掌篇小説
掌篇小説
ホテルでバイキング形式の朝食を摂(と)ると、二人はタクシーで新神戸駅に出た。黒のブラウスに黒の帽子、黒のバック、肌色のパンツの由香は先ほどから、未明のベッドでの幸輔の囁きを忘れたかのように押し黙り、萎(しお)れていた。
「京都まで送って行こう。京都で昼食をしてからきみを新幹線に乗せる。それでいいね」
衆人環視を構わずに、幸輔はしょぼくれている由香の肩に片方の掌(てのひら)を載せた。
「いいの?」
「大学は春休み中だからぼくは自由だ。東京まで行ってもいいが、離れがたくなるばかりだろう」
「京都まででいい。それまでに元気になる」
「夜は元気だったのに」
幸輔は由香の片頬を指で突(つつ)いた。
「そんなこと言って……」
由香は目蓋を薄紅に染め、泣き出しそうになったが、微かに笑みを浮かべた。
「東京と芦屋は近いのだよ」
「わかってます」
十時前に京都駅に着いた。観光シーズンだけに烏丸中央出口の構内は、気ぜわしく改札口を出入りする人、一様に小型のリュックに帽子を被った中年のオバさんグループ、太股の露わなミニスカートにルーズソックスのコギャルグループなどで混雑していた。春の陽気に誘い出されたかのように、皆生き生きと輝いている。
「もう一つ桜を観ておきますか。醍醐桜のような一本樹ではないが、春爛漫だ。昨夜のきみのように」
「また意地悪を……」
ロッカーに大きな荷物を預けると、幸輔はタクシー乗り場に向かった。
「東福寺に連れて行くよ。観光客のほとんどは北に向かったり嵐山に脚を伸ばす。東福寺は駅の南側だから観光客が少ない。春は桜、秋は紅葉が綺麗だ」
「京都へはよく来られますか」
「以前はね。だけど一人で来ても淋しいだけ」
「私が出て来ます。六月、八月、十月、十二月と一月(ひとつき)おきに」
「八月の京都は暑い。ぼくが東京に行く。十二月のクリスマスも東京のホテルできみと過ごそう。大学の休み中は東京で過ごす。突然きみの両親にご挨拶は出来ないだろう。ご両親とよく似た年齢だからご両親も驚かれる。二人で一緒に暮らす段取りがつけば、ご両親からきみを奪うために逢いに行くけど、それまでは無用なトラブルに由香を巻き込みたくない」
タクシーを降りると、片側に石組みの上に白壁の土塀が続いている路を歩いた。前方に青々と竹畑があった。
「ここは修学旅行で来なかったわ」
「京都はそのとき以来かい?」
「ええ。一人で来てもつまらない」
そうか、由香はそういう男たちと付き合ってきたのか、と幸輔は胸の裡でこれまでの由香の境涯を思った。
セックスだけを女に求め、女と人生を愉しむことをしない。視野の狭い男が多くなったものだ。幸輔は妻の牧子とよくあちこちに出かけた。主に京都、奈良であった。牧子が喜びそうなところを見付けては誘った。牧子が行く先々の景観を、満面で喜んでいる姿を見るのが好きであった。
「これからは何処へ行くのも一緒」
「あー嬉しい。それを愉しみに暮らしていきます」
山門を潜(くぐ)ると由香は、「広い」と目を瞠(みは)った。
「三重塔(さんじゅうのとう)があるのね」由香はそびえ立つ塔を見上げている。
観光客は境内の緑の枝を広げた樹間に疎(まば)らであった。
「観るものはいろいろとあるけど、時間があまりないので洗玉燗(せんぎょくかん)に行ってみよう。通天橋(つうてんきょう)という朱塗りの橋が谷に架かっている。欄干から眺める桜や紅葉がいい」
「通天橋って、摩天崖のところにも……」
「そう。だから東福寺の通天橋をきみに見せておきたくて」
幸輔は先に歩き、切符売り場で通天橋を渡る切符を買った。前方を腰高の外国人のカップルが、カメラを肩から提げて歩いていた。由香の左手を握った。
「緑の芝生がいいわね。それに桜が」
由香は幸輔の手を堅く握り締めた。橋の中央で二人は立ち止まった。谷の斜面に薄紅の桜が満開だった。淡い白雲のようだった。
「本当に綺麗」
「醍醐桜と違って可愛らしい」
「桜は咲くために散るのですね」
「万物すべて輪廻転生。宇宙の摂理です」
「歓びと哀しみがあるのね」
「一時(いっとき)の別れは次の歓びを約束します」
タクシーで京都駅に引き返した。京都駅の近くのホテル内に京料理の膳を出している、老舗の支店の暖簾を潜った。ここも穴場で京を知悉(ちしつ)した上品な年輩が、数組静かに食事をしているだけであった。和服の若い女が献立を持ってきた。それを由香に渡して、食べたいものを選びなさい、と幸輔は言った。由香の選んだ物と違うのをぼくは頼み、分け合って食べようとも。幸輔だけ冷酒を一合頼んだ。
