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ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第74回ふうちゃんのお城ブログ 宇都宮城

2023-08-13 15:24:44 | 城郭検定

宇都宮は餃子で有名です。

新幹線を降りて、お城側の駅前の店に入りました。

餃子ライスで腹ごしらえをしました。

焼き餃子の焼き具合は見事でした。

食後タクシーで

宇都宮城址公園に向かいました。

歴史の舞台として宇都宮城が登場することがあるのです。

関東7名城の一つにもなっています。

宇都宮城址公園の入口、おほり橋で下車します。

宇都宮城址公園の掲示板の説明には、このように書いてあります。

「ここは、近世宇都宮城の本丸のあったところです。

宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいて本丸の一部を復元、

中心地市街の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、

 復元した土塁、堀、櫓、土塀は江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。

 宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館だと言われています。

中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っています。

江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。

 また、釣り天井伝説の舞台、関東七名城の一つして有名です。

 この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに

宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。宇都宮市」

赤印現在地は、おほり橋です。

上記の説明にあるように、

復元のお堀があり、土塁、白色漆喰の土塀が連なっています。

埋み門もあります。江戸時代にこんなお城があったのでしょう。

 

 宇都宮城を訪れる前、次のような城郭検定2級の過去問に目を通しています。

『写真の復元土塁と復元櫓は「釣り天井」の伝説』で知られる城のものである。

この城はどれか。」(この写真は問題とは別の写真です)

 

解説にも問題にも出てくる「釣り天井」については、

歴史資料が展示してある清明館に次のような解説がありました。

本多正純が宇都宮城主だった1622年、

2代将軍秀忠が日光社参を行いました。

秀忠は宇都宮城に宿泊する予定でしたが、

日光からの帰り道、

急に予定を変えて宇都宮城を避け、江戸に帰ってしまいます。

(*正純が釣り天井を仕掛け秀忠の暗殺を謀ったという噂が秀忠の耳に入ったからです。

実際に調べてみると釣り天井はありませんでした。)

その後、山形藩最上氏の改易にあたり、正純が幕府の命令で山形城受取に出向いた留守中、

突然宇都宮城を取り上げられてしまいます。

はっきりした理由はわかっていませんが、

家康死後の幕府内における権力闘争より、

旧権力の追い落としがはかられたのではないかと考えられています。

このとき、幕府は出羽由利郡5万石を与えようとしましたが、

正純はこれを固持したため幕府の怒りをかい、

出羽国横手に幽閉されたのちに73歳の生涯を閉じました。

*伊東が解説を加える。

 

 本多正純は家康の四人の重臣本多正信(どうする家康では松山ケンイチ演)の息子です。

 かなりの権力を持っていたため、反感を買うこともあったと思われます。

 小田原城の大久保氏などはその例ではないでしょうか。

 家康、正信の死後、

 父の傘をきて権力をもっていた正純には、反感を買い 

 権力闘争に巻き込まれ敗れたたのでしょう。

 

 宇都宮城が城郭検定取り上げられることはもう一つあります。

戊辰戦争で大鳥圭介と土方歳三らの旧幕府軍が新政府軍に勝利を治めたことです。

しかし、4日後に新政府軍に負けてしまいますが。

 連戦連敗、旧幕府軍の宇都宮城での勝利は、

 例え4日であっても

 価値あることとして

 とりあげられているのでしょう。

 宇都宮城の写真(櫓、土塁、土塀)を初めて見たとき立派なお城だと思い

行ってみたくなりました。土塁の中の本丸の空間が広々としていて見事でした。

 帰りに宇都宮の駅まで歩きましたが、

二荒山神社を中心に発展した町であることがよくわかりました。

 餃子だけでない宇都宮のよさを知りました。

 今回デジカメのファイルの不備であまり写真を掲載できませんでした。

 


