1990年3月10日(土)、稜北高校と函館商業高校の卒業式が学校の体育館で行われた。
それぞれの生徒が担任の先生から、「頑張ってこいよ。何かあったら連絡してな。」 「社会に出ても挫けてはいけないぞ。自分の考えた道を信念を持っていきなさい。」と送り出され、クラスメイトたちは涙を流して抱き合い、別れを惜しむ。
しかし、GLAYのメンバーには、そんなセンチメンタルな気持ちはなかった。
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この夏休みを終わらせたくない。僕たちが東京行きを選んだ理由を探すなら、つまりそういう気持ちがいちばん近い。
大きな夢は抱いていたけれど、それと現実の進路はまた別の話で、東京でプロになろうとか、有名になろうとかいう気負いがあったわけではない。ただ、GLAYをこのまま終わらせたくないという思いがあった。
みんなで東京進出を決めたとき、GLAYは僕たちの終わらない夏休みになった。
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印刷工場は、面白い仕事場ではなかった。
雑誌の版下を作る仕事なのだが、与えられた作業をこなすだけの緩急のない毎日。新入社員としては、仕事のダイナミズムをどこで感じていいのかわからなかった。
とはいえ、不服があったわけではない。初任給は、確か16万円。制服は支給されたし、3食付きで1カ月1万円の寮も完備されていたから、衣食住はタダみたいなものだった。
僕やテッコを採用してくれた . . . 本文を読む
GLAYの東京初ライブは、客がたったの2人だった。
しかも、場所は東京ではなく、正確には埼玉県。浦和市の「ポテトハウス」というライブハウスだった。友だちも知り合いもほとんどいない東京での最初のライブだから、仕方がないといえばその通りだ。
問題は、そういう状況がその後もずっと続いたということだ。
●客がゼロ
2人入ったのはまだいい方で、客がゼロというライブもあった。1992 . . . 本文を読む
東京に来て間もない頃、一度だけ始発電車に乗って、テッコと函館に帰ったことがある。
ウォークマンがひとつしかなかったから、左右のイヤフォンをひとつずつ分け合って音楽を聴きながら……。会話はあまりなかった。ただ、窓から空を眺めていた。
なんのために帰ったのかは、よく憶えていない。函館を離れてまだ半年も経っていなかった。それでも無性に帰りたくなったのは、自分を見失いそうになっていたからだ . . . 本文を読む
インディーズ、ビジュアルという言葉が猛威をふるっていたこの時期、GLAYは完全に異端視されていた。
ビジュアル系のスタイルをある意味踏襲しながらも脱却しようとしていたルックスに、渦中の人間たちは中途半端というレッテルを貼った。
さらに、函館時代から変わらないメジャー感のあるポップでメロディアスな曲調は、ダークで耽美的な志向を良しとするシーンから嫌悪の対象にされていた。
「そん . . . 本文を読む
しっかりした構造ができあがっていた東京のライブシーンに、函館からやってきたなんの後ろ盾もないGLAYが割り込むのは、なかなか難しかった。
東京のライブシーンは、城の石垣みたいにびっしりと隙間なく埋まっていて、僕らが指を差し込むための小さな隙間を見つけるのすら大変だった。
二年間地道な活動を続けても、観客動員がせいぜい十人というのはそういう事情があった。
僕たちだって東京に育った . . . 本文を読む
ある時、予想外のトラブルに巻き込まれた。
シークレットでイベントに出演するはずだった某メジャーアーティストが、噂が広まりすぎて出られなくなったのだ。GLAYのメンバーの誰もが同じステージに立てると喜んでいただけに、ショックだった。
しかし、話はそれだけでは終わらなかった。
誰かを犯人にしなければ収まりのつかない状況のなか、いつの間にか、噂が広まった元凶が新参者のGLAYだという . . . 本文を読む
〈どうして誰もわかってくれないんだ?〉
ライブをやるたびに、TERUは激しいジレンマに襲われていた。
「君たちさぁ、やりたいことが見えないんだよね」
ライブハウスの人間に何度もそう言われ、今までTERUは色んなことをしてきた。ビジュアルが悪いのだろうかと思い、売れてるバンドの格好を取り入れてもみた。ステージでの動きもあれこれトライした。
それでも、GLAYへの批判は一向に減 . . . 本文を読む
TERUは知り合いの建設会社かなんかでアルバイトしてて、HISASHIはゲーセンやったりコンビニやったり。俺は工事現場の雑用みたいなのやってたり。その後にレンタルビデオ屋ちょっとやったり。
そのレンタルビデオ屋時代が俺とHISASHIの暗黒時代のピークだったんだよね。あの時のことは本当に思い出したくない。話すのもヤダよ。
●生活に追われまくる日々
HISASHIは朝の6時、俺は . . . 本文を読む
工事現場で仕事をしながらも、曲を作っていた。
フレーズを思いつくと、休み時間に公衆電話へ走り、自宅の留守電に鼻歌で曲を吹き込んだ。何年もそういう生活を続けた。
それから、自分にひとつのルールを課した。
どんなに仕事や練習で疲れていても、毎晩欠かさず曲を作ることにしたのだ。言い訳はなし。その日がどんな日であろうと、寝る前の十分間は曲作りにあてる。
調子のいいときは一曲作れる . . . 本文を読む
上京したGLAYが、函館でライブをするために帰って来た。『ピエロ』とのジョイントである。
GLAYにとっては久々の地元でのステージということも手伝って、ライブ自体はかなり盛り上がった。打ち上げ会場で、JIROは『ピエロ』のボーカルのツカサにTAKUROを紹介された。
『セラヴィ』に在籍していた時に対パンをしたこともあったが、言葉を交わすのは初めてだ。
軽く挨拶を交わしただけ . . . 本文を読む
1992年5月3日。憲法記念日。この日は、朝から五月晴れの空が広がっていた。
その日、俺(AKIRA)は助っ人として加わったバンド「猫来(ねこ)」のメンバーとともに、原宿の『ホコ天』にやって来た。俺は、18歳のころから地元のバンドに参加してドラムを叩いてきた。
「やるなら、トコトンやってみたい」という俺は、バンドで自分の生活を立てていく、そんな気構えでバンド活動を続けていた。
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ホコ天でGLAYに出会ってから1週間後、神楽坂のエクスプロージョンに足を運んだ。
午後7時頃になると、すでにセッティングを終えたGLAYが演奏を始めた。初めて見るGLAYのステージ。それを見た瞬間、俺(AKIRA)はぶっ飛んでしまった。カッコいい。あまりにもカッコよすぎた。
休日の昼下がり、ホコ天バンドの一つとして演奏していた彼らとはまったく別の人間がそこにいるようだった。ただ、 . . . 本文を読む
デビュー前の俺たちは、経済的にゆとりがなさ過ぎた。
例えば食生活でも、色々な雑誌の取材で「セブンイレブンの肉系の弁当はおいしいが、野菜系の弁当になるとファミリーマート系のほうがおいしい」などというコメントをメンバーが語っているが、コンビニの弁当が口に入ること自体いいほうだった。
●極貧時代
TAKUROが一番ひもじい時期、つくづくと言ったことがある。
「今日は、金がなくて何 . . . 本文を読む