校生になっても

窓から「青年!がんばれよー!」とか言っちゃって、

なんと、

高校生になったら反抗期で嫌がるだろうと思っていたのに、

その長男も高校生なっても、

手を振って答えるという―


それに比べてその女の子の扱われ方といったら、

180度違うんだ。

いっつもイライライライラなにかにつけて目をつけられては、

イライラ口調で、

陰湿な言い回しで怒られてる。


でも最近は(もしかして長男は大学生になったのか?)

長男にもヒドい口調で怒鳴りつけてるのが聞こえてくる。


その陰険な言い回しが私の母と似てる。


「誰が~したと思ってんのー?」と語尾がヒステリック上がる。

「ねー、どうなの?なんかいいなさいよぉ!」

等々、

内容が正当であっても、

日常茶飯事聞いていたくない、

音声、声色、口調、言い回し、考え方。


この中で人格を形成していくって言うのは、

大変だよ。


私は親と離れることを望んだ、そして親と離れて、

1人で長く暮らして何円経っただろう、

生まれたばっかりの、

小さかった頃の“私”“自分”をようやくやっと

取り戻せた。


そして、

社会で転職をして、

すばらしい人たちに

=他人を受け入れ、自分の考えを押し付けない、見返りを求めない、心の広い人たち

に出合って、

世界が広がった。

こういうのあるんだ。

やっぱりそうなんだ、こういうことってあるんだ!

と思った。


私はすっかり親の影響で、

人を信用しきれない、

おかしなことも異常に怖がる、

他人に心を開けない人になっていた。


けれど、そういった人たちに出会って、

もっとゆったりした気持ちで、

今の自分を受け入れつつ、

目の前のできることに取り組むしかないじゃんという、

おおらかでいて、

心の不安定にならない方法を見つけた。



母はいつも私ができない子のように評価した。

テストでよくない点-70点以下をとると、

かなきり声で、

「ええ!ちょっとーまずいよ、あんた。

ちょっと、こんなんでいいはずないでしょ!」

と叫び、

よくない点数をとって落ち込んでいる本人の気持ちは無視。

よくないことなんて、私が一番知っているのに。


ある日、クラスの大半が60点代だった理科のテストで、

1人だけ100点をとれたとき、

これは喜んでくれるだろうと、

意気揚々と帰り、どう報告しようとワクワクしていたのに、

言ったら、

反応なし。


テストでいい点を取っても、

そんなの当たり前でしょ、と言い放ち、

ふん、あっそという反応。


あれだけよくない点のとき騒いだんだから、

100点の、しかもクラスのほとんどが60点代のときくらい、

すごいじゃないと言ってくれてよさそう

―っていうか、その反応が普通じゃない。


父親に言わないでと言ったことも、

実は話しちゃった、だって~なんだもん

と、微妙な問題ですごく言ってほしくないことも軽く言ってしまい、

挙げ句、言っちゃったと悪びれた様子も対してみせずに、

自分がしたことを自分の理由で正当化する。

そして、次はしないといっても、

何度も繰り返す。

私がそのことを言うと、

そんな言わないで、私も辛いと自分の被害振りばかり主張。

私が辛かったんだと言っても、

聞こえてない、聞かぬそびりで、

「はい、はい、はい。」


そんな人が親で、

そんなのが日常で、

まともな精神でいられますか。


私はいられませんでした。


自分の根底の自己評価が著しく低く、

一番信頼できるはずの立ち位置の人から、

何度も裏切られたことから、

真に人を信じて、心を開いて話す、話してみることすらできずに、

普通の人なら気にせず答える、

その場だけの初対面のあいさつがわりにされる質問も、

はぐらかしたり、答えられずに、

かなり長いところまで、

大人になってしまいました。



少し心を開けるようになったのは、

最近です。


飲み会の席で、

話の流れで血液型は何型かと聞かれました。


以前の私だったら

さぁ、何型でしょうね?とか、

秘密とか答えていたでしょう。

でも、答えられたんです。

変な間もあくことなく。


それは私の前に質問を振られた30過ぎの女性が、

う~ん、そういうのはちょっと…。

と答えて場の流れを止めたのを、

まじまじと目の当たりにしたからかもしれません。


ああ、これ昔の私だ。

そう思い、

こんな感じになっていたのかぁと過去を惜しく思った。


場の流れが止まって、

え?なんで?という変な空気が流れ、

周りのこっちからすると、

そんな情報、この場だけの話題作りのためじゃん。

血液型で人を見られるのやだとかいう理由だろうし、

言いたくないのわからないでもないけど、

その情報を持ち帰ってどうこうするっていうのじゃないのは明白じゃん。

しかも今日最後の日で、みんな会えなくなるのに。

これは話の流れで、話題もなくなってきたから盛り上げるために、

さっきからずっと話してくれているこの人が、

話繋げるためにしてくれてるのに。


さすがにこれだけ条件がそろっていたら、

昔の私でも言っていたかもしれないけど、

これだけ話してもいいじゃんという条件が揃っていなくても、

もうちょっと気楽になるべきだったなぁと、

何回、出逢いや縁を―恋人だけじゃない、友達も。

無駄にしてきただろうかと思った。



だから、

近所のおばさんみたいに、

ガミガミ、ヒステリックに陰険な言い回しや考えで、

子供を思いどおりに動かそうとするような人にはなりたくない。

女性らしさをなくすのもいやだ。


今、それがコワい。

だからか、恋人ができかけると、

この人と結婚してもいいな―でも子供育てる自信ないなとか思ってしまう。

それがどこかに表れているから、

よさげになっても、それ以上にならずに終わっちゃうのかな、

なんて、これはいい訳なのか、

真髄をついているのかは、わからないところ。


でも今は、恋人がいないから、

「まず相手がいないから、悩まなくていいじゃん」

と思うことができる。



まだまだ遠いな。

でももう時間だし、腐っちゃうのかな。

そんなの、いやだ…。