Garuda Study

辺境の旅・・・ガルーダを追って

北京駅前

2008-02-26 23:38:05 | ■中国

平成19年8月6日(月)

来た時に泊まった北京宝辰飯店と同じホテルに泊まった。部屋の窓から前の道路が見下ろせる。左の取っ付きが北京駅。

Dsc_4105

きれいに整備された表の道路を歩くより裏道の方が面白い。北京駅まで古い路地を通って行くことも出来る。路地には小さな食い物屋も多い。

Dsc_4216

北京駅。

Dsc_4225

汽車を待つ人の群れ。

Dsc_4234

雑誌を読む人は少ないが、いないこともない。

Dsc_4230

Dsc_4233

大体はごろごろしている。こういう場面になると男の方が弱いようだ。

Dsc_4235

家族連れ。お父さんは眠っているが、子供は元気に飛び跳ねていた。

Dsc_4223

最近の世代と違って、中国でも年寄りの男はさすがに毅然としている。

Dsc_4228

日本大使館に行く。残念ながら風がなく日の丸がくっきりとは見えない。P8060400

鉄柵が2重になっていて警備も厳しい。

P8060398

さすが、みなさん中国専門家、宮本大使にインタヴューを取り付けていたので名前を言うと楽々と建物の中に入れた。

P8060403

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★ 

Banner2_3


三星堆博物館

2008-02-23 10:31:00 | ■中国

平成19年8月5日(日)― 1―

三星堆遺跡に隣接する三星堆博物館は、ごく最近オープンしたばかりで周囲の道路も新しくよく整備されている。

中国文明は黄河流域に発生したとして、従来は黄河文明だけが強調されて来たが、三星堆遺跡から紀元前2700年頃の土器が出土したことなどにより、長江上流文明が存在したことが明らかになった。

青銅器は、黄河文明の殷の時代と同じ頃にはこの三星堆においても作られていたという。

四川省の高原で見てきたので憶えていられるだろうが、その羌族について、「羌族が漢民族の源だ」という人がこの地の人の中にもあるが、そうではないだろう。長江文明の最初の担い手は、長江を南方から遡って来た漁撈民族であったに違いない。羌族は、もともとは北方遊牧民族であり、先住漁撈民族を滅ぼした。従って長江上流文明は北と南、両方の文化が混淆して出来上がったと考えてもいいのではないか。

Dsc_3955

園内も清潔だ。ここも観光客誘致による経済効果を狙って巨額の先行投資をしているのだ。また世界遺産に登録しようという運動も進めているという。

Dsc_4007

小号獣面と名づけられている仮面。古代蜀国の初代の支配者「蚕叢」と比定する説が有力になってきた。鼻筋に高く伸びた飾りは龍だと思われる。

Dsc_4029_2

下の写真―「人首鳥身像」と説明があった。これはガルーダと同じ思想で作られている。僕は、この青銅像は、4代目の王「杜宇」ではないかと想像している。

長江の上流にある三星堆の最初の王は、長江下流から遡上してきた龍をトーテムとする漁撈民族であり、それを倒したのが北から進入してきた鳥をトーテムとする「杜宇」である。「杜宇」は、杜鵑(ホトトギス)のことで鳥を意味する。

上の想像が正しいかどうかを判断するのには「蜀王本紀」「華陽国志」「山海経}などを参照していただきたい。

Dsc_4009

「一号神樹」と呼ばれる4メートルもある青銅遺物。圧倒的な存在感がある。

Dsc_3999

神樹を上から順に見ていくと先端に花の蕾の上に鳥が泊まっている。

Dsc_4024

神樹の幹部分。

Dsc_4018

そして神樹の根元の龍。また苗族の村の蘆笙祭なども参考になるかもしれない。https://app.blog.ocn.ne.jp/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=6614907&blog_id=33933

Dsc_4016_2

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★ 

Banner2_3


古代ダム都江堰

2008-02-21 18:28:09 | ■中国

平成19年8月4日(土)― 3―

山が崩落している。驚くほど大規模なものでまだ土煙が立っている。何を急ぐのか突貫工事があちこちで行われているのでこれくらいの事故は気にならないというのか、がけ崩れの下の道路は不通となり、迂回路が車の列で身動きが取れない。これだと被害者も大勢出たはずだ。

