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辺境の旅・・・ガルーダを追って

国境の村スラット パキスタン 平成18年7月

2006-12-08 11:50:00 | ■中央アジア・パキスタン

7月14日(金)

朝ホテルを出てカラコルム・ハイウェイを走っていると、またレディー・フィンガー山が少しばかり覗いているのが見えた。何か名残惜しい。

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この尖った山の頂上に登った人があるのだろうか。気になって麓の方を見てみたのが下の2枚の写真だ。

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雲が流れる様と山容が滅多に見られない景色を作り出した。とても他所では見られない変わった雰囲気。

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いろいろな山が現れる。

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西日が射しはじめた山。

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ススト村に着いた。ススト村は標高2700メートル、パキスタン側の最後の村だ。山を下って行くと明るくなり検問という意味か長いポールが道路に立っている。深い渓谷では日の暮れるのが早いようで、そちらでは夕日が射しているのに、広い盆地に降り立つと明るい。

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検閲所に駐車中のパキスタン名物、ぎらぎらした強烈な装飾を凝らしたトラック。

トラックとトラック野郎の写真。普段は恐い顔をしているように見えるが話してみると、みんな笑顔で写真に撮られたがる明るい連中だ。

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左中国のトラック、右パキスタンのトラック。国境の村のここで荷物を積み替える。

前方で崖崩れが起きて道路がブロックされたので止むを得ず泊まって様子を見ることにする。外国からの観光客や旅行者などがごった返し宿の部屋の確保が難しい。一人で歩いてちょっと遠くまで探し回ったら納得のいく部屋が見つかって一安心。

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クンジュラブ峠 中パ国境 パキスタン 平成18年7月

2006-12-08 01:00:00 | ■中央アジア・パキスタン

7月15日(土), 16(日)、18(月)

最初の計画だと、中国のタシュクルガンまで一気に山を下るはずだったが、道路が決壊して通行不能になったのでパキスタン側の国境の村に泊まる羽目になってしまった。朝起きて出国の手続きを済ませると、国境に向かう。決壊箇所にまで行って中国側のバスに乗り換えることになる。決壊した道路を自動車が走れないので、歩いて行く。

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夜を徹して作業を続けたようだが、ほんの僅かしか作業が終わっていない。

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  苦労をしてやっとクンジュラブ峠に着いた。三蔵法師もマルコポーロも通ったという5千メートル近くある峠だ。雪が降って来る。一面の雪景色だ。しかし、歩いてもふらふらしないし、高山病にはかからなかった。パキスタンの兵隊が国境を示す標識の前で和気藹々と写真を撮っている。。

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前にあるのが中国側の国境警備本部。中国の国境警備隊員はよく訓練されていて、パキスタンの隊員に比べるとちょっと人間味が少ない感じがする。おそらく職務的には個人の感情を出さないように言われているのだろう。

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中国側に入ると、俄然道がよくなる。前方にアスファルト工事が始まっている。驚いたことに道路が乾くまで、夕方6時から9時頃までパミール高原の5千メートルの酸素の希薄なところに何もすることなく、何の情報も知らされることなく待たされた。

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夜9時だというのに高原は明るい。なんとも心が開ける風景だ。

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タシュクルガンに着いたのは、11時遅い夕食を済ませて、再び山の道を駆け上がり4000メートルのスバシ峠を越えて深夜三時にカラクリ湖に着く。星が大きく輝くカラクリ湖を後にして、また検問所で調べられた後に朝の7時にカシュガルの色満賓館に到着する。その時は、もう7月16日になっている。2時間ほどホテルで休んで9時40分にホテルを発ちカシュガル空港午前10時30分発、ウルムチ行き、ウルムチで午後2時45分の北京行きに乗り換え午後6時に北京に到着。その夜は北京に泊まる。

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(ウルムチ空港)

7月17日午前8時15分北京発。12時45分成田着。

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フンザ パキスタン 平成18年7月

2006-12-07 22:00:00 | ■中央アジア・パキスタン

7月13日(木)

ホテルの自分の部屋の窓からの眺め。玄関の上の高いベランダーで朝食を食べている人がいる。

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よく見るとヨーロッパからの観光客の母子連れだ。

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自分の部屋の正面、やや右手にレディー・フィンガー(海抜6000メーター)が見える。

