地域情報発信会 会員のつぶやき

会員の研修も含めた日々のつぶやきです。コメントについては内容によって、管理者側で削除させていただくこともあります。

[武田流 流鏑馬(やぶさめ)]神事の観覧

2018-06-29 10:51:13 | 歴史情報

 平安時代「流鏑馬の礼」を制定されたのは清和天皇の兄弟で、源姓を賜り臣籍降下した 源 能有(みなもと よしあり)公である、以後、源家を経て、武田家が相伝しそれを司っていたと伝わる。

 また、武田家の中でも(甲斐 武田家ではなく)我が地を治めた「安芸 武田家」で長年相伝されたのである。滅亡後は熊本細川家に伝承された。

 今日では熊本、鎌倉の地にある3団体がその「古式弓馬術」を継承している。

 今年3月[武田流 流鏑馬]について以上のような事を「Web情報ステーション」に載せることを考え、親友M氏に伝えたところ、[武田流 流鏑馬]の役員をしている彼の親友S氏に情報伝達してくれた。そのご縁で、弓場故実礼法武田流[日本古式弓馬術協会(S)]から、「平成3063() 滋賀県大津市にある[近江神宮]で「流鏑馬神事」が行われる」ことの「連絡」と「招待」を頂き、実際に観覧する事が出来た。

 [近江神宮]は 大津京駅からタクシーで5分の近距離。第38代天智天皇が祀られ、近江大津宮(大津京)跡にあり、広大な境内には多数の社殿がある歴史的な神社である。

「流鏑馬神事」は 

 1、12:3013:00 「出陣」~「鏑矢奉献の儀」が≪内拝殿≫で。  

        ★一般には非公開であるが、内拝殿に入れて頂いた。

 2、13:0013:15 天長地久の式・馬場行進≪正参道≫で

 3、13:1514:00 「騎射」・「凱陣の式」が≪正参道≫ で行われた。

        ★観覧には同協会の好意で“2の的”付近の特等席を用意し                                      て頂いていた。感謝!

「騎射」は射手6(1名は女性) が何組かに分かれて正参道約200mに設置された1種目の「檜板を網代にあみその上に5色の輪が塗られた切り紙を張られた的」の1の的~3の的を目掛け疾走する馬上から 矢を射る。次に2種目は「中心に黒丸を塗られた檜製の板的」で同様に騎射された。3種目の的は「陶器」であった。3種の的中 2種目、3種目 は矢が的中すると割れて吹っ飛び迫力満点である。

 高度な技量を持つ射手ではあるが、的への的中は全て当るとは限らず、非常に難しいものであることも実感した。

 持参した「デジタルカメラ」と「ビデオカメラ」で今回の[流鏑馬神事]の模様を録画できた。悪戦苦闘しながら編集して本日HPに載せることができた。

 不十分な映像ではありますが、[武田流 流鏑馬]神事の概要は知っていただけると思います。

 今回の貴重な観覧が叶ったのも、いろいろとお世話くださった MS氏 のおかげで、この場を借りて厚くお礼申し上げます。                                    

                         H 30,7,1 K,N


歓喜寺所蔵の仏像を写真で紹介します/今後のHP掲載予定

2011-11-01 00:00:00 | 歴史情報

 今月の<HP> [ 歓喜寺の仏像 ] 紹介
 10月15日、16日は祗園や山本において、恒例の [秋祭り] が行なわれ、祇園の 「大年神社」では、”夜店” ”神楽奉納” ”御神輿” が出され盛大に挙行されました。
 同一場所にある 「歓喜寺」 は祭りの諸準備会場に使用されるために開寺されました。 そこで、それに併せ参拝すると同時に、お宮の世話役のご理解とご協力で同寺所蔵の 「仏像」 など、30体を超える写真の撮影と、ホームページでの紹介をご了承頂きました。
 実際に撮影してみて数の多さと様々な仏像があるのに驚きました。
大きさは 「御大師像」 が約1mで、他は殆どが30~50㎝の小形でした。 仏像類は移動させなかったので、制作者や制作時期は特定できませんが、広島市東区二葉の里の [ 明星院 ] の2住職の名前が記載された位牌がありましたので、そのごろの年代を知るべく、同寺を訪れ調査しました。 結果、天保12年(1841)没<高誡 住職>、 安政2年(1855)没<月瞳 住職> と没年が判り、奉納が概ねその年代の前後と考えても差し支えないのではないかと思います。また、このことからも「歓喜寺(感神院)」が [ 明星院 ] と深く係わりがあった事が実証できました。 仏像類は感神院(歓喜寺の前身)と安神社とが同一場所に併設されていた時代の江戸時代のものが主であると考えられます。
 また、仏像の腕から先が欠損したものが多数見うけられましたが、恐らく、明治維新時期の廃仏毀釈によるものではないかと考えられます。

