Pierre’s Holiday

我が家の愛亀「ピエール」と過ごす日常。休日に楽しむ家庭菜園などについて、思うまま書き綴ります…。

ピエールへ 1

2010-07-22 23:30:17 | ピエールくん
2007年6月15日 金曜日。
この時期にしては珍しい程の晴天に恵まれた、気持ちのいい朝だった。
数時間後に訪れる深い悲しみなど、微塵も感じさせない空だった。

その日の朝、通勤電車に揺られていた僕は、いつにない体の不調を感じていた。まるで頭に重しでものせられているかのような頭痛と倦怠感、胃がせり上がってくるような吐き気にみまわれていた。
「朝起きた時は何とも無かったのに・・・風邪でもひいたかな?」梅雨に入り蒸し暑い車内で、嫌な汗をかいていた。

今日はチームのメンバーから月中進捗の資料を提出してもらう日だった。チームとは所属部署内の組織のひとつで、僕は4月から第二チームのリーダーに起用されたのだ。
チームといっても僕を入れて3名のこじんまりとした所帯なのだが。
メンバーから受け取った資料はデータをとりまとめ上司に提出する。
リーダーになって2ヶ月、慣れない仕事の連続ではあるが、やり甲斐を感じて前向きに取り組んでいた。
いや、本当は責任を問われる重圧と慣れない仕事のストレスをごまかすために、自分自身にそう言い聞かせていただけかも知れないが…。
上司への資料提出期限にはまだ数日猶予があるが、もともと仕事を溜め込むのが嫌いな性分だし、週末ということもあり、いつもなら残業してでも資料を仕上げるのを優先するのだが、どうやら今日はそんな気になれそうにない。
自分の資料を完成させるにはメンバーからの資料提出が不可欠だ。「今日は二人に提出を急いでもらおう」伝えるのであれば早いほうがいい、そう思い電車の中からメンバー宛に携帯電話でメールを打った。
メンバーは快く了承してくれて、夕方までに資料は僕の手元に集まった。
体の不調は幾分良くはなったものの夕方まで続き、朝考えていたとおり早々に帰宅することにした。

時刻は午後6時、外はまだ明るい。今がいちばん日が長い季節だ。こんなに明るい時間に帰宅するのは久し振りだ。体調不良とはいえ、明るいうちに会社を出れるのは嬉しい。足取りは軽くないが、少しだけ気分は良くなった気がした。
会社から駅までは徒歩で約8分、緩やかな登り坂が続く。地名の由来になるほど坂が多いこの町は、ビルが建ち並ぶ大通りから少し入ると、曲がりくねった路地と昔ながらの街並みが現れる。都会の真ん中にいることを忘れてしまうような懐かしさを覚える路地を歩きながら、携帯電話を取り出し、奥ちゃまに電話をかけた。結婚して十数年欠かしたことの無い「カエルコール」だ。
最近の電話のやり取りは、専らピエールのことだった。
「もしもし。俺、今から帰るから。ピエールはどうだった?」
「今日はとってもいい子で、葉っぱをたくさん食べたよ♪」とか、
「今日はトマトしか食べてないの、うんちが溜ってて苦しいのかも」なんて会話をするのが日常になっていた。
帰りだけで無く、日中もピエールのことについてメールや電話を交わした。うんちが出たときには、うんちの絵文字の入ったメールが、ごはんをたくさん食べた時は、たくさんのハートが入った微笑ましいメールが届いた。

いつものように呼び出し音が鳴った。いつものように奥ちゃまが弾んだ声で応答するはずだった。
しかし次の瞬間受話器から聞こえて来たのは、今までに聞いたことの無い奥ちゃまの声だった。
「いやぁー‼」突然耳に飛び込んできた悲鳴。
何が起こったのかを理解することも出来ないまま反射的に聞き返した。
「大丈夫⁉どうしたの?」
「うぅぅ・・・」言葉にならない嗚咽だけが返ってきた。
「まさか⁉」そう直感した。
それはずっと恐れていたこと。
いつかその時が訪れると予感しながら、認めたくない、絶対に起こって欲しくないと祈っていた出来事。
全身に電流が走ったような痺れを感じたまま、もう一度問いかけた。
「Aちゃん、どうしたの?」
「うぅぅ・・・、ピエールがね・・・ピエールがね、死んじゃったみたいなの・・・」
無情にも恐れていたことは現実となった。

頭のてっぺんから大きな杭を打ち込まれたような衝撃と共に、動けなくなった。
時間も呼吸も、鼓動すら止まった気がした。
「何度もね、ピエール!ピエール!って読んだんだけど・・・ぐったりしたまま動かないのぉ・・・どうして?ピエール!いやぁー!起きて!お願い、起きてぇ・・・えぇ~ん・・・」
子供のように泣きじゃくる奥ちゃまの声が痛々しく、耳を覆いたくなる。
「Fくん、早く帰って来て・・・」涙ながらに奥ちゃまは僕に訴えた。
「うん、わかった。すぐに帰るから・・・。大丈夫?待ってて」
「うん・・・早く帰って来て」
今にも消えてしまいそうな、か細い声を最後に電話は切れた。
早く帰って奥ちゃまを慰めてあげなくては・・・。そう思う気持ちとは裏腹に、体中の力が抜けてしまい、脚は思うように前に進まない。
さっきまで止まっていた時間はゆっくりと動き出し、景色は色褪せ、歪んで見えた。

やっとのことで路地を抜け、ユリの木並木が続く大通りまで出た。会社を出た時にはまだ昼間のように明るかったが、薄暗く感じる。それほど時間が経ったのだろうか、それとも自分にだけそう見えるのだろうか。
100m程続く緩い坂を上りきったところに駅が見える。重りでも着けられたように脚は重くなかなか前に進まない。
それは長い坂道のせいではない。普段歩くのは速い方だし、坂道も苦ではない。
しかし今日は、家路を急ぐ人達がどんどん僕を抜かして行った。

帰宅ラッシュ時の駅の雑踏、人々の会話や笑い声、電車の音や、車内のアナウンス、すべての音が遠くで聞こえ、目の前の出来事すべてが自分とは異なる空間で起こっていることのように思えた。
まるで、ガラス越しに水槽の中を覗いているみたいに・・・。