Dsc_3886

望遠で写すと、転げていく石や岩もはっきり見える。

Dsc_3901

流れが落ち着いたところで、ガソリンを入れ洗車する。

Dsc_3916

側の店先で麻雀をする人がいる。

Dsc_3913

新しく建設された橋がある。下の川は岷江。

Dsc_3923

都江堰市。大きな街だ。ここまで来れば成都まで先は48キロと近い。

Dsc_3928

この街を有名にしているのは、都江堰という多目的ダムだ。このダムは最近出来たものではない。目先のことばかり考える現代人には考えられないことではあるが、紀元前356年、秦の時代に始まり数百年して完成したといわれるこのダムが成都の大平原を豊かな農地に変えた。

Dsc_3935

茂県から流れ下ってきた岷江を河の中央に作った細長い堰(都江堰)で二つに分け、従来の流れをそのまま流し長江(揚子江)へ向け、もう一本の内への流れを内江として平原を潤した。、

Dsc_3934_2

雨季に当たっていたので推量が豊かだった。

Dsc_3948

河の岸には料理店がずらっと並んでいる。

Dsc_3937

6時過ぎだが日が暮れていないせいか空席も多い。

Dsc_3944

今頃食べているのは旅行者なのだろうか。

Dsc_3941

海鮮料理と言うのではなく、河鮮料理というのだろうか。

Dsc_3942

金網に入っているのは茶色のウサギにニワトリ。

Dsc_3946

見事なザリガニ。養殖物だろうから農薬が危ないという声もあったが、美味そうだ。事実中華料理のザリガニは美味い。

Dsc_3947

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★ 

Banner2_3


羌族寨、大根村

2008-02-19 20:44:25 | ■中国

平成19年8月4日(土)― 2―

高い丘の頂上に南フランスの「蜂の巣城」のような羌族の村がある。このように外敵を防ぐために要塞のように防御された村を「寨」と言って、外敵の侵攻を防ぐために地形を利用している。

Dsc_3747

「ロン」と呼ばれる石塔は、羌寨の特徴になっている。物見櫓の役にも立っているが、それだけではなく寨の狭い入り口に作られていて、外敵が入って来ようとすると、上から石を落としたりして防御の役割も果たしている。

Dsc_3874

上のロンは、観光用に作ったものだと思われるが、この村自体が観光用に道路なども整備されている。汶川県大根村羌族旅行協会の看板が出ていることからも察せられるように、観光で村起こしをはじめた。昨年5月にオープンして3万人ほどの観光客が訪れた。

下の道路を世界遺産の九寨溝や黄龍を訪れるバスはひっきりなしに通過するが、残念ながら日本人の観光客は皆無だと言っている。

Dsc_3753

働く人々。サツマイモの蔓を運ぶ。

Dsc_3764

菜っ葉の収穫。

Dsc_3869

赤色の張り紙をしている家は民宿を経営している。団体、食事付き600円、個人は素泊まりのみで300円と安い。

Dsc_3824

道は、侵入した外敵が迷うように迷路のようになっている。このような造りは、ユーラシア大陸どこも共通で、ヨーロッパや西アジアでも同じ考え方のくねくねとした複雑な道に沿って人家が建てられている。

Dsc_3817

ちょうど葬式の炊き出しをやっていた。

Dsc_3759

子供達も喪中の印に白い鉢巻をしている。

Dsc_3870

村の一番高いところに寺院がある。

Dsc_3790

道教、仏教、チベット密教、さらに独特の古層宗教が混淆していて分かり難い。

Dsc_3779

タルチョの旗には独自の分かりづらい文字のようなシンボルが書き込まれている。

Dsc_3814

羌族の食事を出すきれいなレストランも出来ている。

Dsc_3833

木陰に食事を運ばせてランチを食べる中国人観光客。僕らも羌族の料理を食べる。本場の猪膘(保存豚ハム)が野菜炒めに入っている。飯は、玉蜀黍入りの米。魚料理はない。幼児が水葬にされる習慣があり、魚は幼児の化身とされているからである。

