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辺境の旅・・・ガルーダを追って

インド8 忘れられた帝国  ガルーダの旅 平成17年11月-12月 

2006-01-08 10:00:00 | ■インド

12月2日(3)

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(ハンピの聖域ー寺院地区中心部)

ハンピは、今は、ところどころにサトウキビやバナナ畑のほかは、岩と廃墟だけの辺鄙な村に過ぎないが、かってはデカン高原からスリランカまで版図とする南インド最大のヴィジャナガル王国(1336-1565AD)の首都だった。―“忘れられた帝国(Forgottenn Empire) ” Robert Sewell著

〔上の写真〕 真ん中の通りがハンピ・バザールその右側のやや高く見えるのが、Hemakuta Hill 右側の岩だらけの高い丘がMatanga Hill 。その左の谷間に見えるのがアチュトラヤ寺院。

*** 私は、猿少年に会ったHemakuta Hill からハンピ・バザールを下がり、川の畔に出て、再び戻ってアチュトラヤ寺院の境内に入った。それでも、時刻は11時40分。3時間足らずで廻った。それだけに物を細かく観察することが出来なかった。***

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(ハンピバザール)

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(ハンピバザールの石廊、500年前ここには店が連なっていたという)

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(シバ神を祀る祠。右方向に薄く見えるのは石廊。道の向こう側だからバザールの道が如何に広かったか分かるだろう)

***川の畔に出ると、遥遥と向こう岸の山まで見晴らせる。椰子の樹と丸い巨石が重なった丘とが奇妙なコントラストを見せている。***

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(トゥンガードラ川。洗濯する女)

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(ツイウンガードラ川で水浴びする子供)

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(川の土手の物売り。食べ物をねだっている猿を見てください)

***インドでも、ガルーダが寺院の主たる信仰の対象となり、参拝者の絶え間がないというのは、あまり例がない様に思われる。ここでは、浮彫りのガルーダに赤い粉が付いている。参拝者が塗りつけるのだ。ここでは、ガルーダが愛され尊崇されえいる。嬉しいことだ。***

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(ガルーダ。像の下の台にハヌマンのレリーフがあった)

***猿の軍団と、ガルーダはラーマ王子がスリランカに攻め入り羅刹主ラーバーナを倒し、シータ姫を奪回するのに大きな働きをした。このストーリーは「桃太郎の鬼征伐」の基になっているのではないかとよく言われるところだ。

猿軍団は、海に猿橋を組んでラーマ王子の一行をスリランカ島に渡して一緒に戦った。ガルーダは、危難の際ここぞというとき突然空の一角より現れてラーマ王子の危難を救った。猿は、実働部隊であり、ガルーダはむしろ精神的な支えであった。

そのせいか、ここにはガルーダとハヌマンが数多くみられっる。

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(生きた寺院ーコダンダラマ寺院の中のガルーダ像)

***川を離れてMatanga Hill の方に向かうと1539年にアチュタ ラヤ王が建立したアチュトラヤ寺院がある。

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(アチュトラヤ寺院。川の方角からのアプローチ)

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(アチュトラヤ寺院のガルーダ浮彫)

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(アチュトラヤ寺院。ガルーダの浮彫りが多い)

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(ペルシャの双頭の鷲の浮彫もあった)

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(裸婦の浮彫)

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(アチュトラヤ寺院の一部)

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(アチュトラヤ寺院楼門)

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インド7 猿の惑星 ガルーダの旅 平成17年11月-12月 

2006-01-05 23:00:00 | ■インド

12月2日(2)

Sasivekalu Ganesha のお堂の後ろから丘を登って行くと、やや右下の方向に骨組みだけ残った建物が見える。丘の上の寺院に入るための古い楼門らしい。半ば崩れた骨組みの上に突然ハヌマンの扮装をした人影が現れた。昨日、クリシュナ寺院で見た少年らしい。

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(楼門の上に現れたハヌマン少年)

やはり、昨日の少年だった。ハヌマン少年は、どこまでも付いてくる。ヴィルーパークシャ寺院のゴプラ(塔門)を望む場所で一休みしていると、また現れて近くの大きな石の上に上がった。すばしっこいハヌマンだ。

