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内田裕也さん逝く 79歳

2019-03-18 06:33:44 | ブログ

内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール”ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也(うちだ・ゆうや、本名内田雄也)さんが17日、東京都内で死去した。79歳。兵庫県西宮市出身。17年11月に脱水症状で倒れてから車椅子生活を余儀なくされていた。18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。都知事選出馬など常に話題を提供し続けたロック界のカリスマだった。

【写真】内田裕也さん死去を報じるスポニチ1面

 希林さんの死から半年、波乱に満ちた“ロケンロール人生”に幕が引かれた。年明けから体調が悪化し、17日に天に召された。1995年に俳優の本木雅弘(53)と結婚した長女の也哉子(43)らが裕也さんの遺体に寄り添っていた。

 晩年は病気やケガと闘う日々が続いた。16年11月に英国ロンドンのホテルの浴室で転倒し、尾てい骨を強打。17年夏には転倒して右足甲を骨折。さらに同11月に脱水症状を起こして緊急入院するなど、満身創痍(そうい)だった。

 完全復帰を目指してリハビリに励んできたが、日増しに体力は低下。自身が主催する恒例の年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」にも17~18年からは車椅子で出演。執念で立ち上がり、熱唱する状況が続いていた。12年から毎年欠かさず参列していた3月11日の東日本大震災の追悼式も今年は欠席していた。

 エルビス・プレスリーに憧れて高校を中退し、1957年にバンドボーイとして音楽活動をスタートさせた。幾つかのバンドを渡り歩き、66年のビートルズ日本公演では尾藤イサオ(75)らとの特別編成のバンドで前座を務めた。

 同年、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた沢田研二(70)らをスカウト。これが後のザ・タイガースとなった。67年には麻生レミをボーカルに据えて結成したフラワーズにジョー山中さんらが参加し、フラワー・トラベリン・バンドとして再編成。アルバムがカナダチャートで8位を記録するなど海外でも活躍し、邦楽ロックの礎を築いた。

 70年代からは映画俳優としても活躍。崔洋一監督の「十階のモスキート」(83年)、自ら脚本を手掛けた滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」(86年)など話題作に主演した。  私生活では故かまやつひろしさんの紹介で出会った希林(当時悠木千帆)さんと73年10月にスピード結婚。裕也さんの家庭内暴力などもあり、1年半で別居生活に入った。81年には一方的に離婚届を提出。希林さんが訴訟を起こし離婚成立を阻止する一幕もあった。

 別居生活は43年半にも及び、裕也さんは大麻取締法違反(77年)、銃刀法違反(83年)、そして強要未遂と住居侵入容疑(11年)と3度の逮捕歴を重ねた。それでも離婚には踏み切らなかった。

 2人にとってお互いは特別で最愛の存在だった。長女の也哉子が離婚しない理由を聞いた際に希林さんは「彼にはひとかけらの純なものがあるから」とし、一方の裕也さんも「一生頭が上がらない」と話していた。

 91年には東京都知事選に出馬。政見放送で「パワー・トゥ・ザ・ピープル」と「コミック雑誌なんかいらない!」を歌うなど自由奔放な人生を貫き「シェキナベイベー」の名言も残した。

 ◆内田 裕也(うちだ・ゆうや)1939年(昭14)11月17日生まれ、兵庫県出身。神戸のジャズ喫茶でならし、エルビス・プレスリーに憧れて上京。58年にブルージーン・バップスを結成し59年にデビュー。渡辺プロ退社後の67年からヨーロッパを1年あまり放浪。帰国後、日本ロックの振興に大きく貢献した。阪神大震災、東日本大震災発生後はいち早く被災地に入り、ジョー山中さんや安岡力也さんら“ファミリー”を引き連れ炊き出しなどを行った。

