
以前、當山単頭寮にて「本証妙修」に関する御提唱を拝聴した際、「修行」と「悟り」の関係について個人的に色々想いを巡らせてみました。
単頭寮にも、自らの想いを以て日参(コメント)したのですが、まだまだ参究が足りず時間の猶予を頂戴しました。
今回は、段階的に自らの理解を促す意味で、参究過程である現時点での想いをつらつら書き綴っておきたいと思います。
言葉足らずな点は、私的な参究ノートゆえご勘弁のほどを

また、理解乏しき点は改めて御教示を頂ければありがたく思います

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道元禅師は若かりし頃、「人は本来仏であるのに、なぜ修行が必要なのか......」という悩みに直面したと言います。いわゆる「本来本法性 天然自性身」(一切衆生は本来そのまま佛であるという本覚門の教え)に対する疑問であります。
この種の悩みは、必然的に「人は悟った後になぜ修行する必要があるのか

厳しい修行を経て悟りに到達したのに、さらに修行を続ける必要があるのかという疑問は分からなくもありません。
しかし、周知の如く道元禅師は、修行を「悟りを得るための手段」として捉える事を徹底的に排除いたします。
それは一体何故なのでしょう―。
我々はまず、ここで言う「悟り」と「修行」の意味を再考する必要があるのかもしれません。極論を言えば、「悟り」と「修行」の意味を履き違えているからその様な誤解が生じるのではないでしょうか。
人は「悟り」という言葉を耳にした時、世の中全ての物事が思い通りになるが如くの「万能の力」を思い浮かべます。「悟り」に過度の妄想を巡らし、神通力の如くの能力を指して「悟り」と称するのです。まずその考えから改めないと、道元禅師が言う「悟り」の意味は理解できないものと思われます。
また、「修行」という言葉の意味についても然りでありましょう。
人は「修行」という言葉を耳にした時、誰しも「悟りを得るための手段」として捉えてしまいます。ここに、「厳しい鍛錬(修行)を経て手に入れる万能な力(悟り)」という構図が出来上がってしまいます。「悟りを得たら修行は不要」という解釈は、その構図をもとに成り立つものと考えられます。
これらの構図はあながち分からなくはないのですが、既述もした様に道元禅師は、修行を「悟りを得るための手段」という考えを決して取りません。それは何故なのか?いわゆる道元禅師は、「修行」を「悟り」そのものとして捉えているからです(修証一等)。
つまり、ここで言う「修行」とは、「仏としての生き方」そのものとして捉えられ、ここで言う「悟り」とは、その「仏としての生き方」に目覚める事を指して言うからだと思います。
「悟り」を神通力の如くの万能な力と解する事なく、あくまでも自分の脚下(あしもと)にあるものと捉え、「仏としての生き方」(修行)そのものが「悟り」であると考えます。
これこそが、「仏として生きる(修行)が故に仏である(悟り)」という修証一等の世界観なのだと思います。
そういう展開になってくると、では「“仏として生きる”とは一体どういう生き方を指して言うのか

がしかし、全ては「茶に逢うては茶に喫し、飯に逢うては飯を喫す」(當山単頭寮「平常心是道」記事参照)の世界で良かろうと思うのです。
「茶に逢うては茶を喫すのみ、飯に逢うては飯を喫すのみ」という我々の日常の営みの中に「悟り」は現成します。換言すれば、我々の日常の営み以外に「悟り」というものは現成せず、さらに求める事はできないという事なのだと思います。
さすれば、先ほどの「“仏として生きる”とは一体どういう生き方を指して言うのか

道元禅師が日常の喫茶喫飯(家常・生の営み)を「悟り」として捉えていた事実は、叢林修行における清規重視の姿勢(食作法、洗面、洗浄などの各作法)を見れば一目瞭然でありましょう。
この様に、道元禅師の言う「悟り」の世界とは、決して身に付けた神通力により坐禅中に宙に浮く事を目指す世界では決してないのです。
注:文中使用をした「神通力」とは、道元禅師の云う「神通」とは意味を異にいたします。



「修行」「悟り」という言葉から、確かに、すでに出来上がったイメージを持っていますね。
そういう意味では、管理人さんの言い換えは、分かりやすく感じます。
また、勉強してみます。
記事冒頭にも述べた様に、まだまだ参究不足で、言葉足らず理解不足の途にあります。
道元禅師の世界を実践から離れた文字で起こす事の困難さを痛感している今日この頃です
現時点でイメージできる世界を何とか文字に起こしたのですが、助化師さまや単頭和尚さまの様には中々いきませぬ
とにかく勤精進あるのみです
私は毎日自分の為すべきことを為し続けておれば、それでよい、それしか方法がないというふうに考えています。少しずつ自分が成長してゆくのが楽しみです。これが私の修行方法です。
悟るとはは日常生活の中で実践されるものであるとすれば、悟りとは、当に、結果として現れてくるものだと思います。到達点ではないと思います。
貴重な考え方を教えて頂いて感謝します。
ありがとうございました。
再び、コメントありがとうございます
道元禅師が「修証一如」を説く意味の一つとしては、修行と悟りを自身の「生の営み」以外のところへ設けてしまう事への警告なのだと感じます。
それは必然的に縁起現成の道理を介して自己の確立を計る宗門の修行観から乖離してしまう事となるでしょう。
腰を据えて脚下を照顧する修行観が求められるものと思います。