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コーヒーブレイクⅧ

おもに、国際政治経済情勢を論じます。宗教論、音楽、歴史(古代史が主)についても論じます。

ゴルバチョフ元大統領の回想的記事について

2021-12-28 20:54:20 | 国際政治経済
ゴルバチョフの回想的記事がある。
ロシアの未来は民主主義にある というような内容だが、意義深い。今なら、別の指針があるというような見解もある。確かに、中国とロシアは好対照の道を辿り、現在の着地点は同じような強権政治への逆戻りである。

ゴルバチョフ書記長(大統領)と類似するのは、胡耀邦総書記である。両者の違いは、長生きの違い。民主主義の風穴を開けた人と、開けられなかった人の違いがある。ロシア人は、もともと、民主的な人の集団、というより、ロシア民族共同体の基盤がある社会とも考えられる。

個人の人生、業績というのも、結構、彼を生み出した民族の歴史に規定される。タタールのくびきという言葉があるが、ソ連邦の歴史は、思想のくびきから解放されていく歴史という見方もできる。つまり、社会主義的なものから民主主義を完成させるものでもある。同時にそれは、社会主義のいい面を維持して発展させる試みてもあった。

人間の歴史は、発展途上であり、未だ、確固たるものを知り得ていない。しかし、重要なターニングポイントで、正しい方向性を示した人は、歴史が進むに連れて、再評価されることになる。

私は、若い頃、君の考え方は、いいとこ取り だと言われたこと何ある。社会主義のいいところと、資本主義のいいところを合わせてくっつけたような理論だという趣旨なのだが、確かに、そういう面はある。

現実世界は、不完全なものの対立であり、どちらかに組みすれば、どちらかの害は容認するしかないという理解がある。極端な例は、社会主義の大義のためには、悪も容認される。しかし、これは、危険な発想だ。結局、社会主義は、悪の体系に堕ちた。つまり、自己弁護にならない暴論である。

資本主義もまた、同じようなところがある。資本主義を純化させると新自由主義になる。これは、本質的には、国家は要らない社会を志向するもののである。規制、権力争い、押し付け的な画一化というような、国家的害悪はすべて要らないというと、聞こえはいいが、しかし、新自由主義の目指した社会は格差社会であることが誰にも分かるのが、現在の姿である。

※(補足) マルクス主義歴史観では、資本主義は終焉し、その廃墟の中から社会主義が生まれるということになる。民主主義には、ブルジョア民主主義と、プロレタリア民主主義があり、プロレタリア民主主義への移行が社会主義への移行という理解(レーニン)になる。つまり、民主主義も、歴史の中で変遷するという理解だが、これは、現在の法学論理上でも誤りであることが分かる。ブルジョア民主主義が、思想信条の自由、政治的自由だけでなく、営業の自由、財産権(所有権)を代表する経済的自由も含む、自由権と概ね重なるすると、生存権、労働基本権を含む社会権は、プロレタリア民主主義と重なる。自由権と社会権は、どちらが正しいかというより、共存して両者はそれぞれの権利を活かすことができるもので、排斥しあうものではない。だから、実体法上も、マルクス主義の民主主義論は間違っている。だから、現実の社会主義では、法の支配は成立しなかった。共産党の指導があるだけということになる。※


すべての誤りの根本は、国家が何を背景にしているのが、資本、価値が何を背景にしているのかを考えないところにある。国家と資本は、共通の基盤、源泉を持っているということだ。つまり。国家無くして資本は無いし、資本なくして国家もないというのが、人間社会の現時点の到達点なのである。

それは、第3の道 ではないかと言われそうだが、そうではない。経済現象の捉え方が違うからだ。社会主義市場経済というのも、経済の把握が違うから、私には、不明な言葉である。
経済学は、均衡を基本にする。マルクス経済学ても、等価法則というのが基本になっている。しかし、経済現象は、不均衡か基本だ。

そんなことを言ったら、経済法則はあり得ないことになると反論され、相手にされない。しかし、これは、経済は、経済だけでは成り立たないということを示すだけで、外部要因に、経済現象は深く規定されるということに他ならない。実際、現実の経済は、経済だけで成り立っていない。当たり前の話。

