私はサラリーマンである。そしてあるプロジェクトに関わっている。プロジェクトを運営する方法をプロジェクトマネージメントと言い、上司や会社は『人を使うやり方』を身につけてくださいと言う。
私はいつも冗談で、『プロジェクトマネージメントなんてワンピース(漫画)でも読んでりゃわかるんだよ』と言っている。そしてみんなはこの発言を聞いて笑う。でも多くの人は私の冗談に『そこに秘めた真意』が含まれていることに気付かない。だから、こんな世界の片隅でその話をしたいと思う。
(※なお、笑いがとれた時点で私の目的の多くは完了している)
よく思うことであるが、『人を使う』というのはなんとおこがましい言葉だろう。人が人を使うと思うのは、人を道具と見なすのと同じ行為であり、多くの人は通常の感覚では侮辱と感じるような、そういった行為なんじゃないかと私は思っている。
昔々に読んだ漫画(タイトルはすっかり忘れた)に、不良と普通の生徒のグループ(お互い数十人規模だったと思う)がケンカするという話があったのだが、その普通の生徒がおじけづいているのに対して、普通の生徒グループのリーダーはこんな風な事を言った。
「(不良だろうが、普通の生徒だろうが)人一人、必死になってやれば人間同士、その差はほとんど無い。」
この漫画で覚えていることは、唯一これだけなのだが、私もそんな風に思っている。オリンピックの陸上なんかを見てもいいだろう。1位とビリの差に何秒あるか。学校で成績ビリのやつは絶対に学校で1位になれないのか。
そんなことは絶対ないだろう。この世界は団子状態で進む我々人間が、小さな範囲で競い合っている、そんな世界だと私は思っている。
(※ただし、残念ながら天才は存在するようだが)
みんなみんな単にあきらめているだけだ。必死になってやっていないだけだ。
ただし、私は『必死になってやる』ことのできる才能は認めている。それをこの世界では、もしかすると秀才だとか天才だとか言うのかもしれない。『努力こそ人間の華
である』ということはゆるぎのない、私の美学ではある。
話が脱線したが、そういった世界で『ちょっと上司だから』とか『ちょっとお金を持っているから』とか『ちょっといい大学に行ったから』と言って、偉そうにすることは何ともちっぽけな話だと思う。
『スパイダーマン』という映画があり、あれは完全な娯楽映画ではあるのだが、一つだけ良いことを言っている。それは、『大いなる力には大いなる責任が伴う』という言葉だ。
つもり、ちょっとでも『自分が優れている』と感じることがあるのであれば、それはそんな風に育ててくれた社会や環境、親の成果であり、『自分が偉いんだ』ということにはならない。だからその自分の才能に感謝し、『まだそこに到達できていない』人達の助けとなるよう、責任を持って生きねばならない、そういう風に私は解釈している。
ちょっと話が脱線しまくっているので、この辺りで軌道修正したいところだが、色々言ってみたが、人それぞれは必死になってやればそこまで差は無いわけで、つまり人が人を使うという言葉は、『ちょっとおこがましいんじゃないの?』と私は思っている。
自分が優れたるの自覚があるのであれば、それは『自身の目的のため』だけに発揮するのではなく、人を使うのでは無く、人を『心から信頼し、共に行く』、その先導者たるを目指すべきだ、、、
というところで時間がなくなった。ちょっと多くを盛り込みすぎた。日記だと途中でやめられる。これは素敵だな。
人を使うという話なんてほとんどしてねーじゃん!という批判を甘んじて受けつつ。
やっぱり自由に書いていたら常に発散する。常々俺はこういう奴なんだな、そんな風に今、思っている。
続きはまた後日。
私はいつも冗談で、『プロジェクトマネージメントなんてワンピース(漫画)でも読んでりゃわかるんだよ』と言っている。そしてみんなはこの発言を聞いて笑う。でも多くの人は私の冗談に『そこに秘めた真意』が含まれていることに気付かない。だから、こんな世界の片隅でその話をしたいと思う。
(※なお、笑いがとれた時点で私の目的の多くは完了している)
よく思うことであるが、『人を使う』というのはなんとおこがましい言葉だろう。人が人を使うと思うのは、人を道具と見なすのと同じ行為であり、多くの人は通常の感覚では侮辱と感じるような、そういった行為なんじゃないかと私は思っている。
昔々に読んだ漫画(タイトルはすっかり忘れた)に、不良と普通の生徒のグループ(お互い数十人規模だったと思う)がケンカするという話があったのだが、その普通の生徒がおじけづいているのに対して、普通の生徒グループのリーダーはこんな風な事を言った。
「(不良だろうが、普通の生徒だろうが)人一人、必死になってやれば人間同士、その差はほとんど無い。」
この漫画で覚えていることは、唯一これだけなのだが、私もそんな風に思っている。オリンピックの陸上なんかを見てもいいだろう。1位とビリの差に何秒あるか。学校で成績ビリのやつは絶対に学校で1位になれないのか。
そんなことは絶対ないだろう。この世界は団子状態で進む我々人間が、小さな範囲で競い合っている、そんな世界だと私は思っている。
(※ただし、残念ながら天才は存在するようだが)
みんなみんな単にあきらめているだけだ。必死になってやっていないだけだ。
ただし、私は『必死になってやる』ことのできる才能は認めている。それをこの世界では、もしかすると秀才だとか天才だとか言うのかもしれない。『努力こそ人間の華
である』ということはゆるぎのない、私の美学ではある。
話が脱線したが、そういった世界で『ちょっと上司だから』とか『ちょっとお金を持っているから』とか『ちょっといい大学に行ったから』と言って、偉そうにすることは何ともちっぽけな話だと思う。
『スパイダーマン』という映画があり、あれは完全な娯楽映画ではあるのだが、一つだけ良いことを言っている。それは、『大いなる力には大いなる責任が伴う』という言葉だ。
つもり、ちょっとでも『自分が優れている』と感じることがあるのであれば、それはそんな風に育ててくれた社会や環境、親の成果であり、『自分が偉いんだ』ということにはならない。だからその自分の才能に感謝し、『まだそこに到達できていない』人達の助けとなるよう、責任を持って生きねばならない、そういう風に私は解釈している。
ちょっと話が脱線しまくっているので、この辺りで軌道修正したいところだが、色々言ってみたが、人それぞれは必死になってやればそこまで差は無いわけで、つまり人が人を使うという言葉は、『ちょっとおこがましいんじゃないの?』と私は思っている。
自分が優れたるの自覚があるのであれば、それは『自身の目的のため』だけに発揮するのではなく、人を使うのでは無く、人を『心から信頼し、共に行く』、その先導者たるを目指すべきだ、、、
というところで時間がなくなった。ちょっと多くを盛り込みすぎた。日記だと途中でやめられる。これは素敵だな。
人を使うという話なんてほとんどしてねーじゃん!という批判を甘んじて受けつつ。
やっぱり自由に書いていたら常に発散する。常々俺はこういう奴なんだな、そんな風に今、思っている。
続きはまた後日。