メッセージ

2007-05-30 23:20:04 | ひとりごと

ここ数日間で何十回と聴いた曲がある。


GLAY「僕たちの勝敗」という曲だ。


先日も“Pre for  you.”でもリンクさせたが、素晴らしい曲だ。


 


いいメロディだなと気に入ったのだが、詞をじっくりと聴いていくと引き込まれていく。。。


とても悲しい詞だ。


国による貧富の差が曲を聴いていると頭の中で何やらイメージができる。


以前にも書いたことがあるが、オレが『いい曲だ』と思う時はその詞からなんとなくイメージが描ける気がする。


 


何の不自由もなく過ごしている毎日。


見知らぬ国では、その日を生きることさえままならない子どもや大人達がたくさんいる。。。


別にグウタラしているからその日を生きるのが困難なわけではない。


誰が悪いわけでもない。


でも、オレとは違い食うことや生きることに必死にならなければ、今日を生き過ごせない人もいる。


 


オレはなんてちっぽけなことで悩んだり苦しんでいたんだと思うと少し恥ずかしい。


オレが言う「今を生きる」なんて言葉は軽いものだな・・・。


 


この曲を聴いているとそんな気分になる。。。



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あの日

2007-05-28 23:19:03 | ひとりごと

今思い出しても恐ろしい光景だった。。。


2007年3月22日木曜日。


 


僕はあの日見た光景を忘れたいと思っている。


 


口では大丈夫と言いながら・・・


“こころ”の中では『ほっとけ!』と思っていながら・・・


脳裏にインプットされてしまったあの日の光景を消し去ることはできない。


 


あの日、あの光景を目にした僕は足がすくんだ。


どれだけ脅えたことか。


あの恐怖は誰にも分らないだろう。


 


口や“こころ”では、それを隠すようにしているが、ふとした時に思い出すあの光景・・・。


 


大人だからって・・・


指導者だからって・・・


先生なんだからって・・・


“こころ”にできた傷は一生消えない。。。


 


そんなことにも気付かない人達にオレは“こころ”を開かない。


あの時のオレがどれほどの恐怖を感じたかをあの人達は何も分かっていない。


 


オレは一人の人間だ。


神ではない。


鬼でもない。


 


オレが未だにどれほど怯えているかあの人達には分かるまい!


オレの“こころ”にできた傷は一生消えないんだろうな。。。



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投影

2007-05-18 23:18:02 | ひとりごと

私は父の背中から真面目さと厳しさを投影されながら育った。


 


幼い頃、父と一緒に食事するなどということはほとんどなかった。


ひどい日には家に帰ってきていながらも顔すら一度も見ることなかった日もある。


でも、必ず夏休みや正月にはどこかへ連れて行ってくれた。


もちろん、父と一緒に遊んだ記憶などほとんどない。


 


“あいさつ”には特に厳しく、人前であろうがきちんと出来なければきつく叱られた。


しかし、勉強の事や水泳の事で叱られたことは一度もない。


逆に勉強や水泳の事で褒められたこともない。


 


『黙って見守ること』


それが父の子育て方法だったのかもしれないし、ただの放ったらかしだったのかもしれない。どちらかは分らない。


 


 


私は母の背中から我慢強さと思いやりを投影されながら育った。


 


幼い頃、ほとんど一人で子育て(私と妹)をしていた。


出来の悪いバカ息子を抱え、さぞストレスがかかっていたことだろう。


多趣味だったので、いろいろなことにチャレンジしていた。


造花、陶芸、絵・・・。


今思えば、それが母のストレス発散方法だったのかもしれない。


 


遊んでいて自転車の鍵を失くしたことあった。


母は「自分で探していらっしゃい」と探し出すまで家に入れないと言ったことがある。


私は真っ暗な中で1時間も2時間もの間、泣きながら探し続けた。


遠くに母の姿があることを私は気付いていた。


母は私が泣きながら探し続けている間、小さな妹を連れてずっと見守っていた。


何時間も探したが見つからない。


母は「一生懸命探したけど見つからなかったね。もういいよ、帰ろう」と言ったが、頑固者の私は「見つかるまでは帰らない」と。


意地っ張りな私は鍵を見つけ出した。


見つけ出した鍵を誇らしげに母に見せた時、「よく見つけたね」と褒めてくれた。


 


