やっと

2006-08-31 00:40:11 | ひとりごと

【やっと】2006・8・31


2006年の夏がようやく終わりました


永かった夏が・・・


夏と言っても“夏休み”の期間が終わるということで


2006年水泳シーズンはまだ終了ではありません


 


これほど『永かった』と感じた“夏休み”はあったかどうか


なぜ『永かった』と感じたのか・・・


 


その期間が長かったのではなく、1日が長かったからだろう


“夏休み”になった所から選手の練習時間がAM6時30分からになる


これはすでに7~8年やっていることなので、今年だけが特別だったわけではないから慣れている


毎年、午前中から特別教室の指導あるいはバスの運転をして、午後からは通常教室の指導に入る


けっこうクタクタになるが、慣れてくれば上手く体が順応してくれるので、毎年体力的には問題ない


今年の夏も基本的にはそうだった


今までの夏と違ったこと・・・


 


体はクタクタなのに、眠れなかった


2ヶ月ほど「あ~良く寝た!」なんて思ったことは一度もない


 


眠いんです


でも・・・


寝てから3~4時間後には必ず目が覚める


いい時はまた寝れる


ひどい時はもう寝れない


少しマシな時は寝たのか起きていたのか分からない


 


この夏、目覚ましのセット時間はAM5時


例年ならぐずぐずしながら目覚ましに起こされているのだが


今年の夏は目覚ましに起こされたことは・・・ない


一度も・・・ホント一度もない


必ず目覚ましより前に起きていた


いつも朝は眠くてたまらない合宿中でさえ


目覚まし不要状態・・・


 


一年で一番忙しい繁忙期の“夏”がやっと終わる


これで通常の生活リズムに戻ることになるが


私には昔みたいに“熟睡”できる日が戻ってくるのだろうか・・・不安です


 


それにしても本当に永かった“夏”が終わります


 


2006・8.31


From Ken-O


 



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不眠の夏

2006-08-30 23:30:52 | ひとりごと

やっと


 


2006年の夏がようやく終わりました


永かった夏が・・・


夏と言っても“夏休み”の期間が終わるということで


2006年水泳シーズンはまだ終了ではありません


 


これほど『永かった』と感じた“夏休み”はあったかどうか


なぜ『永かった』と感じたのか・・・


 


その期間が長かったのではなく、1日が長かったからだろう


“夏休み”になった所から選手の練習時間がAM6時30分からになる


これはすでに7~8年やっていることなので、今年だけが特別だったわけではない


毎年、午前中から特別教室の指導あるいはバスの運転をして、午後からは通常教室の指導に入る


けっこうクタクタになるが、慣れてくれば上手く体が順応してくれるので、毎年体力的には問題ない


今年の夏も基本的にはそうだった


今までの夏と違ったこと・・・


 


体はクタクタなのに、眠れなかった



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言葉とともに

2006-08-30 00:39:20 | 宝物

【言葉とともに】2006・8・29


〉言葉には


〉私の感情や


〉私の表情や


〉私の声とそのトーンや


〉私の身振り手振りが伴っているはずである


〉だから


〉私の“こころ”が少しは伝わる可能性はあるかもしれない


 


それと同時に相手の“こころ”も少し見えてくる


 


会話をするということはどういうことなのだろうか?


 


言葉を投げる


頭で言葉を並べる、そしてその言葉を組み合わせて、声にする


言葉を受ける


耳から聞こえた言葉を頭で並べる、そしてその言葉の意味を考え理解する


 


言葉とともにあるもの・・・


それが相手の表情である


 


そこに相手の表情があるからこそ、言葉は生まれる


相手の表情をなくして言葉など生まれはしない


 


〉相手の表情や声のトーンなどから


〉言うことを差し替えたりもする


〉それこそが相手への思いやりのひとつなのではないだろうか


〉相手を傷つけまいと


〉相手に理解してもらおうと


〉その時の相手の表情や声のトーンなどから言葉を選ぶ


〉それをするから


〉お互い分かり合える・お互いに理解し合える可能性が生まれるのだ


 


