清美は幸輔の高校、大学を通しての親友であった鴨居智義の妻でいま四十五歳、亡くなった智義とは十歳下である。某私立外国語大学で米文学、主にアメリカの女性作家の作品論を講義している。高校三年生の一人息子は四国の私立高校の学生寮に入寮、来春の大学受験を目指して真面目に勉学とスポーツに励んでいた。父親が若手文藝評論家だっただけに、息子はいずれはこの方面をやりたいと、幸輔に話してくれたことがあった。
武庫川沿いの一軒家は、鴨居智義が七年前に喉頭癌で亡くなったときから閑散とした静けさに包まれていたが、息子が入寮した二年前の春からは清美と一匹の雉猫だけになり、家内は井戸の奥を覗き込んだような静寂が、いつも沈潜していた。
大学で講義するだけでなく米文学の翻訳を精力的に出版していたので、清美に無聊(ぶりょう)の日々はなかった。昨夏は学生を二十名ばかり連れて二週間渡米していた。
梅雨の時季に幸輔は京都での仕事帰りに電話をかけ、清美の自宅を訪ねた。智義が亡くなってからは京都や大阪、ときには東京での仕事の帰路、幸輔は遺された母子の機嫌うかがいに訪れていたが、息子が入寮してからは、梅田や三宮の喫茶店、レストランで逢うことはあっても、自宅にまで足を向けることは遠慮していた。
性格は明るいが物静けさの中で翻訳に専念しているのが好きという清美とは、清美が女子大生の頃から智義を通じて知っていた。智義をあいだに挟んでであったが、屈託のない付き合いがあった。
三日月に目を細め眼鏡の奥に人の善い笑みを絶やさなかった智義は、胸底に育ちの暗さを潜めている幸輔にとっては、彼が傍らに居るだけでこころの癒される親友であった。通夜の枕辺と告別式の棺(ひつぎ)の前では、日頃人前で涙を見せることを潔しとしない幸輔であったが、やりきれない悲嘆を持て余して、ぽろぽろと涙を膝に落とし、肩を震わせた。
両親がカトリックの信者であった智義は、子供の頃に洗礼を受けていた。日曜日には両親と教会に通っていた。彼の文藝評論の視点は、聖書の世界を基盤にして貫かれていた。幸輔は彼が口にする言葉は真摯に受け留めてはいたが、彼のようなストイックな人生観は欲していなかった。他人に迷惑をかけない範囲で自然体として生きていたいと思っていた。高尚な精神で自分を拘束したくなかった。
智義が亡くなって初めて気付いたことであるが、二、三ヶ月に一度遺児と付き合うことを目的に訪れていた幸輔は、生前の智義との交際は、実は智義の向こうにいる清美と語らいたくて、智義の家を訪れていたのではないかと思い当たった。
テーブルで向かい合って清美と談笑していると、智義には悪いことだが智義が死んでからのほうが、清美に打ち解けた会話を交わせるようになっていた。清美のほうもそのようで智義が亡くなったからのほうが、より若やいだ気配で幸輔に接してくれた。清美への特別な感情があったかといえば、幸輔はいまだにそれは掴みかねていた。
「この辺りは治安はいいようだね」
幸輔は一人住まいの清美を慮(おもんばか)って訊ねた。
「ご近所に変な人は住んでいないから。でも貴志が寮に入ってからは一人で居ると物淋しいわね」
「静かすぎる?」
「川の音が聞こえてくるだけ。岡部さんは貴志が居なくなってからはここには訪ねてくださらないし。翻訳に取り組んだり調べ事をしていると気が紛(まぎ)れるけど」
「清美さん一人になると訪ねて来にくいものだね」
「どうして?」
「そう訊かれると困るけど」
三時に着いたのだがワインを飲みながら清美のもてなしを食べ、智義の好きだったクラッシックのレコードに耳を傾けながら話し込んでいるうちに五時近くになった。
「そろそろ暇(いとま)をしなければ」
幸輔は、別れがたい気持ちが強くなり始めたのを抑えて口に出した。
「こんなに早く……」
途端に清美は心淋しい色を目蓋に浮かべ、じっと幸輔を見つめた。
「お邪魔でないかな」
「そんなことはないわ」
久方ぶりの訪問であったせいか、清美は目下取り組んでいる翻訳の話や息子のことを幸輔に聴いて貰いたい気配で、食卓に次々と手料理を並べた。
ダイニングキッチンから内庭に出るサッシ戸の辺りが急に暗くなると、軒端(のきば)の樋(とい)がにわかに騒々しくなり、芝生に雨滴の跳ね飛ぶ豪雨になった。
「すごい雨だな」
幸輔は眉を顰(ひそ)めた。
「止みそうにない」
清美はサッシ戸に近付き、鼠色の空を仰いだ。カーテンを引いて戻って来た。
「急いでご自宅に帰らないと都合が悪い?」
「そんなことはない。明日は日曜だから」
「泊まっていかれたら。お布団はあるわよ」
幸輔は返事をしないで唇を閉じて思案した。幸輔の耳に武庫川の瀬音が響いていた。
「よく聞こえるね」
「普段でも深夜になると聞こえてくる」
「鴨居は毎夜この音を耳にしながら寝ていたのか。羨ましいな」
「川の音がお好きですか」
「渓流、小川のせせらぎ、海辺の潮騒、それに梅雨。高校生の頃より好きでね」
「どうして?」
「気持ちが癒されるのかな。子供の頃から川辺でぼんやりとしていたから」
「一人で?」
「子供でも生きているのが辛(つら)くなることがある」
