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喜多圭介のブログ

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小説――醍醐桜

2007-01-23 00:11:02 | 自作小説(電子文庫本)

瀬田幸輔と葛西由香は嫁が島を望む宍道湖湖畔のホテルに一泊すると、松江駅を九時過ぎの特急に乗車、倉吉で乗り換え津山で下車、そしてふたたび姫新線の普通車に乗り換え、美作(みまさか)落合駅に降りた。

「岡山県真庭郡落合町別所。写真集に撮影された桜の巨木があります」
「知ってます。ガイドブックに載ってましたので。恥ずかしいことですが、昨夜幸輔さんに導かれていますと、私の頭にうす桃色の桜の花弁(はなびら)が浮かんでました」
「きょうも予定は未定の二人です。その桜の巨木を鑑賞してから、湯原温泉に泊まりましょう。いいですか」


幸輔は由香の躯の埋もれ火は、まだ充分に燃え尽きていないはずだと思った。二人が生命力を取り戻すには、躯を燃やし合う以外にないと考えていた。
「幸輔さんに随(つ)いて行きます」由香は女子高生のように顔を輝かせた。

 

桜の巨木は奥深い山里、吉念寺という集落に咲く一本桜であった。小さな墳墓めいた丘陵の、低い傾斜の石段を上るとそれはあった。この山里の村人が大切にしてきた巨木であろう。醍醐桜と木板に記されていた。
「見事な桜だ」幸輔は、由香の傍らで満開の桜を見上げ感嘆した。
「やはり同じ色。柔らかな薄紅、昨夜の私がそうでした。この色に包まれていました。いままでに男のかたとはこんな思いは、一度もありませんでした。卑しい肉欲だけ。でも幸輔さんにはそれがなかった」
「死のうとしていた男です」
「でも昨夜は私を生き返らせようとなさっていました。その思いが私の躯の隅々に浸透して行き、なんだか私、はしたなくなりすぎたのかも」
「そんなことはなかった。美しかった」
「そんな……」
「隠岐は後醍醐天皇の流刑地。この桜は後醍醐天皇がこの地を通られ、お手植えされたと説明があります。これも何かの縁なのかも」
「幸輔さんが私の後醍醐天皇になられたのかも」
「由香さんとぼくはひと回り半以上歳が離れています」
「歳など無関係です。幸輔さんの優しさだけが私には必要なんです」
「見晴らしがいい。中国山地の山並みが穏やかに見渡せます」
「こんな土地で幸輔さんと静かに暮らせたらどんなに幸せか……」

 

由香ははにかんだ白い表情で幸輔に向き直った。

 

確かに長閑(のどか)な土地であった。周辺の田圃に紫雲英(げんげ)が、紅紫色の絨毯になっている。秋に刈り取った稲束が三本の柱にまとめられ、小高い藁小屋のように積んである。その向こうに黄色い菜の花が群生している。あれは連翹(れんぎょう)の花であろう、手前に見える農家の庭先に、数本の木が黄色い枝を広げている。静かな山里の佇まいであった。
「いい土地だけどぼくのような男は百姓はできないし、かといって不器用だからこの土地でどうやって金を稼ぐか」
「幸輔さんは小説を書いて、傍らで私は羽を抜いて機(はた)を織るというのはどうでしょうか」

 

由香は平然と微笑んでいたが、熱っぽい視線だった。
「『夕鶴』の話のようにですか」
「私、都会向きの人間でないのです。都会にいるとボロボロになります。こういうところだと、幸輔さんとゆったりと暮らしていけそう」
「丹頂鶴が舞い降りて来そうな土地だ」

 

いまある不動産などを処分したら、この土地に小さな平屋を建て、由香と生きて行けるかもしれない。それも悪くはない、と幸輔は青空の陽光に浮かぶ山並みに目を遣った。


◆醍醐桜
http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/sizen/hyakusen/hyakusen/064daigozakura.html


小説――嫁が島

2007-01-22 00:14:39 | 自作小説(電子文庫本)

レストランでのフルコースに満腹した二人は、バーで茜色に染まった宍道湖を眺望しながら、スコッチの水割りを口にしていた。ランプを点した小暗い室内には二人のほかに、観光客らしい中年の夫婦がカウンターの端に腰を下ろし、小声で話していた。黒い背広に蝶ネクタイのバーテンの背後の広いウィンドウを透かし、湖面が眺められた。

「神々しいくらいに湖面が燃え立っている」由香はリキュールベースのカクテル、ゴールデン・ドリームの白いグラスを、手に持って呟いた。

「ここから眺める夕陽がいちばん美しい」幸輔は嫁が島のシルエットを見ていた。

「瀬田さん、万葉の人たちもこの美しさを眺めていたのでしょうか」

「おそらくは。だけどなぜか『万葉集』にはこの湖を詠った歌がありません」

「この光景に圧倒されたのでしょうか」

「松江に来るとここに一泊して夕陽を眺めるのですが、ひしひしと孤独を覚えてしまう」幸輔はグラスを口元に運びながら呟いた。

「私もいまそれを感じていました。身を切られるような侘びしさを」

「ぼくはこの地に六歳から九歳までおりましたが、ここが故郷でもなく、その前に居た父の故郷もぼくの故郷でもなく、この歳になっても居り処がないというか……」

「私にも同じような気持ちが胸に巣くっています」

「あなたにもね……」

「この湖のように炎上して死ねたらいいのですが。そうならないのであの断崖に立ってみたのですが」

「邪魔者が立っていてそれもできなかった」幸輔は笑みを浮かべた。

「邪魔者だなんて」由香は幸輔を睨(ね)めた。

 

それから唇にグラスを当てたまま、宍道湖を見詰めた。ほんのりと色に染まった顔に、悲愁が浮かんでいた。

 

幸輔はオンザロックを二杯飲むと、部屋に戻った。 幸輔の未知なカクテルをバーテンダーにオーダーするくらいだから、東京の由香のほうがバーとかスナックによく出掛けている風であったが、このときはゴールデン・ドリーム一杯だけだった。それにしても意味ありげなカクテルをオーダーしたものだ、と幸輔は思った。

 

ツインルームのベッドの一つに幸輔は寝転んだ。由香はシャワーを浴びていた。隠岐からの帰路、高速艇が境港に到着後、幸輔はケイタイでホテルの予約をとった。そのとき部屋をシングルにするかツインにするか迷った。すると幸輔の表情を読み取ったのか由香は、あなたのお邪魔でないようでしたら同室でお願いしてください、と脇から言った。シングル二部屋のつもりでいた幸輔は、瞬時ためらったが、フロントにツインを頼んだ。

 

幸輔はそのとき、死を覚悟していた女だけに清楚な顔立ちであっても、胸の裡に男と女の境界線を越えた、あるいはこんな場面を何度か潜り抜けてきたのか、小娘には見られない強い意志をもっているのだろうと想った。由香の顔を盗み見たが、恥じらっている風でなかった。

 

幸輔は枕元の明かりを天井に薄暗い影が拡がるまでしぼった。少し酩酊していた。幸輔は由香のことは考えずに眠ろうと目蓋を閉じた。神仏の悪戯か、昨日投身しようとした男が、妙な運命に弄ばれている気がした。


松江で由香と一日過ごせたことは思いがけないことであった。深みのある澄んだ瞳は、きちんとした家庭の娘らしい品の良さを帯びていた。その一方で一つ部屋でシャワーを浴びている由香を、大胆な女だとも考えた。魔天崖での由香には暗さが見られなかった。覚悟を決めた潔さを印象づけられた。


由香が傍らのベッドに沈んだときも、幸輔は目を開けなかった。眠気に襲われうつらうつらとしていた。二つのベッドの間に艶(なま)めいた香りが匂い立った。幸輔は気怠い頭で、由香のほうに視線を向けた。由香は向こう向きに寝ていた。暫く沈黙が流れた。
「幸輔さんは私のような厚かましい女はお嫌?」