第73回ふうちゃんのお城ブログ 高崎城と前橋(厩橋まやばし)城

2023-07-15 19:23:23 | 城郭検定

朝ドラでは植物学者牧野富太郎をモデルとした槙野万太郎の生涯を取り上げています。

玉川大学の研究室でご一緒したH先生が植物観察する様子を思い浮かべると、

植物音痴のわたしにも、

万太郎の植物観察の様子が

実感を伴って伝わってくるように思われるから不思議です。

 

さて、ここからがお城の話です。

城郭検定で「土居(土塁)上の樹木を一本ずつ調査し、その高さと樹種を描いた絵図が残っている城はどこか」

という出題がありました。

答えは高崎城です。

この城郭検定の問題を通して、この絵図のことを知りました。

城びと(日本城郭協会のhp)で調べてみました。

【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第34回 城内の樹木の役割1 (shirobito.jp)

加藤理文さんが次のようなことを書いていました。

 

高崎城(群馬県高崎市)では、文化14年(1817)に作成された

「御城御土居通御植物木尺附絵図(おしろおどいどおりおうえものしゃくつきえず)」が現存し

この絵図を見ると、全ての曲輪の縁辺部に樹木が植えられていたことが判明します。

しかも、全ての樹木の木の種類を特定し記録に残しているため、

厳重な管理下に置かれていたことがわかるのです。

樹木は、その大きさも表現されており、大木がほとんど存在しないことも解り、

さらに曲輪内には小木一本すら植えられていなかった様子も見て取れます。

このように城内の樹木は徹底的に管理されていたのです。

当然、樹木だけを管理する仕事があり、

それを任せられた家臣が存在したのです。

 

土造りの城であったため、当初は内部を隠す目的で植えられたと考えられます。

巨木になれば管理も大変になるので、そうならないよう万全の管理体制が敷かれたと

推定されます。

 

朝ドラの槙野万太郎、玉川大学のH先生、城郭検定の絵図が折り混ざり

わたしを高崎城に導いたのです。

高崎駅からタクシーで高崎城水堀の辰巳橋へ

看板に従い現存の乾櫓まで、

「御城御土居通御植物木尺附絵図」や

植物の管理をしていた高崎城の家臣に

思いをはせながら、今の高崎城の土居を歩いてみました。

ただの土塁とそこに植えてある樹木が趣のあるものに見えてきます。

軽井沢の家に多くの樹木があるのですが、

管理に意外と手間と費用がかかります。

木々の1本1本にまで目を光らせて

律儀に天職として木々の管理をしたであろう家臣の心を思い描きながら

この土居を歩くのです。

そして、乾櫓に到着です。

その隣には東門がありました。

帰りは、

同じ土塁の植えを通り、辰巳橋の先までお濠の様子を観察しました。

タクシーに乗るほどの距離でないことを確かめながら高崎へ向かいました。

 

次は前橋城、かつては厩橋(まやばし)と呼ばれました。

群馬県の県庁所在地前橋市にあります。

戦国時代、この城をめぐって多くの戦国武将が行き交いました。

上杉謙信、北条(きたじょう)高広、滝川一益、浅野長政、徳川家康など武将の名が浮かんできます。

関東7名城の一つに数えられています。

遺構として

土塁(群馬県庁北側、前橋公園内等)

石垣「前橋城車橋門跡」(大手町2丁目)

あげれられています。

ここでもタクシーを使いました。

しかし、運転手さんが連れて行ってくれたのは県庁北側の土塁です。

車場橋門跡のことを言っても全く不案内。

ほとんど、ちんぷんかんぷんです。

これは、独自に探すしかないと諦めました。

では、まず、運転手さんが連れて行ってくれた土塁です。

これが碑です。

その解説です。

この碑が土塁の上にのっています。

見事な土塁が続きます。

この日は土塁の草刈りをやっていたので

土手の様子がよく見えました。

 