難しいボール(言葉)を投げてみる


返すボール(言葉)を捜しているが見つからない


相手の表情を見て違うボール(話題)に変えてみる


別のボール(話題)でキャッチボールを続けている


しばらくしたら、また元のボール(話題)に変えてみる


すると捜していたボール(言葉)が見つかった


 


話が行き詰る


相手の顔を見てみると


向こうもこちらを見ている


目と目が合う


お互いに微笑む


そしてまた、話を始める


 


そこに表情と声を持った相手がいるから生まれる“キャッチボール”


これが会話であると思う


 


相手がいなければ、投げたボールは自分で拾いに行くしかない


 


〉文字だけでは感情も表情も覗い知ることができない


〉だから


〉お互いの思いは単なる一方通行にしかならないのか・・・


〉自分の思いを相手に押し付けようとするだけになってしまうのか・・・


 


これでは“キャッチボール”にならない


だから会話として成立しない


 


〉言葉こそがコミュニケーションの全てである


 


言葉とともにあるもの・・・


それが相手の表情である


 


そこに相手の表情があるからこそ言葉は生まれる


相手の表情をなくして言葉など生まれはしない


 


 


 


824日に書いた日記を何度も何度読み返してみた


自分で書いたのに


自分で何度も何度も読む・・・


たぶん、“ひたすらに”を


見た人の中で一番何度も読んだのは私だと思う


ちょっとおかしな行動かもしれませんね


 


〉文字であって言葉ではない


〉言葉こそがコミュニケーションの全てである


〉文字ではその代わりは務まらない


 


そうだったのか・・・


私はメールやブログでコミュニケーションを図ろうとしていたということなのか・・・


考えなくたって、それでコミュニケーションなど図れないことは簡単に分かるはずなのに、私はそんなことに気付いていなかったのだろうか・・・


そんな自分に少しショックを受けた


 


〉では


〉ブログを書くのは辞めるのか?


〉・・・・・・


 


日記(ブログ)を書く意味が分からずに書かずにいた


自分が書いてきた日記を読み返してみる


自分の日記だから読み返す


ブログだけど、自分の日記だから


・・・・・・


 


ある人がメールを送ってくれました


「更新されていませんけど、ヤバイ病気ですか?」


ある人が声を掛けてくれました


「もうブログは書かないの?」


ある人がコメントしてくれました


「応援しています!」


 


私の文章から何かを感じたり、考えたり、想像したり・・・


本当にそんな人がいてくれるようです


 


ある人に言われました


「文章でも想いは伝えられるじゃない」


 


そうだ・・・


確かにコミュニケーションは図れない


でも


自分の想いは伝えられるかもしれないし、読んだ人が何かを考えるきっかけになることだってあるかもしれない


 


私、やっぱり文章を書くことが大好きです


上手くは書けないかもしれないけど、文章を書くことは楽しいです


不思議です


昔は作文なんて大嫌いだったのに・・・


学生時代にやたらとレポートを書かされた


卒業論文は手書きで原稿用紙50枚


やらされてやっていたことでも知らないうちに好きになることもあるんですね


『今』はたくさんレポートを書かされたことにすごく感謝しています


 


2006・8・29


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キャッチボール

2006-08-29 23:29:55 | ひとりごと

言葉とともに


 


〉言葉には


〉私の感情や


〉私の表情や


〉私の声とそのトーンや


〉私の身振り手振りが伴っているはずである


〉だから


〉私の“こころ”が少しは伝わる可能性はあるかもしれない


 


それと同時に相手の“こころ”も少し見えてくる


 


会話をするということはどういうことなのだろうか?


