
當寮の記事にお寄せいただいたコメントに対する回答を、想うところあって記事にさせていただきます

>そもそも「行持軌範」があるのに、なぜ皆それに従って行持をしないのでしょうか?
う~ん。。。。 そのご意見が意図するところは私もよく理解できます

私の地域も、必ずしも『行持軌範』通りに法要が勤められる訳ではありません。
その地域に伝わる独特の慣習や、そのお寺の堂頭老師(ご住職)の室中・家風によって儀規にも多少異なりが出てきます。法要随喜する側としては、その室中・家風に適宜対応するという形で落ち着いているのが現状です。
『行持軌範』は見てお分かりのように、儀規の細部にわたってまでは詳述しておりません。というか......できないのです

現在の所属先の関係で、『行持軌範』の刊行・編集・改訂作業の経緯を知る一人としては、その詳述しない理由も十分に理解できます。そうは言っても、やはり喧々諤々の議論があって今の形に落ち着いたと言えるでしょう。
>時にうちの室中家風に従って進退すると規範以外の勝手なことをするなと怒鳴られ、時に軌範に従って進退をすると○寺ではそんなことしないと怒られ、挙句の果てに規範が間違っているともまで言い出す始末です。それって規範がどうこうじゃなくて○寺と○寺の対立じゃないかって思うことが多々ありますよ。それは理不尽に当たらないのでしょうか?
実は、コメントをお寄せいただいた翌日の記事に、とある禅僧の言葉を紹介しております。私としては、ここで言う室中・家風の問題を意識して記事にしたつもりなのですが、そもそも室中・家風とはその法系に伝わるプライバシーに関わる問題だと考えています。
しかしそれが、時に我々の「怠惰」の温床になり兼ねないリスクを前回の記事では指摘しました。
要は、自らの室中に伝わる法(家風)に対して謙虚になる以前に、時にその室中・家風の名を借りて、都合よく法を選り好みする術として機能してしまう恐れ(弊害)があるからです。
それこそ室中に伝わる法(家風)とは、その法系における先人たちが智の結集として積み重ねてきた行の歴史に他なりません。
ここで言う「弊害」とは、時にその過程(先人たちが積み重ねてきた行の歴史)を蔑ろにして、自らの選り好みで法を選択する術に利用されてしまうことを意味します。
それは先人たちの遺徳を汲む以前の問題で、自分にとって都合のよい我見を押し通す「怠惰」以外の何物でもないでしょう。
その翌日の記事にも触れた「謙虚」という言葉の意味は、その自らの室中に伝わる法に対して、さらにその法を遵守してきた先人たちの行に対して、そして自らの我見に対して謙虚になるという意味で解釈すべきだと思うのです。
そういう意味で「信仰」そのものは謙虚の象徴であって然りだと思いますが、その「信仰」を盾に我見をゴリ押しする姿勢は傲慢以外の何物でもないと考えます。
その立場に立てば、コメントでご紹介いただいた事例そのものは「理不尽」に該当するのではないでしょうか(詳細分かり兼ねますので、あくまでも推測の域における私見です

>この本来どうでもいいような事で上下関係を維持する室中家風は、そろそろ見直す時期に来ていると思います。
室中・家風というのは、既述もしたように各室のプライバシーが保たれて然るべきものです。まさにそれは先人たちが積み重ねてきた行の歴史であり、経緯はどうあれ、その積み重ねられてきた歴史そのものには敬意を払うべきでしょう。その意味において、宗門では室中・家風を尊重する伝統があるのだと思います。
しかし、時に実際の現場では各々の室中・家風の違いが原因で摩擦が生じることが少なくありません。健全な論争それ自体は否定しませんが、時にそれが感情的なしこりを残すことも少なくないのです。まさに、寄せていただいたコメントが意味する事例はそれでしょう。
私は、そうなってしまうと本末転倒だとも思うのです。誤解がないように付け加えれば、私は「健全な論争」それ自体を本末転倒と言っている訳ではありません。それまで「本末転倒」という縛りで括ってしまうと、過去の宗統復古の議論までをも否定し兼ねない悪弊を生み出します

私はこの種の問題を耳にする度、いつも頭を過る言葉がございます。それは、先日も記事としてアップした釈尊の「天上天下唯我独尊」という言葉です。
その記事でも触れているように、自らの室中に伝わる法(家風)を尊重するということは、同時に他の室中に伝わる法をも尊重しなければならないということです。
互いに互いの法(室中・家風)を尊重する姿勢があれば、「健全な論争」が決して「無益な不戯論」に陥る可能性は無きに等しくなります。敢えて宗門が「健全な論争」を組織をあげて喚起するのであれば、「おらがムラが一番