言葉が先に浮上した。由香は向き直って、幸輔の顔を二つの瞳で見詰めた。
「厚かましいといえばぼくのほうが……こうやって一つ部屋に横になっているのだから……妙だね、死のうとしていた男と女が」
「……」
「来ますか、こちらに」
「そちらに行ってもよろしいのですか」
「お気持ちに負担がなければ」


由香の視線が強すぎた。幸輔は目を薄暗い天井に遣った。目を瞑(つむ)った。芦屋の家の鍵をかけてからの三日間が、永い年月の果てのように思え、躯の芯に疲れを覚えていた。


シルクの白いパジャマを着けた由香が、忍び寄るように幸輔の傍らに入ってきたのは、十分ほど経ってからであった。何処かで嗅いだことのある花の香りが濃く漂った。しなやかに髪が濡れていた。広い枕の上に頭を載せた由香を、幸輔は赤子を抱くように柔らかく引き寄せた。自殺しようとした女だ。いまもなお痛々しい思いを秘めているのではないかと想像した。


由香はなついている犬のように身を添わせた。幸輔は女への欲情がなかなか胸に充溢してこなかった。由香をそっと抱いていると、そのまま眠り込んでいきそうだった。それでもよかった。だがそれでは由香が可哀想ではないか。幸輔は強引に意識を覚醒させた。二人は男と女になった。痩せた女かと思っていたが、意外と由香の白い躯は潤沢(じゅんたく)であった。幸輔の愛撫に絶え間なく打ち寄せる潮騒のように感応すると、濡れた躯を開き幸輔を受け入れた。


世捨て人の気持ちが残っているのか、幸輔は若い躯に燃え滾(たぎ)る欲情は起こらなかった。由香の心身の痼(しこ)りを時間をかけて解(ほぐ)す行為に似ていた。幸輔が先に昂奮することはなかった。緩やかな昂ぶりへと由香を誘(いざな)った。由香が最初のエクスタシーに達した。
「幸輔さんは優しいのですね」由香は幸輔の目を燃える瞳で覗き込んだ。
「由香さんにしてあげられることはこんなことしかない」と、幸輔は呟いた。「由香さんのことは何も知らないので」
「嬉しいわ。幸輔さんは私がなぜ自殺しようとしていたかもお尋ねにならなかった」
「自殺の理由など言葉にすると、言葉の狭間(はざま)から零れ落ちるもののほうが多い」
「そうですね」
「それにいまの由香さんはこうしてぼくに抱かれ生きておられる。それだけでいい気がする」
「私も生きているあなたに抱かれているだけで安心」


由香は未明に三度目のエクスタシーに溺れると、「頭の中が真っ白」と恥ずかしそうに言い、いきなり幸輔の腕の中で、すやすやと寝入ってしまった。


小説――宍道湖

2007-01-21 01:10:20 | 自作小説(電子文庫本)

舳先に白波の飛沫を躍らせ、高速艇はどんどん隠岐から離れていった。瀬田幸輔は小さくなった紫紺の島影を見つめていると、ふと後醍醐天皇の流刑の侘びしさを想った。

 

窓辺の葛西(かさい)由香は惜しむかのような一心な表情で、やはり島影にまなざしを向けていた。幸輔は清楚な横顔を美しいと思い、寄り添うような気持ちで眺めた。由香は幸輔の視線を嫌がっている風には見えなかった。むしろ幸輔の傍らにいることに安堵しているようだった。
「ぼくのきょうの予定は未定ですが、あなたはすぐ東京にお帰りですか」
「いえ、私も予定は未定です。だって自殺しに来たのですもの」


由香は小声で言った。
「そうでしたね。そうなるときょうの予定を思案しないと……。どうです、松江に出まして、宍道湖(しんじこ)湖畔に泊まりませんか。松江は母の郷(さと)なもので、子供の頃に一時期暮らしていました」
「私は松江も宍道湖も行ったことがありません。ご親戚がおありなんですね」

「母の弟が二人住んでいます。だけど自殺を覚悟したぼくですから、寄りませんが」

「松江って小泉八雲が東洋のベニスと表現したくらいに気に入ったところでしょう?」
「そうです。お連れしたいな。きょう、明日とあなたの時間をぼくにくれませんか」


由香は幸輔の顔に眼をやってから、白い顔を膝元に向け、一分ばかり沈思黙考していた。それから蒼ざめた顔を幸輔に向けた。
「もう一度だけ……断崖でないところにジャンプしてみます……許していただけますか」
「許すも許さないも……今度あなたに絶望が訪れるのなら、訪れる前に心中しましょう」幸輔は弾んだ胸の裡を抑えて言った。


由香は潤(うる)んだ瞳で頷いた。由香の穿いているストレッチパンツの太股に、ぽたぽたと二、三滴の涙が落ちた。

 

昼前に松江市内に入った。幸輔はケイタイでホテルの予約をとってあったので、二人とも身軽ないでたちであったが、荷物をフロントに預けるためにタクシーをホテルに走らせた。ホテルは幸輔が前に一度利用した袖師ケ浦の近くで、ここからなら宍道湖に落ちる夕陽が綺麗に眺められる。幸輔は由香と並んで夕陽の沈むのを見たかった。

 

手荷物だけ預けると、二人はホテルの前に横付けのタクシーに乗った。
「そばの旨いところがありますから、そこでお昼をしますか」
「お任せします」
「八雲庵お願いします」幸輔は運転手に頼んだ。
「松江に来たときは一度は食べに行ってます。小泉八雲旧居近くにあって、人気の蕎麦屋さんです」
「そうですか」
「小泉八雲記念館が近くにありますし、向かいの掘り割りを隔てたところが松江城の城郭です」
「お城の近くですか」
「そう。いちばん観光客の多い通りです。食事のあと城に上がってみませんか」
「はい」

 

平日のせいか思ったほど観光客の姿は見られなかった。早速店内に入り、店員の案内で内庭の眺められるテーブルに向かい合って腰を下ろした。
「店構えがお蕎麦屋さんって感じ」由香は周囲を見回し、静かな口調で言った。
「土日のこの時間は観光客で満席。外で待たされます」幸輔はテーブルの脇のメニューを開いていた。
「そうでしょうね。お城が近いですね」
「ええ。母の先祖が松江藩士でした」
「そうですの」
「ぼくは六歳の時に父を肺結核で亡くし、女手一つで二人の子どもを育てるのが難しい時代でもありまして、ぼくと妹は叔父に預けられてこの地で育ちまして」
「お母さんと離れて育たれたのですか」
「三年間のことですが、今思うと、母子とのコミュニケーションのもっとも大切な時期でなかったかと思います」

 

そのとき若い女の店員が「ご注文お決まりになりましたか」
「由香さん、ここの鴨南蛮が評判がいいのですが」
「鴨の入ったお蕎麦ですか」
「鴨と言ってもマガモとアヒルの混じった合鴨ですが、美味しいです」
「お任せします」

 

幸輔は店員に「南蛮蕎麦をお願いします」と頼んだ。
「南蛮というのは外国のことでしょ?」由香が尋ねた。
「南蛮蕎麦の南蛮は入っているネギのことです。よくは知らないが元々ネギは南のインドシナ諸島の産で、江戸時代は外国を南蛮と呼んでましたから、それで南蛮蕎麦と呼ぶようになったのかも。白ネギですが鴨肉、出汁(だし)と合います」
「美味しそう」
「昨日隠岐の断崖から飛び降りる決心でいた二人の会話としては奇妙だね」由香の耳元に囁くような小声だった。
「ホントに。こうしている自分がおかしくって」由香は目元に微笑を浮かべた。

