音速の葦

人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である・・・

人を使うという言葉

2007-07-12 09:38:01 | 人生について
私はサラリーマンである。そしてあるプロジェクトに関わっている。プロジェクトを運営する方法をプロジェクトマネージメントと言い、上司や会社は『人を使うやり方』を身につけてくださいと言う。

私はいつも冗談で、『プロジェクトマネージメントなんてワンピース(漫画)でも読んでりゃわかるんだよ』と言っている。そしてみんなはこの発言を聞いて笑う。でも多くの人は私の冗談に『そこに秘めた真意』が含まれていることに気付かない。だから、こんな世界の片隅でその話をしたいと思う。
(※なお、笑いがとれた時点で私の目的の多くは完了している)

よく思うことであるが、『人を使う』というのはなんとおこがましい言葉だろう。人が人を使うと思うのは、人を道具と見なすのと同じ行為であり、多くの人は通常の感覚では侮辱と感じるような、そういった行為なんじゃないかと私は思っている。

昔々に読んだ漫画(タイトルはすっかり忘れた)に、不良と普通の生徒のグループ(お互い数十人規模だったと思う)がケンカするという話があったのだが、その普通の生徒がおじけづいているのに対して、普通の生徒グループのリーダーはこんな風な事を言った。

「(不良だろうが、普通の生徒だろうが)人一人、必死になってやれば人間同士、その差はほとんど無い。」

この漫画で覚えていることは、唯一これだけなのだが、私もそんな風に思っている。オリンピックの陸上なんかを見てもいいだろう。1位とビリの差に何秒あるか。学校で成績ビリのやつは絶対に学校で1位になれないのか。

そんなことは絶対ないだろう。この世界は団子状態で進む我々人間が、小さな範囲で競い合っている、そんな世界だと私は思っている。
(※ただし、残念ながら天才は存在するようだが)

みんなみんな単にあきらめているだけだ。必死になってやっていないだけだ。

ただし、私は『必死になってやる』ことのできる才能は認めている。それをこの世界では、もしかすると秀才だとか天才だとか言うのかもしれない。『努力こそ人間の華
である』ということはゆるぎのない、私の美学ではある。

話が脱線したが、そういった世界で『ちょっと上司だから』とか『ちょっとお金を持っているから』とか『ちょっといい大学に行ったから』と言って、偉そうにすることは何ともちっぽけな話だと思う。

『スパイダーマン』という映画があり、あれは完全な娯楽映画ではあるのだが、一つだけ良いことを言っている。それは、『大いなる力には大いなる責任が伴う』という言葉だ。

つもり、ちょっとでも『自分が優れている』と感じることがあるのであれば、それはそんな風に育ててくれた社会や環境、親の成果であり、『自分が偉いんだ』ということにはならない。だからその自分の才能に感謝し、『まだそこに到達できていない』人達の助けとなるよう、責任を持って生きねばならない、そういう風に私は解釈している。

ちょっと話が脱線しまくっているので、この辺りで軌道修正したいところだが、色々言ってみたが、人それぞれは必死になってやればそこまで差は無いわけで、つまり人が人を使うという言葉は、『ちょっとおこがましいんじゃないの?』と私は思っている。

自分が優れたるの自覚があるのであれば、それは『自身の目的のため』だけに発揮するのではなく、人を使うのでは無く、人を『心から信頼し、共に行く』、その先導者たるを目指すべきだ、、、

というところで時間がなくなった。ちょっと多くを盛り込みすぎた。日記だと途中でやめられる。これは素敵だな。

人を使うという話なんてほとんどしてねーじゃん!という批判を甘んじて受けつつ。

やっぱり自由に書いていたら常に発散する。常々俺はこういう奴なんだな、そんな風に今、思っている。

続きはまた後日。

ひさびさの更新、そして

2007-07-12 09:00:35 | 人生について
すっかり、更新が滞っていたこの音速の葦であるが、また、更新を再開してみようと思っている。ただし、「なるべく考えをまとめ、蒸留できたものだけを出す」という以前まで私がこだわっていたやり方はあきらめ、日記を書くがごとく、つらつらと書き綴るやり方に変えたいと思っている。

その理由として、自分が文章を書く意味、みたいなものを最近少し考えてみたのだが、結局のところ、ベストセラー作家が書く立派な小説や随筆なんかとは異なり、多くの人が読むわけでもなく、Googleなんかから辿って、私の書いたフレーズを引っ掛けてやってくる人がほとんどだと思われるので、クオリティなんかより、自分の求める『知識欲が満たされるか』どうかということが、最優先事項となるであろう。

そうであるならば、やはり私は私の持っている何らかの答えをなるべく多く吐き出しておく方が多くの私の文章を見る人にとって有益だと思う。

そうであるなら、日記という形式で色々書いてみたほうが、気軽に私も更新できるだろうので、割と効率的なのかもしれない。そして、もしかしたら、そのやり方の方が、私の目指す、『生きることに対して何らかの答えを出す』という目標に近いのかもしれない。

私は、ちっぽけな人間ではあるが、『世界がよりよくあることを祈る人間』である。私は私なりの考えを持ち、事に当たりたいと常々願っている。既存の宗教観などを好まないのは、どの宗教もまだ完璧な答えに辿り着いていない、そう思っているからだ。

遠い道のり。まだ見ぬ天竺の地図を求めて右往左往するよりも、まずは一歩踏み出してみることにしよう。