インドで出版する本 [Garuda in Asean Art] の打ち合わのためのインド行き。22日の日本航空でデリー着、その夜と次の夜だけル・メリディアンに泊まり、夜行便で帰国。とんぼ返りだ。何故か一枚だけしか写真がなかった。デリーの道筋、タクシーの窓から撮ったものだろう。
3日おいて、28日から中国の四川省に行くことになっている。めまぐるしいスケジュールだ。
ダージリンから下る道で女学生をよく見かける。みんなこざっぱりした服装をしている。
戴冠橋 ブータン第4代国王の戴冠を記念して作られた橋。ここはブータンとシッキムへの分岐点。
戴冠橋は、ティスタ川を渡る。シッキムから流れるいちばんおきな聖なる川。
女たちはよく働く。
橋の上の飾り。獅子のような形の石像。
アッサムの茶畑。インドの紅茶の半分はここで生産される。世界最大の生産地だ。ダージリンと違って海抜50メートル以下。
摘んだ茶を運搬する女。
次々と運び出す。
村に差し掛かる。
ローカルレストランでランチ。
レストランの後ろを流れる川。女たちが働くのが見える。
ブータンへのビザの申請は小屋のような小さな入国管理事務所でする。
入国管理事務所の前の道路。インド側の国境の町ジャイガオン。
このゲートを通るとブータン。インド人とブータン人は自由に行き来しているようだ。
ブータン側の町(プンツォリン)に入ると、インド側と違って、突然、チベット仏教の霊所が増えてくる。
平成19年3月28日(水)―3月30日(土)
デリーから2時間、12時20分、バグドグラ空港(標高150メートル)に着き、そこからバスでダージリン(標高2100メートル)まで。6時着。
(ウィンダミア・ホテルー見晴らしのよいリゾートホテル)
http://www.indiatravelite.com/accommodations1/windamere-darjeeling.htm
ホテルの周辺。キリスト教の教会があることからも、植民地時代イギリス人の天国だったことが分かる。
一方ローカル色の強い町。
野菜などを売る露天商。
タイガー・ヒル。この辺りは虎が多かった。チベット世界である。
世界第三位のカンシェンジュンガ(8、598メートル)をはじめヒマラヤの高峰の朝焼けを見る。
ダージリン・ヒマラヤ鉄道(1999年世界遺産登録)
本来は、茶畑を経営するイギリス人がカルカッタからダージリンに行ったり避暑に行くために作られたらしいが今では観光のために使われている。ダージリンからグームまで片道7キロメートルを報復2時間の乗車。
蒸気機関車に水を入れる。
バタイヤ・ループ。急角度のため一気に上れず円を描くようにループになっている。ここのループは公園として整備されていて真ん中に対英独立戦争記念碑が立っている。
ダージリンは、最高級の品質の紅茶を生産する土地だ。紅茶の世界三大 名産地と言えば、ダージリンのほかにキーマン、ウバがある。ダージリン朝夕の寒暖の差が大きく、朝、山霧が発生する。この霧がお茶の品質を育むのだそうだ。
「モティ・マハール・インド料理店」
馴染みのタクシーの運転手と一緒に食べる。
この店のサーヴィスで出される小玉葱の酢漬けが美味い。
肉のピーマン詰めなど。
日本料理店の「田村」
ヨーロッパ人の客も多い。何処に行っても日本料理の人気は高い。しかし、彼らは味が分かるのだろうか。
値段はホテルの日本料理に比べるとかなり安く、日本のチェーン店居酒屋のと同じくらいのレベルだろうか。しかし、味はこちらの方が上。(メニューに3を掛け、円をつけると日本円になる)
シャングリラホテルのビュッフェー・ランチ。
ホーリーは、春の到来を祝う祭りだ。この日から北インドは徐々に暑くなり夏に向かうのである。この祭りの起源については、クリシュナの伝説と深い結びつきがある。クリシュナが幼児のころ牛飼いの娘たちと花が咲き乱れる中を水鉄砲で遊んだと言う故事から、人々はこの日は無礼講で通りがかりの人にも水や色粉を掛け合うという習慣があった。
今年は政府が色粉に人体に害がある成分が含まれていると発表したので、水掛は下火のようだ。
しかし、インド門広場に行くと、服に色をつけられた人が大勢いる。
(家族連れ)
父親と娘。