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(ヴィールパークシャ寺院のゴプラとハヌマン少年)

この丘には、Hemakuta hill という名前がついている。サンスクリットで黄金を意味するhemaが丘の名前に入っているように、黄金と関係のある次のような言い伝えが語られているそうだ。

「この丘に上がった、Virupaksha は、Pampa と結婚したいと願って、結納金の黄金をPampa の父親のMatanga に、丘の上からかざして見せた。それを眺めて、Matangaは、娘を嫁がせることを約束した」

ここからハンピで一番高いMatanga Hill はすぐ近くに眺められる。以後、Matanga HillとHemakuta Hill は、ハンピの人々の宗教、精神生活に大きな場所を占めてきた。

Hemakuta hill は、オーストラリアのエアーズロ・ロックと同じく、大きな一枚岩で出来た丘だ。

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(丘を駆け下るハヌマン少年)

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(丘の上の寺院―この都の早い時期、14世紀か15世紀に建てられたジャイナ教の寺院)

別の神話では、Hemakuta hillは猿王のVali とSugreevaの都とも言われる。そういわれるとこの辺りの風景は猿の惑星と見えないことはない。猿もそこここに現れる。

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(ジャイナ教寺院と猿)

ハヌマン少年は、寺院の中まで付いてきてそこでポーズをとった。昨日ちょっとバクシー(喜捨)を多めに渡したものだから、今日も熱心に演技するのだ。これだけ一生懸命なのだからと、路上で手だけ差し出す子供たちには、一銭も渡したことのないのだが、特別、この少年には、バクシーを弾む。他の場所でもハヌマンの格好をした少年たちを見たが、こんなに働く少年はいなかった。親は、この子の現金収入を頼りに生活しているのだろう。

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インド6 歓喜天 ガルーダの旅 平成17年11月-12月 

2005-12-31 23:43:12 | ■インド

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昨日と同じ運転手とガイド3人で、8時半にホテルを出る。ここから15キロほど昨日のハンピバザールとそれほど離れていないSasivekalu Ganesha の石像を見に行く。地元では、小さなガネシャと呼んでいるということだが,一個の岩を彫った像は、恐ろしく巨大だ。

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(Sasivekalu Ganesha 堂)

ガネシャは、日本仏教では、歓喜天または聖天などという名となって、象頭人身2天抱擁の形で表されることが多く、秘仏として信仰されている。しかし、ガネシャは、もともとヒンズー教の神様で、シバ神のわけありの子供であるが、今でも,もっとも人気のある神様の一人 である。

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(日本のガネシャー歓喜天)

「ガネシャ像の後ろに廻ってみませんか?」面白いからと言われて後ろに廻って見ると、なるほど変わっている。「ほら女の形をしているでしょう」とガイドが言ったが、これは一体なんだ。女がガネシャ抱きついたように見える。。

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(後ろから見たガネシャ像)

しかしこの像は、密教に見られる男女合体神ではないだろう。しばらく眺めているうちに後ろの裸身はガネシャの母親のパールバティに思えてきた。

ガネシャの誕生には次のようなエピソードがある。「シバが帰ってくると浴場でパールバーティが見知らぬ子供を抱いている。さては自分の子供でない子を産んだものと怒り狂いその子の首を切り落としてしまった。ところが、それが過ちであったとその後すぐに悟ったシバは、そこに通りかかった象の頭をあわてて、わが子につけたのである。そのためガネシャは、今のような姿になったのである。

このお堂の石像は、その時、パールバティーがガネシャを抱き上げた姿なのである。その時パールバティーは、浴場にいたので裸身なのであろう。

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(私のお宝、真鍮製のガネシャ。土産物屋で売っていた)

赤ん坊のガネシャ像も人気があるようでインド人はよく買っていく。ガネシャは愛されるキャラクターなのだ。


インド5 ナーガカルとティカ ガルーダの旅 平成17年11月-12月

2005-12-31 00:00:57 | ■インド

12月1日(3)

ハンピ・バザールでは、いろいろなものが売られている。赤い粉が洗面器のようなものに山のように積まれている。赤い粉だけで商売になるのだろうか。ガイドに聞くと、祈願する時に石像に塗りつける染料らしい。