土塁はよくわかりましたが、

石垣の遺構大手町2丁目の車橋門跡の石垣の遺構です。

大手町2丁目前橋市役所近くの交差点で

「車橋門跡」を昼食に出掛けた市役所の職員と思われる人に

何人か聞いてみました。

これが、誰も知らないのです。

文化財なんてものはこんなもでしょうか。

タクシーの運転手が知らないのは無理もないことかもしれません。

しかし、あったのです。

市の施設です。

どこだと思いますか。

観光案内所ではありません。

前橋市立図書館です。

まず、受付へ。

おそらく司書と思われる方が対応。

2階の調査課へ行ってください。

2階の調査課では

交番にあるような地域の大きな地図もってきて

位置を示してくれる。

「日本経済新聞と美容院の細い道の奥にあります。」

そして、窓際に案内し外を見ながら

「あのビルの向こうです。」

「ここ図書館をでたら

背中を左にして

あの道路へでてください。」

案内は完璧でした。

日本経済新聞と美容院の間に石垣があったのです。

この石垣が現れました。

 

 

探していた遺跡に廻り会えた喜びは何物にも代えがたいものがあります。

地域の図書館の情報センターとして機能を見直すことができます。

城むぐりにはもっと地域の図書館を活用すべきだともいます。

大田区立洗足池図書館には勝海舟コーナーがあります。


第71回ふうちゃんのお城ブログ 足利氏館・鑁阿寺(ばんなじ)足利学校

2023-06-06 10:14:00 | 城郭検定

4年ぶりの都小社OB会の研修旅行で

足利氏館と足利学校にいきました。

日本百名城の足利氏館を訪れるのは

久しぶりです。

掘と土塁に囲まれた方形の中世の武家館を味わうことができます。

甲府市にある武田氏館の武田神社

山口市の大内氏館

米沢市の米沢城・上杉神社も同様な掘と土塁に囲まれた武家館です。

掘と土塁と腰巻き石垣になっています。

ここ足利氏館は

鑁阿(ばんな)寺というお寺になっています。

2013(平成25年)本堂が国宝になりました。

屋根に唐破風があります。

柱状の軒を支える組み物に特徴があるそうです。

 

次は、お城ではありませんが

足利学校です。

日本で最も古い学校と言われています。

前回足利氏館を訪ねたときには、

時間の都合もありましたが

足利学校は訪ねませでした。

隣にある足利学校も中世の館のように

掘と土塁で囲まれていることを

今回改めて再認識しました。

外から見たとき、

一瞬、足利氏館と見まちがうほどでした。

土塁の中の建物が足利学校です。

これが有名な学校門です。

今回、わたしが足利学校で個人的に大発見をしました。

それがこれです。

華頭窓の中にある小野篁像です。

格式ある寺院建築の華頭窓。

お城の天守などにある華頭窓。

ここ足利学校の華頭窓の中にある小野篁像。

感動しました。

それに、先日、訪ねた町田市の小野路にある小野神社が

小野篁の子孫と関係があるということでした。

今回も点から線へ知識が広がる旅をすることが

できました。


第70回 ふうちゃんお城ブログ 茅ヶ崎城と小机城

2023-05-22 20:22:52 | 城郭検定

今回のお城めぐりは初めて乗る電車で始まります。

日吉、新横浜間を走る東急新横浜線です。

わたしは、大岡山(奥沢・田園調布経由)から新横浜まで

相鉄線西谷行きの電車に乗りました。

小机城は今回が4回目、本ブログでも

第2回

第2回ふうちゃんのお城ブログ 我が家から近い城(小机城) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

第25回

第25回ふうちゃんのお城ブログ 城めぐり再開(小机城へ) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

第62回

第62回ふうちゃんのブログ 滝山城 - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

と3回にわたって取り上げています。

今回は西曲輪(地図では本丸)と東曲輪(地図では二の丸)の間にあって土塁のように見えていた

帯曲輪を取り上げます。

帯曲輪です。

矢倉(櫓)があったのですね。

小机城の中では最も高いところに位置します。

土塁の上に広い空間があります。

これは曲輪なんですね。

 

西曲輪(本丸)です。

 

東曲輪(二の丸)です。

帯曲輪は東西2つの曲輪を繋ぐように中間に位置します。

帯曲輪は、下から敵が攻めてきたとき

次の作戦に移るための

重要な位置であることを

伊東潤さんの解説で理解することができました。

例えば、東曲輪(二の丸)から攻めてくる敵を東曲輪(二の丸)に引きつけて攻め込ませます。

わざと味方は西曲輪(本丸)まで引きます。

そのようす(戦況)を帯曲輪で監視します。

ここから東曲輪(二の丸)の様子を監視したのでしょうね。

ときには攻撃することもありますが、監視と情報の伝達が大切な任務です。

監視からの情報を得て、西曲輪(本丸)では用意万端整え迎え撃ちます。

というようなことです。

下のような空堀を越えなければ西曲輪(本丸)にはたどり着きません。

西曲輪(本丸)を囲む空堀のスケールの大きさです。

 

滝山城と比べてもひけをとらない

北条氏の技術が生かされていると思います。

実際に掘を上からみたり、降りてみて

改めて実感しました。

城は何度行っても学ぶところがあります。

 

小机城の次に向かうのは茅ヶ崎城です。

茅ヶ崎城というとサザンオールスターや湘南海岸をイメージするかも知れません。

しかし、横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目(横浜市営地下鉄センター南駅徒歩6分)にあります。

わたしは初めて横浜市営地下鉄にも乗りました。

市営地下鉄新横浜駅から南センター向います。

この掲示版には、

『茅ヶ崎城址は「空堀」「郭」「土塁」などが良好な状態で残る貴重な中世城郭遺跡です。

早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されています。

茅ヶ崎城は14世紀末から15世紀前半に築城された推定され、

15世紀後半に最も大きな構えになります。

16世紀中頃には二重土塁とその間に空堀が設けられました

(この築城方法は後北条氏独特のもととされる)

築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や

後北条氏(戦国時代)が関与したと推定されます。

16世紀末までには、城としての役割は終わります。

江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され

「城山(じょうやま)」という地名とともに、今日まで保存されてきたのです。 

茅ヶ崎城址は、貴重な歴史遺産なのです。』

という説明があります。

別な資料には

『早渕川南岸の舌状台地を堀切で先端部を独立させ、

内部に中郭・東郭・西郭・北郭・東北郭・腰郭の主要な6つの郭を造り

周囲に複数の平場を設けています。

 15世紀後半までに西郭、中郭、東郭、北郭が造られ、

16世紀中頃には腰郭・東北郭の構築や空堀の壕直しが行われるなど

大まかに二期に分けて築城されたと考えられています。

城の周囲からは14世紀の板碑や火葬臟骨器が見つかっており、

城の成立がさらにさかのぼる可能性もある。』

-横浜市指定史跡 茅ヶ崎城址 横浜歴史博物館より-

今実際に見学できるのは 中郭、東郭、西郭・北郭です。

 

中郭 倉庫が建っていた。今、その遺構(礎石がある)

 

北郭 井戸跡がある。直径約4m 深さ約5m 水がたくさん湧いていた。

城には飲料水が必要です。

 

東郭 城の中で最も高いところに位置し

眺めが良いところで本丸だと考えられています。

「中原街道」や「矢倉沢街道」の街道筋を見渡せるほど見晴らしがよいため

物見台の役割をもっていました。

端の土塁が比較的よく残っています。

 

西郭  近くに一番長く深い壕があります。

交通の要所に造られた城のようですが、静かなたたずまいの住宅地の中にありました。

 

今回、小机城、茅ヶ崎城と伊東潤ファングループの城めぐりに参加しました。

最前列正面ビニル傘と毘沙門天の帽子が伊東潤さん、その真後ろがわたし伊東冨士雄です。

さすが、現役の歴史作家のお城の知識は素晴らしい。

ありがとうございました。

 