「死ぬ気持ちはいまもありますよ」幸輔は弁解するように笑った。

「私もそうです。だけどいまは休戦状態。お母さんと離ればなれで暮らされたのですね」

「母は大阪に出てましたから」

「お淋しくお育ちになったのですね」

「淋しいことも確かですが、あの時期は、というよりも乳幼児から小学低学年までは母子の絆にとって重要な時期かもしれません。生きていく拠り所を喪失してしまったような。だから小学五六年頃から薄い自殺願望が芽生えてました」

「そうなんですか」

 

このとき由香は、この人にも自分とよく似た境遇で育ったのだと思った。類は友を呼ぶという言葉があるが、あの断崖でそんなことが起こったことが不思議であった。天啓であろうか。しかしその意味するところは由香にもわからなかった。

 

太宰治も両親の縁の薄い育ちであることに思い当たった。太宰の短い小説『思ひ出』に、太宰は生まれて間もなく叔母、女中の手で育てられたことが書いてある。昔の大家の家ではこれが当たり前のようであった。太宰が自殺と心中未遂を繰り返したのは、本人の気質とこの育ちにあるのではないかと、由香は自分の希薄な生きる欲望を顧みて、ずっとそう思っていた。この私とよく似た男が目の前に座っている。

 

◆嫁が島

http://matsue-photo.com/albmsinziko1/pages/04270117_jpg.htm

◆袖師地蔵

http://matsue-photo.com/albmsinziko1/pages/05121013_jpg.htm

◆八雲庵
http://www.yakumoan.jp/

 

◆松江城――母方の先祖が勤務していた(^_^)。
http://homepage2.nifty.com/matsue-jo/contents2Fmenu.html


小説――摩天崖

2007-01-20 05:12:08 | 自作小説(電子文庫本)

隠岐の西ノ島に摩天崖という断崖絶壁がある。鉈(なた)で糸瓜(へちま)を縦に切り落としたような、引っかかる突起のない絶壁。国民宿舎からタクシーで上がってきた。投身する覚悟で来たのでタクシーには戻ってもらった。
「お客さん、バスが上ってくるのは一時間後だけどかまわんかね」と、運転手は訝(いぶか)しい眉根を見せた。
「ゆっくりと日本海を眺めていたいので」と、瀬田幸輔は応えた。


乳白色の靄(もや)一面の日本海が茫洋(ぼうよう)と広がっていた。摩天崖の春の風は冷たく、沈着な構えで死ぬには、しきりに躯を掃く風が耳元で騒ぎ立て、覚悟を散漫にした。高所恐怖症の気(け)がある幸輔は、立ったままでは絶壁の下を覗き込めないので、崖の少し手前から匍匐(ほふく)姿勢になった。シャツとイタリア製のフード付上着のあいだに、薄いセーターを着込んでいたので、躯は冷たくなかった。


二百メートルはある。目が眩(くら)んだ。のっぺりと群青(ぐんじょう)の海面がうねっていた。腹這いになっていても、海の魔王の十本の指に頭髪を鷲掴(わしづか)みにされ、海中に引きずり込まれそうな予感に襲われた。幸輔の意識は遠のき、冷たい頬に鳥肌が立った。


――覗き込まないで、崖の十メートル後方から眼前の靄にのみ視線を当て、走り抜き、ジャンプすべきであった。


崖から三メートル下がったところで立ち上がった幸輔は、眩暈(めまい)に足元がよろけてしまった。こんなはずではなかった。国賀海岸の国民宿舎に二泊、あらかじめ前日の午後にバスでここに来た。そのときは絶壁の下を覗き込まないで大海原の絶景に、ここでなら死ねると思い、明日の午前中に決行すると覚悟し、二時間後に上ってきたバスで宿舎に引き返した。そのときは今生(こんじょう)の山遊びと断崖から離れ、山林を散策して時間をつぶした。この辺りまで黒牛を放牧するのか、柵が施(ほどこ)され、あちこちに大きな糞が落ちていた。


不意に遠くから狐が化けたような風情で、女が現れた。ぼうとした浮遊感覚の解けない意識の幸輔は、怪訝な眼差しで、近寄って来る女を眺めた。


ブルーのストレッチパンツに赤の上着、白のレザースニーカーの三十前後の女だった。風に解(ほつ)れる長い髪を片手で押さえていた。近付いて来ながら、眩しそうな眼差しで幸輔を見詰めている。ファション雑誌に登場していそうな女だった。昨夜宿舎の廊下で擦れ違った気がした。
「タクシーでここに?」幸輔は初対面でないような口調で訊(き)いた。
「一時間前に」
「寒くなかったですか」
「いえ、向こうに牛の番小屋でしょうか、戸口の開いた小屋があります。今までそこで風除けをしていました」

「ああ風よけをね」


眉をくっきりと描いた、きりっとした目元だった。赤紫の着物を着せれば惹(ひ)き立ちそうな雰囲気が、スポーティな格好に漂っていた。自殺に来た女には見えなかったが、場所が場所、時間が時間、それに一人だ。幸輔は躊躇(ためら)った末に、胸に広がった疑惑を吐き出した。
「あなたも身投げを……」


女は、えっという表情で左右の瞳を右に寄せ、幸輔をじっと見詰めた。
「あなたもですか」


下から幸輔の顔を窺う視線であった。死化粧のつもりなのか、薄く引いた唇の紅が上品な彩りだった。
「絶壁から下を覗いたら、覚悟がひるんでしまって。気持ちを持て余していたところです」
「そうだったのですか。下を見てしまうと死ねないと思います。私は今からこのスニーカーで、思い切り走ってジャンプするつもりで小屋から出て来たのですが、いつの間にかあなたのお姿が」

女は清潔な白い歯列を覗かせて、困惑気味の微笑を浮かべた。
「これではお互いに死ねないですね」


幸輔は自嘲混じりの感情で嗤(わら)った。
「私はあなたをお見かけしなかったら、きっと死ねたと思います」
「あっ、ぼくのせいですか」
「いえ、そのようなつもりでは……」


女はにこっと笑みを零(こぼ)した。
「福井の東尋坊、白浜の三段壁と自殺の名所を巡りましたが、ここがいちばんいい。摩天崖という名前にふさわしい景観です」
「そんなにお巡(まわ)りになられたのですか」
「はい。あなたはどうしてここに」
「私は山陰の旅の本で。ここの写真が載っていました。綺麗な断崖だと思いました」
「たまたまここでお逢いして、死ぬことには変わりないので、それじゃ一緒に心中というのもばつの悪い話ですね」

「心中ですか」

「そう、心中」
「私、心中に憧れがあります。でもいざとなると狡いお人ばかり。お逃げになります」
「裏切られた?」
「何度も。不誠実なかたばかり」
「どんな事情が積み重なったのか、あなたの不幸はわかりかねますが、ぼくは不幸で死ぬのではないのです。娘二人を嫁がせ、一緒に育て上げた妻には三年前に先立たれ、もう人生を卒業したような……」

「虚(むな)しさですか」

「虚しさというか、することが何もないというか……」

「私も同じです。年上のあなたにこんなこと言うの変ですが。だけど悲しみの感情ではありません」

「人生を悲観してではない?」

「はい。先に展望が何も見えなくて……そんな感じです」

「展望ね……。ぼくの場合、子供の頃からの厭世観も手伝ってますが」

「この世がお嫌いなんですね」

「うーん、この世が嫌いなのか、何が嫌なのか判然としないのですが、小学四年生頃から自分の人生を否定しているところがありました」

「太宰治のようにですか」

「心中して死んだ作家のことですか」

「何度も自殺と心中の未遂を繰り返し、最後に玉川上水で女性と心中を」

「何度もですか、それは知らなかった」
「なんだかこんな話をしていると……きょうはどちらも死ねなくなりましたね」

 

女は幸輔の顔を直視して、静かな口調で呟いた。


◇摩天崖の景色

http://www.asahi-net.or.jp/~qc6k-ysn/kunigaso/H10/kuniga/kuniga.htm

 