Dsc_3836

この村から眺める大峡谷の眺めは雄大だ。はるか下に岷江が流れている。大根村は

海抜2000メートル。

Dsc_3860

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★

Banner2_3


茂県国際飯店ホテル

2008-02-19 08:25:53 | ■中国

平成19年8月4日(土)

馬爾康(マラカン)から毛児蓋経由で茂県まで570キロ、細い渓流の脇の道をとったのでホテルに到着したのは深夜12時過ぎ、15時間ほどかかったことになる。

茂県は、昨夜泊まった馬爾康と同じく、阿壩蔵族羌族自治州の大きな街。茂県の西北部の森林地帯にはパンダや金絲猴など多くの貴重な保護動物が生息し、九寨溝や黄龍などの世界遺産風景区がある。

そういう立地にあるので成都からの観光客の中継点として栄えている。成都からは整備された舗装道路もあるので、団体ツアーのバス旅行でホテルも繁盛している。

(ホテルのフロント・ロビー)

Dsc_3737

ホテルの朝食卵と野菜炒めにお粥を選ぶ。

Dsc_3730

観光バスの出発。

Dsc_3736

茂県国際ホテル。可もなく、不可もない三ツ星の中級ホテル。ただ街中からは離れているのでどちらかといえば団体客用。

Dsc_3731

ホテルの前には土産物屋が並ぶ。今日は、ここから成都まで帰るが来る時に通ったような山中の細道でないので今日中には、成都に到着できる予定だ。

Dsc_3732

確かに昨日まで大型自動車が通れない道とは打って変わって、よい道。ホテルを出ると、道標も観光地らしく作ってある。

Dsc_3743

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★

Banner2_3


毛児蓋のチベット仏教寺院

2008-02-17 18:46:00 | ■中国

平成19年8月3日(金)―4―

まるで別天地のようなチベット族の世界。しかし8-9月の雨期には大湿地帯と化す。ここは、蒋介石軍から包囲された毛沢東軍の脱出行の最大の山場になり多くの兵隊は天候と沼沢地の犠牲となった。

このあばら屋は、小売店なのだ。ミネラルウオーターが置いてある。土地の人が飲むとは思えない。街の中国人で長征の跡を観光する人が訪れるのだろう。1つ500円くらいで冬虫夏草を売っている。

Dsc_3683

毛児蓋おチベット仏教寺院。元の時代に立てられた由緒ある寺だという。文化大革命の時に全焼して今の建物は再建されたものだ。ここまで訪ねて来る外国人は、まず、いないそうで、始めのうち我々は怪しまれていた。

Dsc_3694

4000メートルの高度で体調がよくない中で、寺僧にインタビュー。ここは、紅軍長征の三大難所の一つ。この寺で紅軍は作戦会議を開いた。

Dsc_3707

六道輪廻図。チベット族は、西のインド・ラダックからネパール、ブータン、東の四川省と分布している。四川省の六道輪廻図もラダックのものとほとんど同じ図柄だ。

Dsc_3701

中央先の方に見えるのは、河だが雨季には一帯が水の下に没し、沼沢地となる。

Dsc_3714

途中車のガソリンが残り少なくなる。ガソリンスタンドがあるような道ではない。途中一軒だけあった民家でスタンドがこの辺りにあるかどうか聞く。ガソリンスタンドはないがガソリンを売っている店があるという。この家は年老いた男が一人だけで住んでいる。その男と一緒に日暮さんがガソリンを買いに行く。その間家の中を眺めてみると、ストーブと古いテレビが1台あるだけ、ストーブの上には乾物の魚を焼いた残りらしい中骨が残っている。淋しい暮らしだ。