来月以降の<HP> 掲載予定
 今迄、 <歴史情報> では地元、安芸武田氏の嫡流や傍流について多く取り上げました。
次回から近隣で同盟や臣下の関係があった可部の [熊谷氏]、八木の [香川氏]、安の [国重氏]、伴の [伴氏] について掲載しようと考えております。 引き続きご覧いただければ幸いです。

                             
                            K,N


安佐町小河内の「小河内弥太郎」史跡探訪

2011-09-01 00:00:00 | 歴史情報

 安芸武田家から 小河内家(広島市安佐北区安佐町小河内) の養子となった小河内弥太郎について、同地を訪れ取材しました

 地元では、歴史上の人物で最も人気があるのが 「小河内弥太郎」 で同地区の ” 町おこしグループ ” ではこれらに纏わる 「史跡探訪会」 や、「弥太郎君」 と名付けた”木炭”などを販売してまちの活性化に一役買っています。

 かなり前に、某氏著書の系図に ” 武田元繁 ” の弟として記載されていたことを覚えており、名前だけは知っていましたが、その人物像、歴史はまったく知りませんでした。

 ある時期より、「武田氏の傍流」 についても少し 「Web情報ステーション」 で紹介しようと考えていたところでしたが、このたび、「小河内弥太郎の子孫”である」と言う方のお手紙から、同地を訪れ、史跡の探訪と同氏の実家や分家宅を訪れお話を聞かせて頂きました。
 来月の 「Web情報ステーション」 には史跡の写真や歴史のほか興味深い地名なども紹介しようと思っています。     K、N


安芸武田氏の傍系[田原武田氏]の旧跡探訪

2011-05-01 00:00:00 | 歴史情報

 4月20日、知り合いの郷土史愛好家に 「安芸武田氏の傍系 田原武田氏」 の旧跡を案内して頂いた。
 田原武田氏の始祖は 武田元繁 の子で 武田光和 の弟の [武田新助信影] です。 光和は嫡男で安芸武田氏を継ぐが、新助は武田氏滅亡後、現在の北広島町大朝田原に住み、後に子孫は代々田原の庄屋を務めています。
 武田屋敷跡は ”田原温泉500年風呂” のすぐ近くにあり、係わり深い社寺、そして新助信影の五輪塔墓石、武田家墓地には代々の墓石が無数にあり永い歴史を感じました。
後日、その歴史や旧跡の写真などを紹介しようと考えております。 ご期待ください。
 今回は、郷土史研究・愛好家の4名で史跡探訪しましたので、終了後は引き継き、そこから約2km離れた場所の県の天然記念物 ”テングシデ群落” や ”古保利薬師” ”今田氏城館跡”を、 そして既にホームページに紹介した ”有田合戦” の地を掲載箇所に従って案内しました。
 今年の春は遅く、広島では桜はほぼ散っていましたが、大朝では前日の雪で山の上は積雪でまっ白、桜も二分咲き、肌寒かった。 千代田では好天に恵まれ暖かく満開の桜を満喫し、史跡探訪と観光の1日となりました。   K,
N

      


[有田合戦-古戦場]を取材する

2010-08-30 14:30:11 | 歴史情報

 今回は 「武田元繁と有田合戦」 を掲載しました。この 「有田合戦」 は西国の 「桶狭間の合戦」 とも呼ばれ、歴史を大きく左右した有名な戦です。毛利元就はこれを機に躍進し、我が郷土の”安芸武田氏”はこの戦いに破れ、大きく衰退のみちを歩むこととなり、ついに、それから24年後に滅亡してしまいます。
 「北広島町有田で命運をかけ凄まじい戦いがくり拡げられたことであろう」 そういう思いで現地の取材をしました。武田元繁が戦死した”又打川”傍の戦死地を示す碑や熊谷元直、己斐宗瑞などの墓碑,一帯の古戦場跡は 「地元の人に聞けば、容易に判るであろう」 と思い、少し詳細な”道路地図”を持参しましたが意外な事に訪ねた地元の方でも余り知られていませんでした。当地で入手した 「観光ガイドブック」 にも掲載されていません。
「さてどうしよう!」少々困惑したのですが--中国自動車道千代田インターから出たところのに ”道の駅 舞ロ-ドI,C,千代田” があったのでそこで聞いてみることにしました。運よく、そこには 「北広島町観光協会」 の事務所がありました。趣旨を説明し訪ねた結果、概ねの位置が判りました。車で近くまで行き、その後はほとんど徒歩で探し訪ね目的の場所に到達、写真撮影がかなった時は安堵しました。
 有田城跡に立てば”兵(つわもの)どもの夢の跡”を一望できます。なお、有田から北西約5km?に位置する同町今田にはこの戦いで元繁が最初に落城させた今田氏の 「今田城跡」 や麓には 「城館跡」 もあります。関心のある方、この地の歴史探訪は如何でしょうか。           K,N