仲間で青い色をつけてふざけている青年
大人連れのシャツやズボンも染められたようになってしまった。
アイスクリームの三輪車も出ている。向うに見えるのがインド門。
夜のニュースキャスターも色を塗りたくって出てきた。しかし、ホーリーは昨日だが慣習によってその日の夜から徐々に色水掛が始まって翌日に最高潮に達する。そしてその日が休日なのだ。
この季節、沢山の花が咲くが、ぼってりした質感ある花を咲かせるシルク・コットン・ツリーが印象的だ。この木は並木や公園、あっちこっちに見られる。
ジャイプールにはキング・フィッシャー航空を使った。キング・フィッシャーのブランドでビールを製造する世界第2位のビール会社ユナイテッド・ブルワーズ(UBグループ)が株主の航空会社だ。
それまでインドの空は、インディアン・エアラインズ(インド国内航空)が独占していたが、90年代に規制緩和が行われ、今ではジェット、エア・サハラ、エア・インディア・エクスプレス、スパイス・ジェット、キングフィッシャー、エア・デカン、インディゴ、インダス・ワン、エア・ワンなど多くの民間航空会社が参入している。日本などとても適わない。
(インデイアン航空)
(スパイス・ジェト)
(ジェット航空)
ジャイプールの空港でも以上のように多くの航空会社の飛行機が見られた。下は、私が乗ったキングフィッシャーのA320機。デリー空港に着いたときには日が暮れていた。
キングフィッシャーは、今インドで最もエキサイティングな航空会社と言われている。スチュアデスの制服は真紅でミニスカート。まるでプレイメートのよう、これが、インド人とは思われない。保守的なインドのご婦人は眉をしかめるが・・・・
3月3日(金)は、ジャイプールの染色工場に行く。今日は、プーリーの祭りだが町は静かだ。
経営者の家で昼食のご馳走になる。彼は、ジャイナ教の信者、勿論食事は菜食。庭には猿が渡ってきて塀の上でんびり過ごしている。
木の葉や赤い小さな花を食べているようだ。
デリー行きの飛行機の出発まで時間があるので久しぶりにアンバー城に行く。城へのアプローチが整備されて城の近くまで車で行けるようになっている。
博物館が城の下のにあるというので降りて行く。
この土地に似合わない清涼飲料水の広告が掛かっている。
道には水汲み場がある。
若い人は、金属製の容器に水を汲んでいる。
しかし、年配の女性はやはり甕を好むようだ。
平成19年3月1日(水)―3月9日(金)
パソコンのアクセサリーを買いにネール・プレースに来た。この辺りには、電子機器、デジタル・カメラのメモリーなどを売る店が多い。マクドナルドもあるが、日本語らしい「Zen」という名のカフェーもある。
小さなスペースを借りてIT関係の店を始めた若者も多い。
一方露天では古本を売る人もある。
露天で携帯を売る男がいる。
売れないのか、路の真ん中まで出てきていたが・・・・
別の日にきたら、耳かき商売人から耳の掃除をしてもらっていた。
道の真ん中では何を売るのかいつまでも話し合っている人もある。
この辺では、まず携帯電話を持たない人はいない。
靴磨きも携帯で話している。
インドで一番高く古いミナレット(光塔)がこのクトゥブ・ミナール。1199年に初めてデリーがイスラムの支配された史実を証明する建造物だ。
高さ73メートルの5階建。最上部の直径2,7メートル。
基壇の直径14,4メートル。
人は、上の事実を囃すが、ある意味では、それ以上に大事で、忘れていけないことがある。それは、遺跡の中に建っているチャンドラ・ヴァルマンの鉄柱だ。
高さ7メートル、重さ6トン。クトゥブ・ミナールの800年も前の4世紀の物。驚くことには、純度98パーセントの鉄を含む鉄柱が腐食せずに1600年間も黒く光っている。
もともとヴィシュヌ神を祭るために作られたが、グプタ朝のチャンドラグプタ王を偲ぶため現在の場所に運ばれた。これが5世紀のことだ。
この塔の周囲にインドを征服したイスラム教徒が12世紀末にイスラム寺院を建設した。北インドのヒンズー教にイスラム文化が混入しているのをこの遺跡で知ることが出来る。
この鉄柱の上に乗っていた物は何か、それは、インドのお札に印刷されているインドの象徴であるアショカ王の獅子(ライオン)ではなく、ガルーダだった。驚くべきことである。
この10日間、インドレストランに入らなかった。4,5日で帰りたかったのだが、飛行機が満杯で席が取れずに、デリーにいるのに退屈したせいかどうか、何故か、インド料理を食べる気がしなかった。
鮨を何度か食べに行った。材料は、築地からとっているので味は日本と変わらない。ただ問題は、熱燗が徳利一本6,000円もするので、2本頼むとそれだけで1万2千円にもなる。それに鮨も当然日本の数倍の値段がする。しかし、疲れるとどうしても鮨の付け場で鮨をつまみたくなる。
日本人の鮨職人は、橋本さん一人しかいないので、話をする暇もないほど鮨を握るのに忙しい。やはり鮨だけは日本人が握らなければ鮨とは言えない。橋本さんは、シェフも兼ねているので、相当のハードワークだ。
時には、中華料理を食べてもいい。後で、考えると、朝食以外はほとんど道を隔てたところにあるシャングリラホテル2階のレストラン(オリエンタル・アベニュー)で食べた。
下は香港風清蒸魚(川鱒)。
ここには、タイ料理もある。乾燥した香辛料を使った料理よりも生のハーブを使った料理を食べたかった理由は何なのだろう。
以前には考えられなかったが、こういった料理が毎日食べられるのも今のインドだ。
10月12日-23日
インド-日本往復は、とにかく不便になった。パンアメリカン航空の世界一周機が飛んでいた頃は、航空業界も景気がよかったのだろう。いろいろな飛行機が飛んでいた。シベリア上空を一跨ぎする日本ーヨーロッパ便がオープンして、ヨーロッパ行きの南回りのルートが徐々に寂れてきた。今では、日本航空でニューデリーに行こうとすると、週に3便しかない。後は、インド航空だけだ。しかもお客で溢れているとなると、思ったようにスケジュールが組めない。
しかし、日本からの団体観光客は、一頃より減ったように見えるが、貧乏なバックパッカーは減っていないのだろう。インドの旅行事情の紹介は、ほとんど彼らから得ているようだ。バックパッカーの貧乏旅行記ばかりがインド旅行の総てではない。彼らの多くは、昔ながらの怪しげな固定観念を頭に片言の日本語のできる連中から集めた情報を推測して書いている。これらの本の90パーセントは、こういう固定観念に患わされて、針小棒大に面白おかしく書いているので、インドが初めての人には受けるかも知れない。
しかし、違う世界もある。「群盲象を撫でる」という諺がある。盲人が象を撫でさせて、さて象とはどういう動物かと聞いたら、尻尾を撫でた人は、蛇のような生き物だと言い、足を撫でた人は、材木のようだと答えたという。
何でもそうだろうが、我々は物事の一面を捉え自分も思い込み、そして人にも伝えるということがよくある。それでは、真相が見えてこない。そこで、ここらで、今日は私が定宿にしているメリデイアン・ホテルをちょっと写真で見てみよう。日本のホテルとあまり違わないというより部屋の面積は、シングルでもずっと日本の標準的なホテルより広いし清潔だ。しかし、それでもお隣のバンコクの一流ホテルよりはいろいろの面で落ちる。
30年前には、タージやシェラトンやハイアットなど存在しなかった。その頃は、オベロイ、インペリアル、アショカ、アクバルなどが一応ビジネスマンが何とか泊まれるホテルだった。その後、ホテルの建設ラッシュがあった。私は、ハイアットがオープンした時にハイアットを定宿に決めていた時期があった。
その後、ハイアットのフロアマネージャーがメリディアンにトレーダされた。そのマネージャーのセールス・トークに釣られて、メリデイアィアンに移ることになった。以来、10年間以上ここに居る。多いときは、年に10回、延べ3ヶ月以上も泊まったこともあるので、古い従業員はみんな顔を覚えている。頼めば、迎えの車も来てくれるが、タクシーの方が気が楽だからタクシーを使うことが多い。近頃はデリーで使っているタクシー運転手のダヴィンダーが、ホテルを予約したらすぐにデリーでの私のアシスタントから聞きつけて迎えに来るようなった。