以前、宗門の伝法儀規に関する事業に携わった際に、一番神経を注ぎ労力を費やしたのはその点でありました。各法系に伝わる伝法儀規はそれこそ多岐にわたり、これが正解という回答は見い出せない現実があります。
しかし、その伝法の前提となる伝戒に関しては、かろうじて道元禅師の『仏祖正伝菩薩戒作法』に遡源することが可能です。
その詳細については、以前他寮において詳述しておりますので参考にしていただきたいのですが、せめて室中・家風に関しても「健全な議論」を喚起するのであれば、既述もした「両祖への回帰」、「各種清規への遡源」といった姿勢をひとつの基準とすべきだと考えます。
話を室中・家風のプライバシーの問題に戻しますが、自らの室中・家風を尊重するのであれば、必然的に他の室中・家風も尊重するという姿勢は既述もした通りです。まさにそれは、釈尊の「天上天下唯我独尊」の精神に倣うものだと考えます。
室中・家風の各儀規が、両祖や清規に立ち返るまでもなく、それぞれの室中の行の歴史に依る部分が大きいならば尚更のことでしょう。是非を判断する術(基準)が無きに等しいならば、それぞれの室中の法は、釈尊の「天上天下唯我独尊」の精神の如く、各々が尊重されて然るべきです。
その立場に立つならば、それに反する事例は全て「理不尽」と規定されても仕方ないのではないでしょうか......。 ふと、以前の記事に頂いたコメントからそのような想いが過りました