つまり、経済現象は、ある条件の下でしか成り立たないということ。表からは本質は見えないということになる。裏から見ることかというと、半分は正解。あと半分が何に規定されているのかは、経済学は知らない。

中国では、強権化が進んでいるが、同時に情報が入らない状況になっている。グラスノスチとは逆方向の動きである。不動産バブル破綻についても、現状がどうで、対策かcどうなのか不明。実質的徳政令、借金踏み倒しというコメントもある。経済が強権に支配されると、経済は見えなくなる。

胡耀邦は党内民主化を目指したと理解しているが、その基盤に自治の拡大も視野に入れていたと想定される。大衆から遊離した党のあり方に疑問を提起したとも言える。共産党独裁の思想、国家権力のあり方に対する疑問でもある。

今の中国を見ていると、哲学、思想は、儒教、中華思想に置き換えられ、経済は新自由主義。社会科学院というのがあるらしいが、目に見えるものは、共産党独裁の政治思想しかないように見える。つまり、大衆から遊離すると、科学的認識が後退することの証明になっている。



巨額債務と金融財政政策

2021-12-01 22:17:12 | 国際政治経済
プライムニュースで、巨額財政支出は参院選対策という意見があった。参院選に勝ってどうするのかが問題。政党の存在理由としてのバラマキ。気配り、目配りの総論予算は、変わるのか。野党の議論は、与党以下だから、ますます混迷する。
政治は選挙なのだと考えるのは、政治は間接民主主義だと言うに等しい。形、型の話であり、内容の話ではない。つまり、政治というのは、どの集団が勝利するかが重要であり、その中身は問題でないということを言っているに過ぎない。政権選択選挙というスローガンは、中身がないと非常に滑稽になる。

こうした議論の中で、政治の内容の核心の今日的課題は、膨大な国家債務をどうするのかというかだいである。
さて、財政、円の危機があるとすれば、まず、銀行の危機が訪れるというのが、経験的に分かることである。今現在の日本の財政金融は、この視点からは問題ないとも考えられる。金融機関が最大黒字を出したという記事から見ると、そういう状況ではないと考えられる。

そういう意味では、バブル破綻、長銀破綻のときが、日本経済破綻、円破綻、ハイパーインフレの危機の時代だったと見ることができる。今の日本経済は、病気は回復し、免疫力はついたが、正常ではない状況。成長戦略が重要にいなっているということだ。

このことを考えるのに適切な教材がある。竹中、小幡両氏の金融緩和についてのYouTube の議論である。最初のうちは、竹中氏は自分と同じ意見と思ったが、半ば過ぎて、全然違うと思った。

竹中氏は、マクロの議論をミクロに変えてはいけないと言いつつ、他方で、金融緩和で培ったインフレ期待マインドを消費税増税でデフレマインドに変えたのが最大の誤りと言う。マインドというのは本質的にミクロの話である。それは、マクロ経済学が不明な部分をミクロで補っているということに由来する。

竹中氏の増税害悪論に対して、私は、悪いインフレの対抗策は、増税しかないと考える。日本の場合は、膨大な債務は何かの事件で管理できないインフレを引き起こす可能性があると考えられる。それは、正しい財政政策を取らない場合、もしくは、外国の影響により取れない場合が、増税が選択肢になるということだ。

政治家が、増税を決めると言うのは、自分で自分の手を縛ることだが、官僚は正しい政策方針を打ち出すことはできないか、彼らなりの指針を示して当然であり、それが増税ということになる。政治、財界、日本の社会が正しい選択肢を持たないから仕方ないということだ。

それで、政権の中枢にいた竹中氏は、そういう提案をしたかと言うと、そういう記憶はない。金融機関いじめ、証券市場劣化政策しか記憶にない。

竹中氏のマインド論だが、経済学は、本来、成長率とするものを、期待値に置き換えている。例えば、ある分野で今後成長が見込まれるものがあるとすると、その分野に期待が集まると考えるわけだ。しかし、期待にも色々あり、消費が冷え込むと逆に将来的な消費拡大の期待が高まる。
しかし、この期待は、需要と供給の基本的かつ底辺の波であり、ミクロの経済の波であり、成長を捨象した波である。ケインズもそうだが、マクロをミクロ的に把握することの硬直性、不自然さがある。だから、経済学は、経済が分からないのだ。

