浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

生死の根本は、欲を第一と為す

2013-02-26 | 【生死の大事を語る】


生死根本,欲為第一 / 生死の根本は、欲を第一と為す
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五二五集)2011/8/5 檔名:02-039-0525

「邪者邪不正,惡者惡毒不善」,這是念老給我們破字,邪是什麼意思,惡是什麼意思。「《會疏》曰:邪謂邪曲,惡謂罪惡。婬妷者」,這個下面注音,「妷音逸」,同下面這個字也念逸,「婸也」。婸是什麼意思?「婸者,淫也,放也」。「婬」,淫蕩,貪色,「貪色不以禮交也」,這個禮就是婚禮,不應該沒有這種婚姻關係有這種交往都叫邪淫。「又婬者,乃十惡之一」,這是佛家所說的,「婬為枷鎖,縛眾生故;婬為罪源,生諸厄故。一切眾生皆因婬欲而入生死,故云:生死根本,欲為第一」,這是佛經上講淫欲的過惡。
邪者横邪不正,悪者悪毒不善」(「邪」とは横邪にして不正なことである。「悪」とは悪毒にして不善なるものである。)これは黄念祖居士【注1】による破字【注2】です。「邪」はどのような意味で、「悪」はどのような意味なのか。「《會疏》曰:邪謂邪曲,悪謂罪悪。婬妷者」(『會疏』に言う。邪は邪曲を言う。悪は罪悪を言う。婬・妷とは、)この次は音の注です。「妷音逸」(妷の音は逸( yi )である)。(「妷」は)同じように逸( yi )と読みます。「婸也」(婸である)。「婸」とはどのような意味でしょうか?「婸者,淫也,放也」(「婸」とは、「淫」である。「放」である。)。「」とは淫蕩(いんとう=酒色に耽ること)、貪色(たんしょく=女色を貪ること)です。「貪色不以礼交也」(貪色とは礼を以て交わらないことである)。この「礼」とは「婚礼」のことです。婚姻関係もなくそのような交際をすることを、すべて邪淫と言います。「又婬者,乃十悪之一」(また婬とは、即ち十悪の一つである)。これは仏家が説くところの、「婬為枷鎖,縛衆生故;婬為罪源,生諸厄故。一切衆生皆因婬欲而入生死,故云:生死根本,欲為第一」(「婬」を首かせとするのは、衆生を縛るからである。「婬」を罪悪の根源とするのは、諸々の厄(わざわい)を生むからである。一切の衆生は皆淫欲によって生死に入るのである。故に言う。生死の根本は、欲を第一と為す)ということです。これは仏典に説かれている淫欲の過失と罪悪です。

佛講戒律,戒律講得很多,但是殺跟淫都擺在第一。在家戒律是把殺生擺在第一,出家的戒律是把淫欲擺在第一,很有道理。經上用比喻來說,淫是個枷鎖,枷鎖是刑具,能縛眾生。眾生不能了生死、不能出三界,什麼原因?就是這個,眾生因淫欲造作無量無邊的罪業,根是它。歷代我們看這個歷史,末代的皇帝,為什麼把國家丟掉了,最後落得真是國破家亡,生命保不住,都被殺了?你細心去看他的因,淫是第一,都是因為這個亡國的。所以佛把它列為根本大戒,根本大戒是四個,殺盜淫妄,淫是罪源,一切罪的根源。生諸厄故,這個厄是苦難、災難,一切災難是從它而生。所以佛講,一切眾生皆因婬欲而入生死,就是生死輪迴。故云:生死根本,欲為第一。淫欲斷了,輪迴就斷了,你真正能超越三界。
仏陀は戒律を説かれました。戒律について多くのことを説かれました。しかし「殺生」と「淫欲」はすべて第一に置かれています。在家の戒律は殺生を第一に置き、出家の戒律は淫欲を第一に置かれています。とても道理のあることです。経典には比喩を用いて説かれています。「淫」は首かせです。「首かせ」とは刑具であり、衆生を縛ることができます。衆生は生死を明らかにすることができず、三界(欲界、色界、無色界)を出ることができません。何が原因なのでしょうか?正にこれです。衆生は淫欲によって無量無辺の罪業を造りますが、根源はそこにあるのです。
私たちは歴史を見てみますと、最後の皇帝はなぜ国を滅ぼしたのでしょうか。なぜ最後には国を滅ぼし、命も保証されず、殺されたのでしょうか?注意深く彼のその原因を見てみれば、淫欲が第一であり、ほとんどこれによって国を滅ぼしています。そのため仏陀はそれを根本の大戒としました。根本の大戒は殺・盗・淫・妄(殺生・窃盗・邪淫・妄語)の四つです。邪淫は罪の源です。一切の罪の根源です。「諸々の厄を生む」の「厄」とは苦難、災難のことです。一切の災難はそこから生じるものなのです。ですから仏陀は、一切の衆生は皆淫欲によって生死に入る、つまり生死の輪廻に入ると説かれています。故に言う。生死の根本は、欲を第一と為す。淫欲を断てば輪廻は断たれ、あなたは本当に三界を超越することができます。

