弁護士太田宏美の公式ブログ

正しい裁判を得るために

弱い立場にある者にとっては

2022年07月26日 | 日記

産経新聞にポツダム宣言についての論考が掲載されていた。

条件を明示してくれてあれば、停戦同意を早くでき、天皇の地位を保障してもらって、
原爆投下はなく、ソ連の侵略もなかったということのようである。

しかし、交渉とはそういうものなのだ。

弱い立場の者にとっては、条件をつけるなど、けしからんということなのである。

原爆が投下され、ソ連に侵攻のチャンスを与えたことは別にして、想像できないような被害を
受けたから、アメリカは、天皇の地位を保障したとみるべきなのである。

ウクライナとロシアの停戦交渉がなかなかはかどらないのも同じである。

交渉の稚拙はそのうえで、如何に有利な条件を引き出すかは、知恵比べということになる。

いい勉強になった。


ホテルのカーテンのえん模様

2022年07月25日 | 日記

ホテルの部屋に入るなり、ブラインドのカーテン生地のえんの繰り返し模様が目に飛び込んできた。
悪くはない。今風である。カラーも含めて。
えんは決して無造作に描かれたものではないはず。
パターン探しをした。こういうことには気になるからである。見つけたと思う。

廊下には壁掛け額があった。額の中には、
大きさ、形の異なる6つのえんが描かれている、一つだけ塗りつぶされている。
2種類あった。絵というべきかどうかわからない。やはり絵かな。
手書きなのか、アプリを使ったものか、判断できない。
ただ、カーテンの模様と統一性があるとみた。
そうすると、テーマはなんだろう?

部屋の中には、横長の額が掛かっていた。何か文章が書かれているようだ。
近寄ってみると、点線が描かれているだけである。
更に目を凝らしてみると、紙にえんの地模様がある。カーテンの模様と似ている(同じではない)。

何かテーマがあるはず、思いたくなる。

それとも、絵や図を描く一等最初は、えんを描くことから始まるからだろうか。
そういう気がしないでもない。
書かれた文章も遠方から見れば、点線にみえる。

なんとなく意図が、真意が見えてきた。

もともと、日本の文化は、簡素をよしとする。
現在のホテルには、廊下には額を、部屋にも額があった方が、落ち着く。
基本の図形は線と円と角である。落ち着くのは円形である。
日本文化の伝統と洋風文化(ホテル)とを経済合理性を考慮しつつうまく融合したのであろう。

謎解きが出来たせいか、熟睡した。

 

 

 


動けば何かを学ぶ

2022年07月24日 | 日記

東海道五十三次の蒲原宿から丸子宿までを2日間でバス移動しながら歩くツアーに参加した。
泊りがけの国内旅行は20年ぶりかもしれない。
新型コロナの感染者数記録を更新中ではあるが、学校が夏休みに入ったこともあり、
家族連れや若い人たちの旅行者を多く見かけた。
恐れるだけの時期は過ぎたようだ。

宿泊は、ホテルアソシア静岡だったが、日本のホテルも世界標準になった。
国内旅行をしない間、海外旅行をしていたわけだが、今回のホテル経験はその延長線上にあった。
日本のホテルはコンパクトではあるが、コンパクト過ぎるとまでは感じなかった。これって重要。
コンパクト過ぎると、閉じ込められた、圧迫感を抱くからである。
とはいえ、部屋の広さという点では、世界標準とまではいえないかも。

どこのお城も同じようなもの?
駿府城では、徳川家康の像が最も印象に残った。
徳川幕府は260年余り続いた。
徳川家康が鎖国をどう考えていたのか知らないが、果てしなく広がる太平洋を毎日みていると、
外の世界(国)の存在は、意識しなくなるような気がする。
家康は、この駿府城から100年、200年、もっと先を見据えていたように思われた。
天守台の大きさは、ダントツである。
意思の表出とも見える。

無意識に影響を及ぼす環境ほど、その人の本質に決定的なものはないと、思われて仕方がない。

外の世界に日常的に触れることの重要さを再認識した。


未明に一日をスタートする

2022年07月22日 | 日記

よく考えれば、あるいはよく考えなくても、不規則な生活、つまり、
だらしない生活をウン十年も続けてきた。
起きたいときに起きる、寝たいときに寝るである。
そもそも「たい」だったかどうかもわからない。

昨夜は寝苦しかった。眠りながら冷房のオン・オフをしていたような気がする。
目が開いたとき、時計をみると、午前4時を過ぎたところだった。
このように、中途半端な時間帯に目が覚めると、どうするか、その日による。
ここには、意思は入り込まないような気がする。

あえて言えば、身体の持っているリズムに支配されるのであろう。

ウオーキングしたくなった。
4時過ぎには明るくなり始めているので、今日が始まっている。
つまり、一日を始めていい時間ということである。

そんな時間でも、仕事場に急ぐらしい人を見かけることがある。
でも、大通りは、人も自動車もみえない。空っぽの時間帯である。
もう少し早い時間帯だと昨日の続きの人や車の流れが残っている。
もう少し遅いと今日の人や車の流れが始まっている。
一瞬、ほんの少しの時間だけ、空っぽになることがある。ちょうど、その時間帯だった。

歩き始めるや、前回(1週間前か半月前かは覚えていない)と違うと感じた。まだ、明けていない。
すぐ、気づいた。昼の時間が短くなったのだと。今年の夏至は6月21日だった。
そう、もう1か月なのだ。
夏はこれからが本番というのに、太陽の季節は、Uターンしてはや1か月になるのだ。
猛暑はうんざりのはずなのに、一瞬、夏が去ったような寂しさを覚えた。
季節の変わり目を実感したときだった。

雀が起きたようだ。
大きな声で鳴き出した。あまりに大きいので複数の雀と思いきや、そうではない。
一羽だった。外の静寂のせいなのか、朝の一声は大きいのかわからないが、新しい発見だった。
仲間に朝を告げるために、朝のひと鳴きが大きいというのは理に適うからである。

復路に入ったとこで、フウチソウ(風知草)を確認した。
いつも気になりながら、名前が分からなっかった。数日前に何かのきっかけで調べておいた。
立ち止まって確認し、写真を撮った。間違いない。と思う。
知らないことが一つだけ減った。あるいは、一つ知識が増えたというべきか。
どういう視点かにより表現の仕方は違う。どちらも間違ってはいない。

爽やかな一風が通り抜けた。

仲良くウオーキングする初老の品の良いカップルとすれ違った。
2回目の気がする。ご婦人は、必要であるようには見えないが、ステックを持っている。
前もそうだった。すれ違いの一瞬の観察であるが、何か雰囲気がある。
また、爽やかな一風が頬をなで、心身を癒してくれたのを感じた。

雀も落ち着いたようである。
20分弱のウオーキングだった。

成り行き任せかのように思うが、自覚しないだけで、無意識下の身体や心に動かされている
のかもしれない。そうだとすると、
成り行きまかせの生き方も満更悪くはないのではと思った(思いたいから思うのかもしれないが)。