ちなみに、韓国の政策金利が引き上げられ、1%になったという現代ビジネスの記事がある。インフレ対策だが、日本でこれをやると致命的になる。不動産バブルを抑えるために、金融政策に頼ることの危険性は、日本ですでに検証済み。
合理的な利上げがあるとすれば、米国金利高のために、資金がアメリカに過剰に流れるということは想定され、対抗上、ある程度の利上げはやむを得ない場合があるだろう。米国が金融緩和縮小に動くときには、その逆の場合と同じで、ある程度の金融緩和縮小が正しい金融政策になる。しかし、根本的には、多少の円安は我慢限度内。金融機関の収益悪化には、個別対応が基本になるべきだろう。

朝まで生テレビでも意見が出たが、国債の半分は日銀保有。金融というのは、所有権資産と債券を基礎にしているが、国債はもちろん、紙幣も国の債務。違いは流動性にある。共倒れにならないためには、それ以外の方法しかない。

日本の金融が破綻するかしないかの指標は、円レートにあると考えられるが、それは円高ではなく円安。通貨の国際的信用が落ち、準基準通貨の地位を失うことである。こうなると、巨大債務は最大のリスクになる。

アベノミスクは、産業の利益のために、金融機関が犠牲になる構図だが、結局、日本の産業界はこれに報いる貢献は果たさなかった。国内回帰という現象は起こらなかったし、展望のない分野に海外進出して、火傷を負う状況が続いている。今後、中韓リスクは、アメリカリスクより大きいことを知るのではないか。

経済学の歴史から見る現代経済

2021-11-18 14:36:45 | 国際政治経済
この30年間は、新自由主義が、あらゆる角度から、ケインズ経済学的常識を葬った時代。金融革命、消費者資本主義と株主資本主義。もともと、ケインズ経済学も、経済の基本は需要と供給のバランス、管理通貨政策一面論のようなところがあり、そこを突かれた。

新自由主義経済学は、ケインズ経済学批判を重要な課題としている。そして、ケインズ経済学は、需要と供給の経済学である近代経済学の流れの中で登場した。

近代経済学がなぜ登場したかと言えば、イギリス古典派経済学が、恐慌という経済現象を説明できなかったことによる。供給は需要を生み出すという セーの法則が暗黙の前提になっていたからである。
近代経済学は、需要曲線と供給曲線が一致するところで市場は均衡するが、供給が過多になったり、需要が過少になった場合は、市場は混乱する。その混乱の最たるものが恐慌という理解になる。ケインズへの流れは自然なものである。
ケインズの有効需要論は、ケインズが独創的に発見したのではなく、通貨論と結合することによって意味を有している。

ところが、ケインズの一般理論は、マニアックというか、ドグマ的な需要供給論に縛られている。ケインズ原典主義者には、経済学の未来はないことも確かだろう。
ケインズは、利子率を生産との関係で見ない。イギリス古典派経済学の労働価値論を捨てたから、そういうことになる。

労働価値論を確立したのはマルクスだから、そうならざるを得ない面がある。自身の基本的立場から逸脱することになるからである。
マルクスは、資本主義経済全体の矛盾が恐慌の原因だと考えた。しかし、それは、明確に説明されたものではない。だいたい、資本主義派矛盾が爆発して崩壊すると考えており、現在のマルクス経済学もそう理解している。論理的には、第二巻の表式論から自動崩壊を導くもの(ローザルクセンブルグ)と、第三巻の信用制度の崩壊を想定するものがあるが、後者が主流派になっている。

つまり、労働価値論に論理を進めれば、資本主義崩壊論、もしくは、階級搾取論に陥り、経済学よりも政治的革命が必要になるという論理的見込みが災いしたとも考えられる。

ただし、マルクスの表式論は誤りだ。彼の経済学は、最初から破綻している。価値の矛盾は、使用価値と交換価値の矛盾ではなく、価値そのものが、労働と対峙するものであることを気づかなかった。古典派経済学の理解をそのまま受けいれて、そのドグマに縛られている。