山本大水害の歴史を風化させまい

2010-02-01 08:48:13 | 歴史情報

  [里山環境保全みどり会] より、貴重な 〔山本大水害の写真〕 などを提供して戴きました。
 今月のホームページには、それらの写真に加え、当時の復興工事により改修され、長年この地域を水害から守っている現在の河川を写真撮影して、編集を行ないました。
 ホームページに掲載した写真のような “大水害惨事” を地域の方がどれほどご存知でしょうか?
 水害の発生は大正15年、当時山本の人口は約1,100人、以後、84年間で、約13倍となり現在では約14,200人が暮らし、水害のあった地域には住宅、店舗などが立ち並び、広域の街に変貌しています。
 この地域に大惨事があった証は、復興工事で築造された “三面石積みの西山本川” や “三谷川源流の砂防堤” などがわづかに残っているのみで、それ以外はほとんどありません。古くからこの地域に居住されておられる家でも、世代が変わり、惨状や復旧に尽力された先人のご苦労などの伝承が、とだえているように思われます。
 今回掲載した“当時のリアルな写真”と “現在の河川写真” などで、 “山本大水害” の歴史をあらためて確認して戴けたと思います。
 ホームページ閲覧の皆様方からも、この歴史を風化させない為に、現世代、次世代に伝承して頂ければ幸いです。
 なお、来月は当時、山本村の村長で長年村政に励まれ、前述の復興工事にも心血を注がれた郷土の偉大な恩人 [瀬川卯一] 氏について、氏の 「顕彰碑」
 をもとに紹介する予定です。                                                   
                                                   
                                                                K,N 
     
                         


[平山八幡神社の棟札]について取材する

2010-02-01 08:37:25 | 歴史情報

  1月UPのホームページには [山本 平山八幡神社] に伝わる460年前の [棟札] を紹介しました。
 昨年末、広島城において [広島湾頭をめぐる歴史群像] の企画展があり、同 [棟札] が展示される事になり社殿から持ち出され、その時、棟札に記載された墨字が赤外線カメラで撮影されて、あらためて書の記載内容が再確認されました。
[棟札]は社殿の屋根裏に固定されているので、取り外すのは大変厄介で、めったに外されることはなく、実物を見る機会はほとんどありません。そこで、今回が良い機会ですので、 “神社総代”並びに、同神社を兼務されている“安神社宮司”様に今回の企画展にあわせ写真撮影をさせてもらう事を依頼しました。
 安神社宮司様から企画展終了後の返戻時、即座に、新装された明るい安神社の拝殿に持参くださり、撮影にご協力くださいました。
 大変古いものですから、墨書が薄く、従って、写真の書は鮮明度を欠きましたが、HP閲覧者の皆様にはかえって歴史の深みを感じて戴けたのではないかと考えます。
 ご支援下さいました“神社総代”、“安神社宮司”様にあらためてお礼申し上げます。                                                   
                                                                  K,N
                                         


700年前の「鰐口(わにぐち)」に感動

2009-04-01 00:00:00 | 歴史情報

 安佐南区安 に [光明寺] があり、ここには 安芸武田氏/武田信隆が、正安2(1300)年に寄進した、歴史ある「鰐口」が寺宝として大切に保存されています。
 以前より一度拝観したく、また、ホームページ(HP)で紹介したいと思っていました。
 このたび、同寺住職にお願いしたところ、快諾していただき実現可能となりました。700年前の「鰐口」にも直接触れる事が出来とても感動しました。
 HPには来月(5/1)写真や由来など掲載します。ご期待ください。
  注:「鰐口」とは写真のように(写真は使用状態を示すもので信隆寄進のものではありません)仏堂前の軒下につるし金属製の具で、綱を振り動かして打ち鳴らすものです。                                                                                                           K,N