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(ハンピ・バザールのあちこちで売られている赤い染料)

ヴィルバークシャ寺院の境内には、蛇の絡んだ石板が立て掛けてあった。この石版は南インドでは寺院の中庭、聖樹の下、村の入り口などに良く見られる(拙著『インドに行こう』p68参照)。

下の写真をクリックして見て貰いたい。蛇の頭のところが赤く塗られているのが分かるだろう。この赤いのが上の写真の染料なのだ。赤は、吉祥の赤印で、額の真ん中につける小さな丸い印のチカなどもこの赤をつけるのだそうだ。ナーガカルの場合、子供を望む女性が赤い染料を買ってきて塗るのだとガイドは説明した。

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( ヴィルバークシャ寺院のナーガカル)

寺院にはたくさんのインド人の観光客が来ていた。通訳に聞かせると、近くの町や村から来た人たちらしい。一組の家族から写真を撮ってほしいといわれたので、1枚撮ると我も我もと側にいた人たちがやって来る。デジカメに写ったところを見せると、みんな大喜びしてくれる。みんな明るく人懐こい人ばかりだ。北のインド人とは、随分様子が違う。

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寺院を出ると、外の芝生に学生たちが座って絵を描いている。陽が低くなって来たので運転手が待っている道まで歩いて行ってホテルに帰ることにする。

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(遺跡をスケッチする学生)

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(自動車を停めた道)

今夜と明日の夜泊まるMalligi Hotelは、決してよいとはいえないが、この町ではいちばん大きくて立派なホテルとされている。確かに売店には珍しいくらいしっかりした本が揃っている。本屋の売り子と長い間話しをして、9時過ぎに別棟のレストランに行って夕食を食べる。町の裕福な人もここに食事に来るらしくほとんど席は埋まっている。一人で食事するのは、私くらいのものだ。

メニューを見ると、魚のグリルというのがあるので、ウェイターに何の魚かと聞くと名前は知らないがこの近くの川で取れた川魚だというのでそれを頼む。そのほかにインド料理のチキンビリヤニとグリーンサラダ。キングフイッシャー・ビールにラム酒。これで291ルピー、900円もしないのだから安い。デリーの3分の1の値段だ。

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(川魚のグリル)

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(チキンビリヤニ)

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(グリーン・サラダ―インドのグリーン・サラダは、レタスのような菜っ葉は使わない)

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(キングフィッシャー・ビール)


インド4 ハンピ・バザールのカディーライス ガルーダの旅 平成17年11月-12月 

2005-12-27 21:36:38 | ■インド

12月1日(2)

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(ヴィルーパークシャ寺院とその門前市―ハンピ・バザール。向こうに見える塔がゴプラ。約50メートルある。南インド形式のヒンズー寺院においては、時代とともに石塀が外に広がり、塔門(ゴプラ)も大きくなる。それにしたがって本院(聖室)が目立たなくなる傾向にある)

運転手とガイドが昼食の時間だから食事にしたいと言うが、そんな時間になっているとは気が付かなかった。それでは、何処か清潔なところはないかと聞くと、ヴィルーバークシャ寺院の門前市、ハンピ・バザールの通りに面した食堂に案内してくれる。

この辺りには、この程度の食堂しかないようだから仕方がないが、別に腹が空いているわけでもないのでコカコーラを一本とって二人には好きなものを注文させる。

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(食堂)

「カレー・ライス」と注文したらヨーグルトをかけたライスを持ってきたという笑い話があるが、それは、こちらでは、ヨーグルトをカディと呼ぶので「カディ・ライス」と聞き間違えたのだろう。コチンの外人向きホテル以外では、カレー・ライスというメニューを見たことがない。

二人が取ったのは、スチーム・ライスとサンバにカディのセットだった。これが本当の「カディ・ライス」だ。

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(ちょっと行儀が悪いが運転手の残したカディ・ーライス)

ヴィルーバークシャ寺院は、別名パンパパティー寺院と呼ばれる。パンパは、聖マタンガかの美しい娘で、ヴィルーパークシャの妃となる。ハンピという地名は、パンパから来たのだそうだ。ヴィルーパークシャは、シバ神だともといわれる。