 


言葉を投げる


頭で言葉を並べる、そしてその言葉を組み合わせて、声にする


言葉を受ける


耳から聞こえた言葉を頭で並べる、そしてその言葉の意味を考え理解する


 


言葉とともにあるもの・・・


それが相手の表情である


 


そこに相手の表情があるからこそ、言葉は生まれる


相手の表情をなくして言葉など生まれはしない


 


〉相手の表情や声のトーンなどから


〉言うことを差し替えたりもする


〉それこそが相手への思いやりのひとつなのではないだろうか


〉相手を傷つけまいと


〉相手に理解してもらおうと


〉その時の相手の表情や声のトーンなどから言葉を選ぶ


〉それをするから


〉お互い分かり合える・お互いに理解し合える可能性が生まれるのだ


 


難しいボール(言葉)を投げてみる


返すボール(言葉)を捜しているが見つからない


相手の表情を見て違うボール(話題)に変えてみる


別のボール(話題)でキャッチボールを続けている


しばらくしたら、また元のボール(話題)に変えてみる


すると返ってこなかったボール(言葉)が見つかった


 


話が行き詰る


相手の顔を見てみると


向こうもこちらを見ている


目と目が合う


お互いに微笑む


そしてまた、話を始める


 


そこに表情と声を持った相手がいるから生まれる“キャッチボール”


これが会話であると思う


 


相手がいなければ、投げたボールは自分で拾いに行くしかない


 


〉文字だけでは感情も表情も覗い知ることができない


〉だから


〉お互いの思いは単なる一方通行にしかならないのか・・・


〉自分の思いを相手に押し付けようとするだけになってしまうのか・・・


 


これでは“キャッチボール”にならない


だから会話として成立しない


 


〉言葉こそがコミュニケーションの全てである


 


言葉とともにあるもの・・・


それが相手の表情(顔)である


 


そこに相手の表情(顔)があるからこそ言葉は生まれる


相手の表情(顔)をなくして言葉など生まれはしない


 


 


 


824日に書いた日記を何度も何度読み返してみた


自分で書いたのに


自分で何度も何度も読む・・・


たぶん、“ひたすらに”を


見た人の中で一番何度も読んだのは私だと思う


ちょっとおかしな行動かもしれませんね


 


〉文字であって言葉ではない


〉言葉こそがコミュニケーションの全てである


〉文字ではその代わりは務まらない


 


そうだったのか・・・


私はメールやブログでコミュニケーションを図ろうとしていたということなのか・・・


考えなくたって、それでコミュニケーションなど図れないことは簡単に分かるはずなのに、私はそんなことに気付いていなかったのだろうか・・・


そんな自分に少しショックを受けた


 


〉では


〉ブログを書くのは辞めるのか?


〉・・・・・・


 


日記(ブログ)を書く意味が分からずに書かずにいた


自分が書いてきた日記を読み返してみる


自分の日記だから読み返す


ブログだけど、自分の日記だから


・・・・・・


 


ある人がメールを送ってくれました


「更新されていませんけど、ヤバイ病気ですか?」


ある人が声を掛けてくれました


「もうブログは書かないの?」


ある人がコメントしてくれました


「応援しています!」


 


私の文章から何かを感じたり、考えたり、想像したり・・・


本当にそんな人がいてくれるようです


 


ある人に言われました


「文章でも想いは伝えられるじゃない」


 


そうだ・・・


確かにコミュニケーションは図れない


でも


自分の想いは伝えられるかもしれないし、読んだ人が何かを考えるきっかけになることだってあるかもしれない


 


私、やっぱり文章を書くことが大好きです


上手くは書けないかもしれないけど、文章を書くことは楽しいです


不思議です


昔は作文なんて大嫌いだったのに・・・


学生時代にやたらとレポートを書かされた


卒業論文は手書きで原稿用紙50枚


やらされてやっていたことでも知らないうちに好きになることもあるんですね


『今』はたくさんレポートを書かされたことにすごく感謝しています


 


2006・8・29


From Ken-O



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こころ

2006-08-24 23:28:45 | ひとりごと

私は今どこに立っているのだろうか?


 


私の好きな尾崎豊の歌で『シェリー』という歌がある


セカンドアルバムの最後の曲


彼が10代の時に書いた歌である


 


何度聴いても・・・


何時聴いても・・・


何処で聴いても・・・


自分に言われているようにしか思えなくて・・・・・・あまり好きな歌ではない


でも尾崎豊の歌で一番よく聴いた歌だ


 


これはその歌の一部(サビ)である


 


シェリー俺はうまく歌えているか?