安芸武田氏を知る

2008-09-01 00:00:00 | 歴史情報

 今回は[(安芸)武田氏]の「系図」と「各代当主の時代背景」を掲載しました。武田氏が名門中の名門武士である事は、系図から容易にわかると思います。[(安芸)武田氏]を遡れば「清和天皇」にたどり着きます。清和天皇の皇子が臣籍降下した際、賜った氏姓が”源氏”であり、その嫡流(本家)の中で、特によく知られているのが「頼朝」や「義経」です。庶流(分家)の1つが甲斐(甲府)武田荘を本拠とした"武田氏"です。武田氏に限って見ると、ある時期、甲斐に「信成(次男)」を甲斐の守護職として残し、「氏信(嫡男)」が安芸(広島)の守護職として着任して来たので、その時期、安芸武田氏が武田氏の嫡流という事になリます。しかし、一般的には甲斐武田氏の「信玄」や「勝頼」が歴史的に著名なので、嫡流と思われがちです。またその後、嫡男が若狭の守護職とし着任したので、若狭が武田氏の嫡流、安芸が庶流となります。安芸武田氏の家運が衰退し始めたのもこの時期で”若狭=本家”に有力家臣団が集中し、”安芸”が手薄になった事に起因すると思われます。
 時代をうまく舵取りをし、乗り切っていくには、いつの時代にも”トップを支える周りのスタッフの力量がいかに重要であるか、痛感されますね---------”。
 掲載の「系図」で”当主名”をクリックすると写真や時代背景を”小窓”に表示するようにしております。歴代当主の史跡は余り残っていません、従って写真などで紹介出来るものは限られますが、手持ちのものを載せました。特に[義光]に関する史跡は遠方でなかなか目にする機会が少ないと思います。幸運にも数年前、滋賀県の大津市で撮影した”元服”場所の三井寺の「新羅善神堂」や「墓所」の写真が掲載でき、思いがけないところで役にたちました。
 今回は源氏(武田氏)の誕生から安芸武田氏最後の当主(信実)までを纏めてみました。安芸武田氏の直系は「信実」で完全消滅と思っておられる方が多いと思います(私も数年前までそうでした)。実は、「光和」には正妻の子ではないが、実子があり、安芸武田氏滅亡前に、”山口県岩国市玖珂”にかくまわれ、再興の機会を待ちました。しかし、実現が果たせないまま”周防武田氏”となりました。現在も末裔の方がおられ教育の分野などで活躍されています。次回(10/1)はこの周防武田氏について、現存する[武田屋敷跡]や[墓所(墓)]などを写真入りで紹介しようと思っております。ご期待ください。                                                                                                       K,N


武田氏関連墓石紹介

2008-03-25 21:07:53 | 歴史情報


 武田山には約720年前、銀山城が築城され、麓では代々武田氏が守護(一時解任された時もある)を勤め安芸国を統治していたが,その後、約470年前に滅亡している。この間の約250年間の武田氏や重臣たちの墓石が武田山の麓に散在している。
 しかし、地元の人でもこれらが意外と知られていないので、調査し、ホームページ(HP)で紹介する事とした。調査は、ほとんどを、地域の歴史愛好家や墓石が私有地にある古老などに聞き、約2ヶ月間を要した。まだまだ未聴取のもの、埋もれたまま、のものなど多くあると考えられるが一応の区切りとして、4月1日に”HPの【歴史情報】”に掲載した。墓石は五輪塔墓が多く、一部完全な形のもの以外は部分的なものが無造作に、お寺の境内、畑の隅、竹やぶの中、共同墓地内などにあった。今回HPに掲載した事により、歴史あるこの地域の見直しや郷土の史跡学習の一助にもなれば幸いです。
 一方、調査で明らかになった所を、「 HP掲載前に実際に皆で見て廻ろう 」という企画がまとまり、3月8日、WeLove西公会員及び地域の有志14名で[武田氏関連の墓石めぐり]を実施した。メンバーの多くの方から「初めて知った」とか「住んでいる地域の歴史をたどっていくことは面白く興味もわいてきた」などの感想を戴いた。
 また、この企画は[広島ケーブルテレビ]からも注目され、約2時間半の密着取材を受け、3月17日~23日の1週間放映された。      K,N