Dsc_3723

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★

Banner2_3


紅軍長征路 長征大橋

2008-02-17 12:09:25 | ■中国

平成19年8月3日(金)―3―

黒水県は、氷河(打古氷河)が有名だ。この写真は勿論氷河ではない。道路を建設するときに崩落した箇所だ。羌族の石の家が崖に貼りついているのが見える。

Dsc_3610

我々の車は毛児蓋河を遡っていく。途中細い吊橋が見える。近づいてみるとそれが毛沢東が長征の途上通過した橋らしい。

Dsc_3619

橋桁には紅軍長征路、長征大橋と朱色で大書してあるが、人一人やっと通れるか、という吊橋、とても大橋とは思えない。

Dsc_3621

紅軍の後を辿る今回の旅では最も通過困難な道だった。 3500メートルを越す山中の凸凹道で揺られているとさすがに高山病のような症状も出てくる。

Dsc_3646

村人総出で鍬や素手で修理作業をしている箇所もある。

Dsc_3640

転落を恐れて車から 降りなければならない場所もある。

Dsc_3650

車で渡れる橋がある。橋にはタルチョが翻る。

Dsc_3656

建設中の建売住宅のような同じサイズの住宅。一般の人々にに売りに出されているとは考えられないので、立ち退きを迫られた人の補償として建てられた住居かもしれない。

Dsc_3643

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★ 

Banner2_3


馬爾康(マラカン)

2008-02-14 18:28:36 | ■中国

平成19年8月2日(木)―2―

両河口で食事を済ませてなだらかな草原の山が広がる高原地帯を走る。

Dsc_3319_2

ヤクの群れに会う。舗装道路が整備されているこの辺りで海抜3500メートルくらいだろうか。

Dsc_3344_2

車を降りてヤクが通り過ぎるのを待つ。チベット族が飼っている。、野生のヤクではない。

Dsc_3358_2

風景のあちこちにタルチョ(ルンタ)という名の5色の旗が翻る。この旗は、ここはチベット人の領域だということを知らせるものだ。

Dsc_3328

民家が現れる。やはりルンタが翻る。

Dsc_3371

四姑娘山麓からは、160キロくらいの距離はあるが意外に早く6時頃には馬爾康(マラカン)の街に着く。今夜泊まる馬爾康飯店ホテル。二星らしいが、貴賓楼の方は三ツ星。貴賓楼の方に泊まる。

Dsc_3388

この街にしてはいいホテル。パリなら4星相当だろう。

Dsc_3483

窓からの眺め。

Dsc_3482

外に出ると、人通りが多くなかなか賑やかな街だ。アパ県チベット族羌族自治州交通局などの表札が並んでいる。この辺りの地域が、チベット族、羌族の自治州になっていることを示している。僕はそう思わないが、羌族は漢族の源という説がある。有史以来民族の混淆が行われてきているので古い史書でいう羌族と今の羌族とが同じとは思えないが、今でも区別しようという努力は行われているのだ。

Dsc_3432

建物の装飾は、チベット族の魔除や吉祥のシンボルがついている。こんな辺鄙な街にも洒落たアパレルの店がある。だがその扉には伝統のチベット装飾がついている。

Dsc_3401

、タルチョ(ールンター仏旗)に描かれるシンボルもあちこちに見られる。ルンタとは、宝物を背負ったこの風馬を意味する。風のように疾走する馬は、騎馬民族の象徴。チベット族は騎馬民族なのだ。(ブータンの項参照下さい。http://garudatengu.no-blog.jp/index/cat6738739/index.html

Dsc_3467

この街は羌族の街だといわれる。靴磨きがこんなに大勢並んでいるが、商売になるのだろうか。

Dsc_3441

左の食堂は回教徒のためのもの、右の食堂は見るからにチベット食堂風だ。

Dsc_3460

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★ 

Banner2_3


紅色旅行 濾定橋

2008-02-10 10:00:00 | ■中国

平成19年8月1日(水)ー(1)

昨夜泊まった濾定橋賓館(ホテル)。三ツ星ホテルだが、パリの三ツ星ホテルとは比較にならないくらい立派だ。

Dsc_2833

濾定橋の記念行事に政府のお偉方がよく訪れているようだ。沢山の写真が飾られている。これは、その中の一枚。2002年6月に時の朱鎔基首相が甘孜チベット族自治州を訪ねた時のものだという。

Dsc_2844

ホテルの部屋の窓から眺めた濾定の町。チベット高原の入り口に当たる。現在は人口約8万。

Dsc_2820

この町に流れる大渡河はここでは10メートルほどの川幅の激流になっている。そこに架かっているのが濾定橋だ。歴史的には、漢族とチベット族居留地とを結ぶ重要な橋だった。