小説――瀬音

2007-01-19 00:38:03 | 自作小説(電子文庫本)

清美は幸輔の高校、大学を通しての親友であった鴨居智義の妻でいま四十五歳、亡くなった智義とは十歳下である。某私立外国語大学で米文学、主にアメリカの女性作家の作品論を講義している。高校三年生の一人息子は四国の私立高校の学生寮に入寮、来春の大学受験を目指して真面目に勉学とスポーツに励んでいた。父親が若手文藝評論家だっただけに、息子はいずれはこの方面をやりたいと、幸輔に話してくれたことがあった。



武庫川沿いの一軒家は、鴨居智義が七年前に喉頭癌で亡くなったときから閑散とした静けさに包まれていたが、息子が入寮した二年前の春からは清美と一匹の雉猫だけになり、家内は井戸の奥を覗き込んだような静寂が、いつも沈潜していた。



大学で講義するだけでなく米文学の翻訳を精力的に出版していたので、清美に無聊(ぶりょう)の日々はなかった。昨夏は学生を二十名ばかり連れて二週間渡米していた。



梅雨の時季に幸輔は京都での仕事帰りに電話をかけ、清美の自宅を訪ねた。智義が亡くなってからは京都や大阪、ときには東京での仕事の帰路、幸輔は遺された母子の機嫌うかがいに訪れていたが、息子が入寮してからは、梅田や三宮の喫茶店、レストランで逢うことはあっても、自宅にまで足を向けることは遠慮していた。



性格は明るいが物静けさの中で翻訳に専念しているのが好きという清美とは、清美が女子大生の頃から智義を通じて知っていた。智義をあいだに挟んでであったが、屈託のない付き合いがあった。



三日月に目を細め眼鏡の奥に人の善い笑みを絶やさなかった智義は、胸底に育ちの暗さを潜めている幸輔にとっては、彼が傍らに居るだけでこころの癒される親友であった。通夜の枕辺と告別式の棺(ひつぎ)の前では、日頃人前で涙を見せることを潔しとしない幸輔であったが、やりきれない悲嘆を持て余して、ぽろぽろと涙を膝に落とし、肩を震わせた。



両親がカトリックの信者であった智義は、子供の頃に洗礼を受けていた。日曜日には両親と教会に通っていた。彼の文藝評論の視点は、聖書の世界を基盤にして貫かれていた。幸輔は彼が口にする言葉は真摯に受け留めてはいたが、彼のようなストイックな人生観は欲していなかった。他人に迷惑をかけない範囲で自然体として生きていたいと思っていた。高尚な精神で自分を拘束したくなかった。



智義が亡くなって初めて気付いたことであるが、二、三ヶ月に一度遺児と付き合うことを目的に訪れていた幸輔は、生前の智義との交際は、実は智義の向こうにいる清美と語らいたくて、智義の家を訪れていたのではないかと思い当たった。



テーブルで向かい合って清美と談笑していると、智義には悪いことだが智義が死んでからのほうが、清美に打ち解けた会話を交わせるようになっていた。清美のほうもそのようで智義が亡くなったからのほうが、より若やいだ気配で幸輔に接してくれた。清美への特別な感情があったかといえば、幸輔はいまだにそれは掴みかねていた。
「この辺りは治安はいいようだね」



幸輔は一人住まいの清美を慮(おもんばか)って訊ねた。
「ご近所に変な人は住んでいないから。でも貴志が寮に入ってからは一人で居ると物淋しいわね」
「静かすぎる?」
「川の音が聞こえてくるだけ。岡部さんは貴志が居なくなってからはここには訪ねてくださらないし。翻訳に取り組んだり調べ事をしていると気が紛(まぎ)れるけど」
「清美さん一人になると訪ねて来にくいものだね」
「どうして?」
「そう訊かれると困るけど」



三時に着いたのだがワインを飲みながら清美のもてなしを食べ、智義の好きだったクラッシックのレコードに耳を傾けながら話し込んでいるうちに五時近くになった。
「そろそろ暇(いとま)をしなければ」



幸輔は、別れがたい気持ちが強くなり始めたのを抑えて口に出した。
「こんなに早く……」



途端に清美は心淋しい色を目蓋に浮かべ、じっと幸輔を見つめた。
「お邪魔でないかな」
「そんなことはないわ」



久方ぶりの訪問であったせいか、清美は目下取り組んでいる翻訳の話や息子のことを幸輔に聴いて貰いたい気配で、食卓に次々と手料理を並べた。



ダイニングキッチンから内庭に出るサッシ戸の辺りが急に暗くなると、軒端(のきば)の樋(とい)がにわかに騒々しくなり、芝生に雨滴の跳ね飛ぶ豪雨になった。
「すごい雨だな」



幸輔は眉を顰(ひそ)めた。
「止みそうにない」



清美はサッシ戸に近付き、鼠色の空を仰いだ。カーテンを引いて戻って来た。
「急いでご自宅に帰らないと都合が悪い?」
「そんなことはない。明日は日曜だから」
「泊まっていかれたら。お布団はあるわよ」



幸輔は返事をしないで唇を閉じて思案した。幸輔の耳に武庫川の瀬音が響いていた。
「よく聞こえるね」
「普段でも深夜になると聞こえてくる」
「鴨居は毎夜この音を耳にしながら寝ていたのか。羨ましいな」
「川の音がお好きですか」
「渓流、小川のせせらぎ、海辺の潮騒、それに梅雨。高校生の頃より好きでね」
「どうして?」
「気持ちが癒されるのかな。子供の頃から川辺でぼんやりとしていたから」
「一人で?」
「子供でも生きているのが辛(つら)くなることがある」
「智義さんに岡部さんのことは少しは聞いたわ。ご両親の愛の薄い育ちだって」
「父親は早く死んだので……母親とも馴染めなかった」
「そういえば智義さんが、幸輔さんと旅行すると泊まるところは必ず水の音がする処だって、言ったことがある」
「川の水は留まることがないからね。留まれば腐る。流れて行くのだけど、目の前にはいつも川がある。この事実がぼくを慰めてくれた。この事実を頼りにこれまで生きてきた気がする」
「私はこれから何を縁(よすが)に生きていけばいいのか……」



清美は幸輔の瞳を覗き込み微笑んだ。返事に困り、幸輔は曖昧な笑みを頬に浮かべた。清美は立ち上がるとキチンに向かった。
「夕食の用意をします。テレビを観ています?」
「テレビは点けなくても。瀬音を聴いています」



清美はキッチンに立っててきぱきとした物音を立てて献立の用意をし始めた。幸輔はワイングラスを運んでソファに腰を下ろし、雨音に気持ちを沈めていた。
「智義さんがね、岡部さんは飲めば『月の砂漠を』を口ずさむと言ったことがある。それになんだったかな、思い出したわ――主を信じ主のはからひに癒されんどこか違ひし「吉」読む吾と――は、岡部さんの短歌なの?岡部とぼくは長い付き合いだけど、究極のところが違うと笑っていたわよ。短歌をお作りになるの?」
「大学の頃に少し囓っただけ」



じゅーと肉の焼ける音が聞こえ、旨(うま)そうな匂いが漂った。
「でも私も智義さんとは究極のところで相違があったわ。智義さんは信仰を持っていたけど私にはそれがなかったから」
「清美さんはカトリックでなかったの?」
「入信を勧めてはくれたけど……洗礼は受けなかった」



          ◇



幸輔は智義と清美の寝室のベッドに横になった。



清美が二階に上がっているあいだ、幸輔は風呂上がりのビールを飲んでいた。二階から下りて来ると、風呂に入る直前の清美は幸輔を真剣な瞳で見詰めた。
「私の寝室で寝てね。階段を上がった左手。その部屋がいちばん川の流れが聞こえるの」


