(ジョルジュ サンド)
ジョルジュ サンドというのはペンネームであって、本名はデュドバン男爵夫人。但し夫とは別居して男爵別荘のあったノアン(フランス中央部の田舎街)を離れて2人の子供を連れてパリにやってきた。
GEORGE(ジョルジュ)というオトコ名で小説「アンヂアナ」を書いて一躍名を挙げ、ユーゴー、フローベル ゴーチエなどの後世に名をとどめる作家とも交遊を結んすんだ。が一方ではパリの社交界で (ズボンをはいた男装の麗人) としてもてはやされ、、詩人のミュッセやピアノのリストなどとも浮名を流した。 超有名人といって良い。
ショパンを一目みていつもの恋心が燃えあがった。仲介者はリストともドラクロアだともいわれているが、当のショパンは愛人マリアとの婚約が決まらず(終には破綻)悄然としていた時だったのでサンドとの初対面のときには「何と変な女だろう」と思ったらしい。
しかし、(恋愛)にかけては海千山千のサンドは忽ちにしてショパンを「恋の虜」にしてしまった。超有名人の閨秀作家と新鋭の美青年ピアニストとの恋は忽ちのうちにパリ中を駆け巡った。
余りの噂と息子の病の療養のこともあってサンド一家は、地中海の孤島マジョルカ島への逃避行となった。 一年余りの芳しくない暮らし(宿泊所を3回も変えるほどに)だったが、その間にショパンは有名な「雨だれ」の曲を書いている。微熱のある(肺病)体を押して。
ほうほうの態でマジョルカ島から逃れて、4人はサンドの別荘のあるノアンへ帰ってきた。以来約10年間ショパンは家族同様に暮らしつつ、数々の名曲を書き上げた。その姿を見つめるサンドは愛人でもあり、また慈愛にみちた母親のようでもあったという。
しかし、そのうち子供のことでふたりは対立しあうようになり、いたたまれなくなったショパンは病身の体でガタガタの馬車に一日中揺られながら、ほうほうの態でパリのアパートに帰った。
それから2年もせぬ内に宿病の肺炎により亡くなった。享年39才。(1869年、後のナポレオン3世の2月革命の前年だった)葬儀は今に残るマドレーヌ寺院で行われ、彼の希望でモツアルトの「レクイエム」が演奏されたが、集まった3千人の参列者のなかにサンドの姿は無かった。
(おことわり)
「続き物」であるにもかかわらず、筆者の怠慢と手違いで第2稿が遅れたことを
深く お詫び申し上げます。
DONKI