また、マルクスの資本論を読むと、一般的平均労働、つまり、一般的な技術、平均的な熟練労働において、価値が決まると書いている。つまり、特殊性を認めない。私が、特殊的利潤追求と呼ぶものを特別剰余価値と言い、論理の外に置いている。つまり、結局、無視されるということになる。
しかし、資本主義そのものは、特殊性によって動いているし、特殊に進化している。論理が現実を捉えきれない場合は、論理が間違っているということを、彼らは認めない。

これらすべては、学生の頃と変わっていない。私の予想では、20年も経てば、マルクス経済学者も分かるだろうと考えだが、未だ、価値は金貨幣に収束すると考えている。諦めました。

古典派はもちろん、マルクス経済学、ケインズ経済学も共通して言えることは、経済学の体系の骨格論理、基本命題に、成長概念が欠落しているということだ。労働価値論、需要供給論の論理の中には、成長という要因は含まれない。せいぜい、重要な外的要因と理解するに留まる。
私は、表式論に特殊的利潤追求(イノベーション)を導入することにより、成長要因の内在化を目指したが、80年代から、世界的に新自由主義が、独自の付加価値論を展開して、ケインズを凌駕する勢いになった。実は、私も、最初は、労働価値論は付加価値論としてとらえるべきだと考えたが、新自由主義の付加価値論との混同を避けるため、使用は止めている。

さて、最近、バラマキ財政批判というのがあり、物議を醸している。
バラマキでも、消費喚起すれば経済的に有効だというような論理を背景にしているが、消費喚起の経済成長というのは、単純に規模を拡大して成長するということ。しかし、成長は、成長分野の拡大か、他国の就業機会を奪うことで、実現している。消費は、景気の波を与えることはあっても、成長を自力で支えることはない。有効需要論というのは、経済成長の前提の下で成り立つ。

財政支出を財政均衡論にすぐ結び付けるのは間違い。その支出が価値ある支出か、そうでないかが重要。また、無借金の政府がいいのかというと、そうではなく、悪い場合もある。管理通貨制度で、無借金というのは、乗らない車を持っているのと同じこと。維持費だけかかる負の資産。

例えば、円の国際化という課題が現実のものになったら、それは、いい面と悪い面を持つ。円の影響力が強まることと、国際的借金が増えること。アメリカは、ドルを垂れ流しているが、ドルの影響力が強まることと、アメリカの二重、三重の赤字は、その分拡大している。

大英帝国が、ドルを持たなかったことは、支配が終わることの前提だったが、1930年代のドイツを救う気持ちがなかったから、未来がなかった。政治的背景が、経済の発展を止めた例。

さて、デジタル田園都市構想というのがあるらしい。岸田内閣の新しい資本主義というのは、デジタル資本主義のことかなと考えることもできる。マイナンバー制度とベーシックインカム制度は連携する。給付金にこだわるのは、国民の所得管理に繋がるからだろう。失業の嵐とベーシックインカム制度は並行して進む。

東芝が未だ迷走中という記事がある。記事を読んでいてもガバナンスという言葉だけが踊り、筆者自体も迷走中。基本は、ガバナンスではなく、経済の趨勢なのだが、日本のデジタル経営者には失望する。経営者が自分の方向性に自信を持っていい場合はただ一つ。人材が育っているかだ。

アメリカの先行きは暗い。お金が集まるというのは、国は貧乏になり、人材はいなくなるというリスクがあるということが、経験的に明らかになっている。
歴史的にも、金融の膨張は、経済成長を鈍化させてきたと考えられる。

結局、金融政策だけでは、むしろ逆効果で、成長を促進する財政金融政策が経済立て直しのカギになると言える。
だから、日本の現状では、管理された小インフレと、積極財政による成長分野への投資促進以外に選択肢はないことになる。

神話創生と古代宗教のかかわり

2021-10-13 21:03:02 | 国際政治経済
天皇制とバアル神の近似性という、キリスト者による記事があります。
天皇制は、バアル神(悪神)の構造とよく似ているという主張です。シナイ山にモーゼが神と対話しているときに、黄金の子牛を引き回していたという言葉がいろいろ解釈され、偶像崇拝、みかけの神崇拝という悪行をおこなっていたという記述があり、これも、バアルの影響とされていると考えられます。
ここでは、バアルの本来の側面、モーゼがバアルの化身となったということの説明は省きますが、天皇制での位置は全然違います。天皇はアマテラス、バアルに該当するのはスサノオだからです。