今回は、ダヴェンダーではなく、ホテルの車が迎えに来ていた。車が着くとすぐにベルボーイが駆けつけて荷物を運んで行く。すでに10数年間預けっぱなしにしているトランクが、ホテル名物として語り継がれているので黙っていても即座に部屋に運び込まれてくる。一頃は、トランクの中にしまっている炊飯器で焚くコシヒカリが美味いと聞きつけて食べに来る日本人もいたが、インドに来る回数も減り、使わなくなった。
メリディアンは、デリーではいちばん背の高いビルの一つだ。フランス系の割には情緒に乏しい、どちらかというとビジネス・ライクなホテルだ。レストランの料理がよくないなど欠点があるが立地条件がいいことや、シングルをアプグレードしてスィートにしてくれることや、ボーイからコーヒーショップの従業員まで愛想よく声を掛けてくれるので、彼らのためにも他のホテルの移ろうという気がなくなった。
(下から写したホテル)
(居間、NHKが写っているテレビ。テレビは韓国のサムソン製)
(居間からの眺め)
(下に見えるロータリーの花木)
(居間のルームサービス料理)
(寝室)
(寝室からの夕日の景)
(バスルームの入り口)
(風呂、右側のガラス戸はシャワー室)
3月5日(日)
バンコク行きの午前の便は、インド航空だけだ。夜まで待てばタイ航空があるが、日曜日をデリーで過ごすのは、退屈だから朝便で行くことにする。
インド航空は、数年前に新しいジェット機を購入した時は、ちょっとよくなったように見えたが、それから何年か経つとやはり国営企業の古い体質が欠点として表面に出てきた。先ず働くたち(従業員)は、プライドが目立って、メンテナンスやサービスの考えが欠落している。自分に関係のない部署のことには関心がないし、客のサービスより自分のことにしか関心がない。この辺りは、ちょっと最近の日本もそういう兆候が出てきたかと思われて心配だが・・・・
朝食もおざなりの感をぬぐえない。
(インド航空ビジネスクラスの朝食)
空港で予約してロイヤル・オーキッド・シェラトンホテルに部屋を取る。バンコクは、なんと言ってもチャオプラヤ川(メナム)の畔にあるホテルだ。悠々と流れるメナムの流れを眺めていると悠久の世界に誘い込まれる。
(メナム―ホテルの部屋からの眺め)
(メナム―ホテルの部屋からの眺め)
(ホテルのロビー タイの音楽の音色に心が憩う)
(ホテルのエステ-蓮の花が美しい)
タイといったら屋台の麺だ。屋台の麺が大好物なものだから、昔、タイ人から「ヌードルマン」というあだ名を頂戴した。ホテルの近くの屋台には、思ったものがなかったので、ちょっとした店に入る。
(麺専門店)
魚丸の麺だが、スープが牛肉でとったような色と味。本当は、澄んだクリアな汁が好きだが、これでも十分に美味い。屋台だと日本円にして60円かそこらだが、ここは一応店の形になっているので90円。
(魚丸麺)
夜は、老舗のシャングリラ(香格里拉)飯店。タイについたら普通一回は、ここに行くことにしている。日本人の歓楽街にある支店は騒々しいが、本店は落ち着いていていいし、値段も手ごろ。値段と味のバランスを考えたとき、最近は、香港よりバンコクの方が上をいっているだろう。紹興酒も高くはない。
3月3日(金)・4日(土)
ブッシュさんが泊まったモウリア・シェラトン・ホテルの他にも、私の泊まっているメリディアン・ホテルの下層階の80室がセキュリティー・チームに借り上げられている。ホテルの従業員は、犬も一匹ずつ部屋を与えられていると言うが、新聞によると攻撃犬は3室を与えられている。捜索犬はまた別の部屋を割り与えられた。
米国が連れてきたのは、50匹から17匹と噂にばらつきはあるが、デリー警察のものまで合わせると相当に多いのだろう。外には、犬が目立つ。運転手などは、自分たちの泊まれない五つ星ホテルの客室(運転手はパンジャブなど地方から出てきた人が多く、地下の暗い運転手用仮眠室に寝泊りしている)に犬が泊まるのは凄い、とアメリカの偉大さに驚ている。
しかし、それでも運転手たちは、犬はホテルに連れ込めないはずだという疑問を抱き、ホテルのボーイに訊ねると、あの犬は単なる犬ではなくちゃんとした保安要員だ。軍隊の階級までついているのだから犬と考えてはいけないと諭されて、あきれながらも面白がっている。
(ExpressNews Line March2 より)