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右の方向に見える雪山がウルタルⅠ、ウルタルⅡではないだろうか。

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登山家長谷川恒夫さんは、1991年濃霧により遭難し亡くなった。確かに山の様子は刻々と変わっている。濃霧や雪崩で遭難する危険性は高いだろう。下が長谷川記念学校。

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フンザ渓谷を遥かに眺める場所にバルティット城がある。チベット様式の建築で800年前のもの。

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城の中で働いている人。帽子に鳥の羽根をつけている。

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帽子の羽根が珍しく、格好いい。

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「ようこそパスへ」と大きく山肌に書き込まれている。一直線に刻まれた道路を一台の乗用車が左向きに走っている。真っ赤な色の車だったが、写真ではよく分からない。

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ピラミッドのようなぎざぎざの山。トポックダン山だと思われる。

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フンザ川に雲が下りてきた。

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グルミット村。住民は石作りの家に住み、家の周りには丸石で囲んだ庭があり、桃、林檎、柿などの果樹園となっている。

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村の人々。ヨーロッパ人のような顔立ち。そのためか、ギリシャ人の子孫だと言う人もある。

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年をとるに従って色が黒くなってくるのは、山の強い紫外線のせいかもしれない。この村の住民は、若いときは、色が白くて美しい。

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カラコルム・ハイウェイ パキスタン 平成18年7月

2006-12-06 22:17:00 | ■中央アジア・パキスタン

7月12日(水)

チラス、ギルギット間137キロ。ギルギット、カリマバード間98キロ。カリマバードはかつてのフンザ王国の都だった。今日は、カラコルム・ハイウェイをカリマバードに向けて走る。

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途中タタパニ温泉がある。だが日本人が想像するような温泉ではない。風呂もなければプールもない。ちょろちょろと道路わきの崖から熱いお湯がながれているだけだ。私たち日本人にはがっかりさせられる温泉だが、地元の人たちには大変な憩いらしく、道路わきにはトラックが数台とまっている。川床に止まっているトラックもある。

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ナンガパルバット(8125メートル)を望む道路で自転車の積荷をなおす少年。

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展望台にJunktion point of  three mightiest mountain ranges of the world という字が見える。ここは、カラコルム、ヒマラヤ、ヒンドゥクシュ山脈が重なる地点であり、インダス川とギルギット川の合流点でもある。

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ギルギットにある地上30メートルのところに彫られたカルガの摩崖佛。

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近くに引き寄せてみると、チベット風の形をしていることが分かる。ガンダーラではなくチベット佛なのが興味をそそる。

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ラガポシ山(7788メートル)のビューポイントにレストランとモーテルがある。流れの向うに氷河その先がラガポシ山。

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これを望遠レンズで撮ると荒涼たる山の姿が迫ってくる。

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スワット→チラス パキスタン 平成18年7月

2006-12-04 09:00:00 | ■中央アジア・パキスタン

7月11日(火) 

スワットからチラスに向かう。シャングラ峠(2134メートル)を越え、落石にも遭わず無事にチラスのホテルに着く。

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カラコルム・ハイウェイ。歩いている人は珍しい。

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中央アジアの専門コーディネーターの山田美帆さん。今度の旅でアテンドしていただいた。山田美帆さんのブログは、http://yksilkroad.exblog.jp/です。

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(ガンダーラから帰る巡礼者たちが書き残したというシャティアルの岩絵。)

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午後7時ホテル着。前の看板から想像するより大きなホテルだった。

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裏庭は、インダス川に面する。

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スワット渓谷 パキスタン 平成18年7月

2006-11-13 01:01:18 | ■中央アジア・パキスタン

7月10日(月)

スワット渓谷は、緑に覆われている。折からの小雨で歩きにくい細い山道を滑ったり転んだりしながら摩崖佛を目指してひたすら歩く。緑が多く柿、桃、りんごの実が大きく育っている。

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(柿。この土地の人は、ジャパニズ・フルーツと呼んでいる)

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(桃)

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(りんご)