俺はうまく笑えているか?


俺の笑顔は卑屈じゃないかい?


俺は誤解されてはいないかい?


俺はまだ馬鹿と呼ばれているか?


俺はまだまだ恨まれているか?


俺に愛される資格はあるか?


俺は決して間違っていないか?


俺は真実へと歩いているかい?


 


シェリーいつになれば


俺は這い上がれるだろう


シェリーどこに行けば


俺はたどりつけるだろう


 


以前・・・2月28日のこと


『今』を生きると題した文を書いた


私が生きているのは


『今』ではなく、『過去』であることに気が付いた


「『今』を生きる!」「『今』を生きる!」と言いながら


『過去』にとらわれていたんだなぁと


『過去』に居座っていたんだなぁと


 


少し前の私は・・・もしかしたら


子ども達にとって“水泳のコーチ以上”のポジションに立っていたかもしれない


子ども達はいろんなことを相談してくれたし、悩みを教えてくれたし、思っていることを言ってくれた


そんな『過去』の自分に胡坐をかいていたわけで・・・


 


『今』の私は・・・もしかしたら


子ども達にとって“水泳のコーチ以下”のポジションにいるのかもしれない


私が“こころ”を閉ざしているように映っているのだろう


だから子ども達も“こころ”を開こうとはしない


当然だろう


コチラの“こころ”が鏡に映っているのだろうから・・・


だからいつしか


このブログを通して少しでも“こころ”を開こうと


このブログを通して少しでも“こころ”を伝えようと


このブログを通して少しでも“こころ”をかよわせたいと


 


でもここにあるのは文字


文字であって言葉ではない


言葉こそがコミュニケーションの全てである


文字ではその代わりは務まらない


言葉には


私の感情や


私の表情や


私の声とそのトーンや


私の身振り手振りが伴っているはずである


だから


私の“こころ”が少しは伝わる可能性はあるかもしれない


 


でも文字には


感情もなければ


表情も声も身振りも手振りも何もない


私がどんな思いを持ってこの文字を書いているかなど・・・分かるはずもない


もし分かってもらえるのならば


よほど私のことを信じてくれていて


未だに“水泳のコーチ以上”のポジションに立たせてもらえているのだろう・・・ありがたいことだ


 


世の中、便利になりすぎたのかもしれない


便利さ故に弊害もあるように思う


ブログ・メール・・・


やり取りしているのは


言葉と言葉でも


感情と感情でも


人と人でもない


文字と文字に過ぎない・・・


 


文字ではなく言葉ならば


言おうとしていたことでも


相手の表情や声のトーンなどから


言うことを差し替えたりもする


それこそが相手への思いやりのひとつなのではないだろうか


相手を傷つけまいと


相手に理解してもらおうと


その時の相手の表情や声のトーンなどから言葉を選ぶ


それをするから


お互い分かり合える・お互いに理解し合える可能性が生まれるのだ


 


でも


文字だけでは感情も表情も覗い知ることができない


だから


お互いの思いは単なる一方通行にしかならないのか・・・


自分の思いを相手に押し付けようとするだけになってしまうのか・・・


 


でも


離れた相手にでも即座に言葉を文字として伝えることができる


『今』思っていることをダイレクトに文字として伝えられる可能性はある


人間都合の悪いことは忘れられるようにできている


だから『今』思っていることでも数時間もすれば忘れてしまっていることなど数え切れない


そういった意味では


即座に言葉を文字に変換して伝えることができるメリットはある


 


しかし


先ほども書いたように


一方通行になる可能性があるために誤解が誤解を生む可能性は非常に高い


メールしたのに何も返ってこない


相手にだって都合がある


すぐに返事できる時もあればそうでない時だってある


後で返事をと思っていて忘れてしまう事だってある


そんな相手の都合も考えずに返事が来ないことに腹を立ててしまう


 


メールしたのに言葉を上手く文字に変換できなかったために思ったことが上手く伝えられない


思ったことを誤った文字にしてしまったが故に誤解を生む


そうじゃなかったのにと後悔しても遅い


文字として残ってしまっているのだから・・・


 


所詮


文字は文字であって言葉ではない


言葉なくしてお互いが分かり合うことなど不可能なのかもしれない・・・


まして自分の思いを文字で伝えようなどとは・・・自惚れるすぎである


 


では


ブログを書くのは辞めるのか?


