
(法隆寺 夢殿)
ふと思った。
この句の最後の「法隆寺」を「東大寺」や「興福寺」に置き変えてみたらどうなるだろう? 「俳句」になるか?、、、、、
この句を読んだ正岡子規は当時東大寺の裏手に居たとされている。それならば、目の前の東大寺か、近くの興福寺を採りあげるのが極く自然ではないか、わざわざ遠くの法隆寺を持って来たのは 何故か?
子規は日清戦争(明治27~28年)の従軍記者としての帰国途中の下関で喀血し「血をはくホトトギス」に因んで自分の俳号とし、その漢字表記である「子規」を名乗った。療養後、四国松山中学校に赴任していた親友の夏目漱石の下宿先「愚陀仏庵」に転がりこんで盛んに句会を開いた。漱石の「俳句」もこの頃から本格的に始まっている、、子規を師匠として。1月余滞在の後 帰京の途中で奈良に立ち寄った。その時の句だ。
東京の根岸に居を構えて「六尺の病床」に伏しながら新聞「日本」の文芸欄を受け持ち、盛んに 俳句、和歌、文学などに健筆を振るった。
特に俳句については、江戸時代の「貞徳派」や「談林派」などを俳諧の堕落であるとコキオロシて松尾芭蕉の「軽み」「ワビ、サビ」などを賞賛、その衣鉢を継ぐ 蕪村の名を世に広めた。またそれまでは俳諧といえば今で言う「連歌」のことを言ったが、子規はその発句を独立させて五七五の十七文字だけで完成。(俳句)と名づけて、一般大衆により親しみ易いものとした。
そのうえで作句の基本は「写実」であらねばならない。 ありのまま、見たまま を詠うのだト。私情や感想などは勿論、殊更に「花鳥風月」を賞賛すべきではないト説く。弟子の高浜虚子に命じて俳句雑誌「ほととぎす」を創刊した。この俳誌「ほととぎす」は虚子の子 年尾、 孫 稲畑汀子、 ひ孫 稲畑広太郎と引き継がれ現在でも俳壇を睥睨し、君臨している。しかし虚子は「俳句は花鳥風月を詠うのが本旨)と宣言、「ほととぎす」もその趣旨を連綿と今に受け継いで来ている。然し「これは可笑しいのではないか? 少なくとも(写実)を基本とした恩師の子規の理念とはいささかズレているのでは?」 と筆者は思っている。例えば(病床六尺)の「鶏頭の十四五本もありぬべし」是非論争などに見られるように。(この句を虚子は黙殺し、反って和歌の斉藤茂吉は大いに賞賛した)
最後に巻頭の「法隆寺」以外では「俳句」にならないのでは? についての筆者なりの考えを述べよう。
東大寺は全国の国分寺の総本山、国家仏教であり、あまりにも重々しくて(軽み)を旨とする俳句には馴染まない。現に(東大寺を詠んだ名句)など殆どない。和歌にはある、会津八一など。 この辺が和歌と俳句との違いか、、、、)
また興福寺は子規が来た時点では未だ明治初頭の「廃仏毀釈」の際にみられた同寺僧侶達の狂乱、堕落、醜態の記憶が未だ生々しく残っていて、子規も句に取り上げる気にもなれなかったのではないか?
それらに較べて、法隆寺には心に響く深遠ないロマンがある!
さて、 皆さんのご意見は?
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