この地には、ラーマーヤナ物語に因んだ神話も伝えられていている。要は、この辺りの殺伐とした広大な風景がその神話を生んだ背景にあったのだろう。ヴィルーバークシャは、ヴィジャナガラの王の守護神であった。

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(参拝する善男善女)

ヴィジャナガラ(勝利の市)王国は、南インドのもっとも強大な王国であったとされるが、回教徒の襲撃により16世紀の半ばに200年の歴史を閉じることになる。しかしその盛時には、世界各国から商人が集まる国際都市で、珍しい商品であふれていたとポルトガルの Dominogo Paes は、その紀行文(1520-22AD)に述べている。

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(現在のハンピバザール。買い物する人たち)

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(昔は、賑わっていた。16世紀のハンピバザール“Hampi Karnataka Archaeology”より)


インド3 ハンピ到着 ガルーダの旅 平成17年11月-12月 

2005-12-21 15:24:26 | ■インド

12月1日(1)
コンパートメントが突然明るくなった。ベットにはカーテンがついていないので天井の電灯の光線がまともに顔に当たる。頭を持ち上げて下を覗くと、男が降りる支度をしている。「何処の駅か?」と聞くと、「Bellary だ」と言う。「ハンピはまだか?」と聞くと「次の駅だ」と言うので安心してそのまま寝ていたが、停車時間が長すぎる。おかしいと思い、切符を取り出して確かめると、印字が薄くて見難いが行き先はBellaryとなっている。
それでは、此処が終着駅かとデッキまで行って車掌に切符を見せると此処で降りろという。この列車はハンピ特急という名前だがHampiという駅はないというのだ。あわてて荷物をまとめまだ明けやらないホームに降り立つ。もう乗客は全員駅の構外に出てしまったのかホームには人影がない。
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(ハンピ鉄道駅)

駅は、イスラム風の意匠を取り入れた壁が厚い石造の建築だ。チャドルをまとった女や、空気が冷たいので頭からすっぽり布を被った男を見ると、ますますインドでない国に来たような異国的な雰囲気を感じる。
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(駅から乗ったリキシャ。後ろの看板の文字はヒンズー文字ではなく、カンナダ文字)

タクシーがいないので、30ルピー(90円)タクシースタンドまでオートリキシャに案内させる。いくらも走らないところに数台のタクシーが停まっている。リキシャを降りて、タクシーらしくない白塗りのアンバサダーと交渉を始める。ここからホテルまで60キロ、普通なら1時間半で行くが、最近の雨で舗装が悪くなっていて時間がかかるから1200ルピー(3,600円)欲しいという。それが高いか安いか分からないが、ほかの方法も思いつかないので、それで行くことにする。なるほど道が悪い。頭をルーフにぶつけそうに飛び跳ねるタクシーで2時間半、出るときには6時半だったが9時過ぎにやっとの思いでホテルに着く。

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(タクシーと運転手)

ホテルで簡単な朝食をすませ、ホテル内の旅行社にタクシーと通訳を頼んでおいて部屋で一休みする。
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(先にあるのは、オカラのようなウプマーという料理、手前の黄色いのはカシリクス)

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(ジャガイモの入ったパラタ。パラタの上に載っているのはヨーグルト。パラタは暖かくヨーグルトは冷たい)

簡単な朝食だが、パン食よりはヘルシーのようだし、またよほど美味いので、インドではほとんど西洋のパンは食べないことにしている。

昼過ぎ、運転手に通訳と私、3人で出発する。運転手は英語がやっと通じるくらいだが、通訳として雇ったガイドは流暢な英語を話す。運転手や土地の人がカンナダ語で通訳に話し、通訳が私には英語で話すという具合だ。

この州(カンナータカ州)は、カンナダ語を第一公用語、英語を第二公用語としているが、英語を上手に使いこなす人は少ないようだ。

カンナダ語話者は、5500万人いるということだから決して小さな言葉とは言えない。4億人の話者がいるといわれるヒンズー語は、この土地では英語より通じないと考えたほうがいい。ヒンズー語は、印欧語系の言語であるが、カンナダ語はドラヴィダ語系統の古い言語だそうだ。現在のインド全体で言えば、カンナダ語は、22あるインドの公用語の一つである。