3月17日(日)のつぶやき

2019-03-18 04:20:02 | ブログ

大泉洋と過ごした23年は間違ってなかった。「水曜どうでしょう」ディレクターは語る

2019-03-18 03:11:45 | ブログ

大泉洋と過ごした23年は間違ってなかった。「水曜どうでしょう」ディレクターは語る

嬉野雅道ディレクター(左)と藤村忠寿ディレクター
「あぁ、僕らはここまでたどり着いたんだ…」。インタビュー中、嬉野雅道さんがつぶやいた言葉だ――。
「水曜どうでしょう」を生み出したHTB(北海道テレビ放送)が、自局をモデルにした漫画「チャンネルはそのまま!」を連ドラで実写化した。
開局50周年を迎えたHTBは2018年9月、新社屋へ移転。それに伴い、旧社屋を丸ごとセットとして利用した。
23年目を迎えた「水どう」の名場面もこの旧社屋で生まれた。前編に続き、藤村忠寿、嬉野両ディレクターに旧社屋の思い出や大泉洋と歩んだ23年間を聞いた。旧社屋で思い出深いのは「裏口」
――旧社屋を離れることになりますが、思い出はありますか?
嬉野:あの旧社屋の裏口が何とも思い出深いよね。駐車場がある方の裏口。
――「水曜どうでしょう」の企画発表をよくやっていた駐車場があるところの通用口ですよね。旅企画のとき、何も知らない大泉さんがいつも「アカプルコ」って予想する…。
嬉野:俺は、あそこにHTBの文化を感じるんだ。ホントだよ(笑)
嬉野:だってさ、何年か前だけどさ、HTBも世間並みにセキュリティーを考え始めたんだよ。IDカードを作ってさ、それを持ってないと赤いランプが回って、警報が鳴って、ガードマンがバッと出てくるようにしたの。
でもさ、みんなIDカードをよく忘れるんだよ。そしたら何年かしたらさ、裏口通った警報が鳴らないんだよ。ガードマンもでてこないし多少、赤いランプがパラパラっと回るくらい(笑)
藤村:「いちいち鳴ってうるさい」って、みんなに言われたんだよね(笑)
嬉野:技術の人間とかは搬入とかで面倒くさいからさ。なんとなくなし崩し的に…。
HTBの「なし崩し」になれる体質。世間並みにやろうとしても、みんなが総出で、ぐちゃあ…ってなるのは、HTBの文化だと思った。札幌のテレビ局のうち、1局だけ中心地から離れた、あの山の中のあることの意味合い。50年間の時間の中での意味合い。
それが「水曜どうでしょう」を生み、最後に「チャンネルはそのまま!」を生み出したんだと思うんだ。
藤村:そうだよね。
嬉野:今回のドラマのオープニングもさ、(札幌中心地の)空撮から入るんですよ。札幌のドーンとした、いい感じじゃないですか。豊平川がバーッと流れて。大通もバーッと映って。そこから南平岸にグーッと近づいて、こう、旧社屋が見えるじゃないですか。札幌のドーンとした、いい感じ」が映るオープニング映像の一部が視聴できます。

――旧社屋の上空をカメラが回りますよね。それで…。
嬉野:カメラは裏口から社屋に入って来るでしょ。で、芳根京子さん演じる主人公がいる。これはいいですよ。やっぱり神髄をわかってる、本広克行(総監督)。
藤村:正面から入らねぇんだもん(笑)。裏口から入っちゃってさ。普通は正面から入るだろうと。でも、なんの迷いもなく裏口から入るんだから。
開局50周年だぞ?50周年を広くお披露目するときに、あのしょぼい裏口からスタートする。もうちょっとあるだろうと(笑)
でも、本広さんも「ここはやっぱり、どうでしょうのファンは『あ!』って言うから!」って。
裏口で生まれた金字塔 「シェフ大泉 車内でクリスマスパーティー」
――「水曜どうでしょう」では、シェフに扮した大泉さんが裏口に設置したワゴン車で料理をするとクリスマスパーティーもありました。
藤村:あれ、会社に言ってないんだよ。夜中だったから。
藤村:朝の番組に出るアナウンサーが来て、俺らがあそこで火を焚いてたら「ここ会社ですよ!?」って怒るわけ。
ホントに裏口でボーボー燃やしたからね。そのまま酔っ払ってさ、酔っぱらった大泉洋と鈴井貴之、onちゃん(安田顕)が朝の情報番組に出ちゃうんだよ(笑)
嬉野:ゆるいよねぇ。
藤村:今だったら「それはないでしょ?」ってなるけど、当時は誰もそんな考えてなかったから…。「朝番組なんて、どうせ見てねぇだろ?」みたいな感じがあった。だから何となく、なし崩し的に…。だからといって、別に大きな問題を引き起こすわけでもないし…。
https://youtu.be/eHv4kVCPDSQ