ほんのりとビールの酔いに色を染めた顔に、いじらしい表情を浮かべて言った。



幸輔は別部屋に布団を敷いてくれたのであろうと思っていた。



武庫川の流れが雨音に入り交じり、横たわっている幸輔に聞こえていた。洋室にダブルベッド、ドレッサーがあった。壁には畳一畳分のサイズで、シルクスクリーンであろう、広大な草原を七、八頭の若馬が、遠近法の描画で斜めに疾駆していた。馬は幸輔のいちばん好きな動物だった。智義もそうであったのかあるいは清美の趣味なのか、幸輔は思案する視線を草原の馬の群に投げていた。



風呂から上がった清美は真珠色のパジャマで寝室に入ると、ちらっと幸輔を見、「川の音がよく響くでしょう」と言った。



それからドレッサーの明かりを点け、寝室の明かりを消した。
「枕元の明かりを点けて」と言い、ドレッサーの前のクッションに腰を下ろした。
「智義は馬が好きだった?それともきみが」
「クリスマスイヴの日に、三宮であの人が衝動買いしたの。高かったわよ。世界で二百部しか刷られていないの」
「そうだろうな、このサイズでは。色彩が豊かだね」



夜の化粧を終えた清美は、幸輔の傍らにシルクのパジャマでそっと横たわった。
「あの絵、智義さん、あなたの好きな絵だと言って買った。馬がお好きなんでしょう」
「そうだけど……」
「私ね、智義さんに抱かれているとき、あの絵を見ていた。いつかあなたとこうなるのではないかと予感していた」
「ぼくを好きそうな顔を一度も見せたことがなかったけど」
「好きとか嫌いではなく……そんなシンプルな感情ではなく……もっと奥深い、女の躯に直接点滅する予感。欲望かな。そんなものを智義さんに抱かれながらあの絵を見詰めていると感じ続けていた。いつか岡部さんに抱かれると」
「智義に抱かれるのが嫌だったの?」
「……いつも女になりきれなかった」
「智義を裏切るようなことは一度もきみに感じたことはなかった」
「裏切るとか裏切らないとか、そんなふうには思わない。女には襞襞(ひだひだ)がいろいろとあって、智義さんとのことはこの襞に仕舞い、岡部さんとのことはこの襞にと。誰でもということではないわよ。抗(あらが)いがたい人だけ。私にはあなたがそうなの。智義さんとは平凡な夫婦としての感情しかなかった。だけどあなたは私の女を揺さぶる。智義さんとでは起こりようのない、私がかつて想像すらしない世界にあなたは私を誘(いざな)う。それをずっと待っていた。智義さんに抱かれている最中に、私の脳裏に疾駆していたのは、あの馬の群れ」
「……」
「燃え尽きそう……」



幸輔はベッドに躯を起こすとシルクの上着のボタンを外した。目を閉じた清美の顔は大学教授の顔ではなく、うっとりとした若い女の表情だった。乳房を吸う子供が一人だったせいか、それとも智義が亡くなってからの空閨(くうけい)が長かったせいか、清美の広い胸は白く輝き、恍惚の祭典を待ち望んでいた。



幸輔は清美の胸にそっと片耳を押しつけた。烈しい瀬音なのか疾駆する馬の蹄(ひづめ)の音なのか、高い響きが内耳(ないじ)にまで侵入していた。


小説――モザイクの珈琲

2007-01-18 05:26:53 | 自作小説(電子文庫本)

ホテルを出ると幸輔と氷室葉子は、ハーバーランドのモザイクに向かった。足元の道が白く光り、五月下旬の太陽は、朝から初夏の暑さを地上に放射していた。モザイクの店舗街に行くチョコレート色の石段を上っていると、幸輔は足のだるさを感じた。これも一晩ベッドで葉子に奉仕したせいだと思った。



葉子は満ち足りた足の運びで、先にすたすたと石段を上り、振り返り、眩しそうな眼差しを投げかけ、
「珈琲を飲みましょうか」と言った。



日曜日なので朝から大勢の若者がモザイクに来ていた。若者向けの商品を扱った、モダンな建物が並んでいる。五十歳の幸輔にはこうした商品も関心外で、立ち寄るところは喫茶店かレストランであった。今朝は疲労感で食欲がない。頭脳が白煙に包まれたように、ぼーとしている。いま必要なのは珈琲ではなく熟睡だと思ったが、浮き浮きした動作で前を行く葉子に従わざるを得ない。



珈琲専門の店は朝から混んでいたが、二人がけの席が一つ空いていた。二人は向かい合って座った。葉子は嬉しそうな表情で、好奇心に光った黒い瞳で幸輔を直視した。
「きみは眠たくないのか」と、半ばあきれた口調で尋ねると、葉子は、うふふ、と声にもならない笑い声を低く唇から洩らした。
「きみは元気だよ。ぼくはまだ小舟で川を下っているようだ」
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶなようだけど、きみにすっかり精魂を抜かれた」
「しー、大きな声で言っては駄目」
「大きい声で喋っていないよ」
「蚊の鳴くような声で喋って」



幸輔は周辺を見回した。私服に着替えた女子高生といったところが多かったが、三十代、四十代の女連れの席も多かった。なぜか男連れはこの席だけだ。



葉子は本人が言うようにタフだった。中学・高校・大学とバレーボールで活躍した。身長は162センチメートルで長身ではない。おそらくフットワークがよかったのだろう。幸輔は高校のときに、剣道で国体に出場したが、大学でセクト間の闘争に巻き込まれて、寝ていたときにゲバ棒に襲われ、肋骨二本に罅(ひび)が入った。以来運動らしきことから遠ざかり、創作に打ち込み始めた。しかしそれも遠い昔の話で、いまはすっかり躯(からだ)がなまくらになった。



高校の頃からの痩身で、いまもほぼ同じ体型である。日頃はジーンズ姿で気楽に暮らしていた。



葉子は幸輔よりは一回り年下なので、元気なのも仕方のないことだと思っている。一晩のセックスのあとはとくにそうだった。幸輔のほうは寝不足で躯が重たくなるのだが、葉子は逆に軽やかな行動となり、目は活き活きと輝いている。事前、事後で目の輝きがまるで異なるのは、ダイエットの広告より確かだ。



この店は世界のほとんどの珈琲豆、アラビカ種、ロブスタ種、リベリカ種、エキセルサ種を網羅してあった。幸輔は香りの強いロブスタ種のものを、葉子はアラビカ種のブレンドを、若いウェイトレスにオーダーした。
「ケーキ頼むわね」



葉子は幸輔の顔を覗き見、ウェイトレスが持参したケーキのメニュを楽しそうに眺め、これとこれ、と指図した。
「あなたは?」


胃袋の辺りがうっという気分だったが、一個なら食べられるだろうと、メロンの果実の載ったものを注文した。



一晩セックスをすると葉子の体内の糖分が欠乏するのか、朝の珈琲にはケーキが付く。幸輔のほうはとても食べられる気分ではなかったが、一個は葉子に付き合った。
「おいしいでしょう?」と尋ねられれば、「おいしいよ」と応えた。すると葉子は可笑しそうに笑うのだった。おそらくよほど憔悴した顔をしているのだろう、と幸輔は思った。



喫茶店を出ると神戸港を見渡せる場所に移動、木製のベンチに肩を並べて腰掛けた。広い海面が明るく輝いていた。
「まだ眠たいの?」
「眠たいですよ、ほら太陽を見ると黄色く見えるよ」幸輔は冗談のつもりで言ったが、見上げると本当にオレンジ色に染まっていた。