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今の『行持軌範』は、昭和63年に改訂されたものですが、かなり大掛かりな変更でした。その結果、それまでの軌範を知っている人からは、軌範が変わることがあるという思いがあり、結果、その変化が自分に気に入らないものであると、「間違っていることもある」という話をしたくなってしまうのでしょう。
ただ、例えば、道元禅師は、御自身が著された清規の1つである『対大己五夏闍黎法』の末尾に、「右、対大己五夏十夏法、是れ則ち諸仏諸祖の身心なり。学ばずんばあるべからず。若し学ばざれば、祖師の道廃る、甘露の法、滅するなり」とされるように、どこまでも「作法」は「法」なのであり、その意味では、「人」に帰せられるものではなくて、「仏祖」に帰せられなくてはなりません。よって、どこまでも「古教照心」も合わせることで、古規の復古を前提に、清規を考察する必要があるのです。一々のお作法や家風というものも、その範疇から外れるものではありません。
また、「室中・室内」というのは、あくまでも、「同じ法系の人」に適用される教えであって、法系(人法)を超えて宗門全体に適用されるものではありません。また、「室中」の言説は、あくまでも「秘されている」から力を発揮するのです。世に出した段階で、議論の元となり、その可否を詮索されてしまうのです。
議論が嫌なら、始めから出さずに、大切にしまっておくものですね。
などなど、以前から何度か管理人様にお話ししたことをまとめてみました。合掌
この度は私のどうでもよいコメントに対してこのように詳しく解説していただきありがとうございます。
ほぼ私の中で抱いていた悩みは解決したような気がします。
その気持ちを分かってくれただけでもありがたいです。
tenjin95さん
コメントお読みいたしました。
詳しい解説ありがとうございました。
今回の記事と合わせて読んだ結果、自分の中で腹落ちする部分がありました。
重ねて御礼申し上げます。
>どこまでも「作法」は「法」なのであり、その意味では、「人」に帰せられるものではなくて、「仏祖」に帰せられなくてはなりません。
>、「室中・室内」というのは、あくまでも、「同じ法系の人」に適用される教えであって、法系(人法)を超えて宗門全体に適用されるものではありません。また、「室中」の言説は、あくまでも「秘されている」から力を発揮するのです。世に出した段階で、議論の元となり、その可否を詮索されてしまうのです。議論が嫌なら、始めから出さずに、大切にしまっておくものですね。
まさに仰る通りですね。
上に挙げた貴見に尽きるものと思われます。
「人」に帰せられるのではなく、「仏祖」に帰せられるもの......いい言葉ですね。
> 某地区某宗侶さん
「謙虚さ」とは、ある意味器量がなければ保てませんね(笑)
今回、改めてそう思いました。
また、お気軽に當寮にご訪問下さい。
うちの地域もある年代の方はいっちゃってますね。「このやり方は違う」、「S寺もしくはE寺ではこんなことはしない」などなど、何を根拠にそれだけ正当性を主張できるのか不思議になる時があります。
で、その正当性を聞いてみると「私が安居していた頃はそんなことはしなかった」、「うちの室中家風ではそんなことはしない」と、まるで私から言わせれば駄々っ子のような理屈をこねますね。せめて人前で正しさを主張するなら、ある程度の客観性は必要となるでしょう。ここで言う客観性とは、fukyo-netさんの言う両祖であり清規ですよね。それ以外は何を言っても正当性という仮面をつけることは可能です。
ある私の古参の先輩が、あまりにも傍若無人な言動が過ぎる方がいたので、一度言われたことを逐一メモに取っていたそうです。そうしたら一年前と言っていることが違かったりとか、あと私が知るある教区は教区用の清規(公務帳)があるといいます。
ここまで来ると悲劇ですね(笑)単にその地域や教区のボスが、自分の権威を誇示したいがためにやっている茶番でしかありません。ここまでくると、ガキ大将がそのまま大人になったような・・・・もしくはサル山のボスのような気がしてなりません。
先日も近くの寺で住職の本葬があったのですが、そこでもみにくい争いが繰り広げられました。あっちを立てればこっちが立たずで、ある年代の方々の覇権争いが若手にまで飛び火してこっちはもううんざりって感じです。少しは大人になれよと言いたくなりますね。
年下の者を配下に置きたいなら、そのような原始的なやり方でなく、理詰め説得するだけの裁量を見せて欲しいと切に思います。特にうちの地域は土地柄も手伝い団塊世代のS寺安居の方がいっちゃってますね~
私もこの件に関しては一言いいたい!室中家風を酒の席まで持ち込むな!なぜって、法要でぐたぐた言われるならまだ我慢できるが、若手が酒の席に就かないと「なっちゃいない!」と言って怒り出し、翌日の法要の際に逆恨みされる構図は何とかならないものっすかね?
私の地域も団塊の世代できつい人います。法要では重箱の隅つつくくらい細かいことに厳しいくせに、なぜ酒の席を正当化しようとするのですかね?
うちも東北ですが、なんと昼間の法要の後席に酒を用意しておかないと機嫌悪くなる人いますからね。社交辞令でつぎに行くとぐたぐた昔はこうだった、伝供のやり方はこうだあうだで、酒の席で言われても説得力ないっつうの!
この世界だけですよ!昼間から酒の力を借りて説教たれる上司がいるのは!しょうがないからその場ではハイハイ言っていますが、陰でみな軽蔑してるって!それは若手も檀信徒も。
修行した僧堂でやり方も考え方も違うんだから、いつも自分のみが正しいと思っている人たちは、早く井の中の蛙から脱却して欲しい。
僧侶が酔った姿は見苦しいですぞ。そんな席で法式や声明の話をしてもらいたくないものですな。
改めまして、コメントありがとうございます
お寄せいただいた主旨の批判は、私の各地でよく耳にする時があります。
ある世代の方々が皆が皆そうでなくても、一部の方の振る舞いでそう見られてしまいがちですよね。
お互い器量をもって善処したいものです。
室中家風に関しては、記事にも述べた通り、互いのプライバシーが尊重されて然りのものだと思っています。
その壁を乗り越えて意見を戦わせるのであれば、やはり両祖や清規に論拠を求めない限りは不戯論に陥るのではないでしょうか?
大袈裟かもしれませんが、それらはあくまでも自灯明の世界の話であり、自灯明の「自」とは「他」を排除する論理に傾斜してしまっては本来の意味を見失うものと思います。
お互い「器量」で乗り切りましょう
献茶師と献湯師さんの座位が違うところもあるのでは。本師はよく、左肩上位だがな、と仰有っていました。
お袈裟のかけ方一つとっても、永平寺流、總持寺流、尼僧堂流、最乗寺流、それぞれ違います。
「切り口の違いで争わないこっちゃ」というのが、これまた恐縮ですが本師の口癖でした。
しかし、老僧たちが、いろいろと仰有るのは、自分の意見を若い者に聞いてもらいたいんでしょうね。存在意義を認めてもらいたいのでしょうね。今の若い方々は、わかりのよい、争いを好まない方が多いように、中間層にいる者としては感じます。
失礼致します。
>しかし、老僧たちが、いろいろと仰有るのは、自分の意見を若い者に聞いてもらいたいんでしょうね。存在意義を認めてもらいたいのでしょうね。
その点も含めて器量なのでしょうね(笑)
からっ風は大丈夫でしたか?