まず、キリスト教とは何なのかということを論じます。
キリスト者とユダヤ教徒の違いは福音にあります。愛の宗教がキリスト教です。その愛は、聖母マリアから受け継いだものです。

明治以降、開明的な、もしくは、それを志向する人がキリスト教に改宗しました。西洋化、すなわち、理性的、合理的志向を突き進んでキリスト教に改宗する傾向があります。

キリスト教は、ユダヤ教的な父性原理から距離を置くことによって成立しました。愛、原罪、生みの苦しみ。すべて、女性的な発想を基軸にしています。
つまり、旧約の父性原理に、新約の女性原理が立ち上げられ、より合理的な宗教になっていると考えられます。それが、キリスト教の本質であると私は考えます。
ただし、キリスト教も傾向があり、キリスト教の歴史は、父性的側面の強化過程に見えます。十字軍、王権神授説がその典型です。

聖母マリアとアマテラスは、基本的に同じ。バアルと同じなのはスサノオです。

神話では、スサノオは悪神とし描かれる反面、創造の神とされます。なぜ、悪神になったのか。それは、日本神話確立の過程で、キリスト教が関わっている可能性の根拠になります。ちなみに、バアルの化身であるモーゼの直接の継承は牛頭天王です。明治維新で徹底的に排斥されています。もともとスサノオだから、スサノオになったのです。

私から見ると、キリスト教の教義は、母性信仰が折衷的です。男神が母性愛を継承するというのは理解しがたい。父性信仰であるユダヤ教とは異質で、イスラム教が勃興する背景になっていると考えます。もちろん、愛の宗教は素晴らしい。

聖母子の絵画が示すように、聖母マリアも神性を持ちますが、それを否定するものは、異端です。ネストリウス派キリスト教という異端です。秦氏の一部氏族、一部の人が有していた宗教であると考えられます。
日本神話確立の時期に関わったのが、異端であるネストリウス派キリスト教。

ここで、彼らの前に立ちはだかったのが、縄文以来の母性信仰、つまり、女神信仰であると考えられます。旧約では女性の話はあまりありません。あっても、非本質的な話です。しかし、新約の聖母マリアには共感するものがあったのでしょう。元祖キリスト教よりも、強固な母性信仰に遭遇し、ここで、ネストリウス派は、日本の宗教世界に溶け込んでいったと考えられます。


ちなみに、現在、ジェンダーフリーとか、性差別解消、LGBTとかがもてはやされていますが、宗教の歴史から言うと、明らかに間違いです。むしろ、女性的な価値観が重要であることを、父性社会の中で訴えた人、つまり、キリストが勝者になっています。日本においては、神話創生期において結論が出ただけのことである。

日本神話は、原始宗教とか民間伝承をまとめた御伽話、酷い場合は、太陽神信仰を基にしている対物信仰であると言う場合もあります。しかし、これは間違いです。アマテラス、スサノオは人格神。女神と男神。女性的なものの抽象化、男性的なものの抽象化。むしろ、キリスト教よりはっきりしている。
そして、最高神アマテラス、日本民族の根源としての女性神アマテラスが確立され、時代を切りひらく英雄神であるスサノオとして明確に位置づけられています。

私が、日本神話は、ネストリウス派キリスト教が、縄文の女神信仰に屈して創生されたと考えるようになったのは、日本国の建国は応神天皇の頃であり、応神は、神功皇后の胎内天皇であるとされたことの意味を考えてからです。

太平洋戦争開戦の真因はなにか

2021-10-11 21:16:13 | 国際政治経済
日米開戦の原因が、ハル・ノートであるというような見解は明らかに間違いである。仏印まで攻めていって、世界が反対するのは当たり前であって、当然である。泥沼に引き込まれた原因が真の要因である。ハル・ノートは、最後通告である。また、戦争に引き込まれた外部要因以外に、内部要因があるが、
むしろこの要因の方が大きいだろう。つまり、日本側の要因、なぜ、大陸での戦争拡大を止められなかったかが問題である。結論は極めて簡単。リーダーがいなかったということである。