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(ブーゲンビリア。ブーゲンビリアとりんごが同じ土地に育つとは、思わなかった)

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(好奇心一杯。民家の入り口から出てくる子供)

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(色が白い子供。こういう顔立ちを見てアレキサンダー大王以来のギリシャ人の末裔ということを言う人がいるが、簡単にそうも言えないだろう。ギリシャ人がギリシャから来たという考え方だって再考してもいいかもしれない)

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(こわごわ覗く女性)

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(住民はイスラム教を信じている)

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(この摩崖佛を見に山道を登ってきたのだ。道のないところを猿のように早く先回りしてついて来る子もいた)

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(とても保存状態がよい)

スワット博物館は、日本の援助により建てられたそうだ。博物館にはブトカラ周辺の出土品が展示してある。

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(スワット博物館正面)

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(ブトカラ・ツーリストと日本語で書かれた石造りの広告があった)

ホテルで昼食をすませ、一休みした後、ブトカラでいちばん大きなブトカラ寺院遺跡を見に行く。5層の大ストゥーパの周りに信者が奉献したストゥーパが200ほどある。このストゥーパは紀元前3世紀頃のものらしい。この遺跡の下からは、紀元前3世紀から10世紀に遡る硬貨や生活用品などが発掘されている。

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(奉献したストゥーパの基部)

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(ライオンと見られるスタッコの像が無造作に置かれて、風雨にさらされている)

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(現在の遺跡の周りは、高級住宅地となっている。ここでも子供たちが集まってくる)

[お知らせ]

次は、インダス川渓谷を通りフンザから標高約5000メートルの中パ国境を通りシルクロードの真っ只中に入り北京から帰国するなど面白いところですが、残念ながらインドに出発しますので申しわけないのですが、ちょっとの間お休みさせていただきます。

20日に帰国しますのでよろしくお願いします。

残っている分は、その後のタクラマカン砂漠一周3500キロ(8月)。パリからライン川を遡ってベルリンまでの旅(9月)の分です。

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アフガニスタン・パキスタン国境 平成18年7月

2006-10-04 19:59:44 | ■中央アジア・パキスタン

7月9日

午前8時、パシュトーン族の民兵を護衛のためミニバスに乗せて出発。日本人には分かりにくいかもしれないが、パキスタンには、国の法律が公道上にしか適用されない地域がある。それが今から訪れるアフガニスタンとの国境地帯だ。ハイウェイ以外の地帯は、パシュトーン族(アフガン族)が支配しているのだ。

アフガニスタンの国の基幹をなしている民族がパシュトーン族だ。アフガニスタン王国は最後の遊牧民族国家といわれたが、イギリスとの戦いに敗れて領地の北部を失った。そして、それを契機に、この地域はイギリスの植民地としてのインドに編入されたが、第2次世界大戦後にパキスタンとして独立した。ややこしいことだ。

以来、パキスタンのこの地域に1000万人単位のパシュトーン族が取り込まれた。もともと遊牧民族であるパシュトーン族は、国境があってもなくても自由に行き来するのは当然だと思っていることだろう。今は、許可証を持って国境を越えているようだ。この地が、タリバンの温床となり、オサマ・ビン・ラーディンがアフガニスタンとパキスタンの国境を我が物顔に出入りするのもそれほど困難なことではない、いや容易なことだろう。

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(公道から見える一般の民家)

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(要塞のように堅固な家もある)

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(同行したパシュトーン族民兵。愛嬌がよいのは意外だった)

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(ミチニ標高1200メートル。アフガニスタンとの国境が真下に見える)

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(この辺りが史上有名なカイバル峠だ)

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(途中の街)

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(パシュトーン族の女の子)

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(バスも走っている)

カイバル峠からホテルに引き返し、チェックアウトするといよいよスワットに向かう。途中タフティ・バイに寄る。

タフティバイは、あの有名なクシャン朝のカニシカ王が紀元1-2世紀に建設したと言われる山岳寺院だ。比較的よく保存されていて、世界遺産に指定されている。日本が修復には協力したようだ。

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(漢字で博物館と書いてある)

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(遺跡の一部)

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(遺跡の警備員?)