ホテルから橋を渡り対岸に行くと、濾定橋記念館がありその前に「紅軍飛奪濾定橋記念碑」が建っている。塔には、匍匐前進する紅軍の兵士の今、将に手榴弾を投げようとしている勇まし姿の像が乗っている。

Dsc_2891

紅軍(毛沢東率いる中国共産党)が蒋介石率いる国民党軍から逃れて遠く僻地を行軍したのを「長征」と言う。その長征の象徴とされているのが濾定橋の壮絶な戦いだ。

国民の愛国心を高揚させ、また発展から取り残された内陸の経済活性化を図ろうとする両面作戦から考え出されたのが共産革命の聖地を辿る「紅色旅游(行)」だ。

最近、英国在住の中国人作家ユン・チアンの著書「マオ 誰も知らなかった毛沢東」がベストセラーになった。その中で彼は「濾定橋に壮絶な戦いは戦いはなかった」と切り捨てた。

「濾定橋の戦いは、あったのか、なかったのか」一緒に旅した文化女子大教授高橋茂男さんの報告が「西部の経済改革ー中国共産党の聖地」というタイトルでフジサンケイ・ビジネスアイで8回にわたって連載された。

また,同じく一緒に旅した読売新聞調査研究本部主任研究員の濱本良一さんも読売新聞の12月17日の「レジャー&趣味」の欄に「山河はるか長征の足跡」というタイトルで旅のエッセイを書いた。

(濾定橋記念館で濾定橋研究40年余りの王永模さんにインタビューする)

Dsc_2916

濾定橋記念館ー濾定橋の戦闘の大きな絵。史実の決め手となる写真その他の写真はなかった。

Dsc_2900

濾定橋の漢人居住区側。新しい楼門が建てられている。向うの山側がチベット族居住区。

Dsc_2950

壮絶な戦闘があったと言われる濾定橋。観光客は民族衣装をレンタルして写真に撮り楽しんでいる。

Dsc_2962

僕には対岸の阿修羅の像が面白かった。これは最近作られたものであるが、四川省の阿修羅像は、興福寺の阿修羅の原像と考えてもいいだろう。四川省には、唐時代の天竜八部衆の石像が集中していることは古くからから知られていることなのだ。

Dsc_2974

「紅色旅游(行)」の効果は徐々に現れてきている。町は観光客で賑わっている。昨年訪れた観光客は初めて10万を越えた。外国人は2000人足らずだが、徐々に増えてきているという。

Dsc_2977

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★ 

Banner2_3


南翔饅頭店と緑波廊酒楼  豫園、上海

2007-12-30 11:00:00 | ■中国

平成19年3月16日(金)―18日(日)

金曜日の朝9時成田発、11時に上海に着き、高速道路を走り1時には江蘇省の常熟市に着き、用事を終えると、蘇州に行き、蘇州ホテルで一泊(8千円)。

翌日、浙江省の嘉興市で仕事をして、そこから30分毎に出ている高速バスで1時間半走ると(バス料金300円)、上海。

リッツカールトン上海に泊まり(4万円)、翌、日曜日に は、成田に着いた。

この一年間で道が見違えるように立派になり能率よく移動できるようになった。

成田ー上海往復航空運賃5万円。

2泊3日でこれだ動ければ日本国内並 だ。

Dsc_0057
             (嘉興市の道路)

上海、豫園にある南翔饅頭店。東京の六本木ヒルズにこの店の支店がある。

P3180275

六本木ヒルの支店は、店内が狭い上にメニューの数が限られていてしかも値段が倍以上と高い。豫園の本店は、行列が出来る大衆店で値段の割には美味しいとされている。

P3180346_2

観光客は、店先で買って商場内を歩きながら食べるのが一般的。行列待ちして、一階の店に入る人もある。

P3180286 

3階に上ると客が少ない。ここは並ばなくても席があった。六本木支店に比べるとゆったりしているし、内装も立派だ。

P3180287

下の階より値段が高いのかも知れないが、それでもこのメニューのように決して高いとは思えない。 (一元は約15円)

