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布教師寮@Net

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尸羅会雑感

2010年06月09日 00時33分11秒 | 私的参究ノート

「あとでお血脈だけ取りに伺いたいのですが、お血脈がもらえる道場の日はいつですかね

授戒会の隨喜(お手伝い)をさせて頂いていると、時折このような質問が直壇寮に寄せられる時があります。

先日も某地方の授戒会に隨喜をさせていただきましたが、その地区では戒弟の方々を対象に事前に説明会を行い、お血脈の授与のみが授戒会の目的ではないことを通達していたらしいです。

確かに今の時代、七日間(五日間)の加行を全て勤めることは困難であり、その時代の状況に即した授戒会の形が今までも検討されてきました。

例えば、事情があって懺悔道場に参加できなかった戒弟さんに対しては、きちんと別な時間に「別懺悔」(特別に設けられた懺悔道場)をお勤めいただき、あくまでも「懺悔」を経た者が本道場(教授・正授道場)にて血脈授与が許されるという本来のあり方を固持してきました。

また、隔週ごとの土日を利用した計七日間の差定(修行日程)を組み、約1ヶ月余り掛けて授戒会を完遂させた例もあります。

このように前提となる基本は、きちんと加行を一週間(五日間)勤め、如法に懺悔・教授・正授道場を経た者が、戒法授受の証としての血脈の付与が許されるということです。

形は変われども、極力本来の意味を曲げない努力というのは、各時代において摸索し実践されてきた歴史があります。もちろんそれに対する是非の議論はあって然りでしょうし、これまでもあったはずです。また、これからも定期的に検証していく機会は必要でしょう。

それら形の変化は、あくまでも戒弟の立場に立った慈悲の発露でなければならないと考えます。例えば、やっとの思いで一週間の加行を続けてきた老年の戒弟に対して、懺悔道場の日のみ都合が悪かったからといって、これまでの加行を無碍にするかのような対応はあまりにも酷(無慈悲)と言えます。もちろん時と場合によりますが、便宜的に「別懺悔」という場を設けて帳尻合わせをすること自体は十分許容される形かと思われます。

話が少しそれますが、私は葬儀の際の「没後作僧」も慈悲の発露の結果として今の時代に伝わる形だと思うのです。もちろん「滅後の授戒」に対する是非の議論があることも承知しております。しかし、「受戒の功徳」が説得力を持っていた時代に、例え滅後であっても受戒の功徳を亡き故人に与えたいという「願い」に応えてきた歴史は評価すべきでありましょう。

言わずもがな、授戒会という宗門の教化事業は単なる「血脈授与式」を指して言うのではありません。血脈とは「戒脈の系譜」を意味するものであり、あくまでも戒法授受の証として付与されるものであります。つまり、血脈の授与が許されるのは「戒法の授受」があって初めて成り立つ話なのです。

ゆえに、血脈が授与される道場の日のみ、その場にいて血脈をもらえれば良いという単純な話では決してありません。宗制で定められた七日間の加行を通し、如法に懺悔・教授・正授道場を経て、十六条戒(菩薩戒)の授受があって初めて付与されるものなのです(俗的な譬えですが、運転免許証は学科や路上の教習を経て初めて交付されるものでしょう)。

授戒会が単なる「血脈授与式」ではない理由はその点にあります。授戒会は「血脈」を受けることが目的なのではなく、あくまでも「戒法の授受」が目的なのです(また、目的でなければなりません)。それがあって、初めて「血脈」であり「戒名」という話になるのです。そう、「血脈」も「戒名」同様、あくまでも戒法授受の結果として授与されるものです。

先の「戒名」議論の核心もその点に尽きると言えます。これまでの文脈にある「血脈」という文言を「戒名」という文言に置き換えても十分通じる話です。

誤解を恐れずに申し上げれば、授戒会とは「戒名」を頂くことが目的なのではなく、あくまでも「戒法の授受」が目的なのです。その視点を欠いた議論は、きっとどこかでおかしな話になります。それが先に指摘をした「戒名は、自分で決める」といった発想の落とし穴にもなるのです。そこには、「戒名」に不可欠な「戒法の授受」といった視点が完全に抜け落ちています。まさに「戒名」の基礎的概念を成り立たしめる「戒法の授受」といった要素が欠落しているのです。

もし、その批判の矛先が実は「戒名」周辺の問題(死後に戒名が必要か否か?もしくは高額な戒名料の問題など)にあるのであれば、的確にその点を指摘したうえで議論を促せば良いだけの話です。その良識を欠いた議論は、ややもすると本来の「戒名」の意味をも歪曲し兼ねません。

授戒会が単なる「血脈授与式」でないのと同じ理由で、「戒名」も決して自分で命名できる類のものではありません。そのどちらにも「戒法の授受」といった要素が不可欠となり、その要素を欠いた「血脈」は単なる御護符でしかなく、「戒名」は単なる第二の俗名(死後の名前)でしかないということです。

我々はその点に対する説明責任を果たす努力を怠らず、「没後作僧」にある種の説得力を持たせる意味でも、生前授戒に対する意識を高め、それ相応の知識と情報を持って教化の方便としての授戒会(葬儀)に臨むべきなのです。

P.S.
宗門の現行授戒会(一対四衆)は、私個人としてはあくまで「衆生教化の方便」という位置付けにあり、本来面授が基本となる一対一の「伝戒」(もしくは出家得度)への教導化益にならなければならないと考えています。
現行授戒会に対する教義的な検討課題は、以前當山助化師さまから貴重な口宣をいただいておりますのでご紹介申し上げます。

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