 


第65回ふうちゃんのお城ブログ ーふうちゃんのファミリーヒストリー(江戸城の石垣)

2023-02-04 14:24:09 | 城郭検定

東京都大田区本羽田に羽田山長照寺という日蓮宗のお寺があります。

創建は1550から98年といわれている古刹です。

ふうちゃんの菩提寺です。

このお寺の1000ある墓地の3分の1が「伊東」家なのです。

羽田空港のある大田区羽田には「伊東」という姓が多いのです。

友人が校長をしていた大田区羽田小学校(ふうちゃんの両親の母校)では

伊東姓の子どもはファーストネームで呼ばれています。

 

一般に、「お名前は」と聞かれて

「いとう」と答えると

「伊藤」と理解されることが多いです。

わざわざ「東」の「いとう」です

と言わないと

「伊東」と理解してもらえません。

 

このお寺を訪問し住職さんから

羽田の伊東のルーツ「ふうちゃんのルーツ」についての話を聞きました。

 

住職さんの話を聞く前の

羽田の「伊東」についてのふうちゃんの理解は

以下の通りです。

半島半島にある伊東の伊東祐親(すけちか)にかかわっていた人たちが

羽田に来て漁師になったというのです。

母の従弟(故人)からおぼろげながら聞いた話です。

御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機の垂直尾翼は

伊豆半島下田沖に落下し

東京湾の入口で発見されました。

確かに伊豆半島冲から東京湾の入口への

潮の流れがあることがわかりました。

 

鎌倉殿の13人にも伊東祐親(浅野和之演)は登場しました。

八重(新垣結衣演)さんの父親、

義時(小栗旬演)の祖父です。

祐親は平家側で

頼朝(大泉洋演)を預かっていましたが、

頼朝は政子の父北条時政を頼り、

祐親は殺されます。

ふうちゃんお先祖は

鎌倉時代のこの時、

羽田に逃げてきたのではないかと勝手に思っていました。

我が家も曾祖父の時代まで

羽田で漁師をしていたことが分かっています。

 

前置きはさておき、

ここからは住職さんの話です。

徳川家康が江戸城をつくるとき

石垣の石を伊豆半島の伊東からも

切り出して船でで運んで江戸にもってきました。

その仕事に伊東家のご先祖がかかわっていたというのです。

仕事が済んだ後

伊豆伊東には帰らず

江戸に残って住み着いた。

羽田にも住み着いた人たちがいたのです。

伊豆は日蓮聖人が流された土地で

日蓮宗の信者が多かったようです。

そこで、羽田に住み着いた人々は

日蓮宗の古刹である長照寺の檀家になったのでしょうか。

 

この話から

伊東祐親から我が家・ふうちゃんまでの空白の部分がつながりました。

鎌倉時代ではなく、

江戸時代に伊東から江戸・羽田に来たのです。

徳川家康は江戸に多くの人々を各地から集めました。

我が伊東家も家康によって江戸に集められた一員であったのです。

わたしは、家康以前のネーチーブ江戸人だと思っていましたが

そうではありませんでした。

 

これから江戸城の石垣をみるとき

我がご先祖様が運んできた石で出来ている。

家康の下で先祖様は仕事をしていたんだと

思うことにします。

石垣の黒い石は伊豆石(安山岩)です。

お城の勉強を始めて6年になります。

私の先祖が江戸城づくりにかかわっていたなんて、

思いもよらない大きな発見です。

真っ先にわたしのお城の師匠故杉渕尚さんに報告したい出来事です。

https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/33d1ed53e559ddd89008e7062e69c091

 

追伸 春のお彼岸の一日

杉渕さんのお墓参りに行くことが出来ました。

大宮にある広々とした霊園の中にありました。

わたしのこの間の城についての思いを報告しました。

・城郭検定試験一級合格

・伊東家のファミリーヒストリーなど