「智義さんに岡部さんのことは少しは聞いたわ。ご両親の愛の薄い育ちだって」
「父親は早く死んだので……母親とも馴染めなかった」
「そういえば智義さんが、幸輔さんと旅行すると泊まるところは必ず水の音がする処だって、言ったことがある」
「川の水は留まることがないからね。留まれば腐る。流れて行くのだけど、目の前にはいつも川がある。この事実がぼくを慰めてくれた。この事実を頼りにこれまで生きてきた気がする」
「私はこれから何を縁(よすが)に生きていけばいいのか……」
清美は幸輔の瞳を覗き込み微笑んだ。返事に困り、幸輔は曖昧な笑みを頬に浮かべた。清美は立ち上がるとキチンに向かった。
「夕食の用意をします。テレビを観ています?」
「テレビは点けなくても。瀬音を聴いています」
清美はキッチンに立っててきぱきとした物音を立てて献立の用意をし始めた。幸輔はワイングラスを運んでソファに腰を下ろし、雨音に気持ちを沈めていた。
「智義さんがね、岡部さんは飲めば『月の砂漠を』を口ずさむと言ったことがある。それになんだったかな、思い出したわ――主を信じ主のはからひに癒されんどこか違ひし「吉」読む吾と――は、岡部さんの短歌なの?岡部とぼくは長い付き合いだけど、究極のところが違うと笑っていたわよ。短歌をお作りになるの?」
「大学の頃に少し囓っただけ」
じゅーと肉の焼ける音が聞こえ、旨(うま)そうな匂いが漂った。
「でも私も智義さんとは究極のところで相違があったわ。智義さんは信仰を持っていたけど私にはそれがなかったから」
「清美さんはカトリックでなかったの?」
「入信を勧めてはくれたけど……洗礼は受けなかった」
◇
幸輔は智義と清美の寝室のベッドに横になった。
清美が二階に上がっているあいだ、幸輔は風呂上がりのビールを飲んでいた。二階から下りて来ると、風呂に入る直前の清美は幸輔を真剣な瞳で見詰めた。
「私の寝室で寝てね。階段を上がった左手。その部屋がいちばん川の流れが聞こえるの」
ほんのりとビールの酔いに色を染めた顔に、いじらしい表情を浮かべて言った。
幸輔は別部屋に布団を敷いてくれたのであろうと思っていた。
武庫川の流れが雨音に入り交じり、横たわっている幸輔に聞こえていた。洋室にダブルベッド、ドレッサーがあった。壁には畳一畳分のサイズで、シルクスクリーンであろう、広大な草原を七、八頭の若馬が、遠近法の描画で斜めに疾駆していた。馬は幸輔のいちばん好きな動物だった。智義もそうであったのかあるいは清美の趣味なのか、幸輔は思案する視線を草原の馬の群に投げていた。
風呂から上がった清美は真珠色のパジャマで寝室に入ると、ちらっと幸輔を見、「川の音がよく響くでしょう」と言った。
それからドレッサーの明かりを点け、寝室の明かりを消した。
「枕元の明かりを点けて」と言い、ドレッサーの前のクッションに腰を下ろした。
「智義は馬が好きだった?それともきみが」
「クリスマスイヴの日に、三宮であの人が衝動買いしたの。高かったわよ。世界で二百部しか刷られていないの」
「そうだろうな、このサイズでは。色彩が豊かだね」
夜の化粧を終えた清美は、幸輔の傍らにシルクのパジャマでそっと横たわった。
「あの絵、智義さん、あなたの好きな絵だと言って買った。馬がお好きなんでしょう」
「そうだけど……」
「私ね、智義さんに抱かれているとき、あの絵を見ていた。いつかあなたとこうなるのではないかと予感していた」
「ぼくを好きそうな顔を一度も見せたことがなかったけど」
「好きとか嫌いではなく……そんなシンプルな感情ではなく……もっと奥深い、女の躯に直接点滅する予感。欲望かな。そんなものを智義さんに抱かれながらあの絵を見詰めていると感じ続けていた。いつか岡部さんに抱かれると」
「智義に抱かれるのが嫌だったの?」
「……いつも女になりきれなかった」
「智義を裏切るようなことは一度もきみに感じたことはなかった」
「裏切るとか裏切らないとか、そんなふうには思わない。女には襞襞(ひだひだ)がいろいろとあって、智義さんとのことはこの襞に仕舞い、岡部さんとのことはこの襞にと。誰でもということではないわよ。抗(あらが)いがたい人だけ。私にはあなたがそうなの。智義さんとは平凡な夫婦としての感情しかなかった。だけどあなたは私の女を揺さぶる。智義さんとでは起こりようのない、私がかつて想像すらしない世界にあなたは私を誘(いざな)う。それをずっと待っていた。智義さんに抱かれている最中に、私の脳裏に疾駆していたのは、あの馬の群れ」
「……」
「燃え尽きそう……」
幸輔はベッドに躯を起こすとシルクの上着のボタンを外した。目を閉じた清美の顔は大学教授の顔ではなく、うっとりとした若い女の表情だった。乳房を吸う子供が一人だったせいか、それとも智義が亡くなってからの空閨(くうけい)が長かったせいか、清美の広い胸は白く輝き、恍惚の祭典を待ち望んでいた。
幸輔は清美の胸にそっと片耳を押しつけた。烈しい瀬音なのか疾駆する馬の蹄(ひづめ)の音なのか、高い響きが内耳(ないじ)にまで侵入していた。