やはり忍ぶ恋には周辺に人の少ない戸外の方が話しやすい。
「彼は相変わらず帰宅は十時、十一時過ぎですか」
「六時、七時に戻ってくることはないわ。あの人の顔を見ないだけストレスも溜まらずに助かるけど」
「いまの三十代、四十代の働き手は夫婦ともに大変だな。ひと昔はこんなふうではなかったのに。政治の貧困なのかな、家庭の崩壊か」
「本人が女ごころに気付かないだけよ」葉子は突き放すように言った。
「結婚すれば女性という存在でなくなり、妻という名の食事献立と洗濯、布団干しのロボットくらいに思っているのでしょう」
「あとは倦怠のセックス」
「あなたとこうなってからは彼とはセックスはないわ。もともと淡泊な人だから」



葉子の話では夫婦のセックスは年に4、5回、多い年で6、7回。幸輔には想像のつかない夫婦関係である。意外とこういう夫婦が多いとは聞いていたが、葉子の口からそれを告白されると、なるほどそうか、と幸輔は納得のいかないことを納得した。
「どうもきみたち年代のことは理解しがたい。身近な夫婦間でコミュニケーションを拒絶していて、どうして他人とのコミュニケーションが成立するのか、それを思うと空恐ろしい現象だね」
「いまの社会はセールストークだけなの」
「男と女の関係も?」
「そんな人が多い。お互いに自己を売り合っているだけ」
「ぼくたちも?」
「ううん、違うわよ。私たちは。そんな関係だったら嫌だもの」



葉子は甘えるような顔で瞳をうっとりとさせた。昨晩のセックスを想起している表情だった。幸輔と葉子のセックスはいつも濃厚であった。二月(ふたつき)、三月(みつき)に一度の逢瀬であってみれば当然そうなる。昨夜のように葉子が家を空けられるチャンスなどは、一年に一、二度あるかないかだ。幸輔としては一、二時間のセックスの後に葉子が帰宅する状況は切なかった。せめて一晩は、という思いは二人に共通であったが、一方で幸輔は子供たちとの夕食に間に合うように、百貨店の地下街で葉子と子供二人分の寿司折りやステーキ肉を買って葉子に持たせ帰宅させた。夫の分は外してある。十時、十一時に帰宅する夫のことを考える余地はない。
「女が人権意識を持ち始めている時代だから、女は妻である状態が不幸だと思えば、夫に頼らずに自分で幸福を作る。ひと昔のように夫の座に胡座(あぐら)をかいていては、妻は夫を見捨てるだな」
「そういうこと。国際競争力とか企業戦争とか戦争にばかり頭働かせているから、いまの男は優しさが欠けていくのよ。女の望んでいることとは違うことばかりやっている」
「ぼくはサラリーマンでないからこの感覚からはずれているけどね」
「あなたはずれているから優しいの」



女は強くなったと言われてきたが、女は男と戦争しようとは思っていない。女が男に求めているのは優しさなのだ。女が強くなったと思えるのは、痛めつけられた挙げ句の自衛だ。女が自衛しなければならない世の中は不幸だ。



幸輔は穏やかに細波(さざなみ)立っている広い海原を眺めた。この海のように社会が穏やかであれば、何も問題は起こらないと解決の糸口にもならないことを、幸輔は寝惚けた頭に浮かべた。
「まだ眠たいの?」
「きみが一晩中ぼくを酷使するからだよ」



葉子は楽しそうに笑った。
「子供が大学にでも入ってくれたら、あの人とは離婚する」と、海原に視線を向けたまま、きっぱりと言った。



幸輔にしてもこれまで女に優しくしてきたとは言いかねる。葉子のいまの毅然とした言葉は、ブラックの味だった。


 


小説――ドジ

2007-01-17 00:16:34 | 自作小説(電子文庫本)

妻の瑛子(えいこ)が銀行業務の最中に蜘蛛膜下出血で急死して四年になる。四十七歳だった。
「五十歳まで働いたら退職してもいい」と、靖彦の顔色を窺いながら打診してきたとき、靖彦は「仕事がえらいのなら今すぐ退職してもいい」と応えた。
「あと四、五年は働けるわよ」瑛子は庭いじりをしていた腰を上げ、屈託のない笑顔で、リビングルームの床に新聞を広げて読んでいた靖彦に言った。

 

昨夜の雨が上がり、雲一つない青空であった。裏庭に白やピンク、紅色の虞美人草が細い茎の先で静かに花開いていた。その手前には赤紫の松葉菊が花壇の土を覆うように咲いていた。
「あなた、虞美人ってどんな美人なの。前から気になっていたの」
「虞美人草か。夏目漱石の小説にもあるな。虞美人というのは普通名詞ではなくて、昔の中国の武将項羽(こうう)の嫁さんの名前でなかったかな」


お互いに仕事休みの日曜日であった。瑛子の傍らには飼い犬のドジが寝そべり、首だけ上げて、二人の会話をきょとんとした眼で聞いていた。全身白毛であったが、尻尾と耳の先だけ栗毛色だった。秋田犬と何かが交じった雑種のようだった。七年前の阪神・淡路大震災のときに、宝塚の十階建てマンションを避難した、娘二人のうちの長女が、歩道で拾ってきた。長女が歩道を歩いていると、白いコロコロした子犬が尻尾を振って、娘の足を追ってきて、離れなかったそうだ。

 

長女は瑛子が急死する半年ほど前に結婚式を挙げ、いまは大学勤めの夫と、夫の大学まで自転車で五分の距離のマンションに住んでいる。飼い猫は連れて行ったが、ドジはこの家に残された。
「そうなの。虞という名の美人なお姫様なのかな」
「そのようだ」
「いつの時代の話?」
「漢・随・唐・宗・元・明・清の漢の時代だから、紀元前の話だな」
「よくそんなこと憶えているのね」
「前に中国の歴史は読んでおいたから」
「じゃあ本当に美人かどうかはわからないわね」
「キミぐらいの顔じゃないか」
「おほほ。今夜はなにをご馳走しましょうか」


瑛子が笑ったので、ドジは片耳だけぴくっと立て、相変わらずきょとんとした黒目で、靖彦の顔を見詰めていた。
「おい、ドジまでが興味を示しているぞ」
「あら、ホント」


瑛子はドジに近付き、ふさふさとした毛の頭を撫でてやった。
「ここに来てからビッコの脚も目立たなくなったね」
「運動できるからな。宝塚に居たときは、マンションから滅多に外に出さなかっただろう」
「そうね。自転車にぶつかって脚がビッコになったのよね。だからドジなんてね。ドジって牡の名前のようだけど、あんたは雌なのよね」


瑛子はドジの頭を片方の腕(かいな)で抱きかかえ、頭を撫でていた。


          ◇


靖彦は花壇用のスコップを持って、花壇の土を鋤(す)いて、腐葉土を混ぜていた。昨夜雨が降ったあとの晴天の午前、珈琲色の土は柔らかであった。瑛子が丹誠を籠めていた花壇である。虞美人草と松葉菊、現の証拠の紫紅、どくだみの白も咲いている。瑛子は小振りなひっそりと咲く花を好んだ。
「現の証拠というのも変な名前ね」と言ったことがある。
「下痢止めの薬草だから、下痢が止まったら、たちまち現の証拠じゃないか」
「そういう意味なの」瑛子は大袈裟に驚いた眼で靖彦を見た。


このときもドジは聞き耳を立てていた。


いまはそのときの瑛子は不在だ。靖彦は初夏の陽射しに汗ばんだ。一休みだ、と呟くとリビングルームのサッシ戸を開けて、床に置いてあった煙草を引き寄せた。ライターで火を点けると、青空を見上げて紫煙を燻(くゆ)らせた。唇から煙草を離すと、
「なぁ、もう四年経ったぞ」と、脇に寝そべっているドジの顔を見て言った。


ドジは大きな瞳の奥で頷いているようだった。
「瑛子はどこに居るのかね」


靖彦はドジの頭を撫でて呟いた。ドジは長い舌で靖彦の顔を舐めようとした。靖彦は顔を近付けてやった。ペロっとひと舐めした。
「お前も淋しくないか」

 