スワット川の橋を渡った。大勢の人が水浴びしている。

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(スワット川)

バスから降りて、シンカルダル・ストゥーパを見に行く。水田の稲がまだ青い。

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(村の入り口)

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(ストゥーパー仏塔ーのある敷地の入り口に少しばかりの住居がある)

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(シンカルダル・ストゥーパ。7世紀)

(註)ストゥーパは、日本でお寺の墓の横に立てる卒塔婆(ソトバ)の語源だ。

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(広場でサッカーをしていた子供たちが駆けてきた)

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タシケント ウズベキスタン 平成18年4月

2006-08-22 10:30:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月13日(木)

ウズベキスタンの首都、タシケント。人口200万人を超える中央アジアの中心の町。帝政時代のロシア人の入植と1966年の地震によって町は完全に姿を変え、シルクロードの中継点として栄えた昔日の面影が感じられない近代都市。

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(中央アジアでは、唯一の地下鉄も通っている)

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(終戦後連行された日本兵が強制労働に従事して作られたオペラ・バレー劇場)

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(「1945年から46年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民がこのアソシエル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と書いてある。要は、日本敗戦後、スターリン独裁の下に日本兵捕虜がここまで連行され強制労働をさせられたということだ)

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(所変われば花束もこうなる)

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(ティムール像の前に集まった女学生。とても明るい)

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(私は、旅行者ではない、と断っているのに一緒に写ってくれとせがまれて困っている通訳のヴィクトリア)

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(朝鮮料理店は多い。バザールでキムチがたくさん売られているわけだ)

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(最後の食事は、朝鮮料理)

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(日本兵捕虜と同じように黒竜江の近くから朝鮮人も連行された。その数は、今では30万人。タシケントだけでも2万5千から3万人の北朝鮮人が住んでいる。通訳のヴィクトリア・キムさんも連行された朝鮮人の末裔。大学で日本文学を専攻した才能豊かな美人。ソヴィエト連邦の崩壊により国籍を失なった。夏目漱石が愛読書)

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(天真爛漫な子供たち。日本人の子供たちにこの笑顔を取り返してあげたい)

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サマルカンド  ウズベキスタン 平成18年4月

2006-08-07 23:59:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月12日(水)

サマルカンドは、シルクロードの中心都市で昔からその美しさで有名だった。紀元前には、マラカンダという名で呼ばれ、あのアレクサンダー大王に「話に聞いていたよりもずっと美しい」と驚嘆させたというほどの町であった。

その頃のサマルカンドは、ソグド人の町で、アフラシャブの丘の上に築かれていた。町は城壁に囲まれ、四つの門から東西南北に道が伸びていた。この美しく繁栄していた町は、1220年、チンギスハンのモンゴールの軍隊に完全に壊滅させられ、それ以後もとに戻ることなく、現在は不毛の荒地に変わり果てた。

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(朝食: 香草のサラダ)

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(朝食: 果物を煮たデザート)

アフラシャブの丘の南麓にシャーヒズィンダ廟には、チムールゆかりの人々の霊廟が立ち並んでいる。ここには、サマルカンドで最も古い建造物もある。

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(シャーヒズィンダ廟)

シャーヒズィンダ廟の中からアフラシャブの丘の方角を見ると新しい最近の墓地が見えた。墓石には、墓の主の生命力にあふれた肖像が大きくリアルに描かれている。どこでも見たことがない生生しい風景。不思議な風景。

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(丘の上の墓)

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(バザール: 穀物を売る一角)

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(バザール: 漬物、キムチが山のように積まれている)

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(バザール: いろいろなナンが売られている)

昼食にラグマンという名のうどんが出た。汁は、いろいろな種類の汁があるのだろうが、我々が食べたのは羊肉のスープだったので、ちょっと癖がある。ラグマンは、一度出たきりで、ツアの食事だからだろうが、くず肉の炒めたようなものが必ずついた。うどんがこの土地にあるのは何故だろう?

