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史跡湯島聖堂(1797/1935) Yushima Confucian Temple


 湯島聖堂は元禄3年1690年、将軍綱吉(正保3年1646-宝永6年1709)がこの地に孔子廟を祭ったのが始まり。綱吉の母桂昌院(寛永4年1627-宝永4年1705)もここにきて、以下を詠じた。
「萬代の秋もかぎらじ諸ともに もうでて祈る道ぞかしこき」
寛政9年1797年将軍家斉(安永2年1773-天保12年1841)のときに、規模を拡大し、昌平坂学問所として整備した。朱舜水(万暦1600-天保2年1682)がもたらした孔子廟の模型を参考にしたとされる。江戸時代の川柳「三度目に昌平坂の下へ越し」は学問所が教育ママを生み出したことをからかっている。湯島天神のすぐそば。お茶屋の並ぶ湯島のすぐそばに、堅い朱子学を講じる殿堂があったことになる。
 大正から昭和前期に活躍した歌人,法月(のりずき)歌客は、以下のように
詠じている。
「これやこの孔子の聖堂あるからに幾日湯島にい往きけむはや」
 明治に入ってから聖堂は博覧会の会場として使われている(明治5年1872年3月)。博物館の場所としてまず使われた。博物館そのものは明治6年1873年に移転している。その後は、東京師範、東京女子師範の校舎として使われたとされる。
 江戸時代の建物が残されていたが、そのほとんどを大正12年1923年の関東大震災で焼失した。しかし伊藤忠太の設計を得て昭和10年1935年に鉄筋コンクリート造りにて再建された(大林組により昭和9年1934年9月竣工 また1986年から1993年まで大林組により保存修理工事が行われた)。メインの建物である大成殿の大きさは間口20m,高さ14.6mである。
 聖堂の構内には大正4年1915年、中国曲阜より持ち帰られた実から育てられた櫂の木が枝を伸ばし、そのそばに昭和50年1975年台北市ライオンズクラブ寄贈の丈高15尺4.57m孔子像が我々を見守り立っている。

   さだまさし(昭和27年1952-)は「レモン」(昭和53年1978)という曲のなかで、湯島聖堂の石段を歌っている。
 あの日 湯島聖堂の 
 白い 石の階段に腰かけて
 君は 陽だまりの中へ 
 盗んだ レモン細い手でかざす
 それを 暫く見つめた あとで 
 きれいねと 言ったあとで かじる
 指の 隙間から青い空に
 カナリヤ 色の風が舞う
 食べかけの レモン 聖橋から放る
 快速電車の赤い色が それとすれ違う
 川面に 波紋の広がり数えたあと
 小さな ため息交じりに振り返り
 捨て去る ときにはこうしてできるだけ
 遠くへ投げ上げるものよ

 歌詞に湯島聖堂は出てこないものの、プロモーションビデオを湯島聖堂を中心に撮ったことで、注目されてよいのが堀内孝雄(昭和24年1949-)の「聖橋の夕陽」(平成29年2017 作詞石原信一)だ。
 学生街の坂道で 偶然きみに逢うなんて
 白髪の混じる 齢なのに
 ときめく胸がよみがえる
 何を話せば いいんだろう
 あの頃のきみがそこにいる
 変わりゆくこの街かどに 色あせぬ青春がある
 きみを傷つけたことがあったから
 今が幸せと聞いてよかった・・・
 聖橋から眺める夕陽 
 川がまぶしく 時はたたずむ
 戻らない想い出に恋をする

 なお湯島聖堂について、記憶せざるを得ない事件が最近起きた。2018年4月11日に生じた木製案内板の倒壊事故だ。たまたま通行していたアイドルグループ仮面女子の猪狩ともかさんが、この湯島聖堂案内板の下敷きになり、脊髄損傷、両下肢まひの大けがをした。湯島聖堂は、江戸時代からの学問の雰囲気を伝える貴重な空間だ。学問とは人を育てることだ。聖堂の本旨とあまりにチグハグなこの事件を形容する適切な言葉を今も思いつかない。

JR御茶ノ水駅東口から聖橋渡りすぐ。
このほかの写真 ➵ Note #史跡湯島聖堂
丹念な記録として  日本近代教育発祥の地 湯島聖堂 2019/05/26
江戸期の姿      聖堂(江戸名所図会)

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