ホテルを出て、ハンピ博物館に寄る。12時半になっている。あれだけ強行軍だったが疲れはない。

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(ハンピ博物館)

博物館には、ガルーダの石像が4体陳列されていた。職員を探して写真の撮影許可を求めると、撮影は禁止されていると言う。さらに強く頼むと、「ニューデリーの許可を得なければ駄目だ。一存で決めると首になる」と全く融通がきかない。自分ひとりで十分に言葉が通じるので、このような場合は、現地のガイドと一緒でなければ何とかなったかもしれない。

庭に廻ると一部が欠けたガルーダの像が少しと、ナーガ(蛇)などが置いてある。後で分かったことだが、ハンピ遺跡には、ガルーダの石像や浮彫りが数え切れないくらい見られたので、この博物館で無理に写真を撮ることもなかった。

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(美術館の庭のガルーダ石像)

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(美術館の庭のナーガ浮彫)

空が晴れて気持ちよい。午後の日射しが強く朝の冷たさが嘘のようだ。美術館を出てものの数分も走ると、かって経験したことがない荒涼とした風景が広がる。砂や石や岩に潅木がわずかに生える砂漠とは、違ってここには水で摩滅したような角の丸い巨大な石が、ごろごろしているのだ。石の上に石が乗り、そしてその石の上にも神殿が建っている。どうしてこんなに奇怪な景観が出来上がったのか、不思議だ。

そんな風景の中を走って、先ず最初にクリシュナ寺院に入ってみる。クリシュナ寺院の脇にはラクシュミ寺院がある。クリシュナは、ヴィシュヌ神の化身であり、ラクシュミはヴィシュヌ神の妃であるから、これは順当である。

石壁に囲まれた中に神殿があり、楼門をくぐって境内に入る形になっている。

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(クリシュナ寺院楼門。ガルーダの浮彫が見られる)

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(柱列に見られるガルーダの浮彫)

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(クリシュナ寺院のエントランス・ホール)

寺院の外に出ると、そこにハヌマンの姿をした子供がヒーロー・ホンダのオートバイに飛び乗りキキット歯をむいた。

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(ハヌマン小僧)

ハヌマンは、ラーマーヤナ物語に出てくる猿の神様だ。ラーマ王子がハヌマンの力を借りてスリランカに攻め入り魔王からシータ姫を取り返す物語がラーマーヤナ物語だ。バリ島のケチャック・ダンスは、猿軍が円陣になってチャッチャッチャと声を掛ける中を物語が進行する形になっている。そこにガルーダが現れてこれもラーマを助けるのである。

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(ハヌマン小僧)

クリシュナ寺院、ラマ寺院、ヴィシュヌ寺院という名前が付いたヒンズー寺院には、大体ハヌマンとガルーダは浮彫りなどに現わされるのが普通だ

日本のおとぎ話「桃太郎鬼征伐の物語」の原型はラーマーヤナ物語にあるという説もある。突然現れたハヌマンの扮装をした子供もそういえば桃太郎の猿のように見えないこともない。


インド2 ハンピ特急 ガルーダの旅 平成17年11月-12月

2005-12-17 17:55:11 | ■インド

11月30日

ウズベキスタンに行くつもりだったが、インドでビザを申請すると本国に紹介しなければならないので許可が下りるまでに10日くらいはかかるということが分かった。ニューデリーから3時間くらいで行けるというのに残念なことだ。

それではと、ハンピに行くことにした。ハンピについては、拙著「インドに行こう」の77ページで次のように記した。

「外には南国の明るい陽光が溢れているのに内部に落ち着いた荘厳さがあるのは、この(ホテルの)建物が十四世紀のヴィジャナガルの夏の離宮を模しているというところから来ているのだろう。

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(リーラ・パレス・ホテル ゴア)

ヴィジャナガルはゴアから東に二百五十キロの所にある今のハンピを首都にしたヒンズー王国であり、インドの歴史上最も強力なヒンズー王国の一つだと言われる。十六世紀の前半には、傭兵を含め百万人以上の軍隊を擁し、アラビア海沿岸のヨーロッパの植民地を除く南インド全部を支配していた。

