神話上の神は創作であり、そのモデルは、現実の存在であると考えられます。応神とスサノオが典型的です。ニギハヤヒのモデルは崇神ということになります。
アマテラスはどうでしょうか。応神の母、神功皇后が仮置きのモデルになります。崇神の母は、イカガシコメノミコト(伊香色謎命)です。崇神と竹内宿禰の母であり、神功皇后と同じ位置関係にあれいます。。
旧事では、ニギハヤヒトとともに降臨した命には、その後に登場する豪族の祖とされる命がおり、また、ニギハヤヒを祖とする物部、穗積、采女があります。(古事記)
崇神王朝から応神王朝への交代を古事記日本書紀が匂わせるので、話が混乱していますが、旧事は、ニギハヤヒの父性神話を、アマテラスとスサノオの母系父系神話に変化したために、起こった混乱であると考えられます。
平安時代の貴族社会では女性は結婚しても実家に留まる妻問婚が主流であり、古代における母系社会の伝統が父系社会に残っていたと考えられるのですが、崇神の時代も同じであると考えられます。
イカガシコメノミコトの兄は、イカガシコオノミコトで、物部の祖先です。名前が似ているように、イカガシコメは物部の流れです。イカガシオコは水の神とされています。
崇神がヤマト入りした経路は、物部が各地に進出し、そこで水稲栽培を行い、一族を定住させた経路と同じものと考えるのが適当でしょう。
どのような経路か?それは、物部の一族が定着した地域を経由したと考えられます。
具体的には、近江かr采女(四日市)、穗積(亀山、忍山神社)ということになります。
物部の一族は、本来は河内平野が根拠地で、その前は出雲(大国主)であると考えられます。そこから、どこを通り三重県に入ったのか、三重県北勢地域に八風街道(八風峠)というのがあり、そこを経由して進出したと考えられます。近江から、京都、奈良へ向かわなかったのは、その地域には、葛城氏の勢力であったからでしょう。尾張へいかなかったのは、尾張氏(大伴氏)の存在がある。物部の動きは、物部集団が、農兵集団であると理解するのが合理的。彼らは、ヤナトへ進軍したのではなく、他勢力のいない地域で生活基盤を持つことを主眼にしており、最終的に、ヤマトの葛城氏と連合を組み、尾張氏を含めた東海、関西に広がるおおきな王権を創建した。最初のヤマト王権としての崇神王権の誕生。
弥生時代の銅鐸文化圏は、山口県から静岡までと広いが、応神王朝直前までの広がりを示し、崇神の時代に、この広がりが政治的にあったとは考えがたい。
三重県いなべ市いなべ町大泉に、大谷神社があり、ここの祭神は、水分大神、アメノコヤネノミコト、ウケモチノカミトされています。神社の歴史は古く、1499年に、春日大明神と合祀され、かすが大明神の祭神は、藤原系のアメノコヤネノミコトですから、元の大谷神社の祭神は、水分大神、つまり、イカガシオコノミコトです。
もともとの大谷神社の祭神は、イカガシコメノミコトとイカガシオココノミコトの2神であるという伝承があり、この伝承の方が理にかなっています。非常に面白い事例で、物部系の神社が、藤原系の神社に置き換わったように印象があります。水分大神というのは、本来、別名なのですが、自然神かという印象があります。
しかし、藤原氏が、葛城蘇我系の神を継承したと考えると、180度見方が変わります。つまり、葛城系の命と物部系の命の合体ということになります。古代崇神王朝は、葛城、物部、尾張氏の連合体(いわゆる三輪伝説の実質)と考えると、神社ロマンのような花井になります。合祀は1499年ですが、1000年の時を超えて葛城(蘇我)と物部が合体した。縁結びなのか、仲直りなのかわかりませんが、縁結びでしょう。
要するに、日本の伝統的な神社は、大物主系の神社を基礎として、培われ継承されてきた神社であると言うことができます。そして、なぜ、日本の神社が、すべて氏神神社なのかの証明になっていると考えられます。