P3180294_2

下の小龍包が30元だから、日本円で約450円となる。東京では2倍から3倍という感じ。

P3180306

下のような格好のものもある。スープをストローで飲みながら食べる。

P3180301

この階は、普通の料理もある。

P3180289_2

上海料理の緑波廊酒楼 。南翔饅頭店のある商場のごちゃごちゃした路地を出ると、拓けた広場がある。そこで目立つのがこの店。1階は席が詰まっていて狭苦しいが上の階は高級感がある。

P3180283

クリントン米国元大統領の写真やエリザベス女王訪問時の写真がある。

P3180320

小龍包もあるがここはその他の料理の品揃えが豊富だ。

P3180324

メニューに「野生黄魚ー時価」というのがあった。「野生」とは養殖でないという意味だから、日本語に訳すと「天然黄魚ー時価」となる。時価というのが曲者だからちょっと警戒するが、好奇心には勝てない。注文すると、やはり高かった。この小さな魚が(800元)日本円にして  1万2千円もした。給仕が恭しく骨を抜いてくれる。食べると粕漬けのような香りとねっとりした食感。とても「うまいー!」と飛び上がるほどにはいかない。

「黄魚」は、「いしもち」と訳しているがこの訳、間違いではないだろうか。日本では「いしもち」は「ぐち」とも呼ばれ、嘗ては、かまぼこぐらいにしかならない低級魚だった。鎌倉の海で釣ったことがあるが、底に釣り糸をたれると入れ食いになって「キッキー」と鳴きながら上ってきたと憶えている。

日本では安魚でも中国では珍重されているのか、昔から香港ではその缶詰などが売られていた。中国では、漢人の祖先は黄帝とされ、黄色という色は最高の色とランクされているようなので、何か尊いもの(龍のようなもの)が魚に変身したとでも思う以外はないと思っています。これだけ好奇心を誘ってくれたら1万2千円では決して高くはないのではないでしょうか。

P3180328

(葱油大黄魚)

P3180331

(給仕が開いてくれた黄魚)

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★ 

Banner2_3


芙蓉鎮 平成18年11月

2007-02-27 20:13:29 | ■中国

平成18年11月22日(水)-23日(木)

早朝丘の上の公園から見た昨日の沱川と鳳凰の町。

Dsc_0116

跳石の渡しが霧に滲んでいる。

Dsc_0117

張家界空港への道筋に「王村鎮」という村がある。この村は映画「芙蓉鎮」のロケが行われて以来有名になり、以来「芙蓉鎮」という名で通っている。映画を見たが、最後に「今は好いようだけど世の中どう変わっていくか、分かったものではない」という玉音の夫に扮する秦書田の科白、今の中国ではどう受け取られるだろう。興味のあるところだ。

感動的な映画だった。興味のある方は次のサイトをクリックしてみてください。

http://shomon.net/eiga/movie5.htm

http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-a-306fuyouchin.htm

Dsc_0242

映画の撮影に使われた坂の小道(文化大革命の下で、小金を貯めた罰として夫婦で終身掃除しなければならなかった坂)。劉暁慶が演じる胡玉音の「米豆腐」屋は、この店の辺りにあったようにも思えるし、国営の麺屋の場所だっようにも思える。

Dsc_0244

大どんぶりの中に白く浮いているのが「米豆腐」。原料が米のせいなのか、感触が豆腐のように柔らかい。

Dsc_0211

どういう魂胆か、胡玉音を見習ってなのか、こんな高所にあるボロ屋で店を開いている女がいる。どんぶりの中は、ほとんど汁で「米豆腐」は、お情けのように浮いているだけ。

Dsc_0255

この村は、ご他聞に漏れず商売上手で何でも利用する。今では多くの中国人観光客で賑わっている。封切の時に何百万もの中国人がこの映画を見ているのだから商売に利用する価値が十分にある。町も観光で潤っている。ホテルもたくさん建った。

