
先日、當山の説教師兼ボランティア室長さんのブログ上にて、今後企業をリタイヤした方々への仏教の果たすべき役割について意見交換をさせて頂きました。
その中でも触れましたが、ある福祉系研究機関の報告によると、企業退職後の「第二の人生」という一昔前の表現が、現在では第二の後の「第三の人生」まで想定されている事が説かれておりました。
その「第三の人生」という概念は、当初「老々介護」の現場にて生まれたらしいのですが、それが単に介護の現場のみならず、一般の企業退職者の意識にまで浸透しているらしいのです。
その研究機関が企業退職者を対象に意識調査を実施したところ、いわゆる定年後の「第二の人生」に新たなキャリアを積み上げ、死を迎える段階の「第三の人生」において花を咲かせたいとする人たちが急増しているとの事でした。
つまり、企業人としての「第一の人生」、退職後に新たな生き方を模索する「第二の人生」、その模索した生き方を以て有終の美を飾る「第三の人生」が想定されているのであります。
その研究機関では、これらの現象を「三階層人生」と仮称し、その「第二の人生」において今後宗教は大切な役割を果たすであろうと指摘をしております。
ある意味、「老」を対象にした仏教という視点が、今後社会からも求められるでしょうし、我々の意識の中にも必要になってくるという事なのでしょう。
周知の如く、仏教では「生老病死」といった四苦を説きます。今回焦点を当てた「老苦」とは、この世に生を受けた以上避けられない苦の一形態であり、仏教は果敢にもそこから目を逸らさずに直視して生きる姿勢を貫いてきました。
しかしながら、箸が転んでも可笑しい女子高生に「老」の問題が共有できるかと言うと、それもまた無理な話で、「情報」として共有する事は可能であっても、宗教的命題として理解をする事は甚だ困難でありましょう。
やはり仏教で説く「老」の問題は、自らが「老い」を感じて初めてリアルな問題になり得るのだと思います。
普通に読めていた新聞の字が老眼鏡なしで読めなくなったり、一人で持ち上げる事が可能だった荷物が容易に持ち上げられなくなる......。この様な身体の衰えを自覚して初めて仏教で説く「老」の問題がリアルに感じ取れるのではないでしょうか。
そういう意味で、日々の生活のための仕事に手一杯であった世のお父さん達が、退職を機に仏教の教えに関心を持ち始めるのは意義ある事だと思います。少なくとも、若い時分に耳にした仏教の教えとは違った意味で感じ取れる様になる事は可能でありましょう。
若い頃には心に響かなかった仏教の教えが、「老い」や「病い」を自覚して心に響く様になる事は十分にあり得る話だと思います。
そういう意味で考えると、仏教の教えというのは、その教えに参じる大前提として釈尊と同じ問題意識を共有する事が大切なのだと感じます。
以前、拙ログでも紹介をした『「問い」から始まる仏教』ではないですが、仏教の教えに限って言えば、やはり「問い」がないところに「答え」は存在しないという事が言えるでしょう。
何もないところに「答え」が突然表れるのではなく、やはり「問い」があって初めてそこに「答え」が導き出されるものと思います。因みに、ここで言う「答え」とは「悟り」という文字に置き換える事も可能でありましょう(厳密には「問い」と「悟り」は一如なるものでしょうが......)。
そういう意味で、釈尊が遺した教えを理解するためには、釈尊と同じ問題意識を共有する事は不可欠だと思われます。
先ほどの女子高生の例ではないですが、問題意識の共有がなくても「情報」としての仏教を理解する事は可能でありましょう。がしかし、その「情報」の意味を理解するにはやはり「問い」の実態を知らなければなりません。
「この教えは釈尊によって何故に説かれたのか」という「問い」の実態を知らなければ、仏教は単なる情報としての文字の羅列に過ぎません。その文字の羅列を、生きた言葉として自らの生き方に還元させられるか否かが重要なポイントになるものと感じます。
仏教が単なる「情報」ではなく「宗教」と言われる所以はそこにあるのではないでしょうか。
釈尊は仏教をあくまでも生きる糧としてこの世に遺したものと思われます。その意を汲んで初めて仏教は宗教足り得るでありましょう。
釈尊が説いた「老」(おい)の苦しみを、第三者の問題ではなく自分の問題として自覚できる様になった時、同じ文字で説かれた仏教であっても、それは全く異なった意味として心に響いてくるのではないでしょうか―。



その言葉に全てが集約されています。
女子中高生にも世の無常を感ずる時は必ずあります。
まずは仏弟子の我々が、自分の問題として真剣に無常を感じる事が一大事かと思います。
どれだけ真剣に感じているか?。
これは言葉だけの表現では難しいかもしれません。
和尚の生涯の一大事なのでしょう。
大道合掌
「自分の問題として捉える」という事は言うまでもない基本であります。
観無常が第一義底であるご指摘は、まさに『学道用心集』に説かれる「ただ世間の生滅無常を観ずる心もまた菩提心となづくと」(第一則「可発菩提心事」)を想い起こしました。
「どれだけ真剣に感じているか?」という言葉を重く受け止めたいと思っております。
今後ともご指導宜しくお願い申し上げます。合掌
私も話の時に、「第三の人生」ということばを使います。
その時には、定年後という意味で使用しています。
第一が学生、第二が現役企業人、第三が定年後、という区分です。
アルフォンス・デーケン氏がこのように言っていると思います。
老苦は実感できないのですが、想像力で補っていくしかないですね。
共感できる力があるか、自らに問いかけてみます。
老苦に関しては、時が来たら実感できるのかな......と思っています
生老病死に関しては、仏教の教義を勉強すれば共通の「理解」は可能かと思うのですが、釈尊は「理解」よりも「実感」の方を問題視したのだと考えています。
「理解」ではなく「実感」できた時、本当に心に響く仏教の教えを体感できると思います。
聞法者が四苦を実感した時に、共に我々が何を提供できるかが課題になると思っています。