愛人3人、借金13億円…亡くなったあの有名人たちの豪快すぎるエピソード ハチャメチャだけど、もう一度会いたい

2019-03-18 02:56:55 | ブログ

愛人3人、借金13億円…亡くなったあの有名人たちの豪快すぎるエピソード ハチャメチャだけど、もう一度会いたい
週刊現代引用
いまのスターが小粒に見えてしまう。昭和の大物たちは、私生活も豪快。だからこそ仕事にも味が出た。周囲も細かいことでケチをつけるなんてことはしない。芸能界も政財界もエネルギッシュだった。
チップ1万円を渡すワケ
昭和という時代はハチャメチャだけど、魅力的な人物がいた。コンプライアンスなんて言葉もない、大らかな時代だった。
芸能界の代表格は勝新太郎。勝はチップをバンバン配ることで有名だ。勝の元マネージャーで、『勝新秘録』の著者・アンディ松本氏が言う。
「オヤジ(勝)は水を運んできたボーイさんにも『ありがとうな』と言って、必ず1万円のチップを渡していたんです。
ポケットにはいつも100万円ほどを無造作に入れていましたが、3~4日くらいでなくなっていました。あるとき、1万円札を20枚預かって、『俺が忘れたときに代わりにチップを渡してくれ』と頼まれたんです。
そこで私はより多くの人に配れるように1万円札を5000円札に両替しました。ところが、それでオヤジからカミナリを落とされてしまったんです」ケチってはいけなかった。勝がチップを渡すことには深い理由があった。自分が大スターだからという理由で、格好つけていたわけではなかったのだ。松本氏は続ける。
「オヤジはこう言うんです。『俺はいろんなところで、一生懸命生きている人たちを見学させてもらっている。チップは生の演技への授業料なんだよ』って。常人には想像できない視点で物を考える人でしたね。
オヤジはもともとおカネには無頓着。結局、社長を務める勝プロダクションは倒産して、債権者がたくさん事務所に押しかけてきました。なかにはその筋の人もいましたが、彼らの多くがチャラにしてくれた。
オヤジは誰かが遊びに来れば、街に繰り出して、すべての勘定を払う。彼らはそんな姿を見ていたので、『この人からカネは取れん』となったんです。
オヤジの最高傑作は生涯をかけて演じた勝新太郎という作品ではないかな。オヤジが興味深いことを言っていた。『人間というのは皆、演技しているんだ。(本当の自分とは)大方、反対の演技をしているんだ』ってね」
いまの時代にこれほどの役者がいるだろうか。
コメディアンでは、横山やすしが破天荒な伝説には事欠かない。しかも、なぜか高速道路にまつわるエピソードが多い。
「気に障った弟子を高速道路の途中でクルマから下ろすなんて当たり前。出口を過ぎて、300mほどバックで戻ったことも。渋滞に出くわすと、運転手に『左に行け!』と命じて路肩を走る。
ダッシュボードから赤いランプを取り出し屋根につけて、爆走した。最後は飲酒運転で吉本興業をクビになりますが、それもさもありなんでした」(在阪の放送作家)
有名な逸話は「時計鍋」である。やすしは、しばしば自宅に客人を招いて、鍋を振る舞った。そこで、お客が時間を気にして、腕時計をチラチラ見ていると、やすしは激高。時計を外させて奪うと、鍋に放り込むのだ。
『てなもんや三度笠』や『花王名人劇場』など数数のお笑い番組を手がけたメディアプロデューサー澤田隆治氏が語る。