
「あの世」が有るのか無いのか、「霊魂」は有るのか無いのか――。
畢竟、「あの世」や「霊魂」の問題は、その当事者本人(遺族)が決定する問題であり、第三者がそれに容易く入れる問題ではない。
大切な故人を思い出すに当たって、我々は「あの世」という独自の世界観をこれまで設けてきた。
それは最初から無条件に「ある」と規定される「異次元の第三世界」を指すのではなく、亡き人に対して想いを馳せる行為を通じて作り出す「滅後の世界観」を指して言う。
そこでは「亡き人に対して想いを馳せる」という行為が重要なのであり、それ抜きで「あの世」を語ろうとするから有無の議論に陥るのである。
「あの世」とは有無が議論の核心なのではなく、「想いを寄せる行為」自体が尊重されるべき世界観なのだ。
もしかしたら釈尊の「無記」の態度というのは、他者の信仰(プライバシー)に対する最大限の慈悲の顕れ(配慮)なのかもしれない。
「あの世」や「霊魂」は「信仰」そのものの世界だから、その当事者が「ある」と言ったら、その「ある」と決定した態度が尊重されるべきであり、その他者の信仰に寛容になることが大切なのだと思う。
私自身、「無記」が「慈悲」に感じられる理由がそこにある。



※「叢林@Net」各寮ブログ更新状況はこちらをクリック♪
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます