風まかせ~

自分で歩いて得た季節のきまぐれ情報です。気が向いたときに写真付きで時々出します。

鎌倉街道と思われる道を自転車で(10)

2020-04-26 | 歴史散策

上尾市に入りました。

椿堂を過ぎ太子堂近くの信号で直進するか右折するか迷いました。もう鎌倉街道はどこなのか判らなくなってしまいました。右折して徳星寺 地蔵院 諏訪神社 畔吉渡し場の順で行くことにしました。

鎌倉街道と思われる道は上尾丸山公園の東を通るか西を通るか それとも全く違うのかもうわかりません。

 

 

①徳星寺

 太子堂(上の地図では切れています)近くの信号を右折して道なりに進むと左手に徳星寺(とくしょうじ)の看板があるのでそれに従うと山門前に着きます。

 徳星寺は山号を東高野山遍明院と称する天台宗の寺院です。弘仁年間(810~824)に弘法大師空海により開基されたとされる古刹ですが永禄6年(1563)に伊奈の法光寺と入れ替わりにより宗旨を真言宗から天台宗に改めた珍しい寺です。

境内には弘法大師が植えたというカヤの大樹(県指定天然記念物)や大師がアカ井として用いたと伝えられている今は堀井戸となっている月影の池など大師に関わる伝説と山号から高野山との繋がりのある寺院であることがわかります。

 徳川家康が天正18年(1590)に江戸入府してから寄進を行い14代家茂まで寄進が続きその証として朱印状を与えています。当寺では家康以降12通の朱印状がそろっています。また、上尾市内では初代家康、二代秀忠の朱印状が保存されているのは当寺のみとされています。家康の朱印状等古文書類は市指定文化財です。他にも岩槻城主太田氏房から当時畔吉を領していた井原土佐守にあてた印判状(天正17年・1589)も保管されています。

県指定の天然記念物としては大カヤ(幹回り5.3m、高さ21m、樹齢700~800年)とこのカヤを含めた約4000平方メートルに及ぶ暖帯林の林叢も指定されています。

 

 

 

 

②地蔵院

 徳星寺の山門を直進して左折し畑道を進むと地蔵院があります。このお堂は十輪寺別名重輪寺とも言い正式名称は宝珠山地蔵院です。元は川田谷村天台宗泉福寺の末寺でしたが徳星寺隆宗法印の代に徳星寺が伊奈町の法光寺と寺入れ替わりした時に徳星寺の末寺となりました。寺伝によると中興の祖は永禄年間(1558~1570)徳星寺隆宗法印で主として徳星寺住職が隠居所として利用していた寺でご本尊地蔵菩薩、合わせて薬師如来も祀ってあります。現在の建物は昭和53年に老朽化した古い建物を解体、その後に建てられたものです。

 

 

 

③諏訪神社

 畔吉諏訪神社は「新編武蔵風土記」によると江戸時代の畔吉の鎮守は氷川神社であり諏訪神社は徳星寺の持ちとなっています。畔吉村は石戸領の所属でしたが川田谷村の諏訪神社が石戸村の総鎮守でり幕府から社領3石の朱印状が下賜されていることから同じ領内ということでもあったために中世の時代に畔吉村に勧請されたとされています。

鳥居は弘化2年(1845)に建立。その前にある「畔吉村氏子中」と刻まれた幟立ては天保9年(1838)建立となっています。また本殿横面には見事な斗栱(ときょう)と彫刻群を見ることが出来ます。境内には水に関する神様の祠が多くみられ弁財天、琴平神社をはじめ寛政5年(1793)建立の水天宮。天保14年(1843)建立の水神などが祀られています。もともとは畔吉河岸に遭ったものが後に諏訪神社に移築したものと思われます。

  

 畔吉地区では「ササラ獅子舞」と「万作踊り」が市指定民俗文化財になっています。境内にその案内が掲示されています。両者とも諏訪神社に奉納されるもので獅子舞は10月、万作踊りは4月の例祭に奉納され大いに賑わうそうです。他にも「大山石灯篭」や「力石」などの文化財も有ります。

   

 

④畔吉の渡し場跡

 諏訪神社の前から川越道といわれた道を西に道なりに向かうと変則五差路交差点(諏訪神社西)が有ります。そのまま進み途中2か所標識に従って荒川方面に行くと「畔吉の渡し場跡」に着きます。

 寛永6年(1629)それまで現在の元荒川の流路をとっていた荒川は関東郡代伊奈忠治により熊谷の久下地区で和田吉野川、市川に瀬替えされました。これに伴い新しい流路に沿って江戸に年貢米の運送を公許された船問屋の舟運業が始められ河岸場が次々と設けられました。荒川の河岸場は当初6か所でしたが幕末には20か所余りにもなりました。しかし明治16年高崎線の開通により次第に衰退していきました。

 上尾市域の河岸場は平方と畔吉の2か所ですが畔吉河岸は比企(川島村)への渡し場でもありました。渡し場には2層の船が用意され「人渡」だけでなく「馬渡」もされていたようです。江戸や川越などへの荷物の搬送で賑わい、「河岸場復元図」によると河岸問屋、酒屋,穀屋や医者、大工職などの住まいがあり、船置き場、荷物置き場などが設けられていたといいます。

いまは、ゆったりと流れる荒川の周囲は案内板が1基あるのみでぞれ以外の人工物は一切ありません。

 

次回は最終回です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 野の花 キンラン アマドコ... | トップ | 鎌倉街道と思われる道を自転... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史散策」カテゴリの最新記事