ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第20回城郭検定ー傾向と対策ーその2(第23回ふうちゃんのお城ブログ)改訂版

2022-05-21 10:13:37 | 城郭検定

6月12日(日)の第20回の城郭検定を目指して、準備を進めている方が多いと思います。

今回は1級、準1級、2級、3級が実施されます。

前回、第22回ふうちゃんのお城ブログで触れたことに付け加えて

第19回日本城郭検定ー傾向と対策ー(第22回ふうちゃんのお城ブログ) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

以下のこともお伝えした方がよいと思い、書き始めました。

準1級・1級 受験準備ののために3部作をパソコンで作成しました。 

(勿論2級、3級受験でも役立ちます。)

1 過去問分析お城、

2 過去問分析お城重要語句 

3 城郭検定で出題された数字 

 

1 過去問分析お城

お城についての問題の要旨と回答を各城毎に整理しました。

初めは、以下のように、書き留めておきたいお城を順に番号を振り、問題の要旨と回答を書いていきました。

これが、1級試験合格時には1番から320番にまで達しました。

同時に一つの城の記述が完成したのではなく、

その都度、新しい問題に出会うたびに付け足していったものです。

日本百名城には、001から100

続日本100名城には、101から200

の番号を振り直し、

その他の城には、201から320を振りました。

そして、ソートを架けると、以下のような物が完成しました。

    

・・・・・・・

・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・・・

これは、受験対策のみならず、

城を訪問する際に、城郭ウオッチングの視点として活用できます。

わたしだけのガイドブックとも言えます。

 