ヴィジャナガル王国はゴアに本拠を置くポルトガル政府にとっては、他に代えられない唯一の重要な取引先であった。またゴアは、ヴィジャナガル王国の強大な騎馬軍団に供給するアラビア馬の重要な陸揚げ地でもあったという。
ヴィジャナガル王国の突然の崩壊はゴアの衰退の大きな原因になったが、それに加えて悪いことにマラリアやコレラなど疫病が蔓延した。そして、最後に同じく植民地を求めて進出して来たオランダから容赦ない艦砲射撃を受けてオールド・ゴアは壊滅した」

そのハンピがどういう所だか、私はまだ行ったことがなかった。その理由は、ハンピという土地が辺鄙だということだった。ITで有名なバンガローまで飛行機に乗ってそこから鉄道に乗り継いで行くのが如何にも不便に思えたからだ。

それに、日本ではお釈迦様の生まれたガンジス川の沿岸や北のムガール朝のことはよく知られているが、南のヴィジャナガル王国のことなどはあまり関心持たれていなかったということも一つの理由だった。

いよいよハンピに出発することになった。午後4時半のインディアン航空でデリーを発ち、7時15分バンガロー着。タクシーがいないので、止む無くオートリキシャで空港からバンガローの鉄道駅に行く。気が狂ったように先を争って走るバスや乗用車の隙間を潜り抜けて無数のオートリキシャが走る中を私の乗ったオートリキシャも負けじと走ること35分やっと駅に着く。

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(オートリキシャ)

出発時刻までまだ1時間半あるので、駅の食堂で夕食をすることにする。塩漬けにした刻み玉葱と生の胡瓜の小片がはいったマッシュポテトをぱりぱりで薄いクレープで包んだマサラさという食い物にサンバとココナツチャツネのセット、それにマサラティーでしめて17ルピー(約50円)。記録的に安い夕食だったが、なかなか美味かった。

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(サモササ)

ハンピ・エキスプレスがホームに入ってきた。20両以上繋がった列車の一両が一等のエアコン車だがそれがホームのどこらあたりに停まるのか、列車を待っている人や物売りの人に聞くが聞き方が悪いのか誰も知らないという。後で思ったのだが、ファーストクラスと聞いたのが悪かったようだ。エアコン・ボギーとでも聞けばよかったのかも知れない。

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(バンガロー駅ホーム風景)

ファーストクラスは、4人分のベッドがあるコンパートメントが3室、全部で12人分の席しかない。このチケットを手に入れるのにニューデリーで手間取っていたのだが、私の割り当てられたコンパートメントには2名しか乗っていない。席は余っているはずなのにどうしてチケットの入手が困難なのだろう。同室の男は、ずっと携帯で話し続けてうるさくてしょうがない。こいうこともあろうかと持ってきた耳栓で耳を塞いで寝る。

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(ハンピ・エキスプレス 1等寝台車)


インド1 結婚式  ガルーダの旅 平成17年11月-12月 

2005-12-17 11:57:18 | ■インド

11月27日の日本航空で、インド人考古学者の娘の結婚式に出席するためにニューデリーに向かう。

28日 結婚式は、ニューデリー郊外のノイダのホテルで行われた。ニューデリーの郊外や市外には、大規模なショッピング・コンプレックスが現れたのはごく最近のことだ。しかしその速度が速い。ノイダは計画的に街づくりが進められ、バイオ基地や医療都市も出来た。マンション群の中のショッピングセンターにラディソン・ホテルが建てられた。そのホテルで結婚式があった。

結婚式は、昔ながらに花婿は白馬に乗って現れた。今の流行は花火だ。大きな花火が続けて空に向かって打ち上げられた。これは、デリーの中心でもそうだ。私の泊まっているメリディアン・ホテルでも毎日のように結婚式のパーティがある。今月挙行される結婚式の数は、デリーだけで3万件から4万件だと新聞が報じている。

