コーヒーブレイクⅧ

おもに、国際政治経済情勢を論じます。宗教論、音楽、歴史(古代史が主)についても論じます。

邪馬台国論争(魏志倭人伝)と神道の起源

2023-03-09 20:27:57 | 宗教論
邪馬台国論争(魏志倭人伝)と神道の起源
※この論考は、「宇佐八幡神宮の歴史的創建」の補論であり、歴史学との接点について、考究しているものです。

邪馬台国論争、つまり、卑弥呼が何処の人かということについては、大和説と北九州説が有力であるとされています。
これについては、この国がいつ頃に、統一国家になり、同じ神を崇拝し、同じ言葉を使う民族的共同体ができたのかを考える必要があります。
まず、関連留意事項を列記します。
① 卑弥呼(~247)の時代が、宇佐八幡神宮の主祭神(八幡神)の応神天皇(祖父は、神話的英雄ヤマトタケルであるとする系譜がある。200~310)の時期に当たること。また、卑弥呼の登場は、倭国大乱(王位争奪をめぐる全国的な8年程の内乱)の終結に導いたとされる。
② 宇佐八幡神宮の由緒によると、 
1 神代に比売大神(地主神)が宇佐嶋に降臨
2 725年、八幡神(応神天皇)の降臨
3 733年 二之御殿に比売大神を祀る
4 823 年 三之御殿に神功皇后を祀る
となっています。
③ 古事記(712 年)、日本書紀(720年)は、藤原氏の権力の下に最終的に編纂されている。
④ 伊勢神宮はさらに古いが、出雲大社の方が古いとする研究者が多い。
⑤ 弓月君の出処進退に関連して、秦氏がこの時期に渡来したと考えられる。(弓月の君秦氏の謎 参照)なお、宇佐の元宮は秦氏の氏神神社ではあるが、主神のヒメガミは、日本最古の神社のひとつとされる宗像大社の祭神である宗像三女伸。
⑥ 聖徳太子と秦河勝、蘇我氏の滅亡(645 年)

(謎の3世紀)
中国の史書に記述がない4世紀を、謎の4世紀と言うことはありますが、正確には、中国から不明の4世紀というべきであり、実際のところ、分からない、話が混乱しているのは3世紀です。実は、この頃、日本が統一国家になった時期であり、一番重要な時期です。生まれた子供が2,3歳の頃が分からないよりも、いつ、どのように生まれたかが分からないことが深刻な問題です。

一般的には、この3世紀、tまり、応神天皇の時代に、日本が統一されたと考えられ、卑弥呼は概ね同時代の人です。
また、邪馬台国北九州説を採れば、親魏倭王の称号が北九州の小国に与えられたことになるので、中国全土で争っていた魏が歴史書に書くというのは不自然であり、北九州説は、北九州の勢力が大和地方を支配して、卑弥呼が登場したというような文脈になると考えられます。
大和朝廷征服王朝説というのは、さまざまな説がありますが、一番有名なのは、騎馬民族征服説です。しかし、これは、騎馬の風習は後世のものであり、中国の資料にもありません。
注目すべきは、応神の出自に関わるものでしょう。仲哀天皇の死後(10月10日)誕生したとされることから、相続をめぐり争いが生まれたとされます。
これを治めたのが、母である神功皇后です。倭国大乱というのは、このとき勃発した継承権戦争であり、内乱を治めた神功皇后が卑弥呼であると考えるのが分かりやすい。武闘派と文知派の違いのように見えますが、女傑というのは、才色兼備、文武両道である場合が多いものです。
また、神功の名前からして、彼女は息長氏の流れにあると考えられますが、息長氏を祖とする有力な氏族に蘇我氏があります。大化の改新の時に、蘇我氏が滅び、過去の歴史は書き換えられ、不明になってしまったという説があります。
また、有力な説として、この時期に王朝交代があったとする説あり、崇神王朝から、応神王朝への交代があったとされます。神功・崇神母子説は、系譜を重要視した結果であると考えられます。
もっと、重要な事情は、崇神がヤマトタケルの孫に当たるということです。つまり、崇神の家系は、軍人の家系であり、本拠では冷遇され、地方に勢力を伸ばす家系(傍系)であった可能性が高いと考えられます。応神は、筑紫で生まれたとされるのは、遠征中、もしくは、筑紫に地方の拠点があったということになります。実際、ヤマトタケルは、静岡から鹿児島までを戦域にしているのですから、当然ありうる話になります。
神功皇后のモデルが卑弥呼であるという推論が成り立ちます。日本書紀は歴史書として書かれ、古事記は神話として書かれました。しかし、神話的要素も歴史書に入り込むことがあると考えられます。つまり、具体的な事情をそのまま書くことが、歴史を趣旨に沿って分かりやすく描けるかという論点に通じるわけです。日本書紀に卑弥呼という名前がなぜ、出てこないのかということについては、この事情を勘案する必要があります。