・・・・・・


毎日読んでくれていたり、定期的に読んでくれたりしている人もいるようです


 


私の文字を見て


何か感じたり、考えたり、想像したり・・・


そう思うことがあったりするから毎日あるいは定期的に読んでくれるのだろう


そういう人が一人でもいるのであれば・・・


私がブログを書き続ける価値がある・・・のかもしれない


 


2006・8・24


From Ken-O



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ひたすらに

2006-08-24 00:38:34 | ひとりごと

【ひたすらに】2006・8・24


私は今どこに立っているのだろうか?


 


私の好きな尾崎豊の歌で『シェリー』という歌がある


セカンドアルバムの最後の曲


彼が10代の時に書いた歌である


 


何度聴いても・・・


何時聴いても・・・


何処で聴いても・・・


自分に言われているようにしか思えなくて・・・・・・あまり好きな歌ではない


でも尾崎豊の歌で一番よく聴いた歌だ


 


これはその歌の一部(サビ)である


 


シェリー俺はうまく歌えているか?


俺はうまく笑えているか?


俺の笑顔は卑屈じゃないかい?


俺は誤解されてはいないかい?


俺はまだ馬鹿と呼ばれているか?


俺はまだまだ恨まれているか?


俺に愛される資格はあるか?


俺は決して間違っていないか?


俺は真実へと歩いているかい?


 


シェリーいつになれば


俺は這い上がれるだろう


シェリーどこに行けば


俺はたどりつけるだろう


 


以前・・・2月28日のこと


『今』を生きると題した文を書いた


私が生きているのは


『今』ではなく、『過去』であることに気が付いた


「『今』を生きる!」「『今』を生きる!」と言いながら


『過去』にとらわれていたんだなぁと


『過去』に居座っていたんだなぁと


 


少し前の私は・・・もしかしたら


子ども達にとって“水泳のコーチ以上”のポジションに立っていたかもしれない


子ども達はいろんなことを相談してくれたし、悩みを教えてくれたし、思っていることを言ってくれた


そんな『過去』の自分に胡坐をかいていたわけで・・・


 


『今』の私は・・・もしかしたら


子ども達にとって“水泳のコーチ以下”のポジションにいるのかもしれない


私が“こころ”を閉ざしているように映っているのだろう


だから子ども達も“こころ”を開こうとはしない


当然だろう


コチラの“こころ”が鏡に映っているのだろうから・・・


だからいつしか


このブログを通して少しでも“こころ”を開こうと


このブログを通して少しでも“こころ”を伝えようと


このブログを通して少しでも“こころ”をかよわせたいと


 


でもここにあるのは文字


文字であって言葉ではない


言葉こそがコミュニケーションの全てである


文字ではその代わりは務まらない


言葉には


私の感情や


私の表情や


私の声とそのトーンや


私の身振り手振りが伴っているはずである


だから


私の“こころ”が少しは伝わる可能性はあるかもしれない


 


でも文字には


感情もなければ


表情も声も身振りも手振りも何もない


私がどんな思いを持ってこの文字を書いているかなど・・・分かるはずもない


もし分かってもらえるのならば


よほど私のことを信じてくれていて


未だに“水泳のコーチ以上”のポジションに立たせてもらえているのだろう・・・ありがたいことだ


 


世の中、便利になりすぎたのかもしれない


便利さ故に弊害もあるように思う


ブログ・メール・・・


やり取りしているのは


言葉と言葉でも


感情と感情でも


人と人でもない


文字と文字に過ぎない・・・


 