朝のコーヒーショップには、黙々と食事をする普段着の米国のセキュリティの屈強の男と(中には女)があっちこっちのテーブルで食事をしている。ブッシュさんがパキスタンに発った後でもまだ残っている。たまたま隣のテーブルにそれらしい様子の男が腰掛けたので「ボディーガードで来ているのか?」と話しかけたら「誰の?」ととぼけている。そのうち、フロリダのタンパ出身ということ、今はワシントン在住ということまで話するようになった。インドの料理は美味くないといってパンを山盛りに盛ってきて食べる。見ていると他の連中もよくパンを食べる。写真をとったらあらぬ嫌疑を掛けられると一応用心したので彼らの写真はない。隣のボディー・ガード、テーブルを離れるときにちょっとウィンクして出て行った。
(カタール航空の乗務員)
(パンのチョイスは、この倍以上ある。アメリカやヨーロッパの若い男はパンを山ほど食べる光景をよく見る)
(私のチョイスは、目玉焼き、ドサ、ウプマ )
夜は、やはりシャングリラ・ホテルのビュッフェーだ。
(ジュースなど)
(オードブルに茹でた蟹、ロックロブスター、マッシュルームなど)
(暖かいものもイタリアのパスタ、焼きうどんまである)
3月2日(木)
今度の旅行は、ちょうどブッシュ米国大統領のインド訪問に重なった。インドのマスコミは、日程の詳細を報道しなかった。おそらく情報を入手できなかったのだろう。昨日は、一部の地域で反米デモも行われたようだ。タクシーの運転手は、その道筋を避けた。
だが、今日はまったく静かなものだ。米国のセキュリティーは、何日も前から到着して準備を進めていて今日はインド側と万全の協力体制が出来ているようだ。日中は、タクシーは、どこでもすいすい走れた。
Air Force One は、二機連なって飛来した。一機に大統領が乗っていてもう一機は欺くためのもの。どちらに大統領が乗っているのかは誰にも分からない。40機のヘリコプターもデリーに飛来したと人は噂している。
Palm空港というのは、インデラ・ガンディーと名づけられる前の空港の名前で、今では国内航空用のターミナル1をそう呼んでいる。ターミナル1の方が市街地に近い。Airforce Oneは、ターミナル1に着いて、インド首相の歓迎を受けた後、50台の車の車列が午後7時50分に空港を出発しわずか10分足らずでモーリア・シェラトン・ホテルに到着した。
(EXPRESSNewsline New Delhi March2. 2006より)
モーリア・シェラトン・ホテルは、アメリカ人が好きなホテルでクリントン前大統領は、インドに来るたびにここに泊まっている。私が好きなのは、このホテルのインド料理店ブハラくらいのものだが・・・このモーリア・シェラトン・ホテルを丸ごと借り切って、レーダーを設置してサテライトとリンクした。ブッシュ大統領の一行がモーリア・シェラトン・ホテルに到着する時間は、電波撹乱をしたようで携帯が使えなくなったという。
(Hidusutan times New Delhi March3. 2006 より)
インドのメディアは、ブッシュに好意的なコメントを掲げた。反米的だった私の知り合いの一人は、ブッシュがインドを褒め称えた記事を見て突然宗旨を変えてインドを誇りと思う とちょっと興奮していた。インドは、米国とソ連の冷戦の間、政治の中立政策を保ったところ、アメリカから冷たく扱われてきたので、ソ連に近づいたのであって、本来、英語をしゃべる階層のインド人の知識階級は、心情的には欧米に近いのではなかろうか。
(Herald Tribune March4-5. 2006より)
夜は、元インド首相の長男夫婦と私ら夫婦を榎木駐印日本大使が大使公邸にご招待下さった。石庭に面して茶室、天婦羅カウンターのある小部屋を備えた日本住居風のエリアがある。外国の要人と親しく歓談できるこのような場所は大使館には必要だ。
来年は、日本インド年で文化の交流が行われる。経済中心の関係ばかりでは本当の意味での理解は生まれない。もっと文化的な交流に力を入れなければならない。特に仏教を受け入れた日本は、インドに精神的に負っていることが大きい。榎木大使は、両国の歴史、文化、思想の交流に深い造詣をもっていられて立派な方だと感じた。