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(汁ラグマン)

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(豆の煮込みに羊肉炒め)

サマルカンドは、アフラシャブの丘から平地に逃れてきた人たちにより再建されてきた。そして、チンギスハンの子孫であるチムールの手によって再び繁栄に向かった。今でもレギスタン(砂地の意味)広場は、この町の中心である。

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(おしゃれな新婚夫婦)

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(レギスタン広場)

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(団体の夕食。野菜が多い)

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ブハラ-シャフリサーブス-サマルカンド  ウズベキスタン 平成18年4月

2006-08-06 21:30:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月11日(火)

ブハラからシャフリサーブスに行くまでのハイウエイから見る沿線の風景は緑が多く、よく開拓されていて、沙漠の緑化が進んでいる。通訳のヴィクトリアの話によると、綿花の収穫期には小学生も全部綿花畑に出て手伝わされたという。競争で綿花を積んでお金ももらえたということだ。このようにして川の水がどんどん利用されたので、川が流れ込むアラル海の水が引いて海がなくなりつつある。

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(耕作中の土地)

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(緑が増えた。右手前は桑の木。桑の木がハイウエイの並木に植えられている箇所もある)

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(シャフリサーブス:ここでチムールは、生まれた。後ろは14世紀後半に着工されたチムールの宮殿の入り口。ここだけが現在に残った)

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(女学生)

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(これがイスラム教の女性かと思うくらい明るい)

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(串焼きレストラン。ここでは豚肉も食べられる)

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ブハラ  ウズベキスタン平成18年4月

2006-06-30 23:03:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月10日(月)

インドのニューデリーのモリヤ・シェラトンに「ブハラ」というレストランがある。ニューデリーでおそらくいちばん値段が高いインドレストランかもしれない。クリントンも何回かお忍びでデリーに来て、「ブハラ」の料理を食べた。そのレストランの名「ブハラ」は、この町、ブハラから来ている。ブハラは、古くからイスラム世界の文化の中心とも言われ繁栄した栄光の町であった。1220年チンギスハンの襲来で廃墟となったが、16世紀になってウズベク人の手によって再び繁栄を取り戻す。

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(朝、お使いの途中の道草)

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(ホテルの路地から出た所にあるハウズ。ハウズは、池のこと、昔は運河と200以上のハウズ(池)がある水の都だったという)

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(道路の交差点を丸屋根で覆ったバザー。これをタキと呼ぶ)

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(露天に楽器を売る)

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(刃物作りの職人。販売もする)

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(白黒の石でゲームをしている。イスタンブルのレストランでも若い男女がやっていた。同じようなものだろう)

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(刺繍をしているところ)

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(カーペットを作る)

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(ランチを食べたレストランで出会った人たち)

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(陶器の皿を売る少女)

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(その横を学校から帰る少年が歩いていく。学校に行ける子供行けないで親を手伝う子供。服装が違う)

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(鳳凰のような形の文様がある)

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(タイルと同じ鳥の文様。これがウズベキスタンの国章、フムという名の想像の鳥だ)

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(グリフィンのように見えるが、よく見ると翼が付いた馬のようだ)

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(ホテルの食堂)

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(民族舞踊を見ながら夕食)

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(通訳のV嬢、添乗員のS嬢のほかに何人かの女性が加わる)

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ブハラへ ウズベキスタン平成18年4月

2006-06-18 19:06:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月9日(日)

6時30分モーニングコール。8時ホテル出発。「今日は、一日ドライブです。楽な服装でご出発ください」という指示がある。

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(アジア・ヒバ・ホテルをチェックアウトする)

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(旅行中お世話になるバス)

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[アム(ダリア)川、オクサス川という名で歴史上古来から有名な川だ]

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(砂害を防ぐため道路の脇に葦での柵が作られている)

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(ヤギと羊の群れ、遠くに馬に乗った人がいる)

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(ポプラの木を植林した休憩所)

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(日本の焼き鳥を思わせる)

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(牛肉だった。買って食べてみる。美味)

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(地元の人の昼食。串焼きを食べている。人懐こい人たちで食べろと席を空けてくれるが、残念ながら言葉が分からないので遠慮する)

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(私たちは、ホテルから持参したランチ。衛生上の配慮もあるのだろう)

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(潅木の背丈が高いだけで、何もないところで休憩する)