そのときリビングルームの壁に据え付けている電話が鳴った。靖彦は急いでリビングルームに上がり、受話器を握った。
「お父さん、元気にしている?」
「ああ元気だ。日曜だから庭の土を手入れしていたところだ」
「そう。ドジも元気?」
「元気だ。二週間に一度は風呂場でシャンプウもしているぞ。そちらのチョビも元気か」
「それで電話したの。それがね、チョビ、十階のベランダからジャンプしたの。近くに飛んできた小鳥をねらって飛んだの。そのまま一階の裏庭に」
「死んだのか」
「血反吐を吐いてたけど、先程犬猫病院に賢治さんと行ってきたところ。一週間入院するけど、助かりそう」
「そりゃ良かった」


靖彦は娘との電話を終えると、庭先に出て、スコップを握って先程の作業を続けた。
「ドジ、チョビがな、十階からジャンプしたそうだ。ドジな猫だな、そう思わないか」


ドジの瞳は、そうだ、そうだと頷いているようだった。


もしあのときに瑛子が退職していたなら、職場のデスクで蜘蛛膜下出血は起こらなかったかもしれない。靖彦はドジの瞳を見詰めた。ドジは怪訝な表情で靖彦を眺めていた。


小説――吉野山

2007-01-16 08:02:09 | 自作小説(電子文庫本)

ホワイトボードを背にしての毎日の子供達との付き合いから逃れるような気持ちで、祐吉は五月の第二日曜日、一人で空中ケーブルに乗り花吹雪の舞う吉野に登った。普段は日曜日も休みなしに学習指導している神戸の有名進学塾に祐吉は臨時勤めしていた。大学を出て五年になる。


連休明けの日曜日であったが、ケーブルの中は定員オーバではないかと思えるほどの人数、路上に吐き出されての中千本に上がる坂道も中年のご婦人達で賑わっていた。若いカップルもいることはいたが、花の吉野は中年婦人に占領された感があった。
「あら、おひとりですか」

中千本の行きつけの食堂のおかみは、たて込んだ客の応接の合間をぬって、祐吉に声を掛けた。丸顔の目のきりっとした女である。
「相変わらずこんでますね」
「この時期だけですよ。あいにく風が強いでしょう。お泊まりですか」
「ええ、都合よくキャンセルがあってね」
「どうぞ、奥があいてますから」


祐吉は座卓の並ぶ座敷の賑わう客の肩を分けて、八畳ほどのベランダに出た。花むしろが敷かれ、四脚の座卓のうち二脚は花見客に囲まれていた。空いていた座卓の上に花びらが数片散っていた。


すぐに別の若い娘がビールと小皿につまみを盛って小走りにやって来た。
「おかみさんからです」
「あ、ありがとう」


祐吉は中のレジの方を見て、こちらを向いていたおかみに視線を合わせて言った。うなずく様子が目に映った。


一昨年から夏の合宿学習に子供を引率して吉野に登っている。しかし丸六日間を日に八時間という強化学習を消化するために、ゆっくりと自分の時間をとって吉野を味わうゆとりはなかった。その不満を解消しようとして、昨年この時期に無理に友人二人を誘って上がり、この食堂で半日を過ごした。合宿の宿舎に近いこともあり、祐吉は初めての吉野からここを利用していた。


吉野の谷間は意外と険しい。その緑の谷間を花吹雪が散り急ぐように風に舞っていた。祐吉はその風情をビールをゆっくりとのみながら眺めた。ほんのしばらくであるが、この世の身すぎ世すぎが、何もかも花の世界のうたかたのように思えてくる。それにここに来ると華子とのことが思い浮かぶ。
「花子なんて平凡な名前だな」


初対面の華子に言った。
「花の花じゃないのよ。はなやかの華、あれよ」

華子は涼しい笑顔で応えた。自分の名前を気に入っている顔であった。


それにしても華子は不思議な女であった。何を考えているのかさえ分からない女だった。物事を割り切って考えるようなところもあれば、妙に古くさいところもあった。三つ歳上のせいで、そう思えたのかも知れない、と今の祐吉は考えていた。


華子との結び付きそのものが出し抜けのような感じのものであった。大学の先輩に連れられて初めて行ったバーで水割りを飲んでいると、そこのホステスである華子が、祐吉のとなりに強引に座った。卒業を目前にしての大学のコンパの後の二次会で、ビールに強くない祐吉はすでに目の奥が酔っていた。
「あなた学生さんね」


祐吉はうなずいた。
「東京の人と違う。大阪でしょう」
「そうだよ。大阪は淀川の生まれ」
「寅さんのようね。私は奈良。奈良の吉野」


祐吉は華子に急に親しみを感じた。
「西行庵のある吉野?」
「さいぎょうあんって知らないわ。私の家は大和上市にあるの。吉野山の少し手前の所。吉野川の流れる木材の町、知らない?」


祐吉は華子に不安定な自分の心をぶつけてみたくなった。なかなか決まらない就職にいらいらしていた。元はといえば自分が何に自分の人生を掛けてよいのか、それの分からないところにもやもやとしたものがあった。
「おれのところに来いよ。その場その場で、自分の心につじつまを合わせていくのが人生だよ」

二年前に中小クラスの証券会社に入社した先輩は哀れむような口調で言った。
「何か心配ごとがあるようね。よかったら今夜私とデートして見ない。気分転換よ」


華子はそう言い残すと新しくきた客の席に移って行った。
「学生さん」


酔眼を開くと華子の笑顔が目の前にあった。祐吉はベットに寝ていた。
「どうしてこんな所に?」
「あんなこといって。貴方が行こうと誘ったのよ。あなたたと私はもう出来てしまったの。でもよかった。あなた初めてなのね」


祐吉は夢の中で何かに夢中になっている自分を感じてはいたが、それは華子の言葉の世界のものとはなにか違う感じのものであった。
「どうして僕と?」
「好きになったの。ひと目惚れってあるじゃない」


華子は祐吉の上に乗ってほほえんだ。華子の豊かな乳房が祐吉の胸の上にあった。祐吉は意識の戻った体で、あらためて華子を下にして抱き締めた。


五か月余り華子と関係が続いた。華子は嫌なそぶりも感情も見せなかった。そしてある夜祐吉は華子に結婚を申し込んだ。大学を卒業していたが、就職はしていなかった。先輩が探してくれた証券会社のアルバイトでなんとか過ごしていた。
「ばか言わないで。私は若いひととは結婚しないわ」


それ以後祐吉は華子に結婚の話をしなかった。華子との関係の雰囲気は初体験の頃と同じであった。祐吉の就職が大阪の親父の縁故で強引に決定した。華子との事もなんとなく両親に感づかれていた。大阪に戻る日が近付いた頃、祐吉はもう一度華子に結婚を迫った。しかし華子の拒絶は以前に増して激しかった。
「私、ある会社の社長と結婚することになってるの。もうこれでお別れにしましょう。あなたは大阪に帰らないと駄目」


ベットから抜け出た白い体の華子はいつものように器用な身のこなしで服を着けた。
「大阪で早くちゃんとした恋人を作りなさいね。そうだわ、桜の時期に恋人と吉野に上がったら。ロマンチックでいいとこよ」


その言葉が華子との最後になった。バーに行っても華子の姿はなく、ママも居所を言わなかった。

 

          ◇

 

祐吉は近付いてきた娘を呼び止めた。
「きょうは少し寒いね。お酒を二本と田楽を適当にもってきてくれる」


吉野の谷底に向かって、白い花吹雪の帯が、落下する滝の流れように果てしもなく散っていた。


小説――空蝉

2007-01-15 22:06:10 | 自作小説(電子文庫本)

