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油麻地の街角から

From Yaumatei

1月2日 フジテレビ 「カンフーハッスル」公開記念スペシャル番組放映

2004-12-25 | 映画
25:55 映画「カンフーハッスル」公開記念!ありえね~!天下一武道会スペシャル
26:55 新春映画スペシャル 「食神」

『天下一武道会』って、『ドラゴンボール』の武闘会のはずなんだが、、、。うーん、『ドラゴンボール』を実写にすると『カンフーハッスル』になるという説は、支持しないわけではないが、「ありえねー」というキャッチコピーといい、ドラゴンボール世代以下をこの映画のターゲットと見て、プロモーションをかけているのだろうか。
せっかくのお正月公開なのだから、「寅さん映画を見ないと正月がこねぇ」と、言っていたおじさん、おばさんにこそ見ていただいて、初笑いを楽しんで欲しいのだが、やはり周星馳の毒を含んだ笑いは万人受けするところまではいかないだろうなぁ。(溜息)


本当に走っていたメリクリバス

2004-12-25 | 交通
kmb下の記事で『生誕快樂』行きのバスって、走ってないだろうなぁ、と、言っていたら、本当に走っているようだ。
もっとも発見例は九龍巴士(KMB)で、こっちは『恭祝生誕』の表示。
詳しくは、『飮茶天国』http://skuri.exblog.jp/をご覧ください。

写真は、緑悠悠環保巴士。特殊金属顔料のため、光の反射角度変化によって外装の色が緑、紫、銀色に変化する。金色のバスといい、この会社はぴかぴかが好きだなぁ。

九龍巴士(KMB)
http://www.kmb.hk/


聖誕快樂行、城巴(City Bus)

2004-12-23 | 交通
xmas-2004-T1城巴(City Bus)のホームページを見ていたら、左のようなバスの行先表示の写真が出ていた。
ホームページ上のお遊びで実際にはこのような表示で街中を走っていることはないと思うのだが、この表示板は走行中に複数画面を切換表示できるので、もしや実際に、、とも思うが、まさかそんなことはあるまい。
聖誕快樂行のバスが本当にあるとしたら、海洋公園へ行くのだろうか、、、。

城巴(City Bus)
http://www.citybus.com.hk/


油麻地で泊まるならココ!星皇酒店(The Grand Palace Hotel)

2004-12-20 | 
いったいどこがグランドパレスなのかは知らないが(元大統領が宿泊するわけでもなし)、星皇酒店のホームページがいつのまにかできていた。
今から5年前に、ホームページを作れと何度言っても作ってくれなかったので、仕方なく私が勝手に作ったのだけど、やっと必要性がわかったらしい。

ここをおすすめするのはなんと言ってもその安さ、シングルが300ドル台の料金で宿泊可能だ。
安いだけに部屋は狭い、セミダブルベッド以外を部屋に置く場所がないからテレビは非常に見にくい位置の空中に取り付けられ、バスルームはバスタブが無くシャワーだけ、ドアはジャッキーチェンが蹴ったら壊れそうという、それなりのホテルではある。
しかし二方向に広い窓があるため、部屋の狭さはあまり苦痛ではない。高い階の東南の部屋であれば、南に香港島のピーク(ビルの隙間だけど)、東に海(クレーン船と作業船しか見えないけど)の景色が見え、開放感を満喫できる。これを笑うなかれ、いったい香港のホテルで、眺めの美しいどころか、陽の射す部屋がいったいいくつあることか。

ロケーションは油麻地駅から徒歩3分、香港人の生活の中にとけ込みたいあなたにはぴったりの場所である。是非一度お試しあれ。(期待はずれだったらすみませぬ。)

星皇酒店(The Grand Palace Hotel)
http://www.grandpalace.com.hk/



1941年12月25日 香港 ブラッククリスマス

2004-12-18 | 国際・政治
3年と8ヶ月、香港がイギリスの統治下にない空白の時代があった。
1941年(昭和16年)12月8日、日本が戦端を切ったのはハワイの真珠湾(パールハーバー)だけではなく、香港もそのひとつだった。当時香港に駐留していた英国軍は押されるに任せ、わずか17日後の12月25日ついに香港は陥落した。
日本軍の植民政策は他のアジア諸国と同様、現地の人々に苦渋を嘗めさせた。治安対策として始められた強制移住により、「乞食」や「抗日分子」が海に突き落とされて処分されたと言われている他、食糧が逼迫したため、大陸、離島島への強制追放が行われた。その結果占領当初150万人いた香港の人口が終戦時には50~60万人までに減少した。

また当初香港ドルと軍票の流通が併用されていたものが、1943年には軍票に一本化され、強制的にドルを軍票に交換させられ、香港ドルは使用が禁止された。そしてその軍票には「日本銀行券に交換できる」と裏側に印刷されていた。
終戦時に市中に残っていた軍票の総額は12億円(当時)であったが、サンフランシスコ講和条約発効後、イギリスが日本に対する賠償権を放棄したため、イギリスの植民地であった香港居民は賠償(軍票の交換)請求ができなくなってしまった。
その後、日本政府はサンフランシスコ講和条約を楯にとって、軍票問題に対しての保証をしていない。香港索償協会が日本政府を相手取って起こした裁判でも、やはりサンフランシスコ講和条約が理由となり、補償を認めないという判決が1999年に出された。

香港の人たちにお詫びをしなければ、などと思ってもらわなくてもいい。つねに「前」しかない香港人は、過去のことは気にしないのだから。

でも、彼らはそれを知っていることだけは、心の片隅に覚えておきたい。

参考図書
小林英夫 「日本軍政下のアジア-「大東亜共栄圏」と軍票-」 岩波新書(311) ISBN4004303117(絶版?)
津田邦宏 「観光コースでない香港-歴史と社会・日本との関係史」 株式会社高文研 ISBN4874982298