文字ではなく言葉ならば


言おうとしていたことでも


相手の表情や声のトーンなどから


言うことを差し替えたりもする


それこそが相手への思いやりのひとつなのではないだろうか


相手を傷つけまいと


相手に理解してもらおうと


その時の相手の表情や声のトーンなどから言葉を選ぶ


それをするから


お互い分かり合える・お互いに理解し合える可能性が生まれるのだ


 


でも


文字だけでは感情も表情も覗い知ることができない


だから


お互いの思いは単なる一方通行にしかならないのか・・・


自分の思いを相手に押し付けようとするだけになってしまうのか・・・


 


でも


離れた相手にでも即座に言葉を文字として伝えることができる


『今』思っていることをダイレクトに文字として伝えられる可能性はある


人間都合の悪いことは忘れられるようにできている


だから『今』思っていることでも数時間もすれば忘れてしまっていることなど数え切れない


そういった意味では


即座に言葉を文字に変換して伝えることができるメリットはある


 


しかし


先ほども書いたように


一方通行になる可能性があるために誤解が誤解を生む可能性は非常に高い


メールしたのに何も返ってこない


相手にだって都合がある


すぐに返事できる時もあればそうでない時だってある


後で返事をと思っていて忘れてしまう事だってある


そんな相手の都合も考えずに返事が来ないことに腹を立ててしまう


 


メールしたのに言葉を上手く文字に変換できなかったために思ったことが上手く伝えられない


思ったことを誤った文字にしてしまったが故に誤解を生む


そうじゃなかったのにと後悔しても遅い


文字として残ってしまっているのだから・・・


 


所詮


文字は文字であって言葉ではない


言葉なくしてお互いが分かり合うことなど不可能なのかもしれない・・・


まして自分の思いを文字で伝えようなどとは・・・自惚れるすぎである


 


では


ブログを書くのは辞めるのか?


・・・・・・


毎日読んでくれていたり、定期的に読んでくれたりしている人もいるようです


 


私の文字を見て


何か感じたり、考えたり、想像したり・・・


そう思うことがあったりするから毎日あるいは定期的に読んでくれるのだろう


そういう人が一人でもいるのであれば・・・


私がブログを書き続ける価値がある・・・のかもしれない


いづれにしても


『今』の自分としっかり見つめ合わなければいけないのだろう


『今』の自分をきちんと認めなければいけないのだろう


それは容易なことではないかもしれないが・・・それができなければ


いつまでも『過去』に胡坐をかいているだけで終わってしまうのだろう


 


 


 


2006・8・24


From Ken-O


 



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くそっ

2006-08-24 00:37:38 | ひとりごと

【くそっ】2006・8・24


おせっかい


頼まれもしないのに世話をして


不必要に立ち入る


勝手に心配をし先回りしては


いくつもの道を用意しておく


いっつもそうだ


 


別に世話好きでもない私が・・・


おせっかいにもほどあるということか・・・


 


私はたかが“水泳のコーチ”である


水泳のコーチ以下でなければ


水泳のコーチ以上にもなれぬということか


水泳のコーチ以上になろうと自惚れているから・・・


水泳のコーチ以下でも水泳のコーチ以上でもない適当なポジションにいろということか・・・


 


所詮私がしていることなんか


“教育の真似事”に過ぎぬということなのか


「くそっ!」


 


結局


私自身が一番


 


 “なんちゃって”だったってことか


 


 


 


「チックショ~!」


「クッソ~~~!」


 


そんな自分に


腹が立つし、情けないし、悔しいです


 


 


「チクショ~~~!」


 



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うつわ

2006-08-22 00:36:17 | ひとりごと

【うつわ】2006・8・22


家のトイレにあるカレンダーにこんなことが書いてあった


 


 “見えるものにとらわれず”


 


“見えないものにしばられず”


 


『なるほどね』


なかなか素晴らしい言葉だと思う


それに比べて私なんかは・・・


 


 “見えるものにとらわれて”


 


“見えないものにしばられて”である


 


いつもそうだ


見せかけだけに目をうばわれて


見えない何かにしばられて


そんな気がしている・・・


 


そう“見えない何かに・・・”


いったい何にしばられてしまうのだろう?