Dsc_0252_1

張家界は思ったより大きな町だった。大規模なホテルが建ち、今も工事が続いている。

Dsc_0271_2

ここに観光に来る人は、カルスト地形のため奇峰が連る武陵源を訪れるのだそうだ。特に韓国人が多い。昨年の実績では、日本人7千人に対して韓国人40万人。桁が違う。日本人がコンパをしようと集まると飲み屋の飲み会になるが、韓国人は山に遠足会だそうだ。

空港は、赤いジャンパーを着た山歩き姿の韓国の観光客で賑わっている。

Dsc_0298

外国人の旅行者が増えれば、商売のためにも、その外国語も勉強しなければならない。張家界空港は韓国語が幅を利かせ、日本語は通じない。空港売店もハングル文字だけ。

張家界空港から広州白雲空港に。広州で一泊し、帰国。

Dsc_0299_1

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★


中国でいちばん小さな美しい町、鳳凰古城 平成18年11月

2007-02-25 14:30:00 | ■中国

平成18年11月21日(火)

鳳凰古城(古い市という意味)は、湖南省湘西土家族苗族自治州の古い町。中国でいちばん美しい小さな町とされている。

鳳凰という町の名の由来は、南西に伸びる山の形が鳳凰に似ているからとか、金色の鳳凰がここから飛び立ったからと言われている。鳳凰は、町のシンボルになっている。新しく整備された広場の中心に今にも飛び立とうとする金属製の大きな鳳凰が飾られている。

Dsc_0313

世界文化遺産に申請しようと、町の整備のために着々と観光地化が進み、その目的に向けて町をあげて頑張っている姿勢が見える。

Dsc_0339

沱江の流れの真ん中には、人の渡る橋、飛び石などが設けられていて、水が少ない時期には、渡し舟を使わなくても渡れた。

Dsc_0351

洗濯をする女性があちこちに見受けられる。

Dsc_0019_3

小さな観光船。

Dsc_0025_1

若い女性は、都会から来た中国人観光客。

Dsc_0321

中学校の退け時。すごい数の生徒が校門から一度に出てくる。ジュースを飲みながら歩いている子もいる。

Dsc_0328_1

この屋根の形は覚えていられるだろうか?そうです。6月28日に訪れた安徽省黄山の屯渓の老街です。http://blog.goo.ne.jp/garudatengu/d/20060927

Dsc_0079_2

露天の食い物屋のようだが、外で料理した料理を中の店で食べさせる。客は食材を選び、好みの料理を注文するのだ。

Dsc_0299

ソーセージ、ハム、焼肉、豆腐、揚げ豆腐、乾し魚、揚げた魚、茸、蝦や蝉のような昆虫の蛹まである。蛹はそれほど食欲をそそらないが、何気なく置かれた山鳥が雉だった。これは、食べてみたい。

Dsc_0300

野菜は、日本にもあるお馴染みのものばかり。

Dsc_0303

貝類。

Dsc_0296

川蟹。

Dsc_0297_2

小蟹、川蝦、フナの串焼き。

Dsc_0045_2

乾し肉を売る店が多い。よく見て欲しいのは、右上にぶら下がった5面の豚の顔の叉焼

Dsc_0073

洋菓子屋のショーウィンドウを覗いて見た。中国は豚は多産を意味するだけでなくお目出度いものとされている。バースデイ・ケーキの豚の飾りはどうだろう。

Dsc_0062

可愛らしい牛も薔薇の花の横に寝そべっている。

Dsc_0065

猿まで登場する。猿の横にあるのは、おそらく西王母の桃だろう。

Dsc_0064_1

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★


奇梁洞の「酒鬼」 平成18年11月

2007-02-19 10:01:23 | ■中国

11月21日(火)

鳳凰の町のホテルを出て郊外の奇梁鍾乳洞を見学に行く。この辺りも石灰岩の地層が多いので山は奇妙な形に侵食されていて、鍾乳洞も多い。中国人の伝説によると多くの民族が土洞窟の中から外界に出てきたという伝説がよくあるし、また桃源郷というのも洞窟を潜り抜けるとそこは梅の花が満開の桃源郷の伝説があり、今でも政府から認めれれた桃源郷村がこの湖南省にはある。