「人に思いやりを持ちなさい」というのが、私に対する母の口癖だった。


何を指して、何を見て、私にそれを言い続けたのかは分らない。


 


 


私はそんな父と母の背中を見て育ってきた。


もちろん、コーチや教師、周りの大人から学んだこともたくさんあるが、父や母の背中から投影されて学んだことに比べれば、極めて限られた事柄のみである。


私の人間形成に大きく関与し、影響を与えたのは言うまでもなく父と母である。


そして、父と母の背中に映し出された姿を見て、子どもながらに自身でその良し悪しを判断し、吸収してきたつもりである。


 


 


あなたは自分の子どもに何を投影してあげられますか?


 


あなたは自分の生き方を胸張って子どもに話せますか?


 


私は子どもを持たない大人です。


ですから、私は我が子に自分に生き様を投影してあげることはできない。


死ぬまでには我が子を手にし、自分の背中を投影したいと思っています。


 


子どもに投影できる背中を持つのは、父と母にしかできない大役である。


 


 


2007・5・18


From Ken-O



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歩く

2007-05-11 23:16:15 | ひとりごと

“歩く”こと


それは必ずしも前に進めるとは限らない。


“歩く”ということ


そこに必ず前に進まなければいけないというルールはない。


 


僕は今まで“歩く”ならば、前に進まなければ意味がないと思っていたかもしれない。


けれども、たとえ前に進まなくても多くのことに気付き、学べる可能性があるんだと分かった。


だた、気付くことが何もなければ、その歩みは無駄になってしまうのかもしれない。


 


気付くために考える。


考えられるようになるために気付く。


いつも僕はその繰り返しだ。


 


ふと疑問に思う。


気付く、考えるはできるようになったかもしれないが、果たして身に付いているのだろうか。


では、どうすれば確認できるのでしょう。


確認方法はその都度違うような気がしますが、そこが見つかりません。


だから、確認を怠るがために同じことを繰り返す。


僕にとってはそこが課題ですかね。


 


なぜ、僕はこんなことを書いているのか。


 


どん底まで落ちていくと自ずと上にしか行けなくなる。


つまり、もうこれ以上は下に行けないのである。


下に行けないなら上に行くしかない。


単純なことだ。


と同時に、どん底まで落ちたことで強い耐性が身に付く。


すると不思議なことに今まで悩んでいたことや傷んでいたことなどがバカらしいと思えてきてならない。


 


どん底まで落ちて拾ってきた物。


それは、本当の自分らしさ。


今までも同じようなことを何度も書いてきたかもしれない。


でも、ようやく本当の自分を拾ってこれた気がしている。


 


人は一人では生きていけません。


なぜだと思いますか。


 


いつも自分では気付かなかったことや新しい考え方を学ばしてくれるのは他人です。


だから、一人で生きていても何の気付きも見つけられない。


だから、いつまでも新しい自分は見つけられない。


気付きというものは自分で見つけられるものではありません。


人が与えてくれるものなのです。


僕はこう思っています。


その気付きを活かせるかどうかは自分次第だと思います。


でも、まず気付きがなければ何も変化は起こらない。


 


 


ここで話を転換します。


僕はブログ上で“自分”のことを3つ呼び方で使い分けています。


僕、私、オレ。


何を基準に使い分けているかは見つけてみて下さい。


 


なぜ、僕はこんなことを書いているのでしょう。


 


2月中旬、


 


この『夢の途中で』2では、オレとしています。


僕=これは以前の『夢の途中で』の時によく使いました。今も詩を書いたりする時に時々使います。


私=これは保護者を含めた自分のもとにいる選手に公開した『In the middle of a DREAM』でよく使ったよそいき用です。


オレ=この『夢の途中で』2では一番よく用いています。


 


何を基準に使い分けをしているか


そして、今一番使っているオレ。


これが親しい者に対して自分を指すときの呼び方です。


 


なぜ、そんなことを書いているのでしょう。


 


僕は計算高い大人です。


 


教える指導者ではなく、気付かせる指導者になりたい


僕が教えられることは何もない。でも気付かせることならできるかもしれない。


気付きこそがもっと大切なことであると信じている。



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