2 過去問分析お城重要語句 

検定の問題の中には、お城に関する重要語句を問うものがあります。

それを1から91までまとめてあります。

3 城郭検定で出題された数字 

 数字を問う問題が必ず出題されます。

 出題される数決まっており、これも整理しておくと便利だと気付きました。

 54項目全て掲載します。

これ覚えておけば確実に点数を稼ぐことができます。

100(113) 薩摩藩外城の数

 88      広島城櫓の数 

 35      広島城の二重櫓の数

 7基      松前城の砲台 長沼流軍学

 13条      安土山下町中掟書 楽市楽座

 5条      貞山公御教諭 伊達政宗から秀宗へ 宇和島城

 10m     中世の山城で竪堀の幅

 800      黒船来航 全国に築かれた砲台の数

 144      明治の廃城令で破却通達された城の数

 100m     広島城の内堀の幅

3000     一国一城令1615年 以前にあった城の数

  150     名護屋城陣屋の数

  6基     名護屋城の天守を含めた重層櫓の数

 270     吉田郡山城の曲輪の数 毛利輝元

 80m     弘前城曳家工法天守の移動距離

 20km    元寇防塁のⁿ長さ

 100     陣屋大名(城を持たない)の数

  4基     福岡城の現存櫓の数 多門櫓、二の丸南隅櫓、潮見櫓、祈念櫓

 14km    江戸城 外濠の長さ

  6      朝鮮式山城 大野城、金田城、基肄城、長門城、屋嶋城、高安城

 23km    京都御土居の長さ

 63      正保城絵図(現存する)国立公文書館が所蔵している

 131     幕末に江戸城紅葉文庫の蔵書目録に記載されていた(正保絵図の))数

 25      慶長14年(1609年)今年、日本国中天守の数「二十五」建つ

 43一要害   廃城令 明治 存城処分された数

  7      諏訪原城丸馬出の数

  4基     諏訪原城の礎石城門

  3      松代城 二の丸土塁にある埋門の数

  3      幕末、海防強化で全国の砲台(台場)造られたが、小田原城の砲台の数

 18      彦根城の華頭窓の数

 70%     江戸時代に100万人に達した江戸人口の男子の割合

 30      文禄・慶長の役を通じて、朝鮮に渡った武将たちの手によって、慶尚南道の沿岸部に倭城と呼ばれる日本式の城が築かれた数

 10万石     天領支配のために置かれた「代官所」は、役所施設で城や陣屋とは異なる施設である。10万石以上の直轄地に郡代がおかれ

         た。

 5回     大内氏館は最低5回の増改築繰り替えていることが発掘調査で確認されている。

 約40棟   太宰府防衛のために築かれた基肄城4では、これまでの発掘調査で約40棟の礎石建物跡が発見されている。

 48箇所   城の中には見張り小屋として番所が多く置かれていたが、名古屋城には48箇所番所があったとされる。

 6人    出世城と言われた浜松城からは6人の城主が老中に登用されている。

 2人    浜松城主から大坂城代には2人登用されている。

 12箇所  14世紀末頃、北海道へ進出した安東氏が渡島半島の海岸線沿いに築いて拠点

 50日   熊本城は西南戦争時、西郷軍の攻撃に50日耐えた。

 8    江戸城天守閣の隅石の数

 2009(平成21年)から2015(平成27年) 姫路城の修理期間

 80日  石垣山城ができるまでの日数

 3km 石垣山から小田原城までの距離

 4基  福山城神辺○○番櫓の数

二十五 「鍋島直茂譜考補」慶長14年(1609年)佐賀城天守竣工。今年日本国中の天守二十五建つ

 五八 甲陽軍艦 桝形の理想の奥行✕間口

 6城  江馬氏の国指定された山城の数

 9   大野城の門の数

 2万人 阿津賀志山防塁の守備兵の数

 4基 水戸城大手門瓦塀の数

 11か国 尼子氏が最盛期に支配下に置いた国の数

 4ヶ月 高田城の天下普請の建設期間

 16  「日本書紀」などに記載のない古代山城、神籠石系山城で西日本で確認された数

 300  江戸時代にあった城下町の数。現在人口10万人以上の都市の約半数は城下町を起源としている。

 

 

 

4 最近の城に関する情報を集める。

 城びと https://shirobito.jp/をよく読むことをおすすめします。

 https://shirobito.jp/article/rensai/11には

 城びとに最近の発掘関係の記事が更新されています。必読です。

 最近の発掘関係の記事がでています。

 

 出題者?らしい、加藤理文さんの投稿には要注意です。

 例えば、三戸城の発掘について、17回、18回の1級に、城びとの加藤さんの投稿から出題されていました。

  三戸城 令和元年度の発掘調査で、

      江戸時代初期の城を描いたとされる「古城ノ図」と同じ場所から石垣が検出され、

      本丸が石垣であったと判明した。

      検出された石垣は現地表面から1m下に位置し、高さは約1.6m「野面積」の石垣だった。

 

  

 

 


第49回ふうちゃんのお城ブログ 江戸城と青梅街道

2022-05-21 09:43:14 | 城郭検定

本ブログの前回第48回で、杉並区立三谷小学校3年間の校長在任中に

太田道灌と三谷小学校の位置との歴史的意味に気付くことが出来ず、

今、後悔していることにふれました。

https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/e0c1f6b893a100eb621846f1ee68abd0

同じようなことが

平成14年(2002)4月から平成18(2006)年3月まで

校長をしていた杉並第十小学校でもあったのです。

杉並第十小学校の最寄り駅、

地下鉄丸ノ内線東高円寺駅上に

青梅街道があります。

青梅街道の由来を書いた杉並区教育委員会作成の案内板が

道路近くにあります。

案内板は青梅街道の由来を紹介しています。

徳川家康が江戸城(天守)修築の城壁用に

武州多摩群の上成木村、北小曽根村(現青梅市)産出の

石灰を運ぶ道を大久保長安に開かせたのです。

平成6年作成の案内板の存在に気付き、その内容を知ったのは

つい最近令和3年(2021)のことなのです。

城の勉強を始め、江戸城に城としての興味をもってから、

この案内板に接することによって

その内容を読み解くことができました。

 

しかし、実は、これより16年前に青梅街道の由来に気付くチャンスがあったのです。

それは平成18年(2006)にです。

三谷小学校の創立50周年記念誌・副読本「新わたしたちの三谷」作成に、

校長としてかかわりました。

本ブログ第48回で「道灌橋ノ跡碑」の記述については触れました。

その際、副読本の中に青梅街道についての記載があることを

最近、再発見したのです。

それは、これです。

 前述した青梅街道案内版と同じ青梅街道の由来が記述してあります。

平成18年(2006)に校長として、

この副読本を発行したのですから

この頁はきちんと読んでいるはずです。

字面としては、読んでいても

意味内容を

実感として記憶に留めるような読み方をしていなかったことになります。

 

さて、

松江歴史館にあった「江戸始図」の発見によって

家康の作った江戸城の天守の様子が分かってきました。

それは江戸城が

姫路城に似ているということです。

白い漆喰の塗ってある白鷺城と呼ばれる姫路城です。

家康の江戸城の天守も白漆喰の塗ってあるお城だったのです。

その原料して、大量の石灰が必要だったことになります。

 

わたしは、かって以下のようなことを著書に書いたことがあります。

「民放で放送している「暴れん坊将軍」のタイトルバックに

江戸城に天守閣がでてくる。

吉宗時代の享保年間には、

火事で焼けていて天守閣はなかったそうだ。」

 

実は、このテレビの映像のロケ地が姫路城なのです。

吉宗時代享保年間の事として姫路城の天守を登場させるのは

歴史の事実と反するので好ましくないでしょう。

しかし、家康の時代の天守として姫路城でロケした映像を登場させるのは

具体的なイメージを与えると言う意味では「ありかな」とも

思います。

わたしが校長をしていた2つの学校が

青梅街道の由来という歴史的事実で

繋がったことに驚いています。

これも、お城の勉強をしたからだと思います。