Dsc_0236

この鍾乳洞には鳳凰を流れる侘江が流れ込み、洞窟の中を6,5キロメートルの流れ、再び侘江に合流しているとのこと。中には滝があったりして規模が大きい。

Dsc_0279

水が澄んでいるので底のにまでライトが届いるので、どこに川面があるの錯覚しそうになる。

Dsc_0267

赤、黄、緑、紫などの照明がけばけばしいのには、中国人の好みだろうが少しは落ち着いたことが出来ないのだろうか。

Dsc_0271_1

この洞窟には、「酒鬼」という酒の貯蔵庫がある。

Dsc_0254_1

137トンもの酒が貯蔵されていてオリンピックの時に開けるのだそうだ。しかし、この酒、個性の強い独特な匂いのあるスピリッツ。外人に受けるかしら。

Dsc_0251

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★


南方長城 平成18年11月

2007-02-17 00:07:14 | ■中国

11月20日(月)

新晃という小さな町。市が開かれていて大変な混雑。ビニールで雨を避けている。

Dsc_0137_3

理髪店。

Dsc_0132

食堂。食堂主が奥で食事をしている。

Dsc_0131

何に使うのか紙がたくさん売られている。雨で濡れないか心配だ。

Dsc_0134

銅仁市に入り昼食。ここには空港がある。小さな淋しい空港。

Dsc_0153

貴州省の最後の町、銅仁市を後にして、1時間ほどバスに揺られると湖南省の南方長城に到着する南方長城は、苗族の侵入を塞ぐ目的で明の時代に作られたらしい。最近復元したようだが、観光目的に復元された意図が見え見えだ。山の中腹に見えるのが南方長城。

Dsc_0168_2

2000年、ここで人間を碁石に見立てて中国と韓国で囲碁が行われた。世界最大の碁盤としてギネスブックに載せたらしい。左から3枚目の板に書いてある。

Dsc_0174

二百段の階段を上って東門をくぐると広場がある。碁盤の目が切ってある。

Dsc_0183

Dsc_0182_2

復元した南方長城。

Dsc_0189

東門から400メーターほどの石組みは元々あったものが最近発見されたようだ。しかし、詳しい史実は分かっていないようだ。

Dsc_0188_2

この大砲は当時の物のようだ。年号が彫ってあるがよく見えない。

Dsc_0186

この谷間を挟んで向う側にも長城らしきものが見える。

Dsc_0195

高い柱に屋根を乗せた建物が線上に幾つか見える。

Dsc_0193_1

陣地のように見える。明朝に対する「生苗族」と明朝に屈服した「熟苗族」との争いもあったあったとガイドが説明した。しかし、本当のところ漢族自身が何者なのか、はっきりしないのだから、「熟苗族」を漢族としてもいいのだろう。

Dsc_0198

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★


鎮遠 平成18年11月

2007-02-15 04:21:00 | ■中国

11月19日(日)

凱里市街を出てしばらく行くと山道にかかる。昨日、ちょっとした衝突事故があり、新しい運転手と新しいバスに変わった。一休みしていると遠くから人が歩いてくる。

Dsc_0930

近づくとこのような男たちだった。苗族だろう。

Dsc_0932

鎮遠古街

Dsc_0959

この街のレストランで食事。苗彊古城風味館とある。意味はよく分からないが、苗族の料理であることを言おうといているのだろう。

Dsc_0960

ご飯が木のお櫃に入ったのが珍しいだけで、出されたものは、鯉の甘酢煮、豚三枚ばら肉と乾し野菜の煮物、卵とトマト炒めなどごく普通の家庭料理だ。

Dsc_0964

楼閣のついた橋を渡っていくと、仏教、道教、儒教が混淆した寺院群がある。

Dsc_0014

Dsc_0974

屋根の形が面白い。屋根の先端には龍と魚を象った装飾がついている。

Dsc_0005_4

これは、金のしゃちほこのようだ。

Dsc_0988

民族建築文化博物館。

Dsc_0040

天井には、鳳凰と、

Dsc_0049_2

龍の浮彫り。

Dsc_0047_1

この街の古い家屋は塀が高く、道が迷路のように複雑に入り組み、外敵からの攻撃を防ぐように作られている。

Dsc_0066

★ 人気Blogランキング、クリックお願いします★