そして、神話の神は、具体的に存在した神ではなく、さまざまな人のさまざまな功績が総合化、抽象化、純化して形成されることになります。その視点からは、応神天皇はスサノオ、神功皇后はアマテラスに関連付けられます。母と子の関係になってしまいますが、私は夫婦説を採用します。宇佐八幡のヒメガミは現地妻ということになります。スサノオの経歴からも推測できることでしょう。
また、古代の婚姻形態がどういうものだったかは、問題を見るヒントになります。平安貴族の婚姻形態が、妻問婚(夫婦は別居し、夫が妻を訪ねる形式)であったことが事態を見えにくくしています。この形態では、妻の家で子供が成長するということになります。
つまり、本家筋の卑弥呼、分家筋の応神が夫婦関係にあった場合、分家の子を身ごもった神功皇后という関係が推測されます。
どちらを採用しても、応神は、大和の本家勢力の権威を取り込むことにより、勢力下にあった北九州(生誕地は筑紫)、本拠の河内(いわゆる河内王朝)から、大和を支配下に置いていき、統一の土台を作ったと考えられます。
応神の家系は、大王家ではなく、大王に仕える将軍家と考えると、男系子孫ではあるが、嫡流ではないため、外に勢力を広げる指向が強かったと考えられます。
一般的には、大王の系統が、神功のときに女系になったということにもなります。これは、魏志倭人伝の記述を踏まえた見方になります。
卑弥呼、神功皇后は、応神による支配までの過渡期に一時的に全権を掌握したと考えられ、実際の統一者は彼女たちであったのですが、歴史の記述は修正されたと考えられます。魏志倭人伝の記述が実際に近いと考えられます。
古事記のアマテラスの記述では、そのことを踏まえていると考えられ、倭国の内乱を嫌悪し、現れた時に、民が喜んだということです。この記述は、アマテラスの原型は卑弥呼にあるという推測の根拠になります。その背景には、縄文から引き継ぐ、女性崇拝思想、母性畏敬、女性中心社会(母系社会)の伝統があったということが重要であり、事柄の本質ということになります。つまり、アマテラス神話が、日本の歴史に基づいて創生されたということになります。

(日本国家の成立と応神の特色)
結局、日本国家の成立は、全体的には、大和王権による北九州支配により実現したことになります。その推進者が応神天皇であり、その王権は、それまでの王権とは、流れは同じでも、本質的に異なるものでした。全国の有力豪族が参画しているからです。
他方、応神の権力基盤の特質は、帰化人の活躍にあると言われますが、その帰化人は、地元勢力と結合することにより、飛躍することができたと推測されます。帰化人単独で政治を左右することも、参画することもできません。少数派の帰化人は。自己の純粋性を捨てることによって、つまり、同化することにより勢力を得ることができます。現に、そうした帰化人は、自己の文化を継承していないか、分化を継承していないか、忘れてしまっています。牛
その関係の典型は、秦氏と宗像氏の関係ではないかと考えられます。宗像氏は海洋氏族、海民(縄文からの交易関係を支えた氏族)で、宗像三女神の海神性はもちろんですが、極彩色文化が見られます。また、倭人は刺青をしているというのは、宗像氏族が、皮膚にウロコ文様を施していたと考えると分かりやすい。つまり、中国人が船上で見た人たちが宗像の民であったということになります。
日本の海民は、歴史の激動期に活躍しています。織田信長と海の関り、平家と海の関りが有名ですが、足利義満の対明貿易と言うのもあります。しかし、平時においては、交易の担い手として活躍しています。陸上交易は、道路網の整備が不可欠であり、例えば、縄文文化圏の交易は海が中心であったとしか考えられません。そうしたなかで、社会の重要な推進者として、宗像氏は存在感を有していたと考えられます。
応神の系統が、ヤマトタケルを代表とすると、陸の支配者が、海を支配する時期はあったのではないかと考えられます。スサノオのヤマタノオロチ退治は、海神を応神が征服する過程であると推測されます。八岐大蛇の八は、多くのという意味に当たります。つまり、バラバラの独立勢力であった海の氏族を、味方にしたり敵にしたりして、最終的に支配した経過であると考えられます。そのなかで、応神のパートナーであったのが宗像氏だと考えられます。
応神は、その宗像氏を通じて、当時、半島南部にいた弓月君とその一族を勢力下に置いたと考えられます。弓月の君も、また、交易の民であるから、近親性があったということは十分考えられます。その強力関係は、両者の一体化を推進したと考えられます。
そして、両者の合体の名残が、牛頭天王社ではないかと考えらえます。(ただ、頭天王が、彼等の神、モーゼであったことは忘れられました。)総本山とされる津島神社は、港町の神社であり、その収益が織田信長の躍進の「基礎になったのは歴史的事実です。また、神武天皇ゆかりの熊野本宮大社の熊野牛王符の牛王は、牛頭天王です。熊野は、入江のまちです。
つまり、応神の日本統一は、宗像氏の力が大きかったと考えられます。さらに、帰化人を取り込み、より強大になったと考えらえられます。
弓月君の貢献は、氏族集合体をまとめる手法をもっていたことにあります。秦氏は、有力一族であり、日本の神社は、秦氏が創設に貢献したと考えられています。
つまり、氏族同士の姻戚関係の繋がりを基に、氏族をまとめるという手法です。神社創建を通じて、すべての氏族は大王家と繋がる同族であるというイデオロギーによる、神社創建であり、その典型を宇佐八幡宮に求めることができます。
つまり、宇佐八幡宮を見れば、日本の神話的世界が見えてきます。
秦氏の神は、牛頭天王、つまり、モーゼですが、それは、他の氏族には受け入れがたいものがあり、アマテラスの登場になるのですが、同時に、牛頭天王は、スサノオに代わります。これは、秦氏にも、応神がモーゼに見えたと考えることができます。実際のところは、アマテラス、スサノオを合わせて、モーゼになるのですが、この過程のなかで、応神の事績を中心に、神話の日本版が出来上がっていったと考えられます。神話は、暦年で誕生するのではなく、物語、文脈により生まれます。その方が、現実の歴史に近いからです。総合化、抽象化は、神話生成の方法論です。

