GLAYは、1999年から2000年の約半年の間に2度、「解散」という言葉に向き合っている。
そして、そんな風に「解散」という言葉がリアリティを持ったのは、デビュー以来、後にも先にもその時しかないと言う。1度目は、1999年の年末だ。そして、2度目が2000年の4月から始まったHEAVY GAUGEツアーだった。
2000年の年明け、GLAYはデビュー以来という長期の休みに入った。 . . . 本文を読む
「初めのうちは、またツアーが始まって楽しいなっていう感じだったんですよ。でも、1カ所に滞在する時間が長かったりして、何となく空気が煮詰まっていったんですね」
「やっぱり、いちばん印象に残っているのが金沢ですね。僕らはオロオロするしかなかった。もちろん、そんなことじゃいけないんでしょうけど」というのはマネージャーの山本ッチャンである。
仙台での4回公演を終えたGLAYはいったん東京に . . . 本文を読む
JIROはなぜ、そこまで自分を追い込んでしまったのだろうか。
JIROは、「休みすぎたのが原因だったかもしれないですね」と言う。「長期の休みだったんで、色んな人のライブを見たんですよ。洋楽邦楽を問わず好きなバンドを見ましたね」
「俺の中で、それまでってGLAYしか物差しがなかったんですよ。全部GLAYを基準に判断していたことが違う見え方がしてきたんでしょうね。特にレッチリ(レッド・ . . . 本文を読む
GLAYは人気商売のバンドなのだろうか。自分がやりたい音楽はこういうことなのだろうか。夢を失ったGLAYにいていいのだろうか。
JIROがそんなSOSを最初に発信したのは、GLAYのメンバーではなかった。仙台のコンサートの最中だった。相手は、音楽雑誌の編集部でGLAYを担当していた女性編集者だった。その時は、すでに仕事を辞めていた。
●バンドを抜けたい
「このイライラ感は何だろう . . . 本文を読む