リーダーということについては、戦前は、元首は天皇だから、こんな簡単明瞭な話はないと考える人がいたら、それは、天皇制の意味を理解していないということになる。
本来、天皇は、民族共同体のシンボルであり、国家の頂点ではない。歴史上そうである。古代においては、天皇の呼称が見られるのは、推古朝とされ、いわゆる天皇制国家の天皇としての地位が確立したのは、天武朝の頃からとされ、それまでの実権者は、大王だった。天武は、オオキミとよばれていた。

近代国家では、大統領でさえ絶対的存在ではない。天皇を主権者とすることは、国家を無責任国家に放置することになる。権威者が主権者である国家は、貴族社会とその国家である。しかし、歴史的に貴族国家は、無責任国家だった。歴史は、それを克服した社会とそうでない社会の違いを際立たせている。

何故かと言うと、責任を持つというのは、限定的、条件的なことだからである。失敗したら、退陣する体制が責任を取れる体制だが、概ね、絶対的権力者は失敗しても無視する。戦前の体制で、リーダーがいなかったことの例証としては、陸軍と海軍の共同歩調を誰も実現できなかったことに現れている。リーダーがいない場合は、総力戦は無理であるという結論に繋がっている。

貴族制というのは、ここでは、ローマ的な寡頭政治ではなく、王朝政治のこと。

日本で、王朝政治が長く続かなかったのは、武士が勃興したからである。しなかった韓国は、貴族階級社会のままだった。どちらが進歩的かは歴史が証明している。鎌倉御家人は、一所懸命が信条だった。自分の土地は自分で守るということ。貴族政権と武家政権では、責任の取り方が全然違う。

明治維新の王政復古というのは、天皇制の歴史を無視する言葉でもある。日本の封建制度は、天皇制封建制度でもある。それは、天皇制の根拠であるアマテラス民族共同体を背景にした封建制度でもあり、中国の王朝交代とは性格か異なる。天皇親政というのは、歴史的に存在したのか疑問である。それなのに、復古という名を冠するのは、貴族的まやかしに過ぎない。

古代日本を天皇を頂点とする中央集権国家とは、どんな歴史家も実質的な意味では考えていないだろう。部族連合国家がその実相。中央集権が求められたのは、白村江敗北により国防的課題が登場してから。その後の歴史で確立されたのは貴族制国家。しかし、貴族制国家が天皇親政国家であることは少ない。

貴族制度の混乱のなかで勃興したのが武士であるが、彼らが求めたのは、国家創建の思想の根源はどこにあるのかということ。その先駆けは、嵯峨天皇ということになる。彼が行きついた先は、応神天皇、神話的に創生されたスサノオは、牛頭天王をモデルとして総合化,日本化した神様ということになる。しかし、その思考の根底にあったのは、皇族のあり方を示した高野新笠の創話。嵯峨天皇というより、高野新笠の子孫と言うべきだろう。新笠が創作した桃太郎説話は皇孫の使命を伝えるもの。歴史は、その通りになっている。

戦前の官家のあり方には疑問が多い。無責任体制で、各派閥が官家を利用して、戦略なし外交戦略に没頭した経緯が見られ、今日の女系天皇論に繋がっている。昭和天皇とGHQは、意見が一致していたところがある。

私は貝になりたい という映画がある。確かに、東京裁判は、勝者による個人テロのように見られることがあるが、GHQの政策は、安全保障を除いて合理的なところが多い。私の祖母は、よく、マッカーサーのおかげだ と言っていた。しかし。今は、安全保障が国家の最大課題。安住は許されない。

太平洋戦争のキーマンは山本五十六。私は、山本が一番優れた軍人であったことが、日本の不運の象徴ではないかと考える。小才はあるが大才はない。大才が育つ環境では無かった。山本の才能は外交官として適切。軍人は最後の尻拭いをする人、最後を見届ける人でないと、真に有能な軍人にはならない。

戦争を決断したのは天皇と言うのは間違いである。当時の情勢は、天皇が否定したら、その地位が危ない状況ではなかったかと推測される。なぜなら、開戦勢力の先頭に立たされたのは官家。魑魅魍魎の世界で誰が変わるか分からないが、戦争の終わり方も違っただろう。

無謀な戦争に突き進んだのは、明治維新の限界性に起因する。つまり、権力構造の核心が、過去現在ありもしない天皇親政体制だったということである。戦前国家では貴族制度による無責任国家の側面が、極限において露呈したと考えられる。