「如下引諸經論,皆備言淫欲之患」,下面念老引用經論,全是佛在經上說的,論是祖師們詮述的。「《沙彌律》曰:在家五戒,惟制邪婬;出家十戒,全斷婬欲」。沙彌戒,今天能把沙彌律儀做好,就是真善知識,這是蕅益大師給我們做出的榜樣。蕅益大師,明朝末年人,他出生在明朝,圓寂的時候在清朝,我們淨土宗第九代的祖師,九祖。八祖是蓮池大師。這兩個人在淨宗祖師裡頭特別令人尊敬,什麼原因?那個時候淨宗衰,衰到底谷,沒有這兩個人可能淨宗就滅了,他們兩個人把淨土宗復興起來,再帶起來,這是了不起的兩位尊者。
如下引諸経論,皆備言淫欲之患」(下記に諸の経論を引用する、皆すべて淫欲の患を言ったものである)。次は黄念祖居士が経論を引用しています。すべて仏陀が仏典において説かれ、その論は祖師たちが解説したものです。「《沙彌律》曰:在家五戒,惟制邪婬;出家十戒,全断婬欲」(『沙弥律儀』に言う。在家の五戒は、ただ邪淫を制することである。出家の十戒は、全て淫欲を断つことである。) 沙弥戒、今日『沙弥律儀』を実行できるのであれば、正に真の善知識【注3】です。これは蕅益大師【注4】が私たちに模範を示して下さいました。蕅益大師は明朝末期の人です。彼は明朝に生まれ、円寂(えんじゃく)の時は清朝でした。私たち浄土宗の第九代の祖師、九祖です。八祖は蓮池大師です。この二人は浄宗の祖師の中でも特に人から尊敬されています。原因は何でしょう?その頃浄土宗は谷底まで衰退してしまい、この二人がいなければ滅んでいたかもしれません。彼ら二人は浄土宗を復興させ、再び教え導いた、素晴らしい尊者です。

《沙彌律儀》是為在家,他講的,「在家五戒,惟制邪婬」,只禁止邪淫;但是出家十戒,沙彌是出家的,十條戒律,全斷淫欲。「但干犯世間一切男女,悉名破戒」。戒律,戒律沒有了,佛法就沒有了;禮要沒有了,儒家就沒有了;因果沒有了,道家就沒有了,這是儒釋道的三個根。今天儒釋道都衰了,也可以說衰到低谷,誰能夠發心把儒釋道再興旺起來,那是大,這個人是大聖大賢,是佛菩薩再來,不是這樣的人他做不到。 
『沙彌律儀』は在家の為に、「在家五戒,惟制邪婬」(在家の五戒は、ただ邪淫を制することである)と説かれています。ただ邪淫を禁止するだけです。しかし出家の十戒は、「沙弥」とは出家僧のことですが、十箇条の戒律は全て淫欲を断つことです。「但干犯世間一切男女,悉名破戒」(但し世間一切の男女が(戒を)犯すことは、すべて破戒と言う)。「戒律」がなくなれば、仏法はなくなります。「」がなくなれば、儒家はなくなります。「因果」の教えがなくなれば、道家はなくなります。これは儒教・仏教・道教の三つの根本です。今日儒教・仏教・道教は衰退しました。谷底まで衰退したと言っても良いでしょう。儒教・仏教・道教の復興を発心する人がいれば、その人は大徳です。その人は大聖賢であり、仏菩薩の再来です。そのような人でなければ、できるものではありません。

<脚注>
1.黄念祖居士(1912-1992)・・・・本籍は湖北省江陵。無線通信技術を専攻し、大学卒業後はラジオ局に勤めた。解放後は北洋大学、天津大学、北京郵電学院にて教授を歴任。若い頃から仏法を学び、経典研究に専念し、叔父にあたる梅光羲について仏法を学び、虚雲和尚に帰依して禅を学んだ。また諾那活仏の弟子である王家斉、及び貢噶上師より密教のニンマ派(紅教)・カルギュパ派(白教)を学んだ。夏蓮居に師事して浄宗発揚の必要性を学んだ。(百度百科より抜粋して翻訳)
(注) 「解放」は1949年10月1日中華人民共和国成立の意。
    「北洋大学」は天津大学の前身の名称。

2.破字(はじ)・・・・古書の註解などで、文字の意味を解釈する方法のこと。『説文解字』に見られるような、漢字の解説の方法のことだと思われる。(筆者)

3.善知識(ぜんちしき)・・・・人々を仏の道へ導く人。高徳の僧のこと。

4.蕅益大師(ぐうえきだいし)・・・・藕益智旭(1599-1655)。(蕅=藕)。俗姓を鍾、字は智旭、号を藕益、又は西有と号した。別号は八不道人。江蘇省木瀆人。明朝末期の四大高僧の一人で、淨土宗九祖として尊ばれた。晩年は浙江省杭県の霊峰に住んだ。このことから、霊峰藕益大師とも尊称されている。藕益大師の著作には、『阿彌陀經要解』 『梵網經玄義』 『菩薩戒本箋要』 『法華經玄義節要』 『法華經會義』 『楞嚴經玄義』 『楞嚴經文句』 『閱藏知津』 『法海觀瀾』 『周易禪解』 等数十種がある。今日全21冊の『藕益大師全集』が伝わっている。(中国語版ウィキペディアを参照した)

第一回更新 2013-02-26
第一回訂正 2014-07-31


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