由香はふと思い付いたような動作で、旅行バッグの一隅からピンク色の短冊形の一筆箋と毛筆ペンを取り出した。幸輔の眺める前でさらさらとペンを走らせた。それから書き上げた一葉を丁寧にはぎ取り、幸輔に差し出した。
桜のみ春におぼろの洗玉燗(せんぎょくかん)忍ぶ恋路は通天橋へ
「由香さんは短歌をたしなまれるのですか」
「いま思い付いたので、きょうの記念にしてくださると嬉しい」
「ありがとう。大切にします。上手く詠えていますね」
「お恥ずかしいですけど」
「ところで由香さんは着物を着るのじゃないか」
「どうしてわかったの……日本舞踊の名取なの」由香は恥ずかしそうに、顔色を薄く染めた。
「やはり。摩天崖でそう思った」
「母が自宅で踊りを教えているの。私養女なんです。本当の両親は私が幼稚園のときに交通事故死を」由香は幸輔の切り子の杯に酒を注いでから言った。
幸輔は、「そうだったのか……」と嘆息すると、酒を飲み干した。そして「まぁいい」と呟いた。
「まぁいいとは?」
「寿命のあるかぎり由香を愛してやろうと覚悟したんだよ」
「あー嬉しい」
由香はにこっと微笑んだ。
◇
由香の乗った新幹線がホームを離れ、視界から消えるまで幸輔はその場に佇(たたず)んでいた。由香の残り香が鼻先に漂っていた。
――幸輔さんは小説を書いて、傍らで私は羽を抜いて機(はた)を織るというのはどうでしょうか。
醍醐桜の村里で由香は、真実こう願っていたのではないだろうか。どんなことが起ころうと、由香を受け留め続けてやろう、と決意し、幸輔は寂寥に疼(うず)く胸を、下りの新幹線ホームへと運んだ。
湯原温泉でもう一泊するつもりであったが、由香の帰京のことを考えてやらなければと思い、行き先を神戸のポートアイランドに変更した。湯原では一度津山に戻り、さらに北に向かわなければならず、東京から離れることになる。
いつまでも由香と一緒に過ごすことができないのが現実だ。日常から逃避の自殺行であったが、ひょんなことで由香と男と女の深い仲になった以上、これまで通りの日々に立ち戻らなければならない。現実に近い方向に進まなければならない。由香はそれでもいいと了解してくれた。由香も同じことを考えていた筈(はず)だ。
ポートアイランドには、幸輔がメンバーになっているホテルがあった。急いで予約をいれると平日のせいか、ダブルもツインも空室があった。ホテルは楕円形の柱状の銀灰色に輝く、神戸での一流ホテルであった。
幸輔は妻の牧子が急死してからは、ここのシングルを使って、二、三日明るい海上を眺望したりしながら、創作に専念することがあった。芦屋の自宅に普段一人で住んでいる分にとくに不便はなかったが、やはり時折厭世観に苛(さいな)まれることがあった。こういうときは常勤講師として通っている私立大学の、講義資料の整理や創作に集中できなくなるので、必要なものを鞄に詰めてホテルに泊まった。
どこまでも平たい、凪(な)いだ海を眺めているだけで気持ちが落ち着いた。会話相手はなく、胸の片隅に寂寥が貼り付いていたが、だからといって女友達を求める気持ちはなかった。レストランや喫茶のテーブルに一人でいるときは、周辺のテーブルの家族連れ、友達連れの談笑を遠くから眺めては、自分の人生はもう終わったのだ、という思いに囚われた。牧子が亡くなってからの娘二人の挙式、これも無事に終えた。幸輔は社会にこれといった使命感をもって生きてきた男ではなかった。一人になると子供の頃からの死への誘いが、日増しに頭をもたげた。
「素晴らしいわ」
部屋に入るなり、海上向きの窓のカーテンをさぁーと両開きすると、由香は大仰な声を上げた。
「とてもいいところ。ありがとう」と、由香は幸輔の胸に飛び込み、唇を求めてきた。
「ぼくの自宅はここから近いから、明日自宅に来てもいいのだよ」
「明日は東京に戻ります。元気な顔を両親に見せます」
「それがいい。もうきみは元気を取り戻している」
由香は三十二歳の今日まで独身であった。大学当時から何度か、結婚にまで行きそうな深い仲になった男は数名いた。しかし一、二年で別れた。どの男もしばらくすると逢瀬よりも、会社の都合を口にした。男のエゴと女のエゴが闘争した。けれども由香は自分のエゴは譲れない愛のエゴだと思っていた。