キジルクム砂漠は、赤い土の砂漠という意味。サウール、ヤンタク、タマリスクというのが代表的な砂漠の潅木だそうだ。

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(サウール。キジルクム砂漠にはあるが、カラクム砂漠には生育しない。ユルタで燃料として使う)

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(タマリスクには、赤い粒状の花が付いている)

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(砂漠に小さな草花が咲いている)

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(4時過ぎホテルに着く)

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(ホテルの従業員)

夕食は、近所の民家で供される。

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(民家の家族)

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(民家のテーブル・セッティング)

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(赤ワイン。ウズベキスタンでは甘いワイン以外に当たらなかった)

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(ワインの説明)

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(添乗員のSさん、通訳のキムさん、苦労の多いことだろう)

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ヒバ・ハン国 ウズベキスタン平成18年4月

2006-06-17 23:30:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月8日(土)-2

ウルゲンチから40分足らずでヒバに着く。ヒバは、ブハラやサマルカンドと違いマー・ワラー・アン・ナフルの中にあるのではなく、アム(ダリア)川の外、カラクム砂漠側にある。

ウズベク族はアラル海北方の草原地帯にいたトルコ系の遊牧民族で、キプチャク・ハン国の名主ウズベクにちなんで名づけられた。15世紀の中ごろからウズベク族の動きは活発になり、マー・ワラー・アン・ナフルに南下して来る。この頃、ウズベク族のうち定住化を好まないものがカザフ族として分離した。

ウズベク族のシェイパニーは、マー・ワラー・アン・ナフルに侵入してバーブル(インドのムガール帝国の創始者)をアフガニスタンに追い出した。シェイパニーは、1505年即位して、シェイパニー朝の祖となった。シェイパニー朝は、最長老がハンに選ばれるという制度を採ったのでハンの交代によって都が変わったが、ほとんどブハラが中心だったのでブハラ・ハン国と呼ばれる。

1512年、ウズベク族のシェイパニー朝の傍系のイルバルスが独立してヒバ・ハン国を建てた。ヒバ・ハン国は、外敵の侵入に苦しみ、チンギス・ハンの子孫を次々に迎えハン位につけたが、なかなか混乱は治まらなかった。ヒバ・ハン国は、1873年ロシアに滅ぼされる。

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(イチャン・カラと呼ばれるヒバの内城。今は全体が世界遺産に登録され、博物館の役割を果たしている)

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(ヒバで一番高いミナレット。45メートル)

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(イチャン・カラの中。内外の観光客であふれている)

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(ここで結婚式を挙げる人も多いという。新郎新婦の衣装に注目。イスラム圏といってもアラブの国々とは異なりずいぶん開放的だ)

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(ジュマ・モスク、珍しい木製多柱式のモスク。10世紀から17世紀の木の柱が使われている)

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(全部で212本。柱の彫刻は一本一本違うそうだ)

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(儀式のための玉座があるテラスをアイヴァンと呼ぶ。青いタイルで装飾された中庭を囲む部屋はハーレム)

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(アイヴァンの壁は、イスラム文様の青いタイル)

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(しかし天井の火のように赤い文様は、イスラムに滅ぼされたゾロアスター教(拝火教)の名残だそうだ)

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(中庭の天幕、ユルタ。ユルタはウズベキスタン語。北京語ではパオ。蒙古語では、ゲル)

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(ユルタの内部。遊牧民族の習慣で、王様は石の建物よりユルタで過ごすのがが好き。客人の宿泊にも使われたらしい)

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(イチャン・カラの南門。カラクム砂漠への門)

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(南門を抜けたところに今夜の宿、アジア・ヒバ・ホテルがある。2年前にオープンした新しいホテル。砂漠の端にあるという思いからか、清潔だが、心を癒す情緒がない)

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(ホテルから見たイチャン・カラの城壁。城壁の長さ2100メートル。高さ約8メートル。厚さ約6メートルということだ)

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タシケントから国内航空でウルゲンチへ ウズベキスタン 平成18年4月

2006-06-11 23:40:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月8日(土)-1

早朝4時半モーニング・コール。7時のウズベキスタン航空でタシケントを発つ。

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(タシケント空港で出発を待つ飛行機)

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(機窓から見下ろしたオアシスの町、タシケント市街。思ったより緑が多い)

