3年と8ヶ月、香港がイギリスの統治下にない空白の時代があった。
1941年(昭和16年)12月8日、日本が戦端を切ったのはハワイの真珠湾(パールハーバー)だけではなく、香港もそのひとつだった。当時香港に駐留していた英国軍は押されるに任せ、わずか17日後の12月25日ついに香港は陥落した。
日本軍の植民政策は他のアジア諸国と同様、現地の人々に苦渋を嘗めさせた。治安対策として始められた強制移住により、「乞食」や「抗日分子」が海に突き落とされて処分されたと言われている他、食糧が逼迫したため、大陸、離島島への強制追放が行われた。その結果占領当初150万人いた香港の人口が終戦時には50~60万人までに減少した。
また当初香港ドルと軍票の流通が併用されていたものが、1943年には軍票に一本化され、強制的にドルを軍票に交換させられ、香港ドルは使用が禁止された。そしてその軍票には「日本銀行券に交換できる」と裏側に印刷されていた。
終戦時に市中に残っていた軍票の総額は12億円(当時)であったが、サンフランシスコ講和条約発効後、イギリスが日本に対する賠償権を放棄したため、イギリスの植民地であった香港居民は賠償(軍票の交換)請求ができなくなってしまった。
その後、日本政府はサンフランシスコ講和条約を楯にとって、軍票問題に対しての保証をしていない。香港索償協会が日本政府を相手取って起こした裁判でも、やはりサンフランシスコ講和条約が理由となり、補償を認めないという判決が1999年に出された。
香港の人たちにお詫びをしなければ、などと思ってもらわなくてもいい。つねに「前」しかない香港人は、過去のことは気にしないのだから。
でも、彼らはそれを知っていることだけは、心の片隅に覚えておきたい。
参考図書
小林英夫 「日本軍政下のアジア-「大東亜共栄圏」と軍票-」 岩波新書(311) ISBN4004303117(絶版?)
津田邦宏 「観光コースでない香港-歴史と社会・日本との関係史」 株式会社高文研 ISBN4874982298
1941年(昭和16年)12月8日、日本が戦端を切ったのはハワイの真珠湾(パールハーバー)だけではなく、香港もそのひとつだった。当時香港に駐留していた英国軍は押されるに任せ、わずか17日後の12月25日ついに香港は陥落した。
日本軍の植民政策は他のアジア諸国と同様、現地の人々に苦渋を嘗めさせた。治安対策として始められた強制移住により、「乞食」や「抗日分子」が海に突き落とされて処分されたと言われている他、食糧が逼迫したため、大陸、離島島への強制追放が行われた。その結果占領当初150万人いた香港の人口が終戦時には50~60万人までに減少した。
また当初香港ドルと軍票の流通が併用されていたものが、1943年には軍票に一本化され、強制的にドルを軍票に交換させられ、香港ドルは使用が禁止された。そしてその軍票には「日本銀行券に交換できる」と裏側に印刷されていた。
終戦時に市中に残っていた軍票の総額は12億円(当時)であったが、サンフランシスコ講和条約発効後、イギリスが日本に対する賠償権を放棄したため、イギリスの植民地であった香港居民は賠償(軍票の交換)請求ができなくなってしまった。
その後、日本政府はサンフランシスコ講和条約を楯にとって、軍票問題に対しての保証をしていない。香港索償協会が日本政府を相手取って起こした裁判でも、やはりサンフランシスコ講和条約が理由となり、補償を認めないという判決が1999年に出された。
香港の人たちにお詫びをしなければ、などと思ってもらわなくてもいい。つねに「前」しかない香港人は、過去のことは気にしないのだから。
でも、彼らはそれを知っていることだけは、心の片隅に覚えておきたい。
参考図書
小林英夫 「日本軍政下のアジア-「大東亜共栄圏」と軍票-」 岩波新書(311) ISBN4004303117(絶版?)
津田邦宏 「観光コースでない香港-歴史と社会・日本との関係史」 株式会社高文研 ISBN4874982298