由香の最後の切り札は「ねぇ、一緒に死にましょう。今ならあなたと死ねるわ」と、異常な瞳で男たちに迫った。どの男たちもそれっきりであった。由香は追わなかった。そうこうしているうちに、歓びもなく怠惰に生きていくことが億劫になり、隠岐へと旅だった。
摩天崖の断崖絶壁で幸輔を直視した途端に、由香はこれは神の啓示ではないかと、こころを痙攣させた。信じられないことが起こり、全身が金縛りにあった。番小屋から怯むことのない投身を決意し、短距離走者になりきった昂奮を、白いスニーカーの底にまでたたき込み、いざという勢いで絶壁の崖めがけて走りかけた。行く手に新見幸輔が立ちはだかっていた。一瞬呼吸が止まった。
由香は子供の頃からメルヘンに耽溺していた。危機一髪の場面で王子が自分を助けてくれる。中年の幸輔は王子ほどには颯爽としていなかったが、視線があった瞬間から、由香の胸が潤むのに充分な慈愛の眼差しを湛(たた)えていた、一瞬にして由香を包み込んだ。死の直前にある男の、なにもかも放擲した清々(すがすが)しい瞳だった。
「もう一度だけ……断崖でないところにジャンプしてみます……許していただけますか」
由香はあのとき、出逢ったばかりの男に口走ってしまった。自分のその言葉に由香自身、胸底を覗き込んで驚愕した。思いもよらないこころの叫びが、摩天崖に吹きすさぶ風の虚空に飛んだ。
「許すも許さないも……今度あなたに絶望が訪れるのなら、訪れる前に心中しましょう」
由香は幸輔のこの言葉にうなだれた。
◇
燭台の明かりに照らされたフルコースの夕食。三宮界隈と背後の六甲山系の山並みの、山腹、頂上の光の景観を愉しみながらのバーの酔い、神戸でのひとときは二人をこの世ならぬ幻想の揺らめきに誘った。由香は異常に昂(たか)ぶっていた。明日の別離への思いが由香をそうさせた。涙ぐむことはできない。私は小娘ではない、そう思うと胸の裡は狂ったように荒れ、熱く身悶えた。
部屋に戻ってきた。由香はシャワーを浴びながら、酔ったな、という思いと同時にまだまだしっかりしている、今夜は眠ってはならない、と気持ちを引き締めた。一晩中幸輔に誘(いざな)われていたかった。宍道湖湖畔のたった一晩で自分は随分変わった、幸輔の傍らに寄り添うことが生きる歓びになった。それが明日には別れなければならない。幸輔はこの狂った思いをどう受け止めてくれるのだろう。
幸輔の横たわっているベッドの横に、バスタオルを巻いただけの裸身で潜り込もうとしたら、幸輔は右腕を枕のように差し伸べてきた。由香はいったん腕の上に頭を載せたが、すぐに頭を上げ幸輔の胸に覆い被さり、唇を合わせた。長い、長い気の遠くなるキスだった。キスで全身がとろけていった。内股の柔肌が濡れていくのを感じた。
幸輔の舌が乳房の先をまさぐると、由香は昨夜は上げなかった声を、一瞬漏らした。過去の男たちには上げたことのない声のようだと思いかけたが、幸輔の執拗な舌に由香の意識は惑乱、恍惚の快楽へと誘われてしまった。身内からの快楽の声が喉元を一瞬に通り過ぎ、唇のあいだから溢れ出たが、自分の耳には届かなかった。
幸輔の行為は昨夜とは異なっていた。それが由香を自ら大胆な姿態へと導き、あらゆるところに幸輔の熱い唇、刻印を求めた。あとになって気付いたが、幸輔に射精はなかった。膣外射精というものでもなかった。何度も由香は陶酔の絶頂に上り詰めたが、幸輔は果てないのである。昨夜も今夜もコンドームを装着しなかった。物狂おしい愛撫と接吻、行為のさなかでも、幸輔は肉欲の奴隷にはならなかった。
「どうして?」由香は不安と怪訝の入り交じった思いで尋ねた。
「きみを穢(よご)したくなくてね」
それは幸輔の自信めいたものに思えた。決してこの人はこのことで自分を狂わせたり、私の日々を狂わせることはない、と由香は感じた。こういうことを超越して生きてきた、いや死のうとしていた人なのだと思い知らされた。
明け方、幸輔は朦朧(もうろう)としていた由香の耳に囁いた。
「死ぬのじゃないよ。切ないとき、苦しいときは、新幹線で三時間。静岡で逢うのなら由香は一時間半、ぼくは二時間。いいね、東京と芦屋は離れた距離でない。わかったね。死ぬときは二人で摩天崖に行く、いいね」
由香は覚めやらぬ頭でうん、うんと頷き返していた。
「ゆっくり時間をかけて二人の暮らしを形にしていこう。あの山里に暮らしたっていい」
そうだ、あの山里で私は幸輔の傍らで機を織るのだ。由香は夢見心地だった。