 


子どもの頃からよく「おまえは頑固だ!」と言われた


大人になった今でもそうだ


まぁ私自身は頑固でいいと思っているから変われないのだろう


 


些細なことでもくだらないことでも気になりだすと言葉の通り


 


“見えないものにしばられて”である


いったい何に“こころ”を支配されてしまうのだろう?


しばられているのは


おそらく“こころ”で間違えないだろうと思う


では


“見えないもの”って何だろう?


それはおそらく・・・


嫉妬?僻み?妬み?重圧?義理?人情?愛情?友情?・・・・・・・・・


その時々で違うような気がするけど


どう思う?


 


どうしてそんなことが気になるの?


自分がいかに器の小さな人間かがよく分かる


 


『もっと大きな人間になりたい』


そういう憧れは持っている


憧れだけでは・・・


 


 



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クラッシュ

2006-08-21 00:35:40 | ひとりごと

【クラッシュ】2006・8・21


今日より通常業務再開


まずは特別教室バスの運転から・・・


8時30分まで選手の練習!8時55分バス出発!


今回も運行範囲は広いのですが思ったより時間もかからずに約1時間10分後にプールに到着!


いつもどおりに車庫入れを・・・していたつもりだったが・・・


 


「ガチャーン!」けっこうな音


『あっちゃ・・・当たったかな?』


バスはボディの下(潜らなきゃ見えない)がへこんだ


バス以上に破壊されたのはコチラ!↓↓↓


やってしまいました


おかっし~な


当たるはずなかったのに


ちゃんとミラー見てたのに


深視力が落ちたかな


 


バスで連れてきた子達と一緒にプールをやって、またバスで送って、戻ってきたらそのまま女性教室へ!


ハイ!


新車のバスを一番にぶつけたのは私でした!


 


さらに


女性教室指導後に昼食(14:00過ぎ)を買いに出かようと館内を“ボ~”と歩いているとあろうことか柱に激突してしまった!


その衝撃で・・・


買ってから1週間しか経っていない


 


 “Ray‐Banのメガネ”が曲がってしまった


『うわっ最悪!37,000円したのに・・・』


昼食を買いに行く前に“メガネーゼ”へ直行!


快く直してくれました!


『直ってよかった・・・』


私はとびっきりのお得意様だから、それくらいは快くやってくれます


なにしろココの店員に


「○○内さんはメガネ買うの趣味ですね」と言われたことがあるくらい良くメガネを買う


通常用!


プール用!


寝ながらTV見る用!


非常用!


外出用(サングラス)!


使えるメガネが5つもある!



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プレゼント

2006-08-20 00:35:04 | ひとりごと

【プレゼント】2006・8・20


高校野球決勝戦!


駒○苫小牧vs早○田実業が激突


久しぶりに見ごたえあるものすごい試合をやってくれた


おそらく見ていた人間全てが


『どっちもがんばれ!』と固唾を呑んで見守っていたのではないだろうか


どちらも頑張った結果・・・


延長15回引き分け再試合となる


試合は明日!明日ですよ!ムチャですよ!


いくら素晴らしい球を投げるとは言え“高校生”


両校とも明日も


 


 “背番号1”がマウンドに立つのだろうか?


 


K大苫小牧が3連覇するのか?


W実業が荒木大輔以来26年ぶりの決勝で初優勝するのか?


 


ちなみにSbの名前は野球好きなお父さんが荒木大輔のようにと付けたらしいです


ちょっと前にこんな本を買った


“My name is...世界にひとつだけの名前”


43カ国166人の名前の由来が書かれています


まえがきにこんなことが書いてあります


「あなたの名前にはどんな意味がありますか?


 名前はこの世界に生まれて、最初にあなたに贈られるもの。・・・」と


結婚すらしていないのに・・・


名前だけは決めています


3つあります


まだ存在しない“あなた”に贈れる日がくるのでしょうか?


そんな日が来るといいなと思っています


 



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