(和の神話としての日本神話)
神社の連携を通じた、各氏族の同族意識の定着は、和の思想を社会に根付かせたと考えられます。つまり、和の政治の始まり。それを、歴代的な言葉として、明確に示したのが、聖徳太子になります。
ただ、宇佐八幡は、日本の神社の始まりですが、歴代の天皇を祀る神社ではありません。だから、伊勢神宮が、総社として創建される必要がありました。
伊勢神宮、出雲大社は、元宮があり、そこで培われていた崇拝対象が、日本的な神話の登場に寄与したと感がられます。アマテラス、大国主つまりスサノオの系譜が、それぞれ、別に存在したと考えられます。しかし、そうした神は、今のアマテラス、スサノオとは異なります。また、原アマテラス、原スサノオは、どういうものであったかは分かりません。また、重要ではありません。
つまり、神話は、日本建国神話であり、そこから見ないと、神話の本質、つまり、神道の心はわかりません。

もっとも、アマテラスは、当時の日本列島の住民の宗教である、女性崇拝(おそらく、縄文の流れを汲む宗教的伝統。縄文土偶の祭祀的性格)の継承であったと考えられます。つまり、土着宗教が言葉を持ったということになります。

確かに、日本の神道を考えるとき、一般的には、縄文16000年を考慮しないのが一般的です。しかし、こうした視点は、現実的ではありません。祭祀遺構があるのは弥生の水稲コミュニティだから、定立されたものとしては無視されがちに過ぎないのでしょう。
しかし、縄文と弥生は、前者が否定されて、後者が勃興したのではなく、文化的継承がみられるというのが、最近の研究の結論のようです。

結論的に言うと、アマテラス信仰は、天皇制の確立とともに整理されたということになります。
これを解くカギは、古代における、大王と天皇の存在にあると考えます。つまり、国譲り神話として神話化されたことは、大王が、天皇に地位を譲るという形式で、大和の宗教的権威と、大王の実質的権力が融合した歴史の表現であり、このなかに、アマテラス信仰、日本神道の確立を見ることができるという論理的指針です。

宗教的な論理を持ち込んだのは、私の推論でも、秦氏ということになりますが、受け入れる素地は縄文にあると考えるのが相当です。内容に形を与えただけのことです。欧州のキリスト教化の過程とは異なります。アマテラス信仰は、母性信仰であり、それは、縄文から続く信仰であり、スサノオ的なものは、政治過程の中で、事実の神話化、総合化、純化の中で確立したものと考えられます。

アマテラス信仰、つまり、母性信仰は、私の歴史論(母系社会として存在した原始社会が、父系氏族社会に移行し、さらに、国家形態の社会からの独立(疎外、外化)のなかで、世界宗教が誕生したという宗教一般の歴史観)でも、世界的な、一般歴史的な観点から、どこの国でも当てはまる信仰となります。黒人のアマテラスや、白人のアマテラスがあっても不思議ではありません。ある意味、始原的な宗教です。もちろん、自然崇拝とは異なります。コミュニティの宗教です。
さらに言うならば、少数派的な母性宗教であり、それは、観音仏教が日本において広まる基礎にもなっています

古代史の歴史的な変わり目は、聖徳太子の時代から壬申の乱までと考えるのですが、日本国家の大きな歩みは、応神天皇、つまり、卑弥呼の時代ではないかと考えられます。つまり、地方の分家が、本家との何らかの連合政権を樹立したのではないかという推論です。

応神朝が河内摂津を本拠地にしているのは、天皇陵の位置から推測されますが、機内の支配権は、大和が有し、分家は外的拡大を目指したと考えられます。結局、応神の日本統一を機に、実権は自然に移行します。オオキミ、大王家(大物主家)が生まれ、本家の流れは天皇家となり、権威的な象徴として生き残ったと考えられます。アマテラスとは、天皇の別読みである可能性が高い。スサノオとの違いは明白です。母性神と、男性神の共立が、神道の特質になっています。

この推論が、正しければ、天皇制は、縄文文化の流れを引いた、日本の歴史そのものということになります。