アマテラスはどうでしょうか。応神の母、神功皇后が仮置きのモデルになります。崇神の母は、イカガシコメノミコト(伊香色謎命)です。崇神と竹内宿禰の母であり、神功皇后と同じ位置関係にあれいます。。
旧事では、ニギハヤヒトとともに降臨した命には、その後に登場する豪族の祖とされる命がおり、また、ニギハヤヒを祖とする物部、穗積、采女があります。(古事記)
崇神王朝から応神王朝への交代を古事記日本書紀が匂わせるので、話が混乱していますが、旧事は、ニギハヤヒの父性神話を、アマテラスとスサノオの母系父系神話に変化したために、起こった混乱であると考えられます。
平安時代の貴族社会では女性は結婚しても実家に留まる妻問婚が主流であり、古代における母系社会の伝統が父系社会に残っていたと考えられるのですが、崇神の時代も同じであると考えられます。
イカガシコメノミコトの兄は、イカガシコオノミコトで、物部の祖先です。名前が似ているように、イカガシコメは物部の流れです。イカガシオコは水の神とされています。
崇神がヤマト入りした経路は、物部が各地に進出し、そこで水稲栽培を行い、一族を定住させた経路と同じものと考えるのが適当でしょう。
どのような経路か?それは、物部の一族が定着した地域を経由したと考えられます。
具体的には、近江かr采女(四日市)、穗積(亀山、忍山神社)ということになります。
物部の一族は、本来は河内平野が根拠地で、その前は出雲(大国主)であると考えられます。そこから、どこを通り三重県に入ったのか、三重県北勢地域に八風街道(八風峠)というのがあり、そこを経由して進出したと考えられます。近江から、京都、奈良へ向かわなかったのは、その地域には、葛城氏の勢力であったからでしょう。尾張へいかなかったのは、尾張氏(大伴氏)の存在がある。物部の動きは、物部集団が、農兵集団であると理解するのが合理的。彼らは、ヤナトへ進軍したのではなく、他勢力のいない地域で生活基盤を持つことを主眼にしており、最終的に、ヤマトの葛城氏と連合を組み、尾張氏を含めた東海、関西に広がるおおきな王権を創建した。最初のヤマト王権としての崇神王権の誕生。
弥生時代の銅鐸文化圏は、山口県から静岡までと広いが、応神王朝直前までの広がりを示し、崇神の時代に、この広がりが政治的にあったとは考えがたい。
三重県いなべ市いなべ町大泉に、大谷神社があり、ここの祭神は、水分大神、アメノコヤネノミコト、ウケモチノカミトされています。神社の歴史は古く、1499年に、春日大明神と合祀され、かすが大明神の祭神は、藤原系のアメノコヤネノミコトですから、元の大谷神社の祭神は、水分大神、つまり、イカガシオコノミコトです。
もともとの大谷神社の祭神は、イカガシコメノミコトとイカガシオココノミコトの2神であるという伝承があり、この伝承の方が理にかなっています。非常に面白い事例で、物部系の神社が、藤原系の神社に置き換わったように印象があります。水分大神というのは、本来、別名なのですが、自然神かという印象があります。
しかし、藤原氏が、葛城蘇我系の神を継承したと考えると、180度見方が変わります。つまり、葛城系の命と物部系の命の合体ということになります。古代崇神王朝は、葛城、物部、尾張氏の連合体(いわゆる三輪伝説の実質)と考えると、神社ロマンのような花井になります。合祀は1499年ですが、1000年の時を超えて葛城(蘇我)と物部が合体した。縁結びなのか、仲直りなのかわかりませんが、縁結びでしょう。
要するに、日本の伝統的な神社は、大物主系の神社を基礎として、培われ継承されてきた神社であると言うことができます。そして、なぜ、日本の神社が、すべて氏神神社なのかの証明になっていると考えられます。
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