ウルゲンチは、歴史的に隣の国のトウルクメニスタンから広がるホラズム地方に属する。トルクメニスタンのカラウム砂漠の南端と接するコペト・タグ山脈の北麓に、ホラズムの首都アシガバットがある。アシガバットから15キロのところに牧畜農業と彩陶土器で有名なアナウの遺跡がある。メソポタミアで紀元前7000年頃に始まった牧畜農耕の生産経済が始まり、それを土台にした文化が生まれた。紀元前5000頃にメソポタミアの牧畜農耕を基礎にした文化は、ホラズム地方に伝わったとされる。しかし、最近はアナウ文明は、バビロニアやメソポタミアと同じように重要な文明だという考え方もある。

ヘロドトスによれば、ペルシャのアケーメネス朝以前(BC6世紀半ば以前)に、西トルキスタンはホラズムが政治的に掌握していたとされる。ホラズム地方は、北方のパンパとの通り道となっていたので、勝ち進んだ遊牧民族が強国を作るための素地があるのではないのだろうか。

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(ウズベキスタンの略図)

飛行機は、36人乗りの双発プロペラ機。

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(機内の様子)

2時間の飛行で9時にウルゲンチに着く。ウルゲンチは、ホラズム州の州都ではあるが、ソ連時代に作られた新しい町で見るべきものは少ないそうだ。空港でバスに乗り換えそのままヒバに出発。

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(ウルゲンチ空港。バスに向かう)

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ウズベキスタン航空 ウズベキスタン 平成18年4月

2006-06-06 11:50:00 | ■中央アジア・パキスタン

4月7日(金)

ウズベキスタンは、アムダリア(アム川)とシルダリア(シル川)の間にはさまれた土地―ソグド地方と大まか一致する。かっては、ギリシャ人にトランス・オキサニアと呼ばれていたが、イスラムの東進によってアラビア語でマー・ワラー・アン・ナフル(川の彼方の意)と呼ばれるようになった。トランス・オキサニアは、オクサス川(アム川)を超えた土地という意味である。10世紀後半のアラブ人地理学者ムカッダシーは、この地方を神が創造した世界でも最も恵まれた土地と言い、世界の四大楽園の一つとしている。

この土地は、いわゆるシルク・ロードの拠点であるが、また南北方向へ繋がる道の要衝をも占めている。インドとの関係で言うと、例えば、インドのクシャナ朝(45AD―440)は、この地方からインド北西部に広がって行ったのであり、グプタ朝(320-520)もまた然り、ムガール帝国(1526―1858もこの地方のサマルカンド辺りから南下したイスラムによって始められたのである。

このことから考えると、現在のウズベキスタン、アフガニスタン、パキスタンの諸国、インドの北西部までは大雑把に言って一つの文化圏(時代によっては一つの政治単位)と考えてもいいのだろうが、これがヨーロッパの帝国主義勢力によってずたずたに切り裂かれたということなのだろう。

(下の地図参照)

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それでは、ウズベキスタンはどういうところかと、 H交通社のツアに参加する。ウズベキスタン航空HY0528便ビジネスクラス、02H席。10時15分成田発大阪経由。

富士山がよく見えた。

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ビジネスクラスの乗客はほとんどいない。それも乗務の終わって帰途の乗務員のようだ。

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機内食は下のようなものだ。サラダが前菜、次の牛肉がメイン。ビジネスクラスの機内食としては、飾り気がない。ワインは、赤、白一種類だけで甘すぎる。原価(材料)は、他の航空会社とそれほど変わらないのだから、もう少し知恵を出した方がよいかもしれない。

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(たこ、いか、白身魚スモッグなどの入ったサラダ)

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(牛肉、ジャガイモ、人参、ブロッコリー、カリフラワー、シメジ、かぼちゃ)

着陸1時間前、雪山の上を飛んでいる。パミール高原の上空、天山山脈の西の外れなのだろう。

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ウズベキスタンの首都タシケントに着いたのは、日本時間だと夜の10時、ウズベキスタンの時間だと4時間の時差があるので、午後6時だった。

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(タシュケント空港)

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(空港からホテルへ行く道筋)

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