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ガルーダの旅 平成17年7月 インド

2005-11-03 11:06:23 | ■インド

下の娘の夏休みに合わせて、今年の夏休は南インドのケララ州に行くことにした。

7月21日 午後6時ニューデリー。

24日、ケララ州都のトリヴァンドラム空港でタクシーを拾い予約なしでコヴァラムビーチのリーラパレス・ホテルに行く。

幸い海に面した広い部屋があった。
インテリアもセンスがよい。

オーナーが次々と代わり、最近メリディアンからリーラに代わったばかりだそうだ。

メリディアンもフランス系の国際ホテルではあるが、最近は、豪華な雰囲気と細かなサービスを提供するボンベイから始まったインド新興勢力のリーラ・ホテル・グループの評判が上がっている。

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コヴァーラムは、インドで最もきれいなビーチだという評判の割には、それほどではない。
乱開発が進み、入り組んだ細い道には民宿に毛の生えた程度のホテルが建て込んでいる。

ただ、ビジネスで来たのでなければ、暑苦しいトリヴァンドラムの街中に泊まるよりははるかによい。

コヴァーラムは、ヨーロッパにはない熱帯の海浜の生活をエンジョイする陽気で開放的なヨーロッパ人が大挙押し寄せて、リゾート気分が横溢している。
ヨーロッパからは、太平洋はバリ島やフィージー島に行くことに比べれば、格段に近いので気軽に出掛けられるのだろう。

ここは、アーユルベーダ医学のエステの本家だ。

コヴァーラムに一泊。コモリン岬までドライブする。

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次の日フォート・コチンのコロニアル風ブラントン・ボートヤードに一泊。

そしていよいよ、デリーのG氏夫妻から紹介してもらって楽しみにしていた今度の旅の目当てのココナツ・ラグーン・リゾート・ホテルに落ち着く。

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バックウォーターを船で渡って行くと、思いがけなく別天地が現れる。

ミャンマーのインレー・プリンセス・リゾートと同じく水路で行く以外に行きようがない陸地から隔絶したホテルだけに自然と一体化した生き方が味わえる。

人件費が安いので宿泊客の何倍もの数の英語教育を受けた優秀なホテル従業員が立ち働いているのでこれに見合った快適さが維持できるのだ。

かっての植民地主義の名残のようなサービスを提供する贅沢なホテルだ。

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今は、円が強いから私らのようなごく普通の日本人でも泊まることが出来る。
日本では、円が少しずつ安くなっているようだから、日本でもこのようなホテルの経営もそのうち成り立つようになるかもしれない。

しかし、そのときには、ホテルの宿泊客は外人ばかりで、日本人はごく一部の金持ちだけに限られかもしれない。

フオート・コチンに戻り、翌日のデリーに帰る飛行場に近いブラントン・ボートヤードで一泊する。昼間は、妻と娘を案内して名所旧跡を見て回る。

先回、写真撮影できなかったマッタンチェリー・宮殿博物館にも行ってみる。
 

この建物は、もともと1555年にポルトガル人が貿易取引を交換条件にコチンのマハラジャに寄贈した宮殿だそうだ。

その後、オランダ人が大掛かりな改装をしたのでオランダ宮殿とも呼ばれるようになった。

現在は、博物館として使われているが、当時の寝室には、17世紀のケララの寺院美術を代表するラーマヤナなどに題材をとった壁絵が描かれている。

写真撮影は禁止されているので難しいとは思ったが、ちょっと工夫して監視の係員に交渉すると、人の目を気にしながらも特別に撮らせてくれる。

1 マッタンチェリー・宮殿博物館(インド・ケララ州)

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この壁絵には、真ん中にガルーダが大きく描かれていて、ガルーダの衣服には何匹ものナーガ(蛇)が取り付いている。


1月と2月の海外旅行

2005-02-25 21:59:17 | ■インド

1月1日バンコクー 1月2日ニューデリー 5日東京着

1月27日ー2月5日 パリ、コートダジュール、ミラノ

パリでは、毎年春と秋に開かれるプレタポルテの展示会を見た。

ニースのホテル(メリディアン・ホテル)。1階は、カジノになっていた。最上階に部屋をとったら屋上のCASINOのネオンのCAの文字のすぐ下に、僕の部屋の灯が見えた。部屋のテラスから見た真下の道路と海側の日の出。

ミラノのホテル(グランド・ホテル・ドゥオモ)の朝食とそのレストランから見たドゥオモ(大聖堂)。
 

「インドへ行こう」について

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