男は公園の片隅のブランコに腰を下ろし、堅く目蓋を閉じ蹲るような姿勢で動かなかった。公園の左側に幹線道路が走り、道路の向こう側には町役場、公民館、商工会議所の建物が並んでいた。右側は保健所の大きな倉庫のような白い建物が、公園の一方を行き止まりにしていた。保健所の建物が異様に巨大なのは、保健所職員が狩ってきた野犬、野良猫をここで処分するために、それ用の施設が付帯していたからだった。といっても確かめたのでないから、犬猫を(とさつ)する施設があるのかは、いつまで経っても不明確なままであったが、男は自分が背負った運命に似つかわしいと考えていた。

 

夕暮れ時、仕事からの帰りに公園の傍を通り過ぎると、キャン、キャンと、この世の終わりのようなけたたましい犬の啼き声に出くわすことがあった。此処(ここ)が自分たちにとってのアウシュビッツ収容所のようなところだと覚るのか、犬も、猫も尋常な状態でなかった。

 

油断していたところを、素早く針金の輪が飛んできて、首を締め上げられ、いきなり小型トラックの荷台に引っ張り上げられて連れて来られたのが、白い建物の小暗い、がらんとした場所。野良犬たちにしてみれば、そこにいる数人の胡散(うさん)臭い風体(ふうてい)の男たちが、自分たちの命運を握っていることを、恨めしそうな眼差しの奥にいやがうえにも刻んでいるのかもしれない。

 

夏の暑い日盛りであった。砂場以外目立った遊具のない、近所の母親、子供たちにも見捨てられた寂しい公園に男は来ていた。男は公園の一角、保健所の建物に近い辺りにあるブランコの一つに腰を下ろし、力のない虚(うつ)ろな目付きで揺らしていた。

 

五、六メートルの高さで、妊婦のような胴体を持て余し気味の棕櫚(しゅろ)、枝を水平に張った水木、桃色の花を着けた夾竹桃、緑の濃い楊桃(やまもも)、若い明るさの樹葉の樟(くす)などの樹木が、十数本、ところ狭しと繁茂し、鬱蒼とした森の風情になっている。ブランコの辺りだけはひんやりとした木下闇(このしたやみ)になっていて、子連れの若い母親の眼には物騒な場所に映るのか、あるいは野犬処理施設に隣接しているせいか、たまに母親と子供の姿が見えても、保健所近くには寄らなかった。

 

折角の公園らしい遊具、向かい合って四つのブランコがあったが、その一つに静かに腰を下ろしているのは男だけであった。絶えず涼風が吹き抜け、梢の繁みが騒ぎ、蝉が鳴いていた。

 

ブランコの真上の十メートル近くある榎(えのき)の大樹で、一斉に鳴いているのは熊蝉だ。根張りの逞しさで周りの地面を盛り上げ、ひび割れた太い幹には、乾いた緑の苔の斑点が附いていた。四方八方に黒い枝を伸ばし、繁った樹葉は巨大な天蓋(てんがい)となって、日射を遮(さえぎ)っていた。公園の樹の中でもいちばん堂々とした存在感で他を圧していた。

 

存在感が存在感以上の生命を感じさせるのは、一日のこのいっときに、熊蝉が一斉(いっせい)に鳴き出すからだ。男は大抵この時間帯に人のいない公園に来て、ブランコに腰を下ろしている。あまりの鳴き声に時折、訝(いぶか)しい眼差しを、樹の上に向けた。どこかに由理子が隠れているのではないかと探す目になったが、暫くすると気落ちした目を地面にやった。

 

一匹一匹の熊蝉がシャーシャーと鳴いているという感じではなかった。一万ほどの飴色の空蝉(うつせみ)が、目に見えない丸い竹かごの中に放り込まれ、風に揺さぶられ乾いた音を立てているのではないかと想った。空蝉の巨大な魂に包み込まれているようで不愉快ではなかった。男は自然と堅く目蓋を閉じた。

 

男の生存の根拠は、熊蝉の鳴き声の中に融け込み、吸引され、存在がこの世から不確かになり、その思いが濃くなるのにつれて、男の背骨はしだいに湾曲になり、寿命間近な老人のような姿勢で蹲(うずく)ってしまう。ここが由理子のいる世界なら、もう一度由理子の手を引いてやりたい、抱いてやりたい。目蓋の裏でうっすらと涙の被膜が、眼球を濡らす。

 

このまま心地よい涼風の中で死んでもいいのだ、と男は呟いた。量りきれない空蝉の触れ合う音の中で、人知れず息をひきとることができれば、なんと贅沢なことか。もう何も要らない、働くだけ働いた、と男は呟いた。

 

男の頭は疲れた色の銀髪だった。

 

父親の代からこの町で小さな鉄工所をやってきた男は、昨年六十歳を超えた。父親が四十二歳の厄年に急死していたので、まさかこの歳まで自分が生きるとは思わなかった。母親の口癖であった。
「お父さんはあんたと違って前しか見なかった人だね。あんたは覇気(はき)がない」

 

前しか見ない親父にしては、見てきた前が短すぎた、と男は蹲っていた姿勢を少し伸ばし、地面に着けていた右脚の爪先に力を蓄え、地面を軽く蹴った。ブランコが揺れた。

 

ブランコは三十年前に、若い頃の男が鉄工所で一人組み立て、青ペンキ塗装して町に寄贈したものだった。子供が二人ずつ向かい合って遊べるように、二組のブランコ施設を寄贈した。早速町役場は夏でも陽射しの差さない、榎の大樹の下に遊具として備え付けてくれた。

 

しかし備え付けられた当初から、このブランコに乗りに来る子供達は少なかった。町の中心に開かれた公園だったので、以前はもっと母親と子供達が遊びに来ていたが、ブランコを設置した頃から、この公園は町のだれからも見向きされなくなった。それでも男は青ペンキが落ちて錆が着くと、徒歩五分先の鉄工所から錆止めとペンキ缶や刷毛を運び込み、一人で補修した。

 

公園の敷地は幹線道路、江戸時代の街道筋に面した庄屋の土地であったが、町制が敷かれた頃に、零落(れいらく)した子孫が町に寄付したとのことだった。公園全体の景観に不釣り合いな樹木群が、一角に集まっているのはその頃のものを、そのままにしておいたからだ。

 

――生きておれば由理子は三十六歳……。

 

幹線道路を夏日をギラギラと浴びた車が、ひっきりなしに走っていた。男はブランコを所在なげに揺らし、走り去る車をぼんやりと眺めていた。視線をずっと右手にやると起伏した黒い家並みの向こうに、白い教会の十字架が丘陵の緑を背景に浮かんでいた。

 

男の最初の子供、由理子の通っていたカトリック系の幼稚園は、教会の棟続きにあった。男は由理子の小さな手を掌に包み、妻に代わって幼稚園に送り届けた。男の妻は車で一時間はかかる僻地の中学校教師をしていたので、毎朝自宅を早く出た。

 

由理子はおとなのような仕草で姿見の前で園児服を着て帽子を被ると、それが二人だけの秘密の儀式でもあるかのように、にっこりと微笑み、男に小さな片手を差し出した。そのたびに男は胸の裡にくすぐったい喜びを覚えた。

 

男と妻との間には女、女、男と三人の子供が生まれたが、長女の由理子は六歳の時に不慮の事故死を遂げた。あとの二人が無事に育ってくれ次女は嫁ぎ、長男は工業高校の機械科を卒業すると男の跡を継いで鉄工所を引き継いでくれ、三年前に結婚をした。妻は長男の結婚式を見届けた一年後に脳溢血で急死した。

 

男はこの頃公園に来るたびに、俺はあのときに死んだのだ、と思うことが多くなった。

 

あのとき……六歳の由理子が夏の夕暮れ、公園のこの場所で、三十歳の土木労働者に強姦された挙げ句に、頭部を石に叩き付けられた死んだ日……俺は空蝉となってここに取り残されたのだ。

 

――それにしてもよくこれまで頑